報われぬ想い

 「角の王」が見せた幻は、泉の精霊のあまりにも悲しい運命を物語っていた。



 ただ愛する人に触れていたい。それだけなのに……その思いを術師に利用され、力を奪われ、闇に堕ちてしまうなんて。

 そんなの、酷すぎるわ。


 ファランは涙が止まらなかった。

 この森に入る前に感じた「ほころび」と森の奥から聴こえた声は、おそらく泉の精霊のものだったのだろう。

『街道を離れてはいけない、その先には悲しみしか待っていないのだから』


 心優しき精霊は、己の心が少しずつ魔にむしばまれている今この時でさえ、この森を通るものを守ろうとしている。


 救うべき清らかな心が残っているうちに、完全に妖魔に成り果ててしまう前に……今ならまだ、間に合うわ。


「角の王さま、あなたが私を連れて行こうとしているのは、泉の精霊のところね?」

 角山羊マーコールは湿った鼻先をファランの頬に撫でつけた。その瞬間、「角の王」が心の奥底に隠し続けた想いが、ファランの心の中に流れ込んできた。


 ……ああ、そうだったのね。


 「蛇の妖魔」の噂を聞いて森に入った妖獣狩人達を相手に、危険を承知で一人で闘い怪我を負ってしまったのも、聖なる力を失った精霊をこの森に留め置いたのも、ただ、愛するものを守り続けたいと願ったから。

 自分の想いは報われないと知りながら、愛しい精霊が魔に堕ちていくのを見守り続ける苦しみは、あまりにも耐え難かったから。

「だから、私を呼んだのね?」

 ファランの頭の中で、低く優しい声が響いた。

『風の精霊が噂していた。癒しを必要とするもの達に、惜しみなくその手を差し伸べる治癒師がいる、と』


 にっこりと微笑んだ治癒師の娘の赤い巻毛を、森を駆け抜ける風が、ふわりと優しく揺らした。



***



「ああ、思い出しました!」

 パルヴィーズが唐突に声を上げて、結界の向こう側にいるシグリドに近づいた。

「かつての七王国のひとつ、『太陽をほふる竜』の紋章を掲げた王国カリュオン。その最後の王の名がノイシュです。父王はスェヴェリス攻略に携わった七王の一人です」


 泉の精霊が待ち続けている「ノイシュ」がその王だとすれば、おそらく、あの長剣の持ち主も……シグリドが考え込むのをよそに、語り部は歌うように言葉を続けた。

「ノイシュは英雄とうたわれた父王と違い、自国の民を顧みず、殺戮を繰り返す愚王だったようですね。王座を奪おうとした弟と息子達を自らの手で殺害し、反乱軍との戦いで命を落とした……今から九十年程前の事です。まあ、悪評高い亡国の王の逸話には尾ひれがつくのが普通ですけれど」

 王座に固執した残忍な王。

 その剣が見せた幻の戦場。

 あの時、確かに戦士は言った……誰にも渡しはしない、王国は自分のものだ、と。


 あれがノイシュ王だとしたら、なぜこの森の中で彼の剣が朽ち果てている?


『ノイシュ……私のノイシュ、戻って来てくれたのね』

 蛇の女がシグリドを見つめながら、愛しそうにささやいた。狂気に囚われた精霊が愛した男は、とっくの昔に命尽きたというのに。



「シグリド……? ああ、やっぱり……シグリド!」

 遠くで名を呼ばれた気がして振り返ると、森を抜けて小さな娘がこちらに駆けて来るのが見えた。赤い巻毛がふわふわと風に揺れている。

「ファラン!」


 ああ、走るな、危なっかしい……!


 シグリドは心配そうに娘を見守りながらも、安堵のため息をついた。そんな黒髪の火竜の様子を見て、ふふっと嬉しそうにパルヴィーズが微笑んだ。


 ファランはパルヴィーズの隣にいる有翼の蛇グィベルを見て、一瞬、凍りついたように立ち止まった。「狭間」を通り抜ける際、異形の妖魔や妖獣を目にしてはいたが、さすがに目の前の聖魔の存在感に圧倒されたらしい。

 見かねたパルヴィーズが、前に進み出て手招きする。

「大丈夫ですよ、ファラン。この御方は、シグリドを守護する聖魔のヤムリカ。聖魔よ、この娘は……」

『天竜の娘、お前の眼にあの結界はどのように映っている?』


 ……天竜の娘? それって私のこと?


