精霊の恋

『リアナン、シグリドを離せ!』

 ヤムリカが鋭い叫び声を上げた。


 蛇の女がシグリドの首を締め上げる手に一層力を込めると、火竜の若者の口元から苦しげなあえぎ声が漏れる……が、次の瞬間、ぎゃあっと叫んで女が手を離した。

 あるじを助けようとグラムが精霊に飛びつき、鋭い牙を深々と肩に突き立てて地面に抑え込んでいる。激しく咳き込みながら、シグリドは素早く立ち上がった。


 ああ、くそっ……何て力だ。危うく絞め殺されるところだった。

 これでもまだ手を出すなと言うのか?


「グラム、戻れ!」

 黒豹が不服そうにシグリドをちらりと見た。精霊の肩からは沼の水にも似た緑色の血が流れ出ている。

「離してやれ、グラム。狂った女の血肉など、美味いものではないだろう?」

 黒い獣は、ふんっと鼻を鳴らして女を離し、主の元へ戻ってその脚に頭をこすりつけた。シグリドが頭を撫でてやると、嬉しそうにぐるぐると喉を鳴らす。


 己の子を傷つけられて怒り狂う獣のように、「有翼の蛇グィベル」が沼のほとりに倒れこんだ蛇の女を恐ろしい表情で睨みつけた。

『どうした、リアナン、聖なる泉の精霊よ。己の傷も癒せぬほど堕ち果てたか?』

 女は苦しそうに肩を押さえながら、痛みに歪んだ顔を上げた。

『ああ、痛い……痛い……あの日から、私の心はずっと血の涙を流し続けている……この泉も、「角の王」の慈悲さえも、私の心を癒せなかった……ああ、ノイシュ……あなたが戻って来なかったから!』



***



「見せてやろう。お前が恋い焦がれ、待ち続けている男の姿を」

 女術師はそう言って、清らかに澄んだ泉の水面をそっと撫でた。



 ゆらゆらと揺れる水鏡に映ったのは、リアナンが覚えているよりも歳を重ねた金色の髪の男。頭上に王の頭環サークレットが輝き、自信に満ちた緑色の瞳が見つめているのは……

「愛らしい娘ではないか。隣国の王女だとか。政略結婚とは言え、可憐な処女おとめを前に、歴戦の雄であるノイシュ王も男の本能がうずいたであろう」

 王の傍にたたずむのは、幼さを残した波打つ赤銅色の髪の可憐な姫。二人の手が触れ合うと、やがて情欲の嵐に溺れるねやでの姿が水面に映し出された……



 流れる水の如く輝く髪を水面に浮かべ、水鏡を見つめていた美しい精霊は、引き裂かれそうな心を抑え込んで静かにささやいた。

『所詮は人の子であったという事。自分が居るべき世界にあの方は帰って行った。ただそれだけ』


 分かっていた。人間の心など、移ろいやすくはかないもの。「角の王」が言ったように、初めから人の子などに関わるべきではなかったのだ。

 けれど……


 あの日。身体中に刀傷を負い、息も絶え絶えに泉に辿り着いた年若い戦士を放ってはおけなかった。人の世で繰り広げられる戦さなど、リアナンには関わりも無いはずだったのに。

 「角の王の森」に棲む獣達の傷を癒す泉の水は、人の子の傷も癒す事が出来る。放っておけば、この若者は死んでしまうだろう……心優しい精霊は、傷ついた身体にまだ温もりがある事を確かめると、泉の水をそっと流し掛けた。戦士の身体を洗い清めると、見る間に傷口が塞がっていった。

 若者がゆっくりと目を開け、精霊に手を差しのばした。

 リアナンは震える手を優しく握りしめた。



 傷が癒えた後も、戦士は泉を離れようとはしなかった。ノイシュと名乗った若者は、父王の領土を守る戦いの最中、敵兵に襲われこの森に逃げ込んだのだと言う。

『ならばお父上はさぞや心配されているでしょう。ノイシュ、人の世にお戻りなさい』

「リアナン、どうか私と共に来て下さい。私の妻として……あなたの癒しの力を持ってすれば、我が王国も潤うでしょう」

 リアナンは寂しげに首を横に振った。

『私はこの泉の精霊です。ここから離れて生きては行きません』

「……リアナン、私もあなたから離れて生きては行けない」

 ノイシュは逞しい腕で精霊を抱きしめると、激しく唇を奪った。清らかな乙女は心を揺るがせながらも若者を受け入れ、二人は泉のほとりの木陰で愛し合った。精霊は汚れなき心で、初めて知った悦びが永遠に続くと信じた。

