アスランの剣

「お前の戦い方では、普通なら命がいくつあっても足りん。『火竜の谷レンオアムダール』が滅びた今、『二つ頭』の名は捨てろ。これ以上、命を無駄に投げ出すような戦い方をするな。頼むから、生きるために戦ってくれ。すべは俺が教えるから……」

 初めて共に傭兵として戦場に立った日、アスランはそう言って、返り血にまみれたままの黒髪の若者を強く抱きしめた。

 シグリドは、幼い日、初めて誰かの命を奪った夜、同じように抱きしめてくれた優しい兄を思い出した。


 ……いや、違う。

 身体に回されたこの腕は、俺と同じように人の命を喰らって生きて来た戦士のものだ。

 死は常にそこに在り、いつか来るその時を「火竜」として逝く覚悟は既に出来ていたはずなのに……

 この腕は、血に染まり過ぎた俺の魂までも闇の底から引きずり出して、明るい陽の光の下で生き続けさせようとする。まるで、道に迷った幼い息子を必死で見つけ出した父親のように。


 ……ああ、この腕の中は、とても暖かい。



***



「タルトゥス城主につながる高貴なお方を、市井の旅宿にお連れするなど……」

 いつものように城下に宿を取るつもりでいたパルヴィーズ達が、恐縮しきった顔の守備兵に案内されたのは、王城に隣接する高い尖塔を持つ建物だった。聞けば、イスファル将軍の居館だと言う。


「なるほど……ティシュトリア軍を率いる『王の盾』の手中に置かれたとなれば、下手に動きようがありませんからね。どうやら私達は招かれざる客のようです」  

 賓客用にしては質素だが、上質の調度品に囲まれた部屋に通されて、間もなく。

 何かを探るように部屋の中をゆっくりと歩き回るシグリドを目で追いながら、ファランは長椅子に腰掛けて、足元に座り込んでいるグラムの頭にふわりと手を置いたまま首を傾げた。

「どうしてですか、パルヴィーズ様? レティシア様の親書を持っているのに、何か問題があるのですか?」

 特に怪しげな仕掛けや呪詛のような物も見つからず、ようやくシグリドはファランの隣に腰掛けると、娘の小さな背中にそっと手を回して赤い巻毛を指に絡ませた。

「問題は、アスランの剣をティシュトリアに持ち帰ったのが俺だからだ。もっとも、一介の傭兵が身分不相応に宝玉輝く長剣をたずさえている時点で気に食わんのだろうがな……そうだろう、パルヴィーズ?」

 端正な顔に皮肉っぽい微笑みを浮かべてはいるものの、シグリドの瞳はパルヴィーズに真冬の海を思わせた。


 例えば、大陸中に名の知れた「火竜」ならばともかく、名もない傭兵にとっては雇用主からの報酬のみならず、敗者からの略奪も欠かせない収入源となる。戦場で命を落とした者の武具を奪い取る事は、勝者の当然の権利として黙視される。王侯貴族の武具ともなれば、その価値に目が眩んだ傭兵達の恰好の餌食となった。

 タルトゥスでアルスレッドがシグリドに刃を向けたのも、敵対するティシュトリアの加護を受けた剣とは言え、高貴な血を引きながら戦場で命を散らした者が遺したであろう品を「卑劣な傭兵」から取り戻そうとした貴族の誇りに他ならない。


「でも、あの剣はシグリドがアスラン様から譲り受けた大切な形見なのでしょう? 親書と一緒に取り上げてしまうなんてひどいわ」

 頬を薔薇色に染めて怒りを露わにする娘を見て、パルヴィーズは目を細めた。

「こちらの事情など知る由もないでしょうからね。イスファル殿は質実剛健な気性の武人と聞きます。少なくとも理不尽な扱いを受ける事はないでしょう。ただし……」

 突然、部屋の扉が叩かれる音がして、シグリドが口元に指を当てる仕草をしながら素早く立ち上がり、ゆっくりと扉を開けた。


 扉の外に、側近らしき二人の兵士を背後に引き連れた長身の戦士が立っていた。ティシュトリアの戦士の例にもれず短く刈り込んだ明るい金色の髪の若者に、シグリドは見覚えがあった。正門から少し離れた場所からシグリド達を見つめていた、あの男の隣に控えていた年若い戦士だ。

 若者はシグリドに無機質な微笑みを浮かべたまま軽く会釈すると、部屋の奥の椅子に腰かけているパルヴィーズの姿を認めて片手を胸に当て、戦士らしからぬ物腰で優雅に一礼した。

