火竜の谷
ぼんやりとする意識の中で、
『火竜の子、ここで良いか?』
ヤムリカが降り立ったのは、蒼の森を抜けた「谷」の入り口だった。聖魔はシグリドをゆっくりと地面に下ろすと、空を仰いで不快そうにため息をついた。
『群れておるな……結界が破られるのも時間の問題であろう』
「
あの状態で、レンオアムダールを守る結界はどれだけ持ちこたえられるのだろう……ヤムリカの言う通りだ。「谷」がアンパヴァールの街に起きたと同じ悲劇に見舞われるのは、時間の問題だ。急がなければ。
『火竜の子、我はこれ以上は行けぬ。人の世の争いごとに手を貸すことは許されぬのだよ』
もとより、ディーネによく似た心優しい聖魔に助けを求めるつもりなど、シグリドには毛頭なかった。
虹色の鱗が輝く柔らかな身体をゆっくりと撫でると、ヤムリカは嬉しそうに目を細めて、真珠色に光る羽根で覆われた尾をシグリドの身体にやんわりと巻きつけた。
「聖なる蛇よ、世話になった。あなたは大丈夫なのか? ディーネがいなくなったのに……」
ヤムリカは少し寂しそうに微笑んだまま、小さな子供をあやすかのようにシグリドの頬を両手で
『お前を見守ることで、我の孤独も癒されよう。火竜の子シグリドよ、我が名はヤムリカ。覚えておけ』
そう言って、夕闇の中にすうっと消え入った。
痛む身体を引きずるようにして、シグリドは「谷」の奥へと進み続けた。
居住区のある平坦な囲い地では、既に異変に気付いた術師や火竜の戦士達が、上空を見つめながら忙しく動き回っていた。シグリドに気づいた何人かが、はっと口を覆って立ち
武装した戦士達の中に、アンパヴァールで出会った西の火竜と一緒にいるアスランの姿を見つけて、シグリドの胸に熱いものが込み上げてきた。
ああ、生きていてくれた……
ふと、アスランがこちらに目を向けた。一瞬、訝し気に眉をひそめた男の表情が、見る間に驚愕と喜びに変わる。
「ああ、まさか……シグリド! お前、生きていたのか!」
そう叫ぶと同時に駆け寄って、シグリドを羽交い締めにするように強く抱きしめ、いつものように黒髪をぐしゃぐしゃと撫で回す。
「いい加減にしろ、アスラン! 皆が見ている」
「死んだと思っていた息子が生きて帰って来てくれたんだ……誰に何と思われようが構わんさ!」
「……俺はいつから、お前の息子になったんだ?」
はははっ、と嬉しそうな声で笑って、アスランはシグリドの肩をもう一度しっかりと抱きしめた。
「アスラン、傷口が痛むんだが……」
「おっと、悪かったな。しかし、お前、ぼろぼろだなあ。酷くやられたもんだ……おい、誰かこいつに新しい服をやってくれ! 一体、どれだけ妖獣を斬ったんだ? 獣臭くてかなわん。ほら、そこの井戸で水を浴びてこい!」
目まぐるしく
アスランが居てくれて本当に良かったと心の中で感謝しながら、シグリドはしばらくの間、年上の男の好きなようにさせる事にした。シエルを失って以来初めて、少しだけ心の緊張が解けた気がした。
手早く身体の汚れを洗い流し、用意された新しい衣服に着替えると、シグリドは長老と術師達にアンパヴァールの現状とその原因を作った女術師について手短に語った。長老達は何度もため息をつきながら、シグリドの話に聞き入っていた。
「……確かに、聖魔様はその女術師を『スェヴェリスの巫女』と呼んだのじゃな?」
その名を聞いて、長老達は眉をひそめ、術師達は怯えるように顔を見合わせた。アスランでさえ、信じられない、と言う顔でシグリドを見つめている。
「おい、シグリド、本当にあのスェヴェリスか? 百年も前に七王国の王達が根絶やしにしたはずだが……ティシュトリアの歴史書にも『忌むべき妖術使いの王国』は再興出来ぬ程に攻め滅ぼされた、とあった。ザラシュトラのことだ、苦し紛れに虚勢を張ったのかもしれんぞ」
俺に聞くな、と言いたげにシグリドは肩をすくめて見せた。歴史に埋もれた王国など知ったことではない。常に今を生きる「双頭の火竜」にとって、目の前にある現実が全てだった。
「この谷の結界は、あとどれくらい持つ?」
シグリドの問いに、術師達は顔を見合わせると「おそらく、持って一刻」と告げた。
既に、女子供達は地下の抜け道を通って「蒼の森」にある隠れ場所に逃したらしい。今、「谷」に残っているのは長老と術師、火竜の戦士と男達だけだと言う。
しかし、「谷」を捨ててどこに逃げるというのだろう。唯一、共生関係を築いていたアンパヴァールが陥落した今、中立武装都市として他国の干渉を一切許さなかったレンオアムダールに、救いの手を差し伸べるものなど有りはしない。その思いをここにいる全ての者が抱いているだろう事は、シグリドも感じていた。
「とにかく、あれだけの数の妖獣に攻め込まれれば、全滅するのは目に見えている。命あってこそだろう? 今すぐ脱出すべきだ」
アスランの言葉に、長老の一人が重い口を開いた。
