癒しの泉

 泉の精霊は、哀れな王の魂が「果ての世界」に旅立つのを見届けると、よどんだ沼を振り返って悲しそうに立ち尽くした。

『これが私の心、私の姿。全ては私の過ち……』

 リアナンの金色の瞳から涙がこぼれ落ちた。


 それを癒すのも、私自身。でも……何だか疲れてしまったわ。このまま水底に身を沈めれば、全てが終わるのかしら? それなら、このまま終わらせましょう。愚かな精霊が棲む「癒しの泉」など、あの方の加護を受けるこの森に必要ないわ。 


 

 シグリド達のそばで様子を見守っていた有翼の蛇グィベルがリアナンにそっと近づくと、真珠色に輝く柔らかな翼を広げて精霊の肩を優しく包み込んだ。

『小さな妹よ。悲しみに耐えられぬのならば、我と共に来るが良い。幾百年、幾千年もの時を我の傍らで微睡まどろめば、お前が負った悲しみも痛みも、いつの日か消え去るだろう』

 リアナンは力無く首を横に振った。

『慈悲深き聖魔よ、もう終わらせたいのです。人の子の欲望に取り憑かれけがれてしまった私が、「角の王」の森を……あの方が大切に守り続けてきた聖なる大地を、これ以上、おとしめてしまう前に』

 ヤムリカの翼に包まれたまま、精霊の金色の瞳から涙が止めどなくこぼれ落ち、水辺を揺らす。


『聖なる泉の乙女よ、狩人に傷つけられた哀れな獣を癒してはくれまいか?』


 低く穏やかな声が、静かに響いた。

 リアナンはその声に懐かしさを感じて、涙に濡れた顔を上げた。

 目の前にたたずんでいるのは、じれた大きな角を冠のように頭上に抱き、赤褐色の豊かな毛並みを持つ荘厳な姿。森の守護者たる、「気高き獣の王」。

『タリスニール……あなた、怪我をしているの?』

 リアナンは聖魔の翼をすり抜けて「角の王」に駆け寄ると、丁寧に布を巻かれた前脚にそっと触れた。タリスニールが、温かな鼻先で精霊の頰に優しく触れる。

『その名で私を呼んでくれるのは、リアナン、そなたしかおらぬ。身体の傷は、そこにいる治癒師の娘が癒してくれた。清らかな泉の精霊よ、もう一度、私の名を呼ぶその声で、私の心を癒してはくれまいか?』

 森を守護する獣の王と聖なる泉を守る森の精霊は、ひと時の間、己の役割を忘れ、タリスニールとリアナンという名でお互いを見つめ合った。



 ああ、まるで夢を見ているようだわ。

 おとぎ話の王子様がお姫様を助け出す、子供の頃にみたあの夢を。とっても素敵……


 「角の王」が秘めていた熱い想いに触れて、氷のように閉ざされていた精霊の心が溶け出すのを、ファランはシグリドの腕の中で確かに感じていた。

「ねえ、シグリド、すぐに戻るから待っていてね」

 治癒師の娘は黒髪の若者に口づけると、娘を抱いていた腕が名残惜しそうに僅かに緩んだ。

 ファランは一歩踏み出して、両腕を前に差し出すと、祈りを捧げる声でリアナンに語りかけた。

「泉の精霊よ、思い出して。いつもあなたを遠くから見守っていた気高き森の王の事を。愛する者が魔に堕ちて行く様を、ただ見守り続けるしかなかったその方の苦しみを」

 治癒師の娘の声が、精霊の心を大きく揺さぶる。

「あなたの悲しみは、この森の悲しみ。森の悲しみは、『角の王』の嘆き。それを洗い流し、喜びに変えることが出来るのは、泉の精霊よ、あなただけ」



 ああ、そうだわ……タリスニール、あなたはいつも私の傍らに居てくれた。

 私の泉のほとりで喉の渇きを癒す獣達を優しく見つめながら、共にこの森を守り続けようと誓ってくれた。

 水面に浮かぶ私の髪に絡まって困った顔をしながら、気持ちよさそうに水浴びをするあなたの姿を見るのが大好きだった。

 美しい赤褐色の毛皮をゆっくりと指できながら、大きく逞しい身体を私にすり寄せて微睡まどろむあなたを抱きしめるのが、かけがえのない喜びだった。

 泉のほとりで瀕死の人間の王を助け、愚かにも身を委ねてしまった後も、あなたは変わりなく私を見守り続けてくれた。清らかさを失い醜く変わり果てた精霊など、この聖なる森から追放するべきだったのに……

