タルトゥス王の盲愛

 タルトゥス王の正妃は心優しい女性で、「罪戯れ」の側妻そばめから生まれた子とは言え、母を失った悲しみに打ちひしがれる少年を憐れに思い、折りに触れて自分の館に招き入れた。

 パルヴィーズの心を救ったのは、王が顧みようとさえしなかった継母と生まれたばかりの異母弟だった。


 腕の中に抱いた小さな温もりを愛しいと思った。自分と同じ血が流れる小さくはかなげな命を、愛さずにはいられなかった。

 何人たりとも弟に手出しはさせない。命を賭けてでも守ってみせる。そのために、もっと強くならなければ。父上のように勇敢に、母上のように思慮深く……

 来る日も来る日も、武術の習得に励み、母が残した蔵書を読みあさり、「罪戯れから生まれた呪われた子」と父王の臣下からそしりを受けても動じぬ強い心と身体を育み、パルヴィーズは継母と異母弟から与えられた心穏やかな温もりに、ありったけの愛情で応えた。



 美しく聡明な青年に成長したパルヴィーズは、今や、誰の目にも次代の王として相応しく映った。


『ひょろひょろと背ばかり伸びおって。そんな身体では戦場でまともに剣を振るうことも出来まい……雄々しきラーガの魂も、お前の中で嘆いておるわ』

 銀灰色の長い髪を優雅に結い上げ、妖艶な衣装に包まれて「異国の姫君」を気取る妖魔は、城の中庭に腰掛けて手に入れたばかりの歴史書に没頭するパルヴィーズの逞しい身体にその身を預け、行き交う貴族達から向けられる熱い眼差しをもてあそんでいた。

『男どもは誰もが我の虜だというのに、お前という奴は書物にしか興味がないのか? あの母にしてこの息子と言うべきか……』

「良いのですか、アプサリス? 人の子の前に堂々と姿を現して。また天竜ラスエルに叱られますよ」

 視線は書物に向けたままで、パルヴィーズがわずかに眉をひそめる。

『その年で浮いた話の一つもない、何とも不甲斐ないお前を思ってのこと。異国の姫が愛妾ともなれば、愚かな臣下どもが色めき立つであろう? 面白いではないか』

 アプサリスは美しい顔に似合わぬ不気味な笑い声を上げた。

 やれやれ、と心の中でつぶやいて、自分の肩にもたれかかっている「姫君」に顔を向けると、パルヴィーズはその滑らかな銀灰色の髪を優しく撫でた。

 母の寝所で初めて出逢って以来、この気まぐれな妖魔はパルヴィーズの人生に付かず離れず寄り添っている。

 母の手でパルヴィーズの中に封印された「魂の伴侶」ラーガが再び目覚めるのを待っているだけだ、とアプサリスは言うが……


 とろけそうな表情でされるがままに身を預ける妖魔の女王を心から愛しいと思うのは、己れの身の内に眠るラーガの魂がなせる技なのか。あるいは、己れの本心なのか……まあ、どちらでも良いか、とパルヴィーズは含み笑いを浮かべた。

 ふと、妖魔の女王は獣のように鼻をひくつかせ、紅く濡れる唇を、ちろりとめた。

『風が変わったな……血の匂いだ』



 パルヴィーズは嫌な予感がして本を閉じると、急ぎ足で王妃と異母弟が暮らす館に向かった。

 館の前をパルヴィーズ配下の兵士達が取り囲んでいる。

「何の騒ぎだ? 何があった?」

「パルヴィーズ様!」

 突然現れたあるじの姿に驚いて姿勢を正した兵士が、緊張の面持ちで告げた。

「弟君と王妃様が、また刺客に襲われたのです。ご安心下さい、お二人共ご無事です。今は大広間に……お待ち下さい! 誰も中に入れるなと兵長に……パルヴィーズ様!」


 ああ、またか……父上も性懲りも無く……!

 パルヴィーズは苛立ちを抑えながら、多くの兵士達が守る大広間へと足を踏み入れた。

「ラヴァル、無事か?」

「兄上!」

 まだあどけなさを残す少年は、大好きな異母兄の方へ走り寄って抱きついた。既に治癒師の手当てを受けたようで、右手に巻かれた布と頬に出来た新しいあざが痛々しい。

継母上ははうえ、お怪我はありませんか?」

 王妃は蒼ざめた顔をして長椅子に横たわっていた。

「ええ、パルヴィーズ、私は大丈夫。少し驚いただけです」

 パルヴィーズは小さな弟に聴こえないように王妃の耳元でささやいた。

「……また、父上の手の者でしたか?」

 ぴくり、と肩を震わせると、王妃はぽろぽろと涙をこぼした。

「ああ、パルヴィーズ……望まれぬと分かっていても、生きてさえいれば、いつの日か、あの方は振り向いて下さると信じて来たのに。生きることさえ許されぬとは……」



 タルトゥス王の中で愛するラウィネを失った悲しみが癒えることは決してなく、パルヴィーズへの溺愛は執着とも言える程に日ごと深まるばかりだった。父王にとって、王妃である継母と嫡子である異母弟は、亡き寵姫の忘れ形見である愛しい息子の即位をはばむ疎ましい存在でしかなかった。

