第六話 痛みと苦しみと

Act.1

 初雪から二日後、紫織の身体は、ようやく学校へ行けるほどにまで回復した。


「良くなったからって、無理したりしちゃダメだからね?」


 家を出るまで、母親に散々釘を刺された。


「言われなくたって大丈夫だよ」


 紫織は深い溜め息を吐くと、「行って来ます」と言って家を出た。


 外は連日降り続いた雪で、白銀色に覆われている。

 今日は久々に空から陽光が降り注ぎ、辺りの雪を眩いばかりに照らしていた。


(でもやっぱ、寒いのには変わりないな)


 紫織は凍て付く空気に顔をしかめながら、一歩一歩、雪を踏み締める。

 そのたびに、足元からは、ギュッギュッと小気味良い音が鳴り響いた。


 数歩歩くと、高沢家の前に差しかかる。

 紫織は無意識にその場に立ち止まった。


 すると、まるでそれを見計らったかのように、タイミング良く玄関が開いた。


(もしかして、朋也……?)


 紫織は即座に逃げてしまいたくなったが、それも不自然な気がして何とか思い留まった。


 そこから人が出て来るのを、固唾を飲んでジッと見つめる。


「あれ? 紫織」


 玄関を開けて外に出るなり、紫織の名を口にしたのは朋也ではなかった。

 だが、それでも気まずさに変わりはない。


「おはよう」


 ぼんやりと立ち尽くす紫織に、宏樹はにこやかに挨拶してくる。


 紫織は、そこでやっと我に返った。


「あ、おはよう!」


 慌てて挨拶をすると、宏樹は、いつもの如く穏やかな表情を浮かべながら、「どうした?」と言ってきた。


「紫織、元気がないようだけど? あ、もしかして、まだ風邪良くなってなかったか?」


 宏樹の言葉に紫織は驚いた。

 何故、自分が風邪を引いたことを知っているのか、と。

 しかし、よくよく考えてみると、朋也か母親辺りから話を聴いたのかもしれない。

 そう考えると納得がいく。


「ううん、風邪はだいぶ良くなったよ」


 紫織は追及することなく、ごく自然に答えていた。


 宏樹はそれを聴くと、「そうか」と安堵したように優しい眼差しを向けてきた。


「けど、あんまり無理するなよ? 油断すると、風邪はすぐにぶり返してしまうからな」


「うん、ありがと。無理はしないから大丈夫。それにどのみち私は寒いのが苦手だし、ダメだと思ったらすぐにあったかい場所に避難するよ」


「あはは……! そういや、紫織は昔から冬がダメだったもんな」


 周りの寒さも吹き飛ばす勢いで笑う宏樹を、紫織は恨めしく思いながら上目遣いで睨む。

 もちろん、先に寒いのが苦手だと言い出したのは、誰でもない紫織本人なのであるが。


(けど、海に行った時もからかわれたし)


 そんなことを考えていたら、宏樹は声を上げて笑うのをやめ、けれども口元を綻ばせながら、紫織の頭に手を載せてきた。


「何度も言うけど、ほんとに無理は禁物だぞ?」


 そう言いながら、宏樹は少し乱暴に頭を撫でた。


 やっぱり子供扱いされているらしい。

 そう思うと、紫織の不満はさらに増大する。


「――私、もうちっちゃくないんだよ?」


 つい、口を突いてしまった。


 紫織はハッとしたが、一度出てしまった言葉を飲み込めるわけでもないので、ギリギリのところで平静を装った。


 宏樹の手は止まっている。

 少しばかり、紫織を覗うように見つめていたが、やがて「そうだな」と手を下ろした。


「紫織だって、いつまでもガキのまんまじゃないよな。朋也も、いつの間にか成長しちまってるし……。はは……、俺は置いてけぼりか……」


 宏樹はまるで、自らを嘲るように言った。


 これは紫織も予想外だった。

 だが、海に行ったあの日の宏樹の様子を改めて想い出すと、この投げやりにも思える台詞は妙に頷ける。

 もちろん、宏樹に詳しいことなど訊けないし、訊いたとしても答えてくれないのは分かっている。


「――そろそろ、学校行くね」


 そう告げるのが精いっぱいだった。


「あ、ああ。そうだな」


 宏樹はいつものように笑顔を繕ってきた。


「それじゃ、気を付けて行けよ? 路面、結構凍ってるからな」


「うん、ありがと。気を付けるね」


 紫織も笑みを返すと、宏樹に背を向けて慎重に歩き出した。


 しばらく歩いてから、紫織は振り返ろうとした。

 しかし、身体はそれを拒否している。


「宏樹君……」


 紫織は囁くように名前を口にしてみる。


 宏樹への想いを、改めて確かめるかのように。

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