 ファランは青灰色の瞳をくるくると動かして、虹色に光る美しい妖魔と目の前に広がる青白い炎の障壁を交互に見つめた。

「もしかして……シグリド、閉じ込められているの?」

『案ずるな、火竜の子は無事だ。娘よ、あまり結界の炎に近づくでない』

 心配性の聖魔が小さな娘を守ろうと、すぐさま、そばに寄り添うのをよそに、シグリドは「心配するな。少なくとも、性悪な妖魔の結界に閉じ込められているわけじゃない」と皮肉めいた視線を銀灰色の鴉アプサリスに向けた。アプサリスはグラムの頭の上に止まったまま、悠々と毛づくろいにいそしんでいる。

 ヤムリカの背後に大きな赤褐色の獣がゆっくりと近付いて、おごそかにこうべを垂れる。


 ファランは揺らめく青白い結界を不思議そうに見つめながら、ゆっくりと左腕を差し伸ばした。腕輪にはめ込まれた青い石が、炎に照らし出されてきらめいている。


 ……なんて悲しい炎なの。



 結界を編みあげているのは、愛しい人への尽きぬ想い。

 報われぬ想いに張り裂けそうな心が流した涙。 

 忘れようとしても諦めきれず燃え続ける情念の炎。

『ああ、このまま闇に堕ちてしまえれば……全てを忘れてしまえれば……』

 悲哀に満ちた声が、ファランの心に響いた。


 駄目よ、そんなの、悲しすぎるわ……


 ファランの眼から、ぽろぽろ、と涙がこぼれ落ちた。

「ファラン……ファラン!」

 シグリドは結界越しに、泣きながら立ち尽くす愛しい娘の名を呼び続けた。

 抱きしめてやりたいのに、結界に阻まれて触れることすら出来なくて歯痒さを感じた。

「ファラン、気をつけろ。結界には触れるなよ」

「……え? ああ、心配しないで。シグリド、あなたは大丈夫なのね?」

 ファランはみどり色の瞳を真っ直ぐ見つめて微笑むと、沼のほとりにいる女に視線を移した。

「あれが……泉の精霊なの?」


 蛇の女は、結界越しにシグリドの後ろに立っている巻毛の娘を見るなり、鋭い悲鳴を上げた。

『なぜ、お前がここに居る? ああ、駄目よ……ノイシュから離れて! 所詮は人の子の欲望が生み出した愚かな契約によって結ばれた絆だ。王妃などと……あの人の伴侶などとは、形ばかり。……その人の心は、私のもの』

 金色の瞳の奥で、嫉妬の炎が燃え上がった。

 女は傷ついた肩をかばいながら、鉤爪を地面に突き立てて、ずるり、ずるりと沼から這い出そうとする。が、またも牙を剥き出して威嚇するグラムに阻まれて、動きを止めた。


「ねえ、シグリド、泉の精霊はあなたの事をノイシュ王だと思っているの?」

「そうらしいな。迷惑な話だが」

 狂気に囚われた精霊の結界に閉じ込められ、少し不機嫌そうな黒髪の火竜に見つめられて、ファランの鼓動が高鳴った。


 ああ、どうしよう……私、本当にこの人が好きなんだわ。

 こんなにも近くにいるのに、触れる事さえ出来ないなんて……いつものように抱きしめて欲しいのに。


 頰を紅く染めながら、小さな治癒師はもう一度、泉の精霊に視線を戻した。

 こちらを睨みつけている精霊の中にある「ほころび」を感じ取り、それが編みあげた悲しい結界に手を伸ばし、迷うことなく炎に触れる……が、瞬く間に、青白い炎がファランを覆い尽くした。

 「ファラン!」

 シグリドが悲鳴に近い声で、娘の名を呼んだ。


 愛する娘が結界の炎に焼き尽くされてしまう……!



 炎に包まれたまま、ファランは左腕の腕輪が、からり、と音を立てるのを聞いた。そこにめられた石が青い輝きを放っている。

 精霊の結界の炎に覆われてたはずの身体は、朝露のように輝く不思議な光に包まれていた。「狭間」を通り抜ける度に、優しく包み込んでくれるものと同じ、輝く光のもやだった。

 安堵したように、ほおっと吐息を漏らすと、ファランは精霊の金色の瞳を真っすぐに覗き込んで、治癒師の声で静かに語りかけた。

「泉の精霊よ、あなたの心が痛がっているわ。愛する人をただ想い続けて、報われない想いに傷ついて、悲しみに包まれて……それでもまだ待ち続けているのね。でも、あなたを心から愛する人は、本当にあなたが待っている人なのかしら?」