「邪魔なものは取り除いてしまいましょう」

 王の耳元で、側近達のささやきが心地よく響いた。


 ……そうだ、今までもそうして来たではないか。目の前に立ちはだかるものは斬り捨てよ。


 それが数多あまたの戦場を生き抜いてきた戦士である王の生き方でもあった。その瞬間、魔は確かにそこにいて、自ら堕ちて行く者をただ見つめていた。人の心の、何とあやういものかと嘲笑いながら。

 王の中で、人としての最後の砦が音を立てて崩れ落ちた。

「そうだな。それが良い。邪魔するものは排除せよ」




 パルヴィーズは、母を失った日から愛情を注いでくれた心優しい女性ひとを抱きしめて、なだめるように優しくささやきかけた。

「護衛の数を増やしましょう。この館の結界をより強固なものにさせましょう。継母上とラヴァルには指一本触れさせません」

「兄上、大丈夫です。もっと強くなって、私が母上を守ります。今日は失敗したけれど……」

 腹立たしそうに布を巻かれた右手を見つめる弟が、愛しかった。何人たりとも弟と継母に手出しはさせない。命を賭けてでも守ってみせる……パルヴィーズは唇を噛み締めた。



 継母と異母弟が落ち着きを取り戻したのを見届けると、パルヴィーズは警護の兵士に二人を委ねて、「貴婦人の間」へと足を運んだ。母が亡くなって以来、父の手で封印されたこの部屋は、パルヴィーズとアプサリスが共に時を過ごす絶好の隠れ家となっていた。

「アプサリス、力を貸して下さい。王妃の館をあなたの結界で守って欲しい」

『お前が我に願い事とは珍しいな……だが、なぜわれが人の子を守らねばならぬ?』

 パルヴィーズは金色の瞳を真っ直ぐ見つめた。

「なぜ、あなたは人の子である私を守り続けて来たのですか?」

 不意を突かれて、妖魔は不機嫌そうな唸り声を上げた。

『……まあ良い。しかし、タルトゥス王も老いぼれたものだ。「盲目の愛」とは、人間は時に上手い事を言う』

 するり、と宙を舞って窓辺に立つと、妖魔の女王は口元に手を当てて、ふうっと息を吹きかけた。吐息は風に乗り、銀色の光の糸となって輝きながら、王妃の館の上に降り注いでいく。



 館が結界で包まれたのを確かめると、パルヴィーズはその足で城の奥深く、父王の居所へと向かった。いつにも増して廊下にたむろする護衛の数が多い事に気づいて、パルヴィーズは眉をひそめた。

 若かりし日の父は、戦場では冷酷無比と恐れられる戦士ではあったが、城に戻れば民から愛される良き領主であり、母を愛する良き夫でもあった。パルヴィーズにとっても憧れの歴戦の勇者であり、深い愛情で包み込んでくれる良き父だった。


