第一話 幼なじみと親友

Act.1

 ピピピピピ……




 夢と現実の境をさ迷っている中で、けたたましいアラーム音が辺りに響き渡った。


「もう……、煩い……」


 加藤かとう紫織は鬱陶しげにぼやくと、瞼を閉じたままの状態でベッドの上の目覚まし時計に手を伸ばし、手探りでスイッチを止めた。


 部屋の中に、静けさが戻る。


 紫織は今度は腕を引っ込め、頭から布団を被った。

 あと少しだけ、と思いながらウトウトととまどろむ。

 布団の中の温もりも手伝い、幸せは絶頂に達している。


 だが、そんな幸せは決して長くは続かない。


 しばらくすると、部屋の向こうから微かに階段を昇ってくる足音が聴こえてくる。

 心なしか、その足取りは荒々しい。


(あ、そろそろかも……)


 そう思っている間にも、足音は階段を完全に昇りきったようだった。

 同時に、自室のドアがもの凄い勢いで開かれた。


「紫織!」


 予想通りの第一声だった。

 その声は考えるまでもなく母親だ。

 声を聴いただけでも、相当お怒りであることは明白である。


「全く! 目覚ましが鳴っても起きないなんて……。ほら! とっとと起きなさい! 遅刻しちゃうでしょ!」


 お説教を言い終える間もなく、母親が布団を剥ぎ取ろうと手をかけてきた。


「ダメダメダメ! だるいし眠いし寒い!」


 負けじと布団をがっつりと掴んで抵抗を試みるも、母親の力は思った以上に強く、バサッと音を立ててあっさりとよけられてしまった。


 目の前に現れた母親の顔は、まさに鬼の形相であった。


 紫織は言葉を失ったまま、母親を凝視する。


「さあ紫織ちゃん、起きましょうね。『寒くて眠いから学校に行きたくない』なんて屁理屈は、一切聞きませんよ?」


 先ほどとは打って変わり、母親の口調は丁寧さを増していた。

 怒鳴られている時よりも、遥かに恐怖を感じる。


 母親の言葉に、紫織は黙って頷いた。


 これ以上、よけいなことは言うまい。

 そう自分に言い聞かせながらのろのろとベッドから降りた。


 ◆◇◆◇


「忘れ物はない?」


 玄関先でコートを着込み、ローファーを履いている紫織に母親が訊ねる。


「うん、大丈夫」


 紫織は頷くと、カバンを手にしてドアを開けた。


「それじゃあ、行って来ます」


「はい、気を付けて行ってらっしゃい!」


 母親に見送られながら、外へ足を踏み出した。

 凍えそうなほどの冷気が全身を覆う。


 それもそのはずである。

 今は十一月下旬。

 本格的な冬は、すぐ目の前に迫っている。


 紫織は出来る限り、身を縮ませながら歩く。

 それでもスカートの中まではさすがに防御が利かず、ひんやりした空気がスースーと入ってくる。

 寒さ対策のために履いている分厚い黒タイツも、あまり意味をなしていない。

 歯の根も噛み合わず、意識を全くしていないのに勝手にガチガチと震えた。


(冬なんてなければいいのに……)


 そんなことを思いながら、隣家の前を通り過ぎようとした。


「紫織」


 低くて穏やかな声に呼び止められた。


 紫織ははたと足を止め、首だけを動かしてその主を確認する。


 そこにいたのは、その家の長男である高沢たかざわ宏樹。

 彼は口元に小さな笑みを浮かべながら、「おはよう」と挨拶をしてきた。


「どうした? 憂鬱そうな顔をしてるぞ」


「――そんな風に見える?」


「うん。『学校なんてかったるい!』って言いたげにしてる」


「そ、そこまで酷いことは思ってないけど……。――ただ、寒くて嫌だなあと……」


「あはは、なるほど」


 紫織の言葉に、宏樹は乾いた笑い声を上げた。


「そういえば、紫織は冬が一番苦手だったっけ? ちっこい頃も寒いのを嫌がって、自分から外に出ようとはしなかったもんな。そのたびに、朋也に無理矢理連れ出されて……」


「――憶えてたの?」


「憶えてたもなにも、当時の紫織も今と全く同じ表情をしてたから。俺は可哀想だと思ったんだけど、年中無休で元気がありあまってる朋也には、紫織の気持ちなんて理解出来なかっただろうし……」


「――俺が何だって?」


 宏樹が言い終えるのと同時に、彼より少しばかり背の高い少年がヌッと現れた。


「と、朋也!」


 予想外の人物の出現に、紫織はわずかに動揺する。

 今の会話、全て聴かれていたのだろうか。


 だが、弟の高沢朋也の話題を出していた張本人である宏樹は慌てている様子が全くない。

 それどころか、まったりとした口調で、「やっと出て来たのか」と呆れたように言う。


「いつまで経っても起きてこないから、遅刻するんじゃないかと心配したよ」


「フン、よけいなお世話だ。それよりもお前ら、何コソコソと人の陰口を叩いてんだ?」


「べっ、別に陰口なんて叩いてないもん!」


「そうだな。『朋也は年中無休で元気』だと堂々と話していたんだから、陰口を叩いてたとは言わない」


「ここ……、宏樹君!」


 誤魔化しもせずにサラリと言ってのける宏樹に、紫織の方がオロオロしてしまった。


 案の定、朋也の顔は紅潮している。

 怒りが爆発するのも、もはや時間の問題といった感じだ。


(宏樹君! なんでわざわざ怒らせるようなことを……!)


 そう思いつつ、宏樹の狙いも実は分かっている。

 宏樹は昔から、朋也をからかうという悪い癖があった。


 朋也はすぐにムキになるため、宏樹としてはそれがとにかく面白いらしい。

 面白がっているだけならまだ良いのだが、さらに煽るような発言をするから、朋也はまた怒りを露わにする。

 そして、またさらに挑発しては怒鳴らせるという悪循環を繰り返す。


 からかわれ続ける朋也も憐れだが、一番の被害者は、ふたりのやり取りを傍観し続けている紫織である。

 黙って見ているのは辛いし、何より疲れてしまう。


(いい加減にしてよ……)


 祈るような気持ちで、紫織はふたりを交互に見比べた。


「――もういい!」


 吐き捨てるように言い放ったのは朋也だった。


「その代わり、人を馬鹿にしやがった罰として俺と紫織を学校まで送れ!」


 朋也がビシッと指を指した先には、宏樹の車が置かれている。


「ああ、それは無理」


 朋也の命令に対し、宏樹はけんもほろろに断った。


「お前達を送っていたら俺が仕事に遅れちまうだろうが。それに紫織はともかく、朋也は充分に体力がありあまってるんだからな。よく言うだろ? 『子供は風の子、大人は火の子』ってね」


「またガキ扱いしやがって……!」


「俺から見たらまだまだ子供だ。ほら、とっとと行かないとほんとに遅刻しちまうぞ?」


「チックショー……。あとで憶えてやがれ!」


 朋也はまだ言い足りなさそうにしていたが、諦めたように背中を向けた。

 もの凄い大股で歩いて行き、一気に距離を広げてゆく。


「あ、宏樹君。私もそろそろ……」


 言いながら、紫織も朋也を追う姿勢を見せた。


「ああ、気を付けてな」


「うん! 行って来まーす!」


 小走りをしながら、宏樹に手を振り続ける。


「おーい! 慌て過ぎて転ぶなよっ?」


 背中越しに、宏樹の声がこだましていた。

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