闇色の剣

「動くなよ、ザラシュトラ」

 シグリドの心臓に向けて振り下ろしたはずの闇色の剣。その切っ先が自分の喉元に充てられている事に気づいて、ザラシュトラは困惑した。何か大きな力が、目の前にいる黒髪の火竜に味方したようだ。捕らえられていたのは自分ではなく、この少年のはずだったのに。

 喉元にちくりと刃が食い込むのを感じて、はあっと息を呑む。この状態で少しでも動けば、喉を掻き切られるか首を刎ねられるかだ。 


 首はまずい、と女術師の心が震えた。

 首を落とされれば、この現し身のうつわに魂が閉じ込められてしまう。この身と共に果ててしまえば、魂は全ての記憶を失い、浄化され、真新しい魂として再びこの世に送り出される日を「魂の安息の地」で微睡まどろみながら待つ事になるのだ。


 ……そんなことがあってはならない。

 この魂は、我が王国の嘆きを記憶をしている。裏切りと殺戮の嵐で踏みにじられた我が王国の怨念を刻み込んでいる。

 浄化などされてたまるものか。

 我が王国に災いなした者達の血筋を根絶やしにするまで、スェヴェリス王家の血を引く我が魂は、人の世に留まり続けなければならない。剣奴の末裔たる火竜ごときに、このザラシュトラが滅ぼされるなど……!

 だが、幸い、ロスタルと違ってこの火竜はまだ年若く、狡猾こうかつさに欠けている。かつてスェヴェリスという名の王国があった事さえ知らぬだろう。

 王国随一とうたわれた術師を敵に回せばどういう事になるか、思い知らせてやろう……


「火竜よ。私をどうしたい?」

 喉元に刃を充てられてなお、臆することなく不気味な笑みを浮かべる女術師に、シグリドは尋常でない空気を感じ取っていた。

「シエルとディーネの命の代価、払ってもらおう」

「なんだ、そんな事か。ひと思いに首をねるか? いや、それでは余りにも呆気ない。では、一本ずつ手足を斬り取っていくのはどうだ? あふれ出る血と耐え難い痛みにもだえ苦しむことになろうが、お前が心配する事でもあるまい。あるいは……」

 罠にかかった獲物を見入るような眼差しをシグリドに向け、薄笑いを浮かべながら、ザラシュトラは空気を震わせる低く冷たい声で告げた。

「この城塞都市と『火竜の谷』に住まう全ての民を道連れに、妖獣どもの餌食となって滅びの道を歩む、というのはどうだ?」

 女術師が言葉を切った途端、地の底から突き上げるような凄まじい獣の咆哮が、薄暗がりの中に響き渡った。



 ……今のは何だ?


 ザラシュトラから眼をそらさずに、シグリドは辺りの気配を伺った。至る所から、獣の唸り声と共に人々の悲鳴が聞こえてくる。

「……お前、何をした?」

 ザラシュトラの口元がゆっくりと歪んだ微笑みを形作る。

「愚かな火竜よ。『戦場で術師をさえずらせるな』と教わらなかったのか? 囚われた術師が舌を切られるのは何故なのか、考えた事はないのか?」


 ああ、くそっ……呪詛だ。一体、いつの間に? 

 いや、饒舌に物語る言葉の端々に、綿密に練り上げられた呪詛の言霊を忍ばせたのだろう……だから術師は苦手なんだ。この女の言う通り、先に舌を切って言葉を封じておくべきだった。



 悲鳴と泣き声、獣の咆哮、流された血の匂い……火竜の「さえずり」がそれらに交じって何度か聴こえて来たが、少しずつ弱々しいささやきへと変わり、やがて、ふつりと消えた。

「この城の主人と貴族どもを斬り刻んで、使い魔達に運ばせた。したたり落ちる血が『狭間』を通って人の世に戻る道標みちしるべとなるようにな。まずは、我が結界を解かれ、丸裸となったアンパヴァールの街へ。そして、レンオアムダールへと続いている……血の匂いに誘われた妖獣どもが、人の世に繋がる『狭間』の出口に一斉に押し寄せると、どうなると思う?」