 あなたは私を守り続けてくれた。


『タリスニール、私の気高き王』

 リアナンは、遠い昔そうしていたように、細く白い指で赤褐色の美しい毛皮をゆっくりと梳き始めた。愛しい想いがふつふつとき上がり、ゆっくりと精霊の心を満たしていく。

『リアナン、清らかな乙女よ。私のそばで、共にこの森を守ってはくれぬか?』

 角の王が逞しい身体を泉の精霊にすり寄せると、リアナンは両腕を首に回して柔らかい毛皮に顔を埋めた。

『ええ、タリスニール。気高き森の王よ。あなたのそばに……ずっと、一緒に』



「シグリド、見て」

 ファランが指差す先で、泉の精霊の美しい髪から光のさざ波があふれ出て、沼のほとりへ流れ落ちて行き、きらめく光が次第に辺り一面を覆い尽くしていく。

「星の光を散りばめたみたい……とってもきれい」

 感嘆のあまり、息を呑んで身動きもせずにいるファランを後ろからそっと抱きしめると、シグリドは腕の中にいる小さな癒し手がもたらした大きな変化を静かに見守った。



 パルヴィーズの肩から銀色の鴉が飛び立ち、銀灰色の髪をなびかせた聖魔の姿となって、輝きを増す水辺にゆらりと降り立った。

 清らかな美しさを取り戻した泉の精霊と、その隣に寄り添う赤褐色の森の守護獣に視線を移すと、聖魔は金色の瞳をまぶしそうに細めた。

『なるほど、泉の「聖なる力」は完全に戻りつつあるようだな』

 腹這いで頬杖をつくような格好で宙に浮いたまま、しなやかな手を伸ばし、輝く水面をするりと撫でる。

 水鏡に映し出されたのは、白いローブに身を包み、結い上げられた豊かな黄金の髪を美しい宝玉で飾りつけた可憐な巫女姫。幼さを残す可憐な少女は、神殿の巫女達に囲まれながら祈りを捧げているようだ。

 妖魔の女王が不愉快そうに顔をしかめると、銀灰色の髪から紅い火の粉がちらちらと見え隠れした。

『人の子ごときが、精霊をおとしめて「呪願かしり」に縛り付けるなど、決して許されぬ事。さて、どうしてくれよう……』


 アプサリスは両腕を組んだまま宙を舞うと、ファランの目の前にゆらりと現れた。気まぐれな聖魔から娘を守ろうと、シグリドはファランの腕を強く引いて自分の背後に押しやった。

『案ずるな、火竜の子。天竜の娘に手を出すほど無粋ではないわ』

 ふんっ、と鼻でわらうと、白く細い指に絡めた何かをシグリドの目の前に差し出した。

『石を預かったままだったのを思い出してな。天竜ラスエルも「火竜の子が聖魔をそそのかして利用した」件については目をつぶるつもりらしい』

 アプサリスから青い石の首飾りを受け取ると、シグリドは地面に転がっているノイシュの剣に目をやった。

「結局、全てはザラシュトラが仕組んだ事だったのか?」

『さてな。あの女、人の心に芽生えた闇を引き出して利用する技に長けておるのよ。どこからか「聖なる泉の力」の噂を聞きつけ、泉の精霊の愚かな恋心と人間の王の尽きぬ欲望という心の闇を利用し、全てを癒すと謳われる精霊の力を奪おうと画策したのであろうよ』

「なぜ、ザラシュトラが癒しの力など望むんだ?」

 シグリドは、アンパヴァールの城で目にした哀れな獣人達の姿を思い出して、眉をひそめた。

『やれやれ……いかに妖術に長けた術師と言えど、たかが人の子ぞ。スェヴェリスが滅びてのち、どのように百年以上の月日を生き長らえたと?』



 火竜の中でも最強とうたわれるお前ならば、良い器になろう……


 あの時、女術師はそう言って、シグリドの身体の自由を奪い、意思を封じようとした。

「他人の身体を奪い、そこに自分の魂を移す……?」

『お前にしては上出来だな、火竜の子よ』

「術師といえども、ただの人間にそんな事が可能なのか?」

『出来ぬこともない。あの女は「死すべき人の子」という自然の摂理に逆らい、新しい身体に己の魂を刻みつけているのだよ。だが、他人の身体を「器」として使ったところで、永遠に生き長らえるはずもない。その身体が老いて使い物にならなくなる前に、また「器」を新しくする必要がある……その繰り返しだ』


