Act.4

 部屋着のままで外に出た宏樹は、先ほどの電話の相手――紫織の家の前まで来た。


 家の中との温度差は、空中に吐き出される息の白さからも分かった。

 辺りに漂う空気は、寒いと言うよりも痛いと感じる。


 少しばかり待つと、紫織も家から出てきた。

 その腕には貸したコートがかけられており、反対側の手には小さめの紙袋が握られている。


「ごめんね」


 宏樹の前まで来るなり、紫織は真っ先に謝罪を口にした。


 宏樹は「いや」と答えながら小さく笑んだ。

 これは昔からの条件反射で、どんな時でも、紫織を見ると同じような表情になってしまう。


「でも良かった」


 紫織もまた、宏樹の微笑みに応えるようにニッコリと笑った。


「ほんとはね、電話しようかどうか悩んだんだ。小父さんや小母さん、あとは……、朋也が出たらどうしよう、って思ったから……」


 朋也の名前が出るまで、ほんの少しの間があった。

 やはり、彼女も朋也に対して後ろめたさを感じていたのだろう。

 宏樹は思った。


「あ、そうだ」


 紫織は紙袋の紐を手首にかけると、その空いた手でコートを手にし、両手に載せてから宏樹の前に差し出してきた。


「コート、ありがとう。それと、返すの遅くなってごめんね」


「そんなの気にすることないよ」


 宏樹は微苦笑を浮かべながらコートを受け取った。


 それを見届けた紫織は、今度は手首から再び紙袋を取った。


「――良かったら、これも受け取って……」


 躊躇いがちに、しかし、押し付けるようにそれを宏樹に渡してきた。


「これは……?」


「――今日は、クリスマスイヴでしょ?」


「そうだっけ?」


 もちろん、今日がクリスマスイヴなのは今朝になって気付いていたが、紫織からの予想もしなかったプレゼントに戸惑い、つい、惚けた返答をしてしまった。


「けど、俺は何にも用意してないよ?」


 紙袋の袋の部分を握った状態で宏樹が言うと、紫織は、「別にいよ」とゆっくりと首を横に振った。


「ただ、私が渡したいと思っただけだもん。――コートのお礼とか、色々あるし……」


「そっか」


 宏樹は紙袋を一瞥してから「ありがとう」と礼を口にした。


「せっかくだから貰っておくよ。でも、やっぱり貰いっ放しじゃ悪いな。


 紫織、なんか欲しいモンとかあるか?」


「え? 急に言われても……」


 紫織は本気で困惑したらしく、空に視線をさ迷わせていた。


「――何でも、いい……?」


 しばらくして、紫織が口を開いた。


「ああ、そんなに高くなければな」


「――ほんとに?」


「ほんとに」


 宏樹が大きく頷くと、紫織は真っ直ぐに宏樹を見つめてきた。


 紫織の真剣な眼差しをまともに受けた宏樹は、まさか、無理難題を言われはしないか、と少々不安になった。

 だが、紫織に限って、高額なものをねだってくるとも思えない。


 紫織はまた、あらぬ方向に目を泳がせている。

 言うべきか、言わざるべきか悩んでいたようだが、やがて、思いきったように言った。


「宏樹君の彼女にして」


 宏樹は目を見開いたまま絶句した。

 紫織の要求してきたのは金目のものではない。

 しかし、それよりも簡単に応じられるようなものではなかった。


「――本気で、言ってるのか……?」


 やっとの思いで宏樹は訊ねた。


「本気だよ」


 紫織は先ほどと変わらず、宏樹をじっと見据えている。


「私が一番欲しいのは宏樹君だもん。確かに、宏樹君には他に好きな人がいるのも知ってるよ。けど、やっぱり私、自分の気持ちに嘘なんてつけないよ。

 ずっとなんて言わない。一日だけでいいから、私を、宏樹君の彼女にして下さい」


 そこまで言いきってからも、紫織は相変わらず宏樹に視線を注いだままだった。

 だが、その瞳は揺れているように感じる。


 宏樹はしばし悩んだ。


 千夜子への未練はなくなっているものの、だからと言って、簡単に紫織に乗り換えられるほど器用ではない。

 しかも朋也の問題もある。


 紫織は今、『一日だけ』と言っていたが、軽い気持ちで答えてしまって良いのだろうか。


 宏樹は再び紫織の表情を覗った。

 今にも泣き出してしまうのでは、と思えるほど、唇が小さく震えている。


 不意に、数日前の朋也の言葉が頭を過ぎった。



『紫織はな、ただ兄貴に、「ずっと側にいてやる」って言ってもらいたいだけなんだよ!』



(断ったとしても、紫織を傷付けてしまうのには変わりない)


