Act.2

 車を走らせてから、一時間ほどが経過していた。


 宏樹はどこへ向かうつもりなのか、途中で国道を逸れ、民家の疎らな道を走らせてゆく。


 ふたりの間に会話はない。

 カーオーディオも切っている状態なので、車内にはエンジンの騒音とタイヤの擦れるような音だけがやけに響いている。


 そのうち、紫織に眠気が襲ってくる。

 ほど良い振動と、外とは対照的な暖気がやけに心地良く、船を漕いでは慌てて目を覚ますという行為を何度も繰り返していた。


「寝ていいぞ?」


 見かねたのか、運転席の宏樹が紫織に言ってくれたが、ずっと運転している宏樹に対してさすがに躊躇いを覚える。


「――大丈夫だよ」


 だが、そう言った側からまたしても睡魔に襲われる。


 宏樹は紫織を一瞥すると、呆れたように苦笑を浮かべた。


「いいから。我慢されるより、素直に寝てもらった方が俺も助かるから」


 そこまで言われると、遠慮するのがかえって悪い気持ちになる。


「じゃあ、お言葉に甘えて……」


 紫織が言うと、宏樹は満足げに頷いた。


「もうちょっとかかるからな。到着するまでゆっくり寝てろ」


「うん……」


 紫織は頷くと、間もなく深い眠りに就いた。


 ◆◇◆◇◆◇


 紫織が寝ている横で、宏樹は車を目的地に向けてひたすら走らせる。


 千夜子に電話越しで別れを告げられてから、十日が経っていた。


 突然ではあったが、それまでの経緯を考えればあり得ないことでもなかった。

 逢うこともままならなくなった宏樹より、近しい存在に心変わりしてしまうほど、千夜子は不安に陥っていたのだ。


 これは、自分に非があった、と宏樹は思っている。

 ほんの少しだけでも、自分を切り捨てた千夜子を恨みかけたが、それは違う。


(俺は、何を考えているのか分からないとよく言われていたしな)


 目の前に広がる灰色のアスファルトと白いセンターラインを見ながら、宏樹は自嘲するように口の端を上げる。


 宏樹は自分の感情を抑える癖がある。

 子供の頃はもう少し素直だったと思うが、年の離れた弟――朋也が生まれてから、無意識のうちに、変わらなければ、と思うようになっていたのかもしれない。


(からかうのは、面白いんだけどな)


 朋也が真っ赤になってムキになる姿を想像して、宏樹は思わず笑いが込み上げた。


 朋也も最近は大人ぶっていても、紫織が絡むと滑稽なほど豹変する。

 紫織に冷たくあしらわれると、情けないほど萎縮し、かと思えば、少しでも微笑まれると、釣られたようにニンマリと笑う。


(俺が今、紫織とこうして一緒にいるなんて知ったら、あいつはどうなることやら……。いや、それはそれで面白いかもな)


 宏樹は悪戯を思い付いたあとの子供のような心境で、強くアクセルを踏み込んだ。


 ◆◇◆◇◆◇


「……り、紫織……」


 どこか遠くで、自分を呼んでいる声が聴こえてくる。

 だが、辺りを見回してみても、声の主の姿は全く見当たらない。


(――宏樹君の声、どこから……?)


 そう思っていると、今度ははっきりと「紫織」と耳に飛び込んできた。


 紫織はハッと我に返った。

 否、正確には夢の世界から現実へ舞い戻った。


「すっかり熟睡していたみたいだな」


 紫織の目の前には、呆れたように苦笑を浮かべる宏樹の顔があった。


「――宏樹、君……?」


 頭がぼんやりしている紫織は、未だに夢と現実の区別が付いていない。


(あれ? 私は何してたんだっけ……?)


 宏樹を仰ぎながら、紫織は記憶を遡ってみる。


 まず、家でゴロゴロしていて母親に叱られ、追い出しを食らったところまでは憶えている。

 それから、簡単な身支度をしてから外に出たところ、隣人の宏樹と遭遇した。


(そうだ!)


 そこでやっと想い出した。


(私、宏樹君に誘われて……)


 宏樹の運転する車に乗っている最中、急に眠気が遅い、そのまま宏樹の好意に甘えて眠ったのだ。

 しかも、その後はすっかり深い眠りに落ちてしまった。


 もし、宏樹に起こされなければ、まだ眠り続けていた可能性は充分にあり得る。


(私ってば、最低……)


 頭の中が完全に活動を始めたとたん、紫織は自己嫌悪に陥った。

 間抜けな寝顔を晒していたのではないかと思うと、急激に羞恥心が芽生え出し、宏樹をまともに見ることが出来ない。


 気まずさのあまり俯いている紫織に、宏樹は追い討ちをかけるように真顔で言った。


「紫織の寝顔、久々に見させてもらったよ。それにしても、なんか面白い夢でも見てたのか、時々笑い出したかと思ったら、モニョモニョと寝言も言ってたぞ。ついでに涎も出してた」


「えっ……!」


 紫織は慌てて口を覆った。


(笑ってただけじゃなくて寝言まで言ってたなんて……! しかも涎って……!)


 紫織はこのまま、穴があったらすぐに飛び込んでしまいたい、と心底思った。

 だが、車内には当然ながら紫織が入れるほどの手頃な穴などあるはずもないので、両手で頬を押さえるのが精いっぱいだった。


「……ぷっ……!」


 突然、宏樹が吹き出したかと思ったら、そのまま声を上げて笑った。


「あっはははは……! 冗談だ、冗談! 別に寝言も言ってなかったし、笑ってもいなかった。涎も出してなかったよ」


「――へ……?」


 紫織はポカンとして、宏樹を見つめた。


 一瞬、状況が掴めずにいたが、落ち着きを取り戻すにつれ、何とも言いがたい複雑な想いが紫織の中で渦巻き出した。


 朋也が弄ばれている姿はよく見ていたが、まさか、自分までもが宏樹のターゲットにされようとは予想だにしなかったのである。


(――酷い……)


 今さらながら、からかわれ続ける朋也の気持ちが分かったような気がした。


 一方、宏樹は悪びれた様子などいっさいない。

 してやったり、と言わんばかりに、未だに涙を浮かべながら笑い続けている。


 紫織には優しいはずの宏樹。

 しかし、今は明らかに違う。


(私、道を間違えちゃったのかな……?)


 宏樹の隣で、紫織はひっそりと溜め息を吐いた。

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