 シグリドは、ファランの身体が怒りに震えているのを感じた。

 多くの命を奪い、哀れな亡骸に安息の眠りを与える事もなく、それを我が物として長い年月を生き延び、泉の精霊のけがれなき心までももてあそんだ……救うべき命がある限り、惜しみなく手を差し伸べる治癒師の娘にとって、ザラシュトラの行為は許し難いに違いなかった。

「だから、リアナンの『癒しの力』を望んだのか。それがあれば『器』が老いる事もない……」

『そういう事だ。これ、天竜の娘、怒りを鎮めよ。お前の存在は、あの術師にとって目障りでしかない。気配を勘づかれれば命はないぞ』

 シグリドの背中に身体を預けて流れる涙を拭いながら、ファランは心の中で女術師に冒涜ぼうとくされた哀れな魂のために祈りを捧げた。


「こいつに指一本でも触れようとすれば、誰であろうと生かしてはおかない」

 かつて「双頭の火竜」と恐れられた男の瞳が冷たく光る。それを見て、アプサリスは口元を歪めて微笑むと、細く白い指でシグリドの唇をゆっくとなぞった。

『やはり火竜レンオアムの子は良いな。シグリド、時が来れば、お前にあの術師の命を奪わせる機会を与えるとしよう』

 妖魔の女王は地面に打ち捨てられたノイシュ王の長剣を拾い上げると、頭上高く振り上げた。

『では、スェヴェリスの巫女よ、返してやろう……お前のとがだ。受け取るが良い』


 聖魔の手に握られていたはずの剣は、ぶるりとその身を震わせて、流れる水のように姿を消した。



***



 軍事大国ティシュトリアの東の隣国「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」は、天竜を神と敬い、神官である王が統治する神聖政治国家である。



 夕闇が迫る仄暗い神殿の奥で、数人の巫女に取り囲まれながら、巫女姫ザシュアは天竜に祈りを捧げていた。

 神である天竜の神託を得る事が出来るただ一人の巫女として、そしてその可憐な美しさで、ザシュアは王国の民から愛され、絶大なる信頼を得ていた。

 豊かな黄金の髪を優雅に結いあげ、巫女の正装である床まで届く白いローブを身につけ、日に二度、朝と夕に王国の繁栄と安泰を願って天竜に祈りを捧げる。それが、生涯を神殿で過ごす巫女の日常だった。


 いつものように「聖なる水」を湛えた大きな水瓶の前に立って祈りを捧げていたザシュアは、突然、水面が奇妙に揺らめくのを感じた。



 水鏡には何も怪しげなものは写っていないのに……なぜ? 



 巫女姫は首を傾げながら顔を水鏡に近づけた。

 その瞬間、水面が急に盛り上がったかと思うと、水しぶきが勢いよく天に向かって立ち昇り、まるで振りかざされた鋭いやいばのようにザシュア目がけてこぼれ落ちた。青い宝玉にも似た光が水柱の中で輝いているのを巫女姫は見逃さなかった。美しい薄紫色の瞳が驚愕のあまり大きく見開かれる。



 まさか、そんな事が……!



 ぎゃあっ、と獣のような悲鳴を上げて、ザシュアは水しぶきに襲われた顔を両手で押さえると、こらえきれず床に崩れ落ちた。

「ああ、熱い、熱い……!」

 焼けつくような痛みに悶え苦しみながら、護衛の名を口にする。と、ぐらりと歪んだ空間から白銀の髪を持つ美しい戦士が現れ、ザシュアを抱き起こした。

「ああ、ロスタル……」

 白い妖魔は、突然の事に呆然と立ちすくむ側仕えの巫女達を凍える瞳でにらみつけながら、ザシュアを抱え上げ、「何があった?」と耳元でささやいた。

「あの女……泉の精霊に『呪願かしり』を返された……寝所に、早く!」


 腕にしがみつく巫女姫をしっかりと抱き寄せて、ロスタルは揺らいだ空間に消え去った。

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