戦士の苦悩

『辛かったでしょうね……でも、あなたが望む未来はやって来るわ。いつか、必ず』


 貴賓の間にパルヴィーズとファランを残したまま、シグリドを先導して中庭を抜け、父イスファルが待つ執務の間に向かって歩みを進めるタイースの頭の中で、小さな娘のささやき声が何度も響いた。


 私が望む未来など……戦さのない世界など、所詮は叶わぬ夢だ。

 どう足掻いたところで、エスキルのように欲望にあらがえぬ者達が己の力を誇示するために争いを起こすのが世の習いだ。スェヴェリス討伐後、多くの命の犠牲の上に結ばれたアルコヴァルとティシュトリアの和平とて、既に亀裂が見え始めている。

 百年だ。大陸の歴史の中でたった百年の「見せかけの平和」を守り抜くため、どれだけ多くの血が流されたことか。それでも、いまだに大陸の至る所で争いは繰り返されている。

 分かっている。静寂の中で日々を過ごすなど、はかない夢だ……

 五人兄弟の末子として何のしがらみもなく理想を追い求め、長じて学究の徒となりティシュトリアの民を助け王国の繁栄のためにその身を捧げるはずだった。だが、年の離れた四人の兄達が全て戦場で果てた時、思い描いた未来も幻のように消え去った。

 望みもしなかった将軍の後継者として心の自由を奪われたまま、人を殺め続け、己の手を血に染めながら、その先にあるはずの静穏な世界を望むなど虚しい夢だと分かっている。

 現実と理想のはざまで心が少しずつ引き裂かれていく。血の涙を流しながら。



『辛かったでしょうね』


 娘よ。術師ごときに、私の心の痛みなど分かるものか。

 お前に、この渇望を癒す事が出来るとでも……?


『あなたが望む未来はやって来るわ』


 違う、叶わぬ夢だ。虚しい望みは抱かぬと決めたはずだろう、タイース?

 



「タイース様」

  名を呼ばれて我にかえると、いつの間にか執務の間に続く回廊に差し掛かっていることに気がついた。ここから先はタイースと言えども武装した側近を連れ歩く事は許されない。

「……ああ、お前達は詰所に戻っていてくれ。後は父の護衛に任せるとしよう」

 そう言いながら黒髪の傭兵に目をやると、先ほどの殺気の欠片も感じさせぬ穏やかな表情で周囲を見つめているようだった。端正な顔立ちの物静かな青年が見せた空気さえ切り裂くほどの気迫は、自分と同じ年頃であろうこの傭兵が、既に数え切れぬほどの死線をくぐり抜けてきた事を物語っていた。


 ……いや、違う。


 ただ見つめているだけではない。

 タイースは、回廊の先にある執務の間までの距離や護衛の数、武器の種類などを確認するシグリドの鋭い視線に気がついた。

「おかしな気を起こすなよ。お前がどれ程の傭兵かは知らぬが、父の護衛相手に先ほどのような小手先の技が通じるとは思うな」

 ちらり、とタイースに視線を流すと、シグリドは嘲笑うように口元を少し歪めた。

 ぞくり、と冷たいものが背中に走るのを感じて、タイースはまだ痛みの残る喉元に触れながら上衣を整えると、回廊の両脇に控えていた護衛に黒髪の傭兵から目を離さぬよう警告して先を急いだ。



***



 父から子へ初陣の際に剣を贈るのは、ティシュトリアの古くからの伝統だ。イスファルの腰帯にある長剣も父から贈られたものだ。


 五人の息子に恵まれたイスファルの長子が初めて戦場に赴いたのは、十二の春。王国一の刀鍛冶師の手によって神聖な古代文字で刻まれた護符の加護を受けた長剣が、幼い息子を守り続けるはずだった。

 十九の春、「王の盾」の後継者はその名に恥じぬ壮絶な死を迎え、戦士と運命を共にする剣は亡骸に抱かれて浄化の炎に包まれた。 

 亡き妻に生き写しの末子タイースは、武芸よりも学問を好む利発で心優しい子供だった。誰からも愛される幼い息子を血生臭い戦場から遠ざけようとするかのように、イスファルはタイースが十五の春を迎えても長剣を贈ろうとはしなかった。

 一人、また一人と兄を戦さで失うたび、タイースの笑顔は輝きを失っていった。母親譲りの美しい顔に凍える表情を浮かべるようになった少年は、手にしていた書物を練習用の剣に持ち替えて、四番目の兄と共に鍛錬の場を訪れるようになった。


 一人、また一人と息子を戦さの混乱の中で奪われ、刀鍛冶師が鍛え上げた五ふり目の剣を末子に与える頃には、既に四人の息子達はイスファルが贈った長剣と共に「果ての世界」へ旅立っていた。



 アスランよ。

 お前もまた、我が息子達と同じように旅立ってしまったのか? 

