愛の終わり

 ノイシュは目の前にある「聖なる泉」を見つめたまま歩みを進めた。

『ああ、なんて酷い怪我……さあ、早く私のそばに』

 泉の精霊は愛する男の魂を捕らえようとするかのように、細く青白い腕を大きく広げた。戦士は重い身体を引きずりながら結界へと近づいて行く。

 

 ファランは朽ちた長剣を抱えてシグリドのそばにたたずんだまま、炎の結界が大きく揺らぐのを感じた。

 精霊の心が、待ち続けていた王の帰還に戸惑いながらも喜びに震えるかのように、結界の炎は激しく燃えては消え入りそうになり、また燃え上がる。

 その繰り返しを見つめながら、ファランの心がなぜかざわついた。何かが違う、どこかが噛み合っていない、と。


 シグリドは目の前に迫る王の視線が、小さな娘が手にしている長剣に注がれている事に気がついた。

「ファラン、剣を置け、早く!」

 結界に阻まれている以上、俺はお前を守ってやれない……シグリドは唇を噛んで手元の剣を強く握りしめた。

 幻でも死者の魂でも生者を傷つけることは出来る。

 まして、相手は慈悲の心を持たず殺戮を繰り返した非情の王だ。身を守るすべを持たぬ治癒師の娘などひとたまりもないだろう。


 ファランはシグリドの視線を追って後ろを振り向くと、こちらを凝視しているノイシュの魂をしばらく見つめて少し首を傾げた。


 やっぱり、何かがおかしい……ああ、もう! 本当に治癒師の性分って厄介だわ。


 はあっ、とため息をつくと、治癒師の娘は先程感じた違和感に、正面から向き合おうと心に決めた。

「シグリド、私を見て」

 結界の向こう側にいる黒髪の傭兵にささやくと、新緑の森を思わせるみどり色の瞳が優しくファランを見下ろした。

「ねえ、シグリド。あなたは私だけを想い続けてくれて、私だけを求めてくれた……そして、これからもずっと、私を腕の中に捕まえて決して離さないわよね?」

 何を今更、とでも言いたげな表情で、シグリドは少し気まずそうに娘を見つめた。

「でも、私はそれをとても心地良いと感じているの。ずっとあなたに捕らわれていたいと思うの……もし、私からあなたを奪おうとするものがあれば、私の命を賭けてでも守ってみせるわ」

 恥ずかしそうに頬を染めながら、ファランは自分の唇に触れた手を、そっと結界越しのシグリドに向けてかざした。

 声を出さずに『愛しているわ』と娘の唇がささやくのを見て、シグリドは胸騒ぎを覚えて、思わず声を張り上げた。

「リアナン、お前の王が戻ったのだから、俺はもう必要ないだろう? 頼む……この結界を解いてくれ!」



 治癒師の娘は黒髪の火竜に背を向けると、その小さな身体に重すぎる長剣を抱えたまま、ノイシュの方へゆっくりと歩き始めた。

「駄目だ、ファラン……戻れ! 戻ってくれ!」

 結界の内側から叫び声を上げるシグリドを振り向きもせず、青灰色の瞳は亡国の王の魂だけを見つめていた。



***


 

 自らの魂と共に「呪願かしり」に縛られ、長い眠りについていた己の長剣を目の前にして、傷だらけの戦士の瞳が光を増した。

『おお、我が友よ! 我が王国のためにお前が流した血を忘れはせんぞ……娘、その剣を我に渡せ! 卑しい女が触れるものではない。さあ、早く、それを寄越せ!』

 逞しい腕がファランを捕らえる寸前、背後から襲いかかる獣の気配を感じて、ノイシュは身を交わした。

 娘を庇うように立ち塞がった大きな角山羊マーコールが、怒りに燃える金色の瞳で亡国の王の魂を睨みつけている。

「おのれ……お前までもが我が首を狙うとは……! 渡さぬ、誰にも渡しはせぬ!」

 狂気に駆られ、王座にしがみつこうとする壮年の王の瞳に映るのは、自ら手を下した哀れな亡者達の幻のようだ。


「……そうやって、全てを奪ってきたのね」

 治癒師の娘がおごそかな声でノイシュの魂に語りかけた。「角の王」はさながら護衛の兵士の如く、娘から離れずぴたりと寄り添っている。

「この剣が欲しいのなら返してあげるわ。その代わり、泉の精霊から奪ったものを返してあげて」

 ノイシュは眉をひそめて小さな娘を見下ろした。

「何のことだ? 泉の精霊から奪ったものだと?」

「覚えていないの?」

 ファランは結界の方を振り返って、沼のほとりで一心にノイシュを見つめる精霊を指差した。

「見て。あなたが精霊の聖なる力を奪ったのよ。泉の精霊はあなたを受け入れ、命を救い、惜しみなく愛を与えた。清らかな心で帰らぬあなたを待ち続けていたのに、その心を女術師に操られ、『聖なる力』を奪われた……あなたを愛しさえしなければ、あのような姿にならずにすんだのに」


