第52話 涙

「よかった。落ち着いて」

 隣に座る葵が、ほっとした様子で囁いた。それを聞きながら仁科も頷き、茜色の教室の床に視線を落とす。

 眠る泰介の表情は不思議なほどに穏やかで、その童顔のどこにも苦悶の影は見当たらない。

 倒れた瞬間は、さすがに苦しそうだった。

 だが葵が手を額に差し伸べてからは自然と様子が落ち着いていき、今はゆっくりとした呼吸を繰り返しながら眠っている。

 まるで母親の存在に安堵する子供を見ているようだと、何となく思う。その手が誰のものかなど、分かるはずがないのに。

 意識はまだ戻らないが、熱はなく、顔色もいい。多分眠っているだけだろうと結論付けて、無理に起こすのはやめにした。その方がいいだろう、と、葵は泰介の傷だらけの手や頬を見ながら、悲しそうに笑っていた。

「……学校まで来るのに、バス乗った時。吉野、一回こんな風に倒れかけたんだ。すぐに元気になってたけど」

「え?」

 突然の仁科の言葉に、葵が驚いたような顔をする。構わず、仁科は続けた。

「その時の吉野、寝ぼけながら、うわ言で佐伯の名前呼んでた」

 葵が、顔を少しだけ赤くする。その顔のまま眠る泰介を見下ろして、やはり悲しげに睫毛を伏せた。

 葵は泰介の小さな怪我の数々を気に病んでいるようで、何をしてこんな傷を負ったのかと先程訊かれたが、硝子を割った事以外で、仁科に答えられる事はなかった。

 きちんと互いの状況を報告し合う時間さえ、仁科達にはなかった。仁科はいまだに、葵がはぐれていた間どんな行動を取っていたかを知らないでいる。そしてそれは、共に過ごす時間が長かった泰介に対しても言える事だった。

 ――〝ゲーム〟には関係がないだろうから、訊く必要はない。泰介のプライバシーには、干渉しない。

 そんな風に切って捨てた、頑なな自分を思い出す。妙なポリシーで壁を作った自分の事が、今にして思えば随分と幼稚に思えるから不思議だった。

 気取る暇があるなら、訊けばよかったのだ。泰介が倒れてから、そんな風に気づかされた。時間は、あったのに。そんな風に、今仁科は思っている。

 だから、なのだろうか。

 葵に今、これを言う気になったのは。

「佐伯。一個お願いがあるんだけど。いい?」

「? うん。なあに?」

「吉野から、離れないでやってくれ。これからも」

 葵が、目を見開いた。

「こいつ、佐伯がいないと駄目だと思う。逆は案外大丈夫な気がするんだ。けど、佐伯がいなくなったら。吉野、多分駄目になる。割と何でも器用にこなすタイプだし、喧嘩馬鹿で、我が強い奴だけど。……でも吉野は、佐伯が本当にいなくなったら、脆いと思う。本人は認めないだろうけど」

「……」

「多分……お前らが本当に離れ離れになって、会えなくなったら。潰れるのは佐伯じゃなくて、吉野の方だ」

「……そう、かな」

 葵が、薄らと笑った。

「泰介、強いよ。私がいなくても大丈夫だと思う。私は弱いから、多分駄目だと思うけど」

「佐伯。それ、本心じゃないだろ」

「……仁科。やっぱり泰介に優しくなったよね」

 葵の目に、ふわりと穏やかな優しさが灯る。薄幸な微笑を変わらない夕日が照らし出し、冷たい風が黒髪をさらりと撫でていった。

「ひどいって、自分でも思うけど。仁科にそう言われて、嬉しいって、思っちゃった。私ね、私が元気で明るくなれたの、泰介のおかげだって思ってる。昔、もっと引っ込み思案だったの。人が怖かった」

「ああ。道理で。名残はあると思う」

「もう、やめてよ」

 葵は、照れ隠しのように笑った。そして再び、眠る泰介へ視線を落とす。

「昔、ね。小学三年の時。泰介と初めて会ったの。クラスが一緒になって。泰介、その頃は結構本を読む子だったんだよね。図書室よく来てた。今では時々しか読まないみたいだけど。全然違う性格なのに、気づいたら仲良くなってた」

 唐突な馴れ初めを、葵は口にした。

「その小三の時に、学芸会で私たちのクラスはシンデレラやることになって……私、推薦されちゃったんだ。主役に」

「へえ。すごいじゃん」

「すごくないよ。きっかけが欲しかっただけで、多分誰でもよかったんだと思う」

 何だか妙な言い方をされたが、それを言う葵の顔は、どことなく晴れやかだ。意味はあまり分からなかったが、追及しないまま、仁科は頷く。

「でも、さっき引っ込み思案だって言ったでしょ? 嫌だったの。本当は。やりたくなかった。でもやらないと駄目みたいに思ってて、逃げられないって思ってた。友達関係のことでも悩んでたし、他にも、ちょっと抱えてて。そんなだったから、泰介に怒られちゃった。見てて苛々する、って」