「ティシュトリアの戦士よ。あなたがシエルにして下さった恩を、我らは決して忘れまい。だが、あなたまでこの谷と運命を共にすることはない。我らに構わず、行って下され」
「運命を共にするっ……て、まさか、このまま黙って獣達の餌食になるつもりなのか?」
声を荒げたアスランを、シグリドが止めた。
「長老よ、望む者を連れて谷を出ることは許してもらえるか?」
静かに、しかし挑むように問いかける。
「『二つ頭』よ、ここから逃げ出してどこに行くつもりだ? お前達、火竜の戦士ならば傭兵として生きていく道もあろうが、力のない者はどうなる? 我らは逃亡奴隷の成れの果て。ここを出れば、また奴隷に戻るだけのこと。それを望む者がどれだけいるか……」
そんなこと、くそくらえだ……シグリドは心の中で毒づいた。
今の大陸では、奴隷の存在自体、忌み嫌われる因習となりつつある。「谷」で培った知識と技術を持ってすれば、大陸のどこに行っても生きていけるはずなのに。
身分制度という遥か昔の
シグリドは上空に群れている妖獣達に鋭い視線を向けた。
「あれを見ろ! あんな化け物と戦うのは無意味だ。第一、普通の武器では奴らは倒せない。俺と共にこの谷を後にする者はいるか?」
何人かの年若い戦士と術師が、遠慮がちにうなずいた。だが、妻子ある男達は動かなかった。
「長老達よ、望む者を連れていく事を許してくれ。時間がない」
吐き捨てるようにつぶやくと、シグリドは既に必要な荷物をまとめにかかったアスランの方へと足を向けた。
「お前、本当にこれで良いのか? 生まれ故郷を捨てることになるんだぞ?」
アスランがいつになく真剣な表情で問い詰める。シグリドはそれに答えず、「谷」の武器庫に保管しておいたシエルの長剣を持ち出して腰の剣帯に挿し、ヴォーデグラムを背負った。
「お前にしては無難な剣だな。フラムベルクはどうした?」
「……あれは、シエルにしか鍛え治せない」
結局、ロスタルから取り戻す事も出来なかった……シグリドは唇を噛み締めた。
「これからは、どんな鍛冶師でも扱える剣でないとな。シエルが残した剣の中でもこいつは頑丈だから、俺一人でも手入れは出来る」
シエルの亡骸は、アスランと西の火竜が「谷」に連れ帰ってすぐ、慣習に従って術師の浄化の炎の中で
切り立った崖の上に立ち、アスランが大切に持っていてくれた兄の遺灰を谷底に向かって
シグリドの揺り
***
「谷」を出て、アンパヴァールを通らず隣国ヴァリスに入るには、南下して海岸線を東に進むか、「蒼の森」を北上して東に進むしかない。
シグリドは身を隠す場所の少ない海岸線を行く事に反対した。
森には獣や、ともすれば妖獣に遭遇する危険がある。とは言え、「蒼の森」はシグリドにとっては幼いころから親しんだ庭のようなものだ。身を隠す場所に困らない点でも、森を行く方が賢明だろう。
「女子供も森の中に隠れているんだろう? ならば、それが最善だろうな」
いつでも出発できるぞ、と言わんばかりにアスランが荷物を手に、森の方に視線を向けた。
「あ、あの……それなんですが……」
突然、まだ幼さを残す女術師が泣きそうな顔をしてアスランに
「長老の命令で……」
言い終わらぬうちに、泣き崩れて地面にしゃがみ込んでしまう。
「おい、何だ? どうしたんだ?」
アスランは膝をついて少女をなだめるように優しく肩を撫でながら、嫌な予感に襲われた。少女よりも年長の術師が進み出て、代わりに言葉を続ける。
「長老達の命を受けた術師が、女と子供達に同行したのですが……彼らを森の洞窟の奥深くに隠れさせ、永遠の眠りに落ちる術をかけた後、そのまま浄化の炎を洞窟内に放ったそうです。先ほど谷に戻った術師が、そう長老に報告するのを、たまたま聞いてしまって……」
愚か過ぎる。
古い因習に縛られるこの「谷」では、窮地に追いやられた途端、誰もが生きる希望を絶ってしまうらしい。万が一、傭兵などに捕らえられれば、女も子供も関係なく性奴として慰み者にされる事を恐れての事だろうが……人の命を何だと思っているんだ?
そう思った瞬間、シグリドは不思議な感覚に襲われた。命の重みなど考えずに命を奪い続けたはずが、無慈悲に奪われた命を思って怒りに駆られるとは。
『生きることは時に苦しいけれど、絶望に押し潰されず、悲しみに沈まず、真っ直ぐ前を見て……生き抜いて、シグリド』
幼い治癒師の声が、シグリドの心の中に優しく響く。
分かっている、ファラン。
己の命さえ顧みぬ無謀さで恐れられた「二つ頭」の名など、「谷」と共に葬ってしまえばいい。
ヴォーデグラムが、近づく「魔の系譜」の気配を感じ取って、シグリドの背中で、ぶーんと震えた。
「行くぞ。結界が破られる前に、ここを出る」
顔を上げて真っ直ぐ前を向くと、若き火竜は「蒼の森」に続く谷間の道を歩き出した。
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