 ノイシュは精霊を見るなり顔をしかめた。

「あんなおぞましい化け物が、あの『聖なる乙女』だと?」

 愚かな人間の残酷な言葉に、獣の王が怒りに震えていななくのをなだめようと、ファランは赤褐色の柔らかい身体を優しく撫でた。

「目に見えるものだけが全てではないのよ、可哀想な王さま」

「言わせておけば……娘、お前は何者だ? 妖獣を連れているところを見ると、術師か?」

 憐れむような眼差しを王に向けると、ファランは赤褐色の獣をいつくしむように身体を寄せた。

「私はただの治癒師よ。救うべき命がそこにある限り、手を差し伸べるだけ」

「ならば我の命を救え! さすれば、どんな望みでも叶えてやろう。何が望みだ、娘よ?」

 ファランは見下げるような冷たい微笑みを浮かべた。

「結構よ。あなたには、私が心から望むものなど叶えようがないもの」

「……何だと? この王を愚弄するつもりか?」

「王さま、あなたはとっくの昔に死んでいるの。この剣で背中から心臓をひと突きにされて……覚えていないの?」


 青い宝玉が光る剣の柄を撫でながら、治癒師の娘はノイシュの魂が死の瞬間を思い出して震えるのを見て取った。

「一瞬で命を奪われたのかしら? でなければ苦しんだでしょうね......息が止まる瞬間まで恐ろしいほどの痛みにのたうち回りながら」

 ノイシュは困惑の色も露わに、左胸をまさぐった。

「ああ、その瞬間を覚えているのね? そうよ、あなたはもう、この世界のものではないの。この世界に属するものを望んではいけないのよ。未練がましい欲望は捨てて、泉の精霊から奪った『心』を……誰かを想う純粋な気持ちを返してあげて」

 それが、全てを癒す泉の聖なる力だから。

 「角の王の森」に棲む全てのものをいつくしむ精霊の心こそが、泉を聖なるものへと変える力なのだから。

 

 ノイシュの左胸から、突然、闇のように暗い血がほとばしった。苦しそうに咳き込むと、ぼたり、ぼたり、と口元から血が滴り落ちる。

「ああ、もう時間がないわね。早くしないと心臓の鼓動が止まってしまうわ。さあ、行きなさい。ノイシュ王、『癒しの泉』はすぐそこよ。泉の精霊があなたを待っているわ」

 ファランはもう一度、結界の方を振り返って泉の精霊を指差すと、「さあ 、早く」と愚かな王の魂を急き立てた。



 再び、王の魂は、ふらり、ふらり、と結界に向かって歩き出した。傍らの娘が差し出した長剣には目もくれずに。

 その視線の先に映るのは、かつて命を救ってくれた精霊が両腕を大きく広げて待つ姿。

「ああ、そうだ……泉の精霊よ、清く優しい乙女よ。必ず、あなたの元に戻ると私は誓った……」



***



 リアナンは、こちらに向かって歩いて来る愛しい王の姿を目にして、喜びに打ち震えた。

『ああ、ノイシュ、戻って来てくれた......これからは、ずっと一緒に』

 悲しみで編み上げられた炎が大きく揺らぎ、その勢いを失い始めると、青白い結界が少しずつ崩れ始めた。



 戦士の魂と対峙するファランを見守っていたシグリドは、娘が無事であるのを確かめると、結界を前にして立ち止まった男に意識を向けた。

 その緑色の瞳はぎらぎらと輝き、暗闇で獲物を探す妖獣を思わせた 。その視線の先にいる精霊の姿を目にして、シグリドは息を呑んだ。


 蛇のような鱗に覆われていたはずの身体は愛しい男への想いで染め上げられ、ほんのりとくれないを帯びた美しい花の色に変わっていた。凍える氷を思わせた髪も、清らかな水の青に溶けて変わり、身体を伝って輝きながら背中へと流れ落ちる。

