少年とアプサリス

 初代タルトゥス王……? いつの時代の王だ?


 パルヴィーズは、ゆっくりと隣の小さな肖像画を指差して、わずかに微笑んだ。

「この赤子はラヴァル。私の異母弟で、タルトゥスの二代目の領主でした。彼の治世の間、この砦が一度として戦火に襲われる事はなかったとたたえられる賢王です。成人した肖像画は……ああ、そこに」

 パルヴィーズが指差した先に、若き青年王の凛々しい姿があった。穏やかに微笑む顔とは裏腹に、その瞳は哀しみに満ちているように思えた。

「弟は王の正妃の子です。母親譲りの艶やかな黒髪が自慢で、よくいてやったものです」

 顔にかかった金色の髪をはらって、パルヴィーズはようやくシグリドに視線を向けた。

「もう……みんな、死んでしまいました」

 泣き腫らした顔が痛々しく感じられるほど、無理に笑顔を作ろうとしているのがシグリドにも分かった。


「たった一人残される悲しみは、シグリド、私には痛いほど分かります。仲間が狩られる姿を目にしながら、火竜の誇りを決して捨てずに生きるあなたを見ていると、人の子の命は限りあるからこそ美しいと思ってしまう。もう少し、この世界に留まりたいと願ってしまう……あなたのおかげで、この身を縛る忌まわしいかせを、ほんの一時でも忘れる事が出来るのですよ」

 パルヴィーズの左側の空色の瞳に、いつの間にか縦長の獣の瞳孔が浮かび上がっている。

「スェヴェリスの……お前を産んだ母は術師だったのか?」

「いいえ。術師の娘として産まれた『罪戯れ』です」

 感情を滅多に表に出さぬ火竜の若者が、一瞬、ひるむように瞳を大きく見開いた。

「スェヴェリスでの『罪戯れ』は、その身に宿った妖魔が目覚める事を望まれるだけの存在でした。『罪戯れ』の子供達は術師達の手で幽閉され、自ら命を絶つことも許されません。内なる妖魔が目覚めると同時にその身体を奪われるその日まで、ただ生かされ続けるのです。その頃には既に魂を喰い尽くされ、「果ての世界」で眠りにつくことも叶わぬまま、人の子としての自我は消滅します。この世界に存在した痕跡さえ残さずに、宿主としての一生を終えるのです。一方で、目覚めたばかりの妖魔は、待ち受けていた術師の契約の枷に囚われて使い魔となる……それがスェヴェリスの『罪戯れ』が辿る道でした」


 シグリドは背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 聖なる蛇ヤムリカを宿していた「罪戯れ」のディーネは、少なくとも人の子として愛し、愛されていた。

 だがスェヴェリスの女達は、使い魔を産み落とすためだけに妖魔と交わったというのか? 女としての情さえも捨て去って……


「私の母も、その母の手で幽閉されました。ただ……」

 パルヴィーズの口元に、わずかに微笑みが浮かんだ。

「私の祖母は妖魔の子を産んだ後、愛する娘を自分の館に隠し、他の術師から守るための結界を張り巡らせました。祖母は強大な力を誇る術師だったそうです」



***



「ラウィネ、あまり外にいては駄目よ。他の術師に気づかれてしまうわ」

 

 波打つ黄金の髪を風になびかせながら、ラウィネは館の裏にある薬草園からオトゥール山を見上げていた。娘の姿を見つめながら、母は目を細めてその美しさを愛でた。

「私の金色の小鳥さん、翔んで行かないように籠にいれても、あなたは勝手に抜け出してしまうんだから」

「ねえ、母様、オトゥール山には本当に天竜様が棲んでいるの?」

「さあ、どうかしら。人の世に降りる事はあるでしょうけれど……そもそも妖魔の棲む世界と我ら人の子が住む世界は……」

「『狭間はざま』で繋がれた別の世界。人の子が越えられない『狭間』を抜けて、『魔の系譜』は私達の世界にやって来る。一時の快楽を求めて……でしょう? もう何回も聞いたわ、母様」

 

 わずか十三歳にして、既に難解な術師の書を読みふけさとい娘は、女術師の自慢だった。館に棲む使い魔達のおしゃべりに聞き耳を立てて、人の子が忘れ去った「いにしえの言葉」を学ぶ娘を見るにつけ、「罪戯れ」でさえなければ誰よりも優れた術師となってスェヴェリスの史書に名を残しただろうに、と心が痛んだ。

 大好きな母の瞳がかげるのを見て、ラウィネはにっこりと微笑みながら美しい花束を手渡した。

「母様にあげようと思って、摘んでおいたの」

 心の疲れを取る柔らかな香りの薬草ばかりを集めた花束を見て、母は愛しそうに娘を抱きしめた。

「私のラウィネ、優しい子」


 何人たりとも、この子に手出しはさせない。命を賭けてでも守ってみせる。

 そのためには、罪戯れの子の内に宿る妖魔の魂を消し去る術を見出さなくては……



 来る日も来る日も、女術師は残酷な運命から娘を救うための術を編み出そうと、ありとあらゆる術を学び、大陸中の不可思議な書物を集め、珍しい薬草を取り寄せては裏庭に植え続けた。