「『谷』は結界と『蒼の森』に守られている」

「そうであろうな。が、剣奴の末裔の術師など、恐れるに足りぬわ」


 ……そんなことは、言われなくても承知の上だ。


 シグリドは声に出さぬまま、唇を噛んだ。

 怪しげな言葉で人の心を操る妖術師を育むことは、武術や体術の習得を重んじる「谷」の気風に相反するものとして忌避され続けてきた。この女術師の力に敵う者など、「谷」にはいない。


 ふいに、シグリドの頭の中に水妖フーアの声が響いた。

『なるほど。「魔の眷属」を下等な獣におとしめて、人間どもを襲わせている術師がいると聞いてはいたが……お前の事か、スェヴェリスの巫女よ』

 目の前の虚空からゆらりと現れたアプサリスが、ザラシュトラの首に突きつけられているやいばの上に音もなく降り立った。

 空気のように軽い、とシグリドは心の中で驚愕した。こちらに背を向けているにもかかわらず、憤怒の形相で女術師を睨みつけているであろう妖魔の気配を、ひしひしと感じる。

 ザラシュトラはアプサリスをあがめるようにこうべを垂れると、祈りの声で以って言葉を続けた。

「いとたっとき聖魔の女王よ、蔑めるなどおそれ多い。私はただ、愚かな人間どもの欲望を妖獣のかてとしただけ……小さき砦の領主の身でありながら、王国などを望む浅ましき欲望が故に身を滅ぼすのです。剣奴の身でありながら、我ら王族に刃向かおうなどとするが故に、懲らしめねばならぬのです!」

 聖魔の銀灰色の髪から、憤怒の赤い炎がちらちらと燃え上がる。

『たかが人の子であるお前如きが、天の定め事をとやかく言える立場ではないわ! 巫女よ、身の程を知れ』

「ですが、聖魔よ……!」

 懇願するように、なおもアプサリスに食い下がろうとしたザラシュトラが、一瞬、はっと息を呑んで振り返った。


「ザラシュトラ、それくらいにしておけ」

 背後の闇の中から現れ出た白銀の戦士が、女術師の身体を荒々しく抱きかかえ、闇色の剣から静かに引き離す。

「ああ、ロスタル……ディーネはどこです? 良いのですか? あの子をあのような状態のまま、独りにして」

 氷色の瞳が一層冷たさを増すのを目にして、ザラシュトラは自分の時が止まっている間に、ロスタルの最愛の妹に何か良からぬ事が起こったのだと悟った。

「翔ぶぞ。この城も長くはもたん」

 耳元で囁いて、ロスタルはザラシュトラの身体に回した腕に力を入れた。 


 女術師が熱い吐息を漏らした瞬間、二つの影が闇に消えた。



***

 


 がらんとした城内に、聖魔と共に取り残されたシグリドのすぐ側で、背筋を凍らすような獣の雄叫びが上がった。

 人間の体液と妖獣の匂いが混じり合い、吐き気をもよおす程の悪臭が辺りに漂い始めると、シグリドは思わず顔をしかめた。


 ……囲まれたか? いったいどれだけいるんだ?


 戦場にも血の匂いに誘われて妖獣が現れることはある。

 大量の血が流される場所には、常に妖獣と、それらを狩ることを生業なりわいとする『妖獣狩人』がいた。

 不死に近い肉体を持つ妖獣を仕留めるには、その首を落とすか、術師の祈りで魂を眠らせるしか方法がない。人を斬るために造られた剣は、妖獣の分厚く硬い外皮には歯が立たず、運良く手傷を負わせる事が出来ても、刃こぼれした剣は二度と使い物にならない。そのため、狩人達が使う武器は、シグリドら傭兵が使う得物とは比べ物にならぬ程、重厚で頑丈に造られている。