 泉の精霊の中で、明らかに何かが変わり始めていた。

『ほお、こちらの「呪願かしり」は己の力で解けそうだな。それでこそ「癒しの泉」の精霊と言うものだ』

 パルヴィーズの肩に止まったまま、事の成り行きを遠巻きに眺めていた銀色の鴉は、赤い巻毛の娘が「角の王」を従えて黒髪の傭兵の元へと急ぐ姿を面白そうに眺めていた。



 ファランは、結界の前でくすぶる炎に行く手を阻まれた王の魂を横目に、驚きの表情で泉の精霊を見つめているシグリドのそばに駆け寄ると、祈るように語りかけた。

「泉の精霊よ、ノイシュ王があなたの元に戻ったわ。どうか、私の愛する戦士をあなたの結界から解き放って」

 リアナンは結界を挟んで寄り添う二人の姿をしばらく見つめると、ゆらりと結界を指差し、優しさに満ちた瞳を黒髪の火竜に向けて静かに告げた。

『戦士よ、あなたを待つ乙女の元へ、お行きなさい』

 

 治癒師の娘が恐れることなく青白い炎に触れたのを思い出しながら、己だけを見つめる青灰色の瞳を信じて、シグリドはゆっくりと手を伸ばして結界に触れた。燃立つ炎は冷たい輝きとなってシグリドの周りを優しく揺蕩たゆたうと、やがて、静かに若者を手離した。

 

 胸の中に飛び込んで来たファランをしっかりと抱き留めると、火竜の若者は小さな身体を両腕で包み込んで、赤い巻毛に顔を埋めた。

 いつまでも離れようとしない二人の足元に座り込んで、グラムが大きなあくびをした。



 黒髪の若者が何事もなく炎の結界を越えるのを目にして、ノイシュはぎらぎらと異様に光る瞳でリアナンを見据えた。

「泉の精霊よ、誓い通り、あなたの元に戻った私の命を救ってくれ」

 リアナンは、疑いようもない愛情に包まれた恋人達の横で、飢えに喘ぐ妖獣のような気配をまとった王の魂に違和感を覚えた。


 ……これは、本当に私が愛した若者なのかしら?


『ノイシュ……本当にあなたなの?』

 美しい水色の薄衣をまとった精霊は、さらさらと衣摺れの音を立てながら、言い知れぬ不安を胸に、自分が愛したはずの男のそばへ歩み寄った。再び、結界の炎が大きく揺らぎ始める。 

 ノイシュは左胸から流れ出る闇色の血を両手で押さえながら、苦しそうに精霊を見つめた。

「ああ、泉の精霊よ、麗しき乙女よ。さあ、早く私を救ってくれ」

 獣のような冷たい瞳に見つめられて、リアナンは身震いした。


 ……これが、本当に私が待ち続けていた人なの?


 結界の向こう側で、火竜の傭兵の腕に抱かれた治癒師の娘が、静かに祈るような声でリアナンに語りかけた。

「泉の精霊よ、思い出して。惜しみなく全てを与えたあなたの愛を、ノイシュ王は全てを投げ打ってまで掴み取ろうとはしなかった。人の世のしがらみに絡みとられ、欲に溺れ、あなたを忘れた……それが、本当にあなたを愛する人の姿なのかしら?」


 本当に私を愛する人……?


 リアナンは目の前にいる息も絶え絶えの壮年の男を見つめると、震えながら後ずさりした。


 違う、この人は……

 私を愛してなどいなかった。

『愛している』

 そうささやくのは、いつも私。この人が私にそう告げたことなど、一度もなかった。

 ただの一度も......


『リアナン、どうか私と共に……あなたの癒しの力を持ってすれば、我が王国も潤うでしょう』

 ……ノイシュ。あなたが欲したのは私ではなく、「癒しの泉」の力だけ。


 ああ、私はなんと愚かな……!



 ノイシュは血塗れの手を伸ばし、唸り声を上げながら精霊を睨みつけると、心を持たぬ亡者のように恐ろしい叫び声を上げた。

「何を迷っているのだ? 泉の精霊よ、さあ、早く……我の命を救え! あの時のようにお前を抱きさえすれば、この傷も癒されるのだろう? ならば、いくらでも抱いてやる。人外のものと交わるなど身の毛もよだつ行為だが、お前の力を手に入れさえすれば、永遠に生き続ける事が叶うのだ……永遠の王だ!」

 くくっ、と不気味にわらいながら、ノイシュは血に染まった両手をリアナンに差し伸べた。

「我が王国は誰にも渡さぬ……王国は我の手にこそ相応しい。誰にも渡すものか、絶対に……そのために、おまえの『癒しの力』を……お前の全てを、我に与えよ!」



 狂気に駆られたまま、ノイシュは炎の結界に飛び込んだ。

 その瞬間、その魂は青白い炎に包まれて燃え上がった。


 泉の精霊の結界は、愚かな王の魂を呑み込む浄化の炎となって、断末魔の叫びと共に全てを焼き尽くしながら、静かに崩れ落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る