「吉野らしいな。なんだ、やっぱり昔っからなのか。直情で短気なのは。そのままでかくなったって事は、こいつ本当に小学生みたいな奴なんだな」

「もう、言い過ぎ。でも怒り方は、昔と全然変わってないよ」

 葵が、仁科を振り返る。

「私……、その時から泰介のこと、好きなんだと思う。離れたくないって、ちゃんと思ってるよ。……ね、仁科。安心、した?」

 そう言って微笑む葵を見ただけで、ああ、バレていたのか、と仁科は観念する。やはり、葵には敵わないらしい。

「……ああ。ありがとう」

「うん」

 葵は嬉しそうに、笑った。そして、泰介の方へ視線を戻して――驚いた様子で、息を吸い込む。

「? どうした?」

 怪訝に思って、そう訊いた。

「……涙」

「は?」

「泰介。……泣いてる」

 見るつもりなどなかった。だが、目に飛び込んでしまっていた。

 顔を僅かにこちらへ傾けて、眠る泰介。右頬の擦過傷が少し目立ち、そこへ、目が、吸い寄せられて――見てしまった。

「吉野………」

 涙。

 泰介が。

 驚きで胸を衝かれたが、仁科はすぐに目を逸らした。身体の向きを変えて、泰介に背中を向けて座り直す。

「……寝ながら泣いてんの?」

「ほんとに、ちょっとだけ」

「なんで寝ながら泣くかな。こいつは。……生理現象だって思っとく。起きた時にからかったら、また喧嘩なりそうだし」

「……」

 葵が、仁科の横顔を見つめている。また優しいなどと言われてしまうのだろう。そんな予想をしていたが、葵が仁科へ掛けた言葉は、全く違うものだった。

「仁科。訊きたいことがあるの。……修学旅行に行ったの、覚えてる?」

「……。は?」

 思わず頓狂な声を上げて、仁科は葵を見た。

 葵は不安げな表情で、仁科の顔色を窺っている。言っている葵自身、自分が妙な事を言っているのだと明らかに自覚している。そんな、顔だった。

「佐伯。何言ってんの」

 仁科は葵の真意が読めないまま、思った通りの事を言う。

「修学旅行って確か……あと、二日? 三日? どっちだっけ。とりあえず、まだ先だろ」

 葵は、返事をしなかった。ただ「やっぱり……」と囁いて目を伏せたのが引っかかり、仁科は俯く葵の頭を、状況についていけないまま見下ろした。

「佐伯。どうした?」

「仁科。私」

 葵が、顔を上げた。

 迷いを振り切ったような、何かを掴んだような――そんな、澄み渡った瞳だった。

「分かった。〝アリス〟の、正体」

 ざあ、と一際強い風が吹き、カーテンが大きく翻った。

「!」

 ばさばさと揺れるカーテンの音に驚いた仁科と葵は、思わず揃って振り返る。

 そして、そのまま息を呑んだ。


 宮崎侑が、立っていた。


 窓を背にしてもたれるように立つ侑は、豊かな茶髪を風に靡かせ、こちらを真っ直ぐ見つめていた。

 とん、と弾みをつけるようにもたれるのを止めた侑が、身体全体で、仁科と葵へ向き直る。

 凛々しく結ばれた口元に笑みはなく、細められた眼差しは鋭かった。

 だがその瞳には、厳しさと対照的な優しさがあった。それはさながら、子どもの成長を見守る親や教師の目つきだった。そんな教育者めいた眼差しの中に、敵愾心が爛々と閃く。情愛とも言うべき感情を泉のように瞳いっぱいに湛えながら、それでも隠しようのない敵意が、確かな存在感を放って光っていた。

 ――見た事のない、表情だった。

 笑顔も泣き顔も怒った顔も、狼狽えた顔も知っている。だが、こんな表情は知らなかった。侮蔑も、揶揄も、欠片も見当たらなかった。仁科の知る少女と顔も姿も同じなのに、まるで違う人間のような気がした。

 瞬間、気づく。

 視線が、合わなかった。仁科と、侑の目が。

 侑の厳しい眼光はそれでも変わらず、ひた、とまるで威嚇でもするかのように、こちらに視線が注がれている。

 気づいた。

 少女が睨み付ける相手が、誰なのか。

「み……」

 名を呼ぼうとした時、目の前に手がすっと伸びた。

 驚く。葵だった。葵が仁科の前へ腕を伸ばし、動きを制するように阻んでいた。

 見下ろすと、「任せて」と言った葵に、穏やかな笑みで頷かれる。

「佐伯……大丈夫か」

「うん。見てて」

 葵は、表情を引き締めて立ち上がった。

「……ねえ! 〝ゲーム〟、終わりにしよう!」

 葵が、声を張る。声を受けた少女は、立ち上がった黒髪の少女の姿を認めると挑戦的に笑った。まるで売られた喧嘩を買うのが楽しくて堪らないとでもいうように、少女の目に、生気が宿る。

 ――違う。

 仁科は、驚愕しながら少女を見返す。侑では、ない。侑ではあり得なかった。ここまで見せつけられて、それでも宮崎侑だとは到底思えなかった。

 では――――誰?