「この館の当主イスファルの子で、タイースと申します。まずはパルヴィーズ殿にご挨拶を」

 シグリドの脇をすり抜けて部屋の中に入ったタイースは、長椅子に腰かけたまま黒い獣を抱き寄せて震えている小さな娘に気がつくと、ふわりと優しく微笑んだ。戦士に似合わぬその柔らかな笑顔と明るい緑色の瞳にファランは思わず惹きつけられ、グラムに回した腕を少しだけ緩めた。

 からり、と銀の腕輪が涼し気な音を立てる。

 その瞬間、ファランの青灰色の瞳に争いを好まぬ心優しい戦士の姿が映し出された。


 ……ああ、この人もパルヴィーズ様と同じだわ。

 刃を振るうたび、心が悲鳴を上げ引き裂かれるほどの痛みに血の涙を流す。その生まれが、その身分が、この人を戦場に縛りつけているだけ。争いのない未来を掴み取るため、その手を血に染めるしかなかった人。


「辛かったでしょうね……でも、あなたが望む未来はやって来るわ。いつか、必ず」

 祈るような小さな声に、タイースはふと立ち止まって赤い巻毛の娘を見つめた。

「今……何と?」

 ああ、いけない……と心の中でつぶやきながら、ファランは息を呑んで口元を両手で覆った。

「あの、ごめんなさい。私ったら、つい……」

 百年前のスェヴェリス討伐以来、ティシュトリアにおける術師の立場は他の王国と比べて格段に厳しいものだ、とアルスレッドが言っていたのを思い出した。彼らの目には術師も治癒師も同じように映るだろう、用心しろよ……タルトゥスを立つ際、アルスレッドはファランの耳元で優しく警告してくれた。


 なのに、ああ、もう……私ったら!


「娘、お前……もしや術師か? 今のは呪詛ではあるまいな?」

 タイースの表情が厳しさを増し、その手が剣の柄に置かれた。

 刹那、背後から忍び寄ったシグリドが片腕でタイースの喉元を思い切り締め上げ、両膝裏に素早く蹴りを入れて若者を後ろに引き倒した。

 あっという間の出来事に、側近達は剣を抜く間もなく立ち尽くすばかりだ。

「タイース殿を放して差し上げなさい、シグリド。ティシュトリアの将軍のご子息を手にかけるつもりなら、館の中でなく、戦場で正面から剣で勝負なさい」

 日頃、優しい微笑みを絶やさぬ雇い主の、ぞっとするほど冷たい声がシグリドを止めた。


 激しく咳き込みながら何とか立ち上がったタイースに向けられたパルヴィーズの眼差しは、戦場で傷ついた獲物の前に立ちはだかる戦士のそれだった。

「タイース殿、お怪我はございませんか? その者は私の護衛でシグリドと申します。信頼の置ける傭兵ではあるのですが、こと自分の妻に危害が及ぶ事あらば、後先構わず行動を起こす悪い癖がありましてね。喉元を掻き切られずに済んで何より……ああ、掻き切ろうにも、あなたの剣は守備兵に取り上げられたままでしたね、シグリド」

 雄弁さの陰に高貴な血を感じさせるパルヴィーズの声に、ティシュトリアの年若い戦士は思わず固唾を呑んだ。

「さて、タイース殿。お父上の館で私の身に危険が及ばぬうちに、我が護衛の剣をお返し願えませんか?」



 怯えきって震える娘の頬にそっと手を添えて、赤い巻毛に指を滑り込ませながら自分の胸に引き寄せる若者を苦々しい表情で見つめながら、タイースはティシュトリア戦士の誇りを掻き集めて何とか心を落ち着かせると、パルヴィーズに向き直った。

「護衛の方が携えていた長剣は、守備兵から父の手に渡っています。タルトゥス城主レティシア様の親書に書かれていた内容と照らし合わせ、いくつか腑に落ちぬ点がある、と父が申しております。つきましては……」

 黒髪の傭兵に視線を移したタイースの、有無を言わさぬ声が響いた。

「シグリド……と言ったな。ティシュトリアのイスファル将軍がお呼びだ。私と一緒に来てもらおう」


 

***



 ティシュトリアの神聖文字が刻まれたその長剣は、幾度か鍛え治された跡があるものの、柄を彩る宝玉に一つの欠けもなく、昔のままの美しさを保っていた。


「やっと戻ったか」

 イスファルは刀身の中央に走る血溝フラーに沿って刻まれた文字の上にゆっくりと指を滑らせた。

「だが……何故だ」


 何故、これを刻んだのだ……アスラン?

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