第十話 雪花舞う季節に
Act.1
約束の日曜日となった。
昨晩は早めに寝ようと思い、十一時頃に床に就いたのだが、すっかり興奮してしまい、結局、明け方近くまで寝付けなかった。
お陰で今は、少々寝不足気味だった。
(大丈夫かな……)
身支度を整え、リビングでトーストとホットミルクという軽い朝食を摂っていたが、時おりウトウトしてしまう。
「紫織、食べながら寝ない!」
母親に一喝されて慌てて目を覚ますも、それでも、数分と経たないうちに夢の世界へと落ちそうになる。
そんな紫織に、母親は深い溜め息を吐きながら言った。
「ねえ、今日は無理にでも出かけなきゃいけないわけ? 断れないの?」
「うーん……、それは無理……」
寝惚けながらも、紫織はきっぱりと否定した。
母親は怪訝そうにしながら、「どうして?」と重ねて訊ねてきた。
「あんた最近、なんか様子が変よねえ? いつもならば、用事よりも家でダラダラすることを最優先するのに……」
母親にまじまじと見つめられた紫織は、少しずつ頭が冴えてくるを感じた。
同時に、全身から冷や汗がじんわりと湧き出る。
「なっ、何でもないよ」
紫織は急いでトーストを口に押し込むと、それをミルクで流し込み、母親の視線から逃げるようにリビングを飛び出した。
◆◇◆◇
約束の時間までは三十分ほどあったが、紫織はいそいそと家を出た。
ちなみに待ち合わせ場所はそれぞれの家の近くではなく、あえて最寄りの駅前にした。
家の前だと、どうしても朋也と鉢合わせしてしまう可能性がある。
もちろん、駅も安全とは言いきれないのだが。
(宏樹君、なんて言って出て来るんだろ?)
駅まで続く道を足早に歩きながら、紫織は思った。
宏樹のことだから、飄々として、もっともらしい嘘を吐くだろう。
しかし、同時に後ろめたさも感じているに違いない。
宏樹は紫織を可愛がってくれているが、実の弟である朋也もまた、うんと大切に想っている。
それは紫織もよく分かっていた。
◆◇◆◇
駅に着くと、紫織はコンクリートの階段を駆け上がる。
腕時計を見ると、待ち合わせにはまだ少し早かったが、いつになく気持ちが昂ぶっていた。
紫織は階段を登りきり、重いガラス扉を押して、待合室の中に足を踏み入れた。
人はちらほらと見受けられたが、宏樹らしい姿は見当たらない。
(ちょっと早かったもんね)
紫織は空いている椅子に腰を下ろすと、ぼんやりと辺りを見回した。
古びた駅の内部には大きな時刻表が掲げられており、地域のアピール用のポスターもあちこちに貼られている。
ふと、その中の一枚の右上が剥がれかかっているのが目に飛び込んだ。
しばらく経つうちに、画びょうが落ちてしまったのだろう。
角が剥がれたポスターは、扉が開くたびに風に煽られて小さく揺れる。
ポスターの中に映っている女性は白い歯を見せながら満面の笑顔を浮かべているが、それが紫織には、よけいに物悲しく感じた。
◆◇◆◇
駅に到着してから二十分ほど経過した。
また、ポスターがパタパタと揺れ出した。
紫織は反射的に顔を上げ、ガラス戸の方に視線を送った。
同時に、そのままそちらを凝視する。
待ち人が、そこに現れた。
「おはよう」
紫織は立ち上がると、相手――宏樹に向かって笑みを振りまきながら挨拶する。
宏樹もそれに応えるように、「おはよう」とニッコリ笑った。
「悪いな、待たせてしまって」
「ううん、全然。それよりも大丈夫?」
「ん? 何が?」
「だから、その……、家の人、とか……」
朋也の名前は何となく出しづらかったので、ぼかしながら言ってみたが、宏樹はすぐに「ああ」と理解してくれた。
「別に問題なしだ。どのみち、あいつはいつもの如く、朝早くから出かけたしな」
「そっか」
宏樹の言葉に、紫織はホッと胸を撫で下ろした。
だが、宏樹はそんな紫織に「そんなに安心も出来ないかもしれないぞ?」と付け加えた。
「朋也が出ているってことは、いつ、どこであいつとバッタリ逢ってもおかしくないってことだからな。――まあ、俺達がこれから行く場所は、あいつには全く縁のなさそうなトコだし、大丈夫だとは思うけど」
宏樹はそこまで言うと、苦笑しながら肩を竦めた。
「それじゃ、行くか?」
「あ、うん」
宏樹に促され、紫織はその場から立ち上がった。
◆◇◆◇
宏樹の車は、駅のすぐ側に停められていた。
紫織は宏樹が運転席に乗り込むのを見届けてから、自らも助手席のドアを開けて入った。
こうして彼の車に乗るのは、風邪を引くきっかけとなった海に出かけた時以来だ。
「どこ行くの?」
行き先を全く知らされていなかった紫織は、車に乗るなり宏樹に訊ねた。
「それは行ってからのお楽しみ」
宏樹はそれだけ言うと、キーを差し込んだ。
その瞬間、紫織は、あれ、と思いながらキーを指差した。
「宏樹君、それ……」
「え? ああ」
宏樹はやはり察しが早い。
口元に笑みを湛えながら、紫織の指差す先に視線を落とした。
「せっかく貰ったからね。あれから早速付けたんだよ」
そう言いながら、キーに付けられたキーホルダーの熊を指で軽く弄んでいる。
「予想外のプレゼントにビックリしたけどな。でも、よくよく見ると可愛いから、すっかり愛着が湧いたよ」
宏樹は屈託なく笑っているが、紫織はどうにもいたたまれない気持ちだった。
熊のキーホルダーを買ってしまったのは予算の問題ももちろんあったのだが、それよりも、最後まで何を贈ったら良いか分からなくなったのが一番の理由だった。
キーホルダーならば邪魔にならない。
そう思ったが、改めて考えてみると、宏樹のような大人に贈るには相応しい代物ではない。
(やっぱ、もう少し考えるべきだった……)
紫織は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
仕方なかったとはいえ、熊のキーホルダーを選んでしまったあの時の自分がとてつもなく恨めしい。
「――紫織?」
宏樹が心配そうに紫織の顔を覗ってきた。
「どうした? まさか、風邪引いてるのに無理して来たんじゃないだろうな?」
「ち、違うよ!」
紫織は慌てて否定してから、「ただ」と言い加えた。
「宏樹君に、悪いことしちゃったなって思って……」
「俺に? 何で?」
「だって……、それ……」
紫織は再び、熊のキーホルダーを指差した。
宏樹も釣られるように視線を落としてそれを見つめていたが、やがて、あはは、と声を上げて笑い出した。
「だから、そんなのいちいち気にすることじゃないから! それに、こういうプレゼントの方が紫織らしいなとホッとしたぐらいだ」
「――ほんとに……?」
「ほんとに」
恐る恐る訊ねた紫織に対し、宏樹は大きく頷き、「さて、そろそろ出発するか」と言って、キーを回した。
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