Act.3
宏樹がやっと笑うのをやめてから、宏樹と紫織は車から降りた。
車に乗っている間はずっと寝ていたので気付かなかったが、どうやら海に来ていたらしい。
外へ出ると波の音が耳に響き、汐の匂いが身体中に纏わり付く。
「じゃ、行くか」
宏樹のこの一声を合図に、紫織は宏樹のすぐ後ろを追うように歩き出す。
海は駐車場より下の方にある。
ふたりは急な階段を慎重に降りると、砂浜へと足を踏み入れた。
目の前には、果てしなく続く水平線が広がっている。
この辺は有名な海水浴場であるから、シーズンになれば海水浴客で賑わっているが、さすがに今の時季は閑散としている。
「――静か過ぎるね……」
海を見るなり、紫織は素直な気持ちを口にすると、宏樹も「そうだな」と頷く。
「さすがに冬の海を見に来るような物好きなんて、そうそういないだろうからな」
「じゃあ、こんな場所に私を連れて来た宏樹君は相当な物好きってことだね?」
「おっ! 結構言うな」
宏樹は苦笑を浮かべた。
「まあ、確かに紫織の言う通りだけどね。けど……」
「『けど』、何?」
紫織が首を傾げながら問うと、宏樹は一呼吸吐いて口を開いた。
「冬の海を見ていると、ささくれ立った気持ちも安らいでゆくように感じるんだよ。そして……、俺という存在のちっぽけさを改めて考えさせられて、些細なことで悩んでいるのが、ほんとに馬鹿らしく思えてくる」
そこまで言うと、宏樹は自らを嘲るようにフンと鼻を鳴らした。
それを潮に、ふたりの間には沈黙が流れる。
宏樹は何も言わずに海を見つめ、紫織もまた、宏樹にかける言葉が何ひとつ見付からず、彼に倣うようにそれを眺める。
遠い国にまで繋がる大海原。
それは白い水飛沫となって、砂浜へと波を打ち寄せては還ってゆく。
(私の想いは、最後はどこへ還るんだろう)
遠ざかる波をその瞳に映し出しながら、紫織はふと思った。
幼き日の小さな想い出と共に心にしまい続けてきた、宏樹への恋心。
しかし、紫織の想いとは裏腹に、宏樹の気持ちは別の場所にあるのも気付いている。
頭では分かっている。
それでも、宏樹の全てを欲しいと渇望する自分もいる。
とたんに、瞳に熱いものが込み上げてきた。
宏樹の前で泣きたくなどない。
なのに、一度溢れ出した涙は留まることを知らず、ゆっくりと頬を濡らしてゆく。
「――紫織……?」
宏樹も紫織の異変に気付いたらしい。
わずかに驚いたように、涙を流す紫織に視線を移した。
「どうした?」
心配そうに訊ねる宏樹に、紫織は「何でもない」と首を振る。
「――ちょっと、目にゴミが入ったみたいで……」
苦しい言い訳だな、と紫織自身も思ったが、他に適当な理由が見付からなかった。
案の定、宏樹は全く信用していない。
口には出さないが、その代わり、訝しげに眉根を寄せる。
だが、それも一瞬のことで、宏樹はいつもと同じように柔らかく笑んだ。
「全く、お前って奴は」
宏樹は紫織の身長に合わせて前屈すると、幼子をあやすように優しく頭を撫でてきた。
「泣き虫なトコは昔っから変わってないんだな。――迷子になって、俺に泣き付いて来たガキの頃のまんまだ」
「なっ……!」
紫織はムッとして、恨めしげに宏樹を睨んだ。
「私、もうちっちゃい頃とは違うもん! それに、ゴミが入っただけだ、ってさっきも言ったじゃん!」
紫織の剣幕に、宏樹は苦笑しながら肩を竦めた。
「分かった分かった。そうムキになるな」
「ムキになんかなってない! そもそも、宏樹君が私を子供扱いするから……!」
「――参った……」