 母が亡くなってからだ……父王の歪んだ愛情がこの城の空気を狂わせ、この身の上に重くのしかかるようになったのは。


「王にお目通り願いたい。パルヴィーズが来たと伝えてくれ」

 父の執務の間に通じる扉の前で、二人の護衛が身じろぎもせずに無表情のまま立ち塞がった。

「恐れながら、執務中は誰も通すなと申し付けられております。たとえパルヴィーズ様と言えど、お通し出来ません」

「手荒な真似はしたくない。通してくれ。お前たちが咎められぬよう、父には私から言っておく」

 パルヴィーズが一歩踏み出そうとすると、目の前で長槍が音を立てて交差された。

「……申し訳ありません。パルヴィーズ様」


 アプサリス。


 パルヴィーズは心の中で妖魔の女王の名を呼んだ。

 空間のひずみから、ゆらりと差し出された白く細い腕がパルヴィーズを優しく包み込み、そのまま「狭間」へと引きずり込む。

「えっ? ……消えた?」

 目の前に立っていたはずの金色の髪の若者が宙に溶け込むように消え去るのを間近にして、二人の護衛は驚愕の表情で顔を見合わせた。



 大きな机の上に肘をついてあごを乗せたまま、タルトゥス王は隣国ティシュトリアからの書状に目を通していた。

 アルコヴァルの属国となるか、ティシュトリアと手を組んでアルコヴァル討伐に乗り出すか……二つの大国に挟まれた小国タルトゥスが生き残る道は二つに一つだった。


 突然、誰かの気配を感じて顔を上げると、薄暗がりの中に最愛の息子の姿を見出した。

「護衛は何をしている? 誰も通すなと命じたはずだが……無理を言って扉を開けさせたのか、パルヴィーズ?」

 険しかった表情が、一瞬にして、父親の顔へと変わる。

 愛されているのだと感じながらも、その曲がった愛情が引き起こすであろう悲劇を止めなければと、パルヴィーズは心を決めた。

「いいえ。そんな事をせずとも、私には行きたいところへ行き、見たいものを見るすべがあります」

 母親譲りの美しい顔に父親譲りの冷酷な微笑みを浮かべて、パルヴィーズは父王を見つめた。

「父上、なぜ、ああまでして継母上とラヴァルを亡き者にしようとするのですか?」

 王は少し眉を吊り上げると、手にしていた書状を机の奥にしまい込んだ。

「まるで、私が妃と息子の命を狙ったふうに聞こえるが?」

「……では、誰の入れ知恵ですか」

 王は表情ひとつ崩さず、息子を見つめ返した。

「そう怒るな。ラウィネもよくそういう顔をして私に説教したものだ。命を奪うのは良くない、とな」

「父上、十年以上も前に亡くなった者より、生きている者達に愛情を向けるべきです。『果ての世界』に旅立った魂を想い続けるのは勝手ですが、そのために悲しみを背負わされる継母上ははうえを見るに耐えません。あの方は世継ぎを生んだ正妃であり、父上が愛すべき妻なのですよ」

「パルヴィーズよ、お前の母はラウィネただ一人だ。それを忘れるな!」

 大声で息子を叱りつけると、王は苦しそうに身を屈めて激しく咳き込んだ。口元を押さえた袖口が赤く染まっていく。


「……パルヴィーズ、そろそろお前の戴冠の儀を考えねばなるまいな。ここ数日、あまり身体の具合が思わしくないのだ。隠居して孫の顔が見たい、などと思うのだよ。私も年だな」

「勘違いなされるな、父上。私は妾腹にすぎない。王座など望んだこともない。ラヴァルこそが次の王として……」

 喉の奥から発せられた鋭い吐息と共に、王はパルヴィーズの頬をしたたかに打った。

「二度と己の母をおとしめるような言葉を使うな! 私の生涯の伴侶はラウィネただ一人。あれを側妾そばめなどと思ったことは、ただの一度もない」

「私が『罪戯れから生まれた呪われた子』であることに代わりありません。魔の血筋が誇り高きタルトゥス王家に入り込んでも良いのですか? 妖魔の片鱗を宿す私が王になれば、他国に我が国を侵略する糸口を与えかねません。正当な血筋であるラヴァルを王に立てて、反旗をひるがえす者も出るでしょう」

「だからこそだ! 分からぬか、パルヴィーズ」

 王はいつの間にか見上げるようになってしまった息子の顔に手を伸ばして、赤く腫れた頬に手を添えた。

「だからこそ、ラヴァルを生かしておく訳にはいかぬのだ。あれは哀れな子だ。私の子として生まれさえしなければ……」

 愛しそうに息子の頬を撫でながら、王の瞳から涙が流れ落ちた。


 ……これ以上話しても無駄だ。母が死んだ時、偉大な王だった父も死んだのだ。目の前にいるのは、年老いた王の脱け殻。


「アプサリス、出でよ」

 パルヴィーズは年老いた父を見つめたまま、妖魔の女王の名を呼んだ。

 途端に、ゆらゆらと揺らめく炎が広間の中央に浮かび上がり、見る間に天井まで燃え上がった。

 炎は火の粉を散らしながら、驚愕して立ち尽くす王の目の前で、パルヴィーズの全身をめるように覆い尽くし、音を立てて燃え続けた。

「ああっ! パルヴィーズ……何という事だ……今すぐ助けてやるぞ!」

 その瞬間、王の脳裏に、スェヴェリス攻略の夜、炎上する館の庭に佇む金色の髪の少女の姿が鮮やかに甦った。


 少女を守るように周りでうごめく異形のもの達。

 使い魔に守られた美しいラウィネ。罪戯れの子。その身に妖魔の魂を宿す者。

 王の目の前で、愛する娘が炎に包まれ、その魂が少しずつ妖魔に喰われながら燃え尽きようとしていた。

「おのれ、妖魔め……! ラウィネは私のものだ、誰にも渡さん!」

 王は剣を引き抜くと、目の前の炎の妖魔に斬りつけた。炎は怪しいわらい声を上げる美しい銀灰色の女の形に変わると、一瞬にして掻き消えた。



 血飛沫ちしぶきをあげながら床に倒れ込んだのは、パルヴィーズだった。

 床に広がる血溜りに横たわり、身動きひとつせぬ息子の姿に我に帰った王は、声の限りに叫んだ。

「ああ、パルヴィーズ! どうしてこんな事に……誰か、誰かおらぬか! 早く術師を呼べ!」

 部屋に飛び込んできた護衛達は、取り乱した王の姿に訳も分からぬまま、王の手から剣を取り上げると、一人が術師を呼びに走り、残りの者達はうつ伏せに倒れているパルヴィーズを抱き起こした。


「駄目だ……息をしていらっしゃらない」

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