守るべきもの

 結局、シエルはディーネのそばで一夜を明かしたらしい。

 兵舎の一角で目を覚ましたシグリドは、アスランに言われるまま兵士用の食堂で朝食を済ませると、その足で鍛冶場に向かった。


 庭園を抜け、鍛冶場に足を踏み入れると、そこに兄の姿を見つけた。既にフラムベルクの仕上げ研ぎに入っているようで、こちらを見向きもしない。


 ……良かった、いつものシエルだ。


 剣に向かう時の兄は怖いほど真剣で、殺気さえ感じられる。こういう時のシエルの邪魔をするほどシグリドも馬鹿ではない。近くに居た見習いの少年に、兵舎で待つ旨を伝えると、来た道を引き返した。

 兵舎の裏手にある演習場では兵士達が朝稽古の鍛錬を行っていた。熟練兵士の中に見知った顔を見つけ、アスランの居場所を尋ねると、領主に呼ばれて行ったきりだと言う。

 アスランがシグリドを兵舎に留めたのは、恐らくシグリドに申し開きをする機会を与えるためだろう。売られた喧嘩とは言え、領主の息子に手を出したのだ。一切のおとがめなしでいられるとはシグリドも思ってはいない。



 しばらくすると、兵士達がシグリドの左腕の刺青に気づいて色めき始めた。今でこそ大陸中に名を馳せた「火竜」の傭兵も、王侯貴族にとっては彼らの輝かしい歴史に残る拭いきれない汚点なのだ。

 ああ、まずいな……シグリドが心の中で毒づいて、とりあえず立ち去ろうとした矢先、アスランが戻って来た。

「よお、シグリド。シエルには会えたのか?」

 いいや、と素っ気なく返答するシグリドと、火竜の傭兵を前に浮き足立つ兵士達の様子を面白そうに眺めていたアスランが、あらぬ提案を持ちかけた。 

「お前、時間があるなら、あいつらに稽古をつけてやってくれないか?」

 呆れた顔で立ち尽くすシグリドの返事を待つまでもなく、アスランは兵士達を整列させた。

「誰か、火竜と手合わせをしたい者はいるか?」

 みな顔を見合わせて黙り込み、後退あとずさる者まで現れる始末だ。

「なんだ? だらしない奴ばかりだな。お前たち貴族の端くれが火竜の傭兵を練習相手にするなど、願ってもない事のはずだろうに」

 相手になる、と言った覚えもないが……とシグリドはため息を吐いた。



 シグリドを探してシエルが兵舎に来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 アスラン相手に剣を振るっていたシグリドを見つけ、「受け取れ、シグリド!」と叫ぶや否や、仕上げたばかりの剣を投げて寄こす。

「おいおい、冗談じゃないぞ、シエル! 俺を火群フラムベルクの試し切りにするつもりか? おい、こら、シグリド! お前は城内で刃引きの剣以外は手にするな! 地下牢にぶち込まれたくなければ、そいつを今すぐ俺に寄こすんだ!」


 いつもの飄々ひょうひょうとした口調からは想像できないほどの真顔で、アスランが叫んだ。



***

 


 遅い昼食を取りに三人が向かったのは、城にほど近い食堂だった。

 昼食には遅すぎる時間なのだろう。店にはまばらにしか客の姿は見えない。それでも、あまり人目に触れないよう店の一番奥の席を選び、適当に見繕って注文をすませると、アスランが真剣な表情で告げた。

「今回の件でシグリドがとがめを受ける事はないだろう」

 ほっとした表情で弟に優しい視線を向けたシエルをよそに、シグリドは憮然とした表情で押し黙ったままだ。

「なぜかザラシュトラの口添えもあってな……無罪放免という訳だ。ただし、当分の間、城には近寄るな。あの馬鹿息子の事だ、領主配下の俺やシエルに手出しは出来ずとも、お前は一介の傭兵だからな……理不尽な真似をされても、次はかばってやれん」