宏樹は、降参だと言わんばかりに両手を挙げた。
「俺はただ、紫織を元気付けようと思っただけだったんだけどな」
「え……?」
宏樹の言葉に、紫織は目を大きく見開いた。
「私を、元気付ける……、ため?」
「そうだよ」
宏樹はニッコリと頷いた。
「俺は、落ち込んでいる紫織を見るのは辛いからね。紫織だけじゃない。朋也にも、いつも笑っていてほしいから。――まあ、ちょっと度が過ぎて、かえって逆上させてしまう場合もあるけど……」
ばつが悪そうに頭を掻く宏樹を、紫織はぼんやりと見つめた。
涙はすでに引っ込んでいる。
「紫織、俺はね、紫織と朋也に幸せになってもらいたいと思ってるんだよ。俺はこの先、自分の幸せは望めないだろうしね。――信じ続けてきた想いは、もう……、この手中にはないから……」
宏樹は紫織の頭から手を離すと、今度はそれを見つめた。
その瞳は、心なしか揺れている。
宏樹は決して、自分のことは口にしない。
だが、宏樹の心を打ちのめすような何かが、ここ最近の間にあったことは紫織も察した。
同時に、宏樹が何故、冬の海を見に来ようと思ったかも分かった気がした。
(宏樹君の心はきっと、泣いてるんだ……)
宏樹の想いに気付いた紫織は、彼を抱き締めたい衝動に駆られたが、さすがにそれは拒絶されるであろうと思い直した。
代わりに、宏樹の手にそっと触れた。
車に乗ってからは手袋を外していたので、互いの手の感触が直に伝わってくる。
「――冷たい」
ふと、宏樹がポツリと口にした。
「ご、ごめんっ!」
紫織はハッと我に返り、慌てて手を離そうとしたが、今度は逆に宏樹にそれを捕らえられてしまった。
「冷たいならなおさら、俺があっためてやらないとな」
宏樹はそう言うと、紫織の両手を宏樹のそれで包み込んできた。
「あったかい」
紫織が言うと、宏樹は小さく笑んだ。
「そう言えば、手が冷たい人間は心が温かいって言うよな。逆に、手が温かい人間は……、心が冷たい、って……」
「そんなの、ただの迷信でしょ」
手を握られた状態のまま、紫織は宏樹を見上げながら言った。
「宏樹君は冷たい人間じゃないもん。それは私が一番分かってる。周りを最優先しちゃって、だから、必ず自分が犠牲になってしまう。器用そうで、実は人一倍不器用で……。でも……、私はそんな宏樹君が……」
言いかけて、紫織は最後の言葉を飲み込んだ。
宏樹に自分の想いを知ってもらいたいという気持ちがないわけではない。
しかし、まだ、伝えるには早過ぎるような気もしていた。
一方、宏樹は相変わらず、穏やかな笑みを浮かべたままである。
「紫織の気持ち、ありがたく受け取っておくよ」
先ほどの言葉を告白だと理解してくれたのであろうか。
そう思うと、体温が急速に上昇してきた。
胸の鼓動も同時に速度をを増している。
「紫織?」
呆然としている紫織の顔を、宏樹が怪訝そうに覗き込んできた。
「ぎゃあっ!」
紫織は思わず、珍獣のような悲鳴を上げてしまった。
そんな紫織に、宏樹は苦笑して見せる。
「そんなにビックリすることないだろ……。ほら、あんまり長い間いると風邪引いちまう。そろそろ帰るぞ?」
「え……。あ、うん」
紫織が頷くと、宏樹は紫織から手を離した。
今まで温められていた両手は、再び外の冷気に晒され、物悲しさを感じさせた。
ふたりは並んで海に背を向ける。
一歩を踏み出すごとに、波音が少しずつ遠ざかっていった。
[第四話-End]
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