 だが、何故、お前と運命を共にするはずの長剣が私の目の前にある?

 タルトゥス王家の血を引く御方の護衛が、お前の長剣を携え、お前に繋がる血を持つ者を探している……タルトゥスの姫からの親書にはそう書かれていた。

 だが、何故だ……?

 


「イスファル将軍、タイース様が外でお待ちです」

 執務用の質素な椅子に腰かけて、眉をひそめたまま卓上に置かれた長剣を見つめ続けていたイスファルに、扉を守る側近の戦士が声を掛けた。静かにうなずいて、部屋に呼び入れるよう片手で合図すると、戦士は扉を開けてタイースに向かって一礼し、二人の若者を部屋の中へと招き入れた。

「父上、パルヴィーズ殿の護衛を連れて参りました」


 長身で大柄な民として知られるティシュトリアの男に勝るとも劣らぬ体躯の黒髪の傭兵は、イスファルの前にある長剣に目を留めると、碧色の瞳を輝かせて懐かしそうに見つめた。

 剣を持つ者で知らぬ者はいないとうたわれる「王の盾」を前にして恐れおののく様子も見せず、左腕を覆う黒い籠手の肩口に右手で軽く触れて、冷たい微笑みを浮かべたまま、傭兵はイスファルを真っ直ぐに見据えると、ティシュトリアの貴族特有の所作で優雅に一礼してみせた。

「……ほお、どうやら我らの慣習を知っているようだな。どこで学んだ?」

「戦場で共に戦った男から。その長剣の持ち主だ。名はアスラン」 

 一方の眉を少し釣り上げたイスファルの、シグリドを見る眼に厳しさが増す。

「なるほど。ティシュトリアの剣を持つ者と共に戦場に立つだけの腕がある、と言う事か……タイース、待て! 私の命なしに手を出すでない!」

 シグリドの隣に立っていた息子の手が剣の柄にかかるのを、イスファルは見逃さなかった。


「戯言です、父上! 卑劣な傭兵の常套手段です。大方、戦場で亡骸から奪った剣の持ち主の血族を探し出し、報償でも得るつもりなのでしょう。いつもの事です……全く、身震いするほど浅ましい!」

 父の制止を振り切って、鞘から刀身を引き抜きながらシグリドの胸元に飛び込むようにして剣を大きく振り上げたタイースは、腕に確かに伝わる衝撃と、刃を伝って流れ落ちる生暖かい血を目にして確実に獲物を捕らえたと確信した。

 同時に、タイースの耳元で「遅いな」と言うささやきが聞こえた。


 ティシュトリアの刃を左腕の籠手で受け止めたシグリドは、流れ出る血を気にも留めず一歩退いて身をよじり、タイースの身体を避けて若者の背後に素早く回り込むと、無防備な首筋目がけて右肘を容赦なく打ち込んだ。

 大きな音を立てて剣が床に転がり落ち、タイースの身体が力無く崩れ落ちる寸前、シグリドが若者の腕を、ぐいっ、と引き上げて、ゆっくりと膝まづかせた。 


 事の成り行きを黙って見守っていたイスファルは、ゆっくりと立ち上がった。

「愚かな息子よ。相手の力量も見定めず、いきなり斬り掛かるとは……」

 長剣を拾い上げ、痛みに顔を歪める息子の胸に手を掛けて上衣を鷲掴みにすると、力任せに立ち上がらせた。

「ティシュトリアの戦士が剣を手放すは、その命果てる時……そう心に刻め、タイース」

 喉元を強く押さえつけられて身動きの取れない息子の胸に剣を押し付けると、側近の戦士に向かって手招きをした。戦士は心得たように将軍に一礼すると、父の腕の中で息も絶え絶えにもがいているタイースに腕を差し出した。

「さあ、タイース様、アルファドがそばにおりますから、しっかりとお立ち下さい」

 まるで幼い弟をあやす年の離れた兄のように、アルファドはタイースの身体を優しく受け止めて、壁際に置かれた長椅子まで歩くよう促しながら若者の身体を支えた。

 長椅子に腰掛けて頭を抱え込む若者に向けたイスファルの視線の奥に、ほんの一瞬、溺愛する息子を気遣う父親の表情が浮かんだ。



 シグリドは留め金を手早く外して、血に濡れた籠手を床に落とした。露わになった左腕に絡みつく異形の竜からにじみ出る血が腕を伝って、ぼたり、ぼたりと床にこぼれ落ちる。タイースの刃は、遠い昔、小さな治癒師の娘が縫い止めてくれた古傷の上を横切るように肌を斬り裂いていた。


 二つの頭を持つ、翼を持たぬ地上の竜の刺青。


 それに気づいたアルファドが「まさか……」と驚愕の声を漏らしてイスファルを振り返った。将軍も傭兵の左腕を身じろぎもせずに見つめている。が、おもむろに卓上に置かれた長剣を掴み上げると、剥き出しの刀身を鞘に納めて左手に握りしめた。