 心配そうに見つめるシエルの目を見ずに、シグリドはうなずいた。

 たとえ命を狙われようと、自分の信念を簡単に曲げない弟を知り尽くしているシエルは、シグリドの嘘を優しく受け止めた。



「シエル、聞いてもいいか?」

 食事をすませて一段落すると、シグリドは昨夜から頭を離れない疑問をシエルに投げかけた。

「身分違いの恋って、ディーネの事か?」

 シエルは葡萄酒を吹き出しそうになりながら、驚いて弟を見つめた。いつも冷静なシエルらしからぬ様子に、隣にいたアスランは笑い出しそうになるのを必死にこらえている。

「ディーネは人ではないのだろう? どうして……」

 こつん、と音を立てて、シエルは葡萄酒の杯を食台に置いた。

「出逢った頃、ディーネも同じ事を言ったよ」



 鍛冶場に行く途中、噴水に腰をかけて遠くを見つめる彼女を何度も見かけた。明らかに人とは違う瞳を持つ娘に、護衛の者以外、誰も近づこうとはしなかった。

 シエルは、その哀しそうな目が自分の知っている誰かによく似ている、と思った。

 人より優れた戦闘本能と命を惜しまぬ無謀さで仲間からも恐れられ、「谷」で孤立していたあの頃。シエルの小さな弟も、よくこんな目をして遠くを見つめていた。


 ある日、月色の彼女の髪に合う金細工の髪飾りを作り、あなたに似合うと思って、と差し出した。

 娘は美しい紅玉のような瞳をまん丸にして頬を赤く染めながら、小さな声でささやいた。

『……どうして? 私は人ではないのよ? この目が恐ろしくないの?』



「ディーネは『罪戯つみざれ』なんだよ」

 シエルは愛しい人を思いながらつぶやいた。


 罪戯れの子。

 人間の女が妖魔と情を交わして生まれる魔の血筋。人の子のうつし身に妖魔の魂を秘めた者。人として生きながら、内なる魔物の魂に人の部分を少しずつ喰われ続け、やがて完全なる妖魔に変貌する、と言われている。

 その恐怖に耐え切れず、人間であるうちに自ら命を絶つ者がほとんどなのだが。

「僕にとってディーネは、か弱い人間の女性でしかないけれどね。彼女が背負う恐怖は計り知れない……それでも、僕に出来る方法で彼女を守りたいんだ」


『僕がお前を守ってあげるよ』


 そうだ、いつだってシエルはそう言うんだ。

 シグリドを幼い頃から見守り愛し続けてくれた兄は、いつだってシグリドの味方だった。

 あの頃とは違う。自分は既に兄の庇護を必要としない。「双頭の火竜」として傭兵仲間からも恐れられる存在だ。シエルが己の人生を賭けていつくしみ守り続けたいと思う女性を選んだのなら、静かに見守ってやるのが弟としてすべき事だ。だが……

 それが本当にシエルを幸せにするのだろうか?


「……ってことは、ロスタルも『罪戯れ』ってことか?」

 アスランがちょっと顔をしかめて声を上げた。

 よほどロスタルと相性が悪いのだろう、とシグリドは思った。シエルはちょっと困った顔をして、首を横に振った。

「ロスタルについてはディーネもあまりよく分からないそうだ。ディーネが知る限り、ロスタルの両親は人間だったそうだけれど……いつの間にか『狭間』を一人で通り抜けたり、使い魔を従えたりするようになったらしい。傷の治りも人間ではあり得ないほど早いそうだし」

「術師だから、ではないのか? ザラシュトラの元で術師としての修行をしたのだとしたら……」

 シグリドがアスランの言葉をさえぎった。

「いや、あいつは生粋の戦士だ。小賢こざかしい術師なんかじゃない。あいつの気配……」

 あれは、戦場で数え切れないほどの命を奪ってきた者だけがまとう死の匂いだ。



 結局、押し問答をしていても始まらない、とアスランが席を立ち、「今夜は夜警なんだ、仮眠をとらなければ」と城に戻って行った。シエルも鍛冶場に戻る必要があるらしい。

「ああ、シエル、城に戻るなら頼みがある」

「なんだい? 僕の可愛い弟の頼みなら何だって聞いてあげたいが、ディーネと別れろ、と言うのは無しだよ」

 そう言って、優しく笑う。シエルとディーネの関係を知ったら、どれだけ多くの女が涙にくれるんだろうか……全く罪な男だな、俺の兄貴は。

「門兵に短剣を取り上げられたのをすっかり忘れていた。代わりに取り返しておいてくれ」

「短剣……って、お前、まさか守り刀の事を言ってるんじゃないだろうね?」

「そのまさか、だな」

 シエルが、はぁっと大きくため息を吐いた。

「『二つ頭』ともあろう者が、己のふところに在るべき刃の存在を忘れるとは……」

 そんな大袈裟おおげさな、と言いかけて、シグリドは口ごもった。

「お前が素手でも戦えるのは充分承知しているが、頼むから守護の剣くらい、もう少し大切に扱ってくれないか?」

 そう言いながら、不肖の弟を見つめる眼差しは、とてつもなく優しかった。



***



 その夜、シエルの工房に戻ったシグリドが一人眠りに就こうとしていると、突然、目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。そこから金色の目の妖獣が、ゆらりと現れた。


「伝達。火竜のシグリド・レンオアムダール……おいっ、止めろっ! ロスタル、待てっ! くそっ……シグリド! シエルが捕らえられた!」

 切羽詰まったアスランの声が、夜の闇に響き渡った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る