 タルトゥスの王がスェヴェリスを急襲した、その日まで。



***



「小国タルトゥスの王は、同盟国の王達からスェヴェリス随一の女術師の討伐を命じられていました。その頃には、強大な術を操る反動で身も心もぼろぼろになっていた祖母は、最後の力を振り絞って母が幽閉されている館を戦火から守り抜き、命果てたそうです」

 広間の壁に沿って作られた書棚から一冊の本を抜き取って、懐かしそうに目を通しながら、パルヴィーズは話し続けた。

「若く聡明で美しい母に心を奪われた王は、臣下の反対を押し切って、戦さの混乱に乗じて彼女をタルトゥスに連れ帰りました。ここにある蔵書は、元々、私の祖母が集めた物です。母の慰めになればと、王が兵士達に命じてタルトゥスまで運ばせたそうです」



***



 母を失った悲しみに沈むラウィネを、タルトゥスの王はあらゆる手を尽くして慰めようとした。


 王には政略結婚で結ばれた正妃がいたが、愛情にも子にも恵まれなかった。かと言って、臣下の勧めに従って側妾を置くこともなかった。常に戦場に身を置く王にとって、子を成すためだけに愛してもいない女を囲うなど、面倒なだけだった。

 そんな王が初めて愛妾とした女が、敵国の術師の娘であり、忌むべき妖魔の子であると知った臣下の者達は、事あるごとにラウィネを非難し、城から追い出そうと試みた。だが、王は決して娘を手離そうとはしなかった。

 自分を心から慈しんでくれる若き王に、ラウィネは少しずつ心を開いていった。

 やがて、一人の男として王を愛するようになり、遂にはその身を王に委ねた。


 夜毎、肌を重ねるうちに、ラウィネは自分の中に小さな命が宿っていることに気がついた。 



 ……「罪戯れ」の私から生まれるこの子は、人の子として生きられるのかしら?



 愛する娘の懐妊を知った王は、そんなラウィネの不安を他所よそに、心の底から喜んだ。 

 お腹の子を守るため、ラウィネは母が集めた書物を読みあさった。そんな姿を見て、王は陽の当たる心地よい大広間を書庫として愛する娘に与えた。

 ある時、「いにしえの言葉」で書かれた難解な書物の中に、ラウィネは探していた術を見出した。彼女以外、おそらく誰一人読み解くことの出来ない忘れ去られた古の術を。

 徐々に膨れ上がる腹に手を置いて、ラウィネは術を編み上げていった。自分の中に宿る妖魔が、腹の中の小さな命を守り、その命果てるまで共に居続けるように、と。




 スェヴェリスのラウィネから産まれた子は、母に似た美しさと聡明さに恵まれ、父王の愛情を一身に受けて育った。

 少年が十歳になる頃、ようやく正妃が懐妊し、世嗣ぎの男子を産んだ。周囲の期待も虚しく、心から愛する女に生き写しの少年に対する王の愛は一層深まるばかりで、正妻に瓜二つの嫡子に関心を示すことなど微塵もなかった。

 同じ頃、ラウィネが病に倒れた。

 愛しい息子を守るため、人知れず難解な術を編み続けたラウィネの身体は、既に手の施しようがないほど、ぼろぼろだった。



 母の死の床で、パルヴィーズは生まれて初めて恐怖に震えた。寝台のすぐ上に、ゆらりと漂う妖魔を目にしたからだ。

 銀灰色の長い髪がゆらゆらと揺れるたびに、紅い火の粉が星屑のように母の上にこぼれ落ちる。それを見たパルヴィーズは、思わず母の上に覆い被さった。

『なんだ、人の子よ、我はその女に用があるのだ。邪魔するでない』

 パルヴィーズは母をかばいながら、腰に帯びた剣の柄に手を掛けた。

「母上に手出しをするなら、この私が許さない。妖魔といえども斬り捨ててやる」

『ほお、なんとも勇ましい……だが、少年よ、お前ごときの脅しで我が動じると思うな』


 ぱちん、と妖魔が指を鳴らした瞬間、パルヴィーズは部屋の隅の壁に投げつけられ床に倒れ込んだ。身体中の痛みと激しいめまいに襲われながらも、母が眠る寝台の方へと顔を向けた。


 なぜ護衛が一人もいない? 母上を守るべきなのに……

 父上は? 父上はどこだ?