 馬に乗った二人の戦士が、父王の訃報と新王の頭環サークレットを携えて、若者を迎えに森に分け入るまでは。



「必ず戻ります、待っていて下さい。王座など弟にくれてやります」

『お元気で、ノイシュ』

「……それだけですか? あなたは私の側にいることを望んではくれないのですか? 私に戻れと言ってはくれないのですか?」

『ノイシュ、あなたを……愛しています。だからこそ、あなたはここに戻るべきではないのです』

 一国の王が人の世を捨て、泉のほとりで朽ち果てるなどあってはならない。それは自然の摂理を曲げる事。精霊である私には許されぬ事。

「リアナン。あなたは私のものだ、誰にも渡さない……誓いましょう。必ず戻って、あなたをさらってでも王国に連れ帰ります。待っていて下さい」





『……でも、あなたは戻って来なかった。あの小娘だけでは飽き足らず、多くの醜い人間の女どもをはらませて、誓いなど忘れ、私の事も忘れてしまった』


 女が語ったのは精霊と人の子の恋物語のはずだった。しかし、それはあまりにも深く悲しい情念にむしばまれていた。

 たった一人を想いながら待ち続ける苦しみは、シグリドには痛いほど分かる。だが、清らかな心を持つ精霊をここまで追い詰め、一度は諦めようとした恋慕の情を深い怨念に変えてしまったのは……


 女術師。

 リアナンはそう言った。


 ……ザラシュトラだ。


 シグリドの本能がそう告げた。

「スェヴェリスの巫女はお前に何をしたんだ?」

 蛇の女が、ぴくり、と肩を震わせた。ヤムリカが困惑の色も露わにシグリドに視線を向ける。

『火竜の子よ、何を言っている? スェヴェリスの巫女とは……あの女術師か?』

「聖魔はなんでもお見通しではなかったのか、ヤムリカ?」

『我が幼な子の中で眠りについたのは百年以上も前の事だ。その後に起きた事など知る訳がない』


 ああ、そうか。ディーネの中で眠っていた聖魔の魂の記憶は、その時点で止まっているのか。


 ヤムリカはこの場所が「癒しの泉」で、リアナンが泉の精霊だと言う事を覚えていた。だから、変わり果てた姿を見て憐れんでいたのだろう。愛情深い有翼の蛇グィベルらしい。


 これがアプサリスならば……


『我ならば何だ、火竜の子?』

 突然、銀灰色の鴉に頭をつつかれ、シグリドは呆気に取られた。

「……お前、どうやって結界を抜けた?」

『簡単な事。精霊の結界はそこに棲むものを阻まぬからな。それ、そこに眠っている森の鴉の体を借りたのだ。これ、ヴォーデグラム、餌ではないぞ。離してやれ』

 グラムは気を失って倒れている小さな鴉を前脚でもてあそんでいた。

 聖魔は哀れな鴉を、ひょい、とくちばしでつまみ上げると、結界の外に放り投げた。地面に放り出された鴉は何度も首を傾げ、辺りをきょろきょろ見回すと、逃げるように森の奥へと飛び去って行った。


 アプサリスはシグリドの肩に飛び乗って、泉の精霊に視線を向けた。

『愚かしい。つまらぬ男のために魔に堕ちるとは。蛇の妖魔、しかも水辺に縛られた蛇とは……情欲の炎に焼かれたか』

 誇り高き聖魔らしい言い草だ。アプサリスがここに居ると言う事は……シグリドは沼の反対側のほとりに立っているパルヴィーズと二頭の馬を見つけた。

「パルヴィーズ、なぜそんな所にいる?」

 パルヴィーズは聖なる蛇と精霊を見つめながら、おずおずと口を開いた。

「どうも私は蛇が苦手で……」

『アプサリスを手玉に取る男が、なんとも情けない』

 ヤムリカが銀色の鴉を見つめながら、意地悪な微笑みを浮かべた。鴉は、くわっ、と嘲笑うように鳴くと、黒髪の火竜の頭に飛び移る。

『精霊ごときの結界に囚われた愛し子を前に、手をこまねいているとは情けないことだな、ヤムリカ』


 また始まった、と呆れた顔をして、シグリドは鴉を追い払おうと手を伸ばした。

「こっちに来い、パルヴィーズ。聴きたい事がある」

 なおも動こうとしないパルヴィーズを前に、シグリドは黒髪をつつきまわす銀色の鴉のくちばしを、ぐっ、と掴んで素早く引きずり降ろすと、容赦なく地面に押さえつけた。

「来なければ、本当にこいつを叩き斬るぞ」

 さすがのパルヴィーズもこれには慌てたようで、あっという間に近くにやって来た。

「……で、聴きたい事とは何でしょう?」 

「過去百年の間で、ノイシュと言う名の王を知っているか? 父王が死んだ後、若くして王位を継いだ……いや、弟に王座を譲ったかもしれん。一族の紋章は『太陽を喰らう蛇』だ」