 シグリドが手にしているのはアプサリスに与えられた闇色の剣だ。創造主である「夢魔の女王」を思わせる優美でしなやかな細身の剣一つで、妖獣の動きを止める事など出来そうにない。


 さすがにこの状況は……不味いな。


 ふと、たけりたつ妖獣と人間の断末魔の叫びに混じって、低く唸るような音が聴こえてきた。

 ぶーん、ぶーん、と繰り返し聴こえてくるその音が、闇色の剣が発する響きだと、シグリドはようやく気がついた。それは、まるで不満の声を上げるかのように震えながら、辺りに漂う死の気配を刀身に取り込んでいた。

 シグリドの頭の中に、冷たく鋭い声が響く。

『我が名を呼べ。我を阻む全てのものを、滅びの道におちいらせようぞ』


 ……ああ、なるほど。

 「魔」が生み出したものは魔物に違いない。邪を禁ずるに邪をもってす、と言う事か。


 シグリドは闇色の剣の柄を両手で掴んで祈るように胸に押し当てると、静かにその名を呼んだ。

「『ヴォーデグラム』。俺に従い、命を奪え」

 その声と共に、ひときわ大きな妖獣が、シグリドの背後から飛び掛かった。

 きわどいところで前方に転がるようにして鉤爪を避け、妖獣の喉元に滑り込んでヴォーデグラムを思い切り振り上げる。


 次の瞬間、余りにも呆気なく、獣の首がするりと斬り落とされた。

 妖獣の血に酔いしれて、ヴォーデグラムが歓喜の歌声を高らかに響かせる……



 巨大な妖獣達に立ち向かっていく「二つ頭」の火竜の手の中で、まだ足りぬ、もっと寄こせ、と言わんばかりに、ヴォーデグラムは歌い続けた。



***



 全身に妖獣の返り血を浴びながら、シグリドは狂気の剣を振るい続けた。それでも、次から次へと途切れることなく「狭間」から獣達が躍り出て来る。


 ……そろそろ限界だな。これ以上は俺の身が持たない。


 宙に浮いたまま、われ関せずの姿勢でことの成り行きを見守っていたアプサリスが、ゆらり、とシグリドの隣に降り立った。

『なんだ、もう終わりか、火竜の子?』

 シグリドは、ちっと舌打ちして聖魔を睨みつけた。

「あいにく、俺はただの死すべき人間でな。これ以上は持ちそうにない」

 ファランが塞いだ傷口から新たな血が流れ出すのを感じながら、シグリドは崩れ落ちそうになる身体をなんとか支えていた。

『それは残念。もっと楽しませてくれると思ったのだがな』


 ふん、とあざけるような息を漏らすと、妖魔の女王は凍える声で猛り狂う妖獣達に語りかけた。

『なんとも愚かなものよ。人間の女にそそのかされ、「魔の系譜」としての誇りさえ忘れ、いやしい獣に成り下がるとは。我ら聖魔の存在さえも分からなくなったか?』 

 妖獣達は一瞬、ひるむ気配を見せた。が、狂気に駆られた獣に正常な判断力は残されていないようだ。一匹の妖獣がアプサリス目がけて飛びかかった。


 するり、と身をかわした「戦さ鴉」が妖獣の首元にふわりと手を置いた瞬間、その首が音もなく斬り落とされ、血飛沫を上げて地面に転がり落ちた。


 これが聖魔の力……人間などが立ち向えるはずもない。


 魔の系譜の頂点に立つ者の圧倒的な力を見せつけられて、シグリドは身体から力が抜け落ちるのを感じた。

 その姿を見かねて、真珠色の翼を羽ばたかせて宙に浮いていた有翼の蛇グィベルが静かに近づき、虹色の腕を広げてシグリドを優しく抱き止めた。

『我が幼子を解き放ち者よ。願うがいい。お前はどうしたい?』

 なぜ、そんなことを……シグリドは心の中でつぶやいた。

『お前を見守る。それが、我が幼子の残した望みだ』


 ああ、ディーネ……


「聖なる蛇よ。俺を『谷』に連れ帰ってくれ」

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