「さっき、教室にさくらと敬くんが来た時。泰介が、言ってたの」

 葵は、そう切り出した。

「泰介は修学旅行の後からずっと、私の味方側に立ってた。……って」

「はっ……?」

 修学旅行?

 葵の質問が、蘇る。

「でも修学旅行、私はまだ行ってないよ。仁科も行ってない。泰介は私に、本当に覚えてないのか、っていう風にも聞いた。それを聞いた私は、自分が何かを忘れてるんだって思ったの。……でも、違うんだよね。私たち、忘れてることなんて何もないんだよね」

 葵が、真剣な表情で少女を見た。

「泰介だけが、思い出し始めてる。何かを思い出そうとしてる。それを、私たちはまだ思い出せない。泰介は、そういう風に考えてたみたい。だけど、本当は、もしかして――泰介しか、知らない。そうなんでしょ」

「佐伯……?」

 葵の言葉が分からなかった。だが徐々にその内容を脳が呑み込み、なんとか無理やり理解して、仁科は絶句する。

「佐伯。まさか吉野、修学旅行の記憶があるのか?」

「うん。泰介、そう言ってた」

「ちょっと待て。さっきも言った。修学旅行は……!」

「うん。まだ行ってないよ。私たちは」

 葵が、悲しそうに笑う。

「でも……泰介だけは、行ってるみたい」

「それは、どういう……!」

 だが、言いながら気づいていた。

 三人の中でたった一人だけ混じった、明らかに特殊な立ち位置の人間。

 その者の名を、どう定義しているのか。

 この世界で。この〝ゲーム〟で。何と呼ばれている者なのか。

 葵が、少女に向き直る。悲哀が覗く葵の目が少女を真っ直ぐに捉え、決然としたものに変わる。何かを覚悟したような顔で、葵は、少女に言った。


「私たちをここに閉じ込めた〝アリス〟の名前は――――吉野、泰介」


 少女は――笑った。

 だがその瞳からは、挑戦的な光がまだ消えない。一歩だけ葵の方へ近づくように歩み寄ると、無言のまま、葵を見た。

 見られた葵は、こくりと頷く。

「……もう一つ!」

 仁科は驚いて、葵を見た。

 葵の目に、迷いは欠片もなかった。

「私が過去を見て、それから仁科達と話して、二つ、はっきり気づいたことがあるの。一つは、私が宮崎侑さんと血縁関係にあること。もう一つは……あなたの正体!」

「……!」

「あなたは私のこと、すごくよく知ってるよね。小学三年の時の、苛め。なんであんなに詳しく知ってたんだろうって、びっくりした。でもあの時は全然疑わなかったの。そんなものなんだって、思ってた。……でも! 違うんだよね! 泰介も、あなたと同じ事ができるってことなんだよね!」

 叫んだ葵は一度言葉を呑み込んで、毅然と、その名を口にした。


「あなたは、佐伯蓮香。そうだよね、蓮香お姉ちゃん」


 風が、吹いた。

 カーテンがふわりと捲れ上がり、少女の姿を覆い隠す。

 そして風が抜けて、カーテンが重力に従って緩やかに窓へ落ちていった時――そこには、別の人間が立っていた。

 髪が、靡く。

 ストレートの髪だった。茶に染めた髪が日の光を受けて金色に輝き、細見の身体にラフなジャケットと細見のパンツを合わせた女性が、すらりとした立ち姿で立っていた。

 あまりに劇的な変化だった。頭が、心が、その変化についていけない。自分が何を見ているのか、仁科は全く理解できていなかった。

 侑では、ない。侑では、なかった。たったそれだけの事をかろうじて、本当にぎりぎりのところで理解した時――女性が、口を開いた。


「〝ゲーム〟、まだ終わりじゃないわよ。〝アリス〟がまだ、目覚めてないから」


 茫然とする仁科に、女性は――佐伯蓮香は、にこりと笑った。


「さっきまでは、アリスの首を刎ねようとするハートの女王だったけど、今は……そこの寝坊助アリスを叩き起こしに来た、アリスのお姉様って役どころかしらね。演じ甲斐は全くないけど、まあ、ぶん殴れるなら、なんでもいいわ」


 そう言って蓮香は、眠る吉野泰介へと視線を落とす。

 そして、殺意のこもった眼差しで、厳しく睨んだ。

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