 そう言って、目にした紋章を地面に描いてみせた。パルヴィーズはそれを見つめたまま首を傾げた。

「蛇、ですか? 変わった紋章ですね。ノイシュ王……どこかで聴いた事があるような」

 ぶつぶつと考え込む金色の髪の貴人を、ヤムリカは胡散臭うさんくさそうに見つめている。この二人はどうやら面識があるようだ。


「アプサリス。お前、リアナンの事を知っていて、わざと俺を森の中に翔ばしたな?」

 シグリドの肩からグラムの頭上に飛び移った銀色の鴉は、興味なさそうに毛づくろいを始めた。

「俺が結界に囚われたのを見計らって、ここに来たのだろう? パルヴィーズは置いていけと言っておきながら、あいつも一緒に連れて来た。もう、泉の精霊があいつに手出しをする心配もないからな」

 銀色の鴉が、にやり、とわらったような気がした。

「アプサリス、知っている事を全て話せ」


 くわっ、と大きく一鳴きして、鴉がシグリドの肩に舞い戻る。

『では、火竜の子よ、謎掛けといこうか』



***



 水鏡を見つめる精霊の心に恋慕の炎が再び燃え上がるのを、女術師は見逃さなかった。

「愛しい男に逢いたくはないか? 私なら、お前をこの森から出してやれるぞ」

 リアナンの金色の瞳に光が増した。

『……どうやって?』

「簡単な事だ、私の身体を使えば良い。どこにでも行ける人間の身体をな」

『そんな事が……?』

「出来る。代わりに泉の力を少々拝借するが?」

『ああ、ノイシュ……私はどうしたら……』 

 

 女術師は凍てつくような眼差しで、美しい乙女の姿を見つめていた。

 愚かしい。精霊の身でありながら人の子との情欲に溺れるとは。

「清らかな乙女」は欲深い人間の男によって凌辱され、その身を汚した。「聖なる力」を持つに値せぬけがれた精霊からその力を奪うなど、なんとも容易たやすい事。

 こちらが手を下さずとも、自ら堕ちて行くのを待っていれば良いのだ。


「精霊よ、愛しい男を取り戻したくはないか? もう一度、その腕に抱かれたくはないか?」

 泉のほとりで愛し合った日々を思い出し、精霊の心はよろこびに震えた。


 ああ、ノイシュ……もう一度、その腕の中に。


『いいわ。あなたの言う通りに』


 では、堕ちて行け。情欲の炎に身を焦がすが良い……




 女の鋭い悲鳴が森に響き渡った。


 悲鳴は少しずつ小さくなり、すすり泣きへと変わっていった。泣き声は「癒しの泉」の方から風に乗って聴こえてくる。

 「角の王」は嫌な予感がした。

 泉に棲むのは心優しく美しい精霊。さては、リアナンの身に何事かあったのか?

 「角の王の森」に棲む獣達が、森の中を全力で駆け抜ける王の姿を見たのは、これが初めてだった。



 下草を踏む音がする方に女術師が顔を向けると、木々の間から大きな角山羊マーコールが現れた。

『術師よ、立ち去れ。忌まわしい術を私の森に持ち込むな』

「これはこれは、高潔なる獣の王。忌まわしいなどと……私はただ、泉の精霊の願いを叶えたまで」

 角山羊マーコールは前足を高く蹴りあげていなないた。大きな体が一層大きく見え、女術師はぞくり、と身体を震わせた。

 泉のほとりに倒れ込んでいる精霊の姿を認めて、獣の王は怒りの声を上げた。

『リアナンに何をした?』


 美しかった身体は色を失い、青白い鱗に覆われているのが見てとれた。輝く水色の髪も氷のような白さに変わり、かつて獣の王の毛皮を優しく撫でた細い指には鋭い爪が生えている。ゆっくりと顔を上げた「それ」は、もはや「角の王」が見知った泉の精霊ではなかった。

 リアナンは泉に映った自分の姿に再び悲鳴を上げると、水面をばしゃばしゃと両手で叩き始めた。泉の水が少しずつ濁っていく。

『ああ、ノイシュ……どうしてこんな事に……ああ、ノイシュ……あなたが欲しいと願っただけなのに』

 その一言で全てを悟った「角の王」は女術師に駆け寄ると、捻じれた角でその身体を深々と突き刺した。ぐあっ、と言う喘ぎ声と共に、女術師の口から血が飛び散る。 


 くくっ、と耳障りなわらい声を上げながら、女術師は己の身体を貫いている捻じれた角をぐっと掴み、そのままじりじりと後ろに後ずさって角から完全に身体を引き抜くと、何事も無かったように獣の王を見つめた。

「……なるほど。これが『聖なる泉』の力か」


 何故だ? この角は確かに女術師の血肉を貫いたはず……獣の王は混乱しながら金色の瞳で女術師を睨みつけた。

『リアナンの、泉の力を奪ったのか?』


 だが、どうやって? 精霊の持つ力は自然が与える力だ。

 術師ごときが奪えるものではない。なのに……?


「スェヴェリスの巫女に自然の摂理など無用だ。その女は自ら魔に堕ち、聖なる力を手放したのだよ」 

 ザラシュトラは不気味な微笑みを浮かべると、歪んだ空間に消えた。

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