 宏樹は意を決した。


「いつがいい?」


 そう訊ねると、今度は紫織が驚いたように瞠目した。


「――いいの……?」


「いいもなにも、紫織から俺に頼んできただろ?」


「そうだけど……」


 この様子を見ると、どうやら、断られるのを覚悟していたらしい。


 紫織の間の抜けた表情を見ていたら、宏樹も一気に力が抜けて笑顔が戻った。


「で、いつなら都合がいい?」


 宏樹は重ねて訊いた。


「え、えっと……、私はいつでも大丈夫だけど……」


「なら、今度の日曜日にする?」


「う、うんっ!」


 戸惑いながらも、紫織は強く頷いた。


 最近は子供扱いされるのを嫌う紫織だが、こういった無邪気な仕草を見ると、まだまだだな、と思ってしまう。

 もちろん、それが紫織の長所でもある。


「よし、決まりだな」


 宏樹はいつもの調子で、紫織の頭をそっと撫でた。


「それじゃあ、十時頃に出ようか? それとも、もう少し遅い方がいいか?」


「ううん! 大丈夫!」


「そっか」


 またしても笑いが込み上げてきたが、どうにか唇を噛んで堪えた。


「じゃあ決まりだな。さてと、そろそろ家に入らないとな」


「え……?」


 宏樹の言葉に、紫織は急に表情を曇らせてしまった。


「――もうちょっとだけ、宏樹君と話したい……」


 宏樹は、やれやれ、と思いながら苦笑した。


「ダメダメ、ちょっとだけって約束だっただろ? それに、お互い薄着なんだから、風邪を引いたら元も子もないじゃないか」


「あ、そっか。日曜日に出かけられなくなったら困るもんね」


「そういうこと」


 宏樹は紫織の頭を軽く叩いた。


「じゃ、すぐに家に入れよ? バレたら小母さんにこっぴどく叱られちまうぞ?」


「うん、分かった」


 紫織は頷いた。


「それじゃ宏樹君、また日曜日ね。お休みなさい」


「ああ、お休み」


 宏樹が手を挙げると、紫織もそれに応えるように小さく手を振る。

 そして、名残惜しそうにしながら家の中へ入って行った。


 紫織を見届けてから、宏樹は自分の車の前まで行き、それに寄りかかるように座り、紙袋を開けてみた。


 中からは今度は、手の平に乗るほどの小さな紙包みが出てきた。

 リボンのついたシールも貼られている。


 宏樹は紙包みのテープを剥がして中身を見た。


「ぶっ……!」


 正体が分かったとたん、思わず吹き出してしまった。


「紫織らしいといえば紫織らしいけど……。それにしたって……」


 宏樹は喉の奥を鳴らして笑いながら、それを取り出した。


 中から現れたのは、熊のマスコットが付いたキーホルダーだった。


「けど、これが紫織の精いっぱいの気持ちなんだよな」


 宏樹は、頭上にそれを掲げながらしばし眺める。

 どう見ても、二十代後半の男に贈るような代物ではないが、よくよく見ると、熊の表情に愛嬌があって可愛らしい。


「車のキーにでも付けるか」


 ひとりごちると、キーホルダーを振り子のように前後左右に揺らした。


 熊は表情を変えることなく、なすがままにされている。

 熊の気持ちになってみたら、無造作に揺らされるのは迷惑以上の何ものでもないと思うが。


「さて、俺もウチに入るか」


 宏樹はキーホルダーを手に包み込み、ゆっくりと立ち上がった。


 ふと空を見上げると、辺り一面に星が瞬いている。

 冬は空気が澄んでいるから、なおのこと綺麗に見えた。


「日曜日はどうなるか」


 誰にともなく呟くと、宏樹は星達に見守られるように家へ消えた。


[第九話-End]

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