 妖魔はラウィネの真上を漂いながら、妖しい微笑みを浮かべて「罪戯れ」の娘の顔を覗き込んでいた。

『さあ、娘よ。悪あがきせず、お前の魂の全てを内なる妖魔に差し出せ。そうすれば、死すべき人の子の身体が与える苦しみから解放されるぞ』 

 「罪戯れ」の運命を母から聞かされていた少年は、それでも諦めることが出来ず、もう一度、妖魔に剣を向けた。

「母上の魂を喰い尽くされてたまるものか! 妖魔よ、いますぐここを立ち去れ!」

 少年の存在など気にも留めずに、ラウィネの瞳の奥を覗き込んでいた妖魔が、突如、耳をつんざくような恐ろしい悲鳴を上げた。

 美しい顔が怒りに歪む。


 遠のく意識の中で、悲鳴を耳にしたラウィネが薄っすらと目を開け、愛しい息子を探すように震える細い腕を宙に伸ばした。

「……パルヴィーズ? 私の愛しい子、どこに居るの?」

「母上、ここに居ます、母上!」

「ああ、可愛いパルヴィーズ……! 大丈夫よ、怖がらないで……守ってくれるわ……ずっと、あなたと共に……だから、あなたは生きて」

 最後に吐いた吐息とともに、ラウィネの魂は愛する息子の髪をやさしく揺らすと、「果ての世界」へと消えた。


 その瞬間、妖魔の女が獣のような唸り声を上げた。

『……何故だ? どうして、魂の受け皿でしかないお前が「果ての世界」へ向かう? 確かにお前の中に居たはずなのに……人の子の魂をかてに、お前の中でこの日だけを待ち続けていたはずなのに!』

 金色の瞳を怒りに燃やし、銀灰色の逆立った髪から火の粉を散らして、妖魔は部屋の隅々を何かを探すように飛びまわっていた。

『おのれ、スェヴェリスの妖術師め……よくもこのアプサリスをたぶらかししおったな! どこだ……どこにやった? ああ、ラーガ、愛しいお前の気配をまだ感じる……なのに、なぜ我の前に姿を現さぬのだ? スェヴェリスのラウィネ……お前の中に眠っていたはずの妖魔の魂に、一体、何をした!』

 狂ったように叫び続ける妖魔を前に、パルヴィーズは恐怖にがたがたと震えていた。タルトゥスの男子として剣術や体術の心得はある。だが、魔の系譜を相手にする術など知るはずもない。


 父上……ああ、誰か、早く助けて!



 アプサリスは、必死に探し続ける魂の気配が、部屋の片隅で震えている少年から漂っていることに気がついた。

『まさか……お前の中に……? そんな、馬鹿な……ああ、そんな事が……!』

 あっという間にパルヴィーズの前に立ちはだかって震える肩を乱暴に掴むと、アプサリスは少年の顔を覗き込んだ。妖魔を見つめ返す空色の瞳の片側に、「魔の系譜」の証である縦長の瞳孔が浮かんでいる。

『ああ、馬鹿な……そんな……ラーガよ、なぜ、お前の高貴な魂が、卑しき人の子の魂と混じり合っているのだ? そいつを喰い尽くして早く目を覚ませ、ラーガ! 我が愛しき魂の伴侶よ!』

 

 妖魔の悲鳴にも似た叫び声を聴きながら、パルヴィーズは意識を手放した。



***



 アプサリスと言う名の妖魔は、パルヴィーズの魂が『かつて我の伴侶だった妖魔の魂と複雑に絡みついて一つになっている』と告げた。

『お前の母は「古の言葉」で編み上げた不可思議な術で、己の身の内に潜むラーガの魂を絡め取り、腹に宿ったお前の魂に結び付けたらしい。我が子の魂を形代かたしろに己の魂を解放するとは、スェヴェリスの妖術使いがやりそうな事だ』

「……何が言いたい? 母上が私を犠牲にしたとでも?」

 ふふん、と面白そうに口を歪めて、アプサリスが微笑んだ。

『犠牲か……なるほど、そうとも言うな。だが、考えても見よ、パルヴィーズ。お前は人間の女から生まれながら、どちらつかずの「罪戯れ」などではない。死すべき人の子の運命から逃れ、永遠に続く妖魔の魂を手に入れたのだぞ。素晴らしいとは思わぬか?』

「私は……人の子ではないのか?」

『さてな。「罪戯れ」から生まれはしたが、お前の父は人の子であろう? だが、同時にお前の中にあるのは妖魔の魂。我が魂の伴侶であったラーガは、猛々しく美しい水妖フーアであった……「魔の系譜」の瞳と魂を引き継いだお前が雄々しく成長する姿を、これからゆっくり楽しませてもらうとしよう』


 アプサリスは妖艶な肢体をパルヴィーズの身体に押し付けると、白く細い指で少年の震える唇をゆっくりとなぞり、血のように赤く艶めく唇をその上に重ねた。

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