 精霊が金色の瞳を大きく見開いて、髪の娘を見つめ返した。

『私を心から愛する人……それがノイシュではないとでも言いたいの? 人の子よ、お前に何が分かると言うの』

「分かるわ、愛しい人を想う心は隠しようがないもの」

 自信に満ちた表情で祈るように告げると、ファランは結界に触れていた手をそっと離した。



 シグリドの目の前で、娘の身体を覆っていた光の靄が少しずつ薄れて消えた。

「ファラン、お前……無事なのか?」

「そんな顔しないで、シグリド。私は大丈夫だから」

 いつもの冷静さを欠いた黒髪の青年の様子に、ファランは少し驚いた。その後ろで、パルヴィーズが苦笑している。

「奥方が心配なのは分かりますが……シグリド、自分の心配もした方が良いのではありませんか? あなたは結界に閉じ込められたままなのですよ」

 分かっている、と言いながら、シグリドは結界を挟んでファランの前に立った。まるで精霊の視線からかばうかのように。

「ファラン、お前、何を見た?」

 何をと言われても……と娘は少し口ごもった。「角の王」が見せてくれた悲しい恋物語と、眼の前の青白い情念の炎。そして泉の精霊の嘆き。 

「泉の精霊は、ここでずっとノイシュ王を待ち続けているの。愛する人を想う気持ちを女術師に利用されて『聖なる泉の力』を奪われてしまったのに……心が闇に堕ちても、それでもまだ、待ち続けているの。精霊の心の痛みが編み出したのが、この結界よ」

 まったく、女というのは厄介だな。自分の想いなど、心の奥底にしまい込んでおけば良いものを……シグリドは眉をひそめた。

 

「シグリド、結界を解かないと。精霊の心の痛みはノイシュ王への愛よ。もう一度、王に逢う事が出来れば……」

「とっくの昔に『果ての世界』に旅立った王を、ここへ連れて来いとでも?」

「え? そうなの?」

 ファランが驚いて小さく息を呑んだ。

「まだ生きていらっしゃるとばかり思っていたから……ああ、どうしたら良いの?」


 

『ノイシュ、あなたが戻って来なかったから……』


 例えば、あの長剣の持ち主がノイシュ王だとしたら。戦場で深手を負いながらも、息が絶えるその瞬間まで、愛する女の元に戻ろうとしていたのなら……?


「ファラン、頼みがある」

 首を少し傾げながら、青灰色の瞳がこちらを見つめている。

「ここに来る前に、ツタに覆われた古い長剣を見つけた。それを探して持ってきてくれないか」

「……シグリド、私、また迷うかも」


 ああ、そうだった。やたらと迷子になりやすい娘に、森の中に戻って探し物を見つけてくれ、などとは無謀だったな……


 ふと、グラムの頭に止まって毛づくろいをしている銀色の鴉が目に入った。

「アプサリス、お前、森の中に居た俺を見ていたのだろう?」

『……だったら何だ?』

 ただの白子アルビノの鴉だと思っていたものが、表情豊かにシグリドに話しかけるのを見て、ファランは驚いた。

「ファランをあの長剣の所まで連れて行ってくれ」

『……火竜の子、本気で我を怒らせたいのか?』

 銀色の鴉はシグリドの頭に飛び乗ると、黒髪をくしゃくしゃとつつきまわした。シグリドが邪魔そうに手で払い除けようとするのを、上手にかわす。

「聖魔を使い魔代わりにするな、精霊に手出しをするな、と言うのだろう。そうだな……パルヴィーズとの契約を反故ほごにしてやっても良いんだぞ。『火竜』以上の護衛が見つかれば良いがな」

 それは困ります、と言う顔をして金色の髪の貴人が祈るようにアプサリスを見つめた。


『……まったく。シグリド、お前の竜紋の石を我に貸せ』

 そう言うと、くちばしでシグリドの上衣の下から首飾りを引っ張り出そうとする。黒髪の火竜は明らさまに嫌そうな顔をしながらも、青い石の光る首飾りを鴉の首にしっかりとくくり付けてやった。

天竜ラスエルよ、これでお前も共犯だな』

 ファランは銀色の鳥が、にやり、とわらうのを見たような気がした。

 鴉は、くわあっと大きく一声鳴いて宙に舞い、揺らいだ空間の中に飛び込んだかと思うと、次の瞬間、ファランの肩の上に舞い降りた。

『天竜の娘、我の気が変わらぬうちに行くぞ。獣の王よ、お前も一緒に来い』


 ヤムリカの後ろに佇んでいた大きな角山羊マーコールがゆっくりと歩み寄ると、銀色の鴉は娘の赤い巻毛をくちばしで引っ張りながら、森の中へといざなって行った。

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