気づいてください

飛竜

気づいてください

インフルエンザなんていつぶりだろうか。

大学生の時にかかって以来だろうか。

あの頃はまだよかった。健気に看病しに来てくれる彼女や、近かった実家から得意の煮物料理を持ってきてくれる母がいた。今はどうだ。テレビ以外に家具と言えるもののない、無機質な青白い部屋で、独りだ。薄っぺらい敷布団や柔らかくない毛布は、ぬくもりなど与えてもくれず、むしろ床から伝わる冷気で体は震えていた。


電車でマスクもせずに咳をしていた女性を思い出した。

電車を降りたら僕は細長くなっているんじゃないかと思うくらい、横からの圧力は非常に大きかった。だから誰かと接触してしまうのは当たり前で、そうならない人があの場にいたとしたら、きっとその人は僕らとは違う次元にいるのだろう。それなのにあの咳の女性は、僕が彼女のふんわりした服や巨大な鞄に触れるたび、なんともいえない顔をした。嫌そうな顔を必死にこらえているような。

……その顔をしたいのは僕の方だ。

口元を手で押さえているとはいえ、超至近距離で繰り返し咳をされているのだ。嫌でないわけがない。マスクは化粧が崩れるから、という人がいるが、僕は化粧より咳を心配してほしい。自分より他人を思いやれる人の方が僕は好きだ。


確実にあの女性から移ったに違いない。

僕も予防マスクをすればよかった。


今、僕は会社で大切な仕事をしている。少なくとも僕にとって。この企画がまとまって、うまくプレゼンできたら、きっとすぐにでも採用されるだろう。それくらい自信のある企画だった。これをひらめいたときの感動たるや、部屋が薔薇色に見えるという幻覚を見るほどであった。しかしこのインフルエンザのせいで、プレゼンには間に合わない。悔しいというより、何かを恨まないと気が済まない。「何か」はなんでもいいんだ。あの女性でも、自分でも、インフルエンザでも、僕の白血球でも。とりあえず何かを恨みたかった。


***


ようやく出社できるようになった。

体はだるくて重くて、ア○ナミンAが欲しい気分だった。昨日のプレゼンに間に合わなかったせいで気分も最悪なまま、電車に揺られていた。もちろんマスクはした。


「昨日はよかったぜ。おまえ、いつのまにあんなのを考えてたのかよ。」


同僚に言われて、即座に反応できなかった。「あんなの」とはなんだろうか。


「…あの企画のこと?」


「そうだよ!あの部長もおまえのことをほめちぎっててさ。おかげで昨日から機嫌がいいんだ。」


まだまとめ終えていなかったのに、もう賞賛されているのか。

そう思うと悪い気はしなかった。


「やあやあ、来たのか。やはり何度読んでもこの企画書は非の打ちどころがないよ。全く、君がここまでできるとは思っていなかった。」


「よしてくださいよ、部長。まだまとめ終えていないわけですし…。」


すると、部長は不思議そうな顔をした。なんだか悪い予感がした。いったい何なのだろう、この不自然さは。


「まとめ終えていない?これ以上何を修正するのかい?」


そう言って部長が僕に見せた企画書は、。しかも、僕がこういう文章にしようと考えていたのと、一言一句違わない。


「昨日のプレゼンも、いつもの君とは思えないほど素晴らしかったし、私はこれでいいと思うよ。」


昨日?

昨日僕は家で寝ていたはず。

「昨日の僕」とは、いったい誰なんだ…?

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