「レティシア姫の親書に『火竜の谷レンオアムダール』の傭兵とあったが……誠であったか。しかも『双頭』とは」

 死を恐れず血に飢えた「火竜」が戦場で荒ぶる姿に、歴戦の雄であるイスファルでさえ何度も恐怖を感じたものだ。ここが戦場であったなら、タイースは間違いなく殺されていただろう。

 柄にもなく寒気を覚えながら、己の息子と同じ年頃の「双頭の火竜」にゆっくりと歩み寄った。

「……失礼した、護衛殿。怪我をされたようだな。すぐに術師を寄越させよう」

「いや、必要ない」

 シグリドは上衣の裾を切り裂いて手慣れた様子で傷口を覆うように巻き付けると、籠手を拾い上げてタイースの刃が刻んだ大きな亀裂に目をやった。

 静かに片膝をつき、亀裂に指を走らせながら眉をひそめ、まるで宝物を守ろうとする子供のように、傷ついた籠手を両手でしっかりと握りしめる。肩口の黒い鋼に彫り込まれた翼の無い竜の意匠が松明の揺れる炎に照らされて、今にも動き出しそうにきらめいている。



 敬愛する養父の故郷ティシュトリアの将軍とその息子は、明らかに「報償目当ての卑劣な傭兵」と信じて疑わぬようだ。王国軍を率いるイスファルならば、貴族で戦士だったと言うアスランの家系を知っているはずなのだが。


 ……ああ、面倒だな。

 わざわざ疑いを晴らす必要などない。はじめから、こちらに非などないのだから。

 そうだろう、アスラン?


 シグリドはゆっくりと立ち上がると、イスファルに凍てつくような眼差しを向けた。目の前に立ち塞がる壮年の男の手に養父の形見の剣が握られているのを認めて不快そうに眉根をしかめると、静かに口を開いた。

「アスラン・ウォルカシア・ティシュトリエン……俺を息子として守り続けてくれた男の名だ。血縁の者がいるなら教えてくれ。レティシアの親書にもそう書いてあったはずだ」 

「それを知ってどうする?」

 アスランの長剣をきつく握りしめたまま、イスファルの表情が険しさを増す。

「その剣を送り届けてくれ。それだけだ」

「……何だと?」

 思わぬ言葉に困惑しながら、こちらに背を向けて立ち去ろうとするシグリドを見つめるイスファルの瞳に冷たい光が宿った。


 刹那、刃がこすれる音に咄嗟に振り返ったシグリドの胸元を、アスランの長剣がかすめた。


 結局、このまま行かせてくれる気はないという事か……やはり、面倒だな。


 ちっ、と小さく舌打ちして、シグリドは目の前の「王の盾」を睨みつけた。

「シグリド・レンオアムダール、『双頭の火竜』よ。何故、お前がこの剣を持っていたのだ?」

 息子と呼んで愛しんでくれた男のそれによく似た濃紺の双眸に見つめられて、シグリドの脳裏にアスランと過ごした七年の歳月が鮮やかに蘇った。


 死に際しても、アスランは微笑みながら「自慢の息子」を優しく見つめていた。

 だが、今、シグリドに向けられた夜明けの空を思わせる暗い瞳には、困惑と切望だけが浮かんでいる。

 ぎりり、と歯をくいしばるような音がして、イスファルの低い声が再び絞り出された。

「何故だ……? 何故、アスランは……我が弟は、お前にこの剣を与えたのだ?」



 父上は今、何と言ったのだ?

 あれは……叔父上の剣だったのか。だが、あの傭兵に「与えた」とは……どういう事だ?


 長椅子に腰かけたまま、低く部屋に響き渡る声に耳を傾けていたタイースは、火竜の傭兵と向かい合う父の声が次第に細く、途切れがちになるのに気づき、そろりと立ち上がって、警戒しながらシグリドの脇を通り抜けると父の側に走り寄った。

 そこには、ティシュトリアの守護神、「王の盾」と呼ばれた偉大な戦士とは程遠く、苦悩に満ちた表情で長剣を握りしめる年老いた男の姿があった。

「何故、これを刻んだのだ……アスラン?」


 刀身に刻まれた神聖文字には、確かに目の前の傭兵の名が刻まれていた。イスファルは、その祈りにも似た守護の言葉を初めて目にした時の驚きを決して忘れはしない。


『我が愛しき息子、「火竜の谷」のシグリドシグリド・レンオアムダールに天と地の聖竜の加護があらんことを』


「何故、お前は……」

 イスファルの頬を、つうっと涙が伝い落ちた。

「何故だ、アスラン? 何故、お前は……私の元に戻って来なかったのだ、我が小さき弟よ」



『辛かったでしょうね』


 タイースは、心の中で小さな娘の祈りの声が響き渡るのを感じた。

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