第51話 疑似家族・後

 翌朝、アパートの前に到着すると、葵は既にそこにいた。

「……珍しいじゃん。お前が先に待ってるの」

 泰介は少し驚き、素直にそう言った。葵は開口一番挨拶よりも先に感想を述べた泰介を見ると、穏やかに笑った。淡い水色の空の下、吐く息が、白い。

「いつも待たせちゃ悪いし。ね、早起き頑張ったでしょ?」

「ばーか。これくらい普通だろ」

「もう」 

 葵は頬を膨らませた。

「行こっか」

「ああ」

 そうやって、二人で並んで歩いた。

 小学生の時でさえ、朝待ち合わせて登校などした事がなかった。そう思うと昨夜の夕食時のような、奇妙な感慨が湧き上がる。こんな風に距離が詰まるなどとは、あの頃は思ってもみなかった。

 横目で、様子を窺う。

 なんともタイミングの悪いことに、目が合ってしまった。

「……泰介ってば」

 葵は、困ったように笑った。

「そんなに、私が心配?」

「……」

「…………急ごうよ」

 そう言って葵は目を逸らしたが、路面に僅かに霜が降りていたようで、早速足を滑らせていた。

 泰介は、その腕を取る。すると傾いだ身体がぶつかって、肘が鳩尾に入った。完全に予想外だった痛みに呻くと、腕を取られたままの葵が驚いて泰介を見上げた。

「あわわ……ご、ごめん……!」

 だが、途中で可笑しくなってしまったらしい。申し訳なさそうにしながら、くすくすと笑い始めた。

「わ……笑ってんじゃねえよ、かなり痛かったぞ……変な声出たじゃん」

「うん、ごめん……ええと、昨日の仕返し?」

「あっ、お前! 蒸し返すなって、言っただろ!」

 泰介は顔が熱くなって怒鳴るが、葵は腕を掴まれたまま、声を殺して笑っていた。泰介は憮然としたが、まあいいか、という気持ちに落ち着く。

 笑う方が、いい。その方がいい。少しでも、そんな風に過ごしていたかった。

 だが、穏やかに流れた時間は、唐突に終わる。

 背後から、声が掛かったからだ。


「ねえ、泰介。ちょっとあんたに話あるんだけど」


 二人揃って、固まる。

 葵の腕から手を離さないまま、泰介は剣呑な眼差しで背後を振り返った。

 まだ電車にも乗っていない現在で、泰介を名前で呼ぶ人物など数が知れているし、声で分かる。

「さく、か。何だよ」

 秋沢さくらだった。

 最も会いたくない人物だった。

「お前、なんでこんなとこいるんだよ? 葵のアパートの前じゃん」

「葵迎えに来たの。だからいる」

 さくらは淡々と、そう言った。セーターを羽織ってはいたが、短く折ったスカートから伸びた足がひどく寒そうに見える。葵は、息を呑んでいた。

「さくら……」

「葵、話すの久しぶりだよね。学校じゃ全然話できなかったし。どっかの誰かの所為でさあ」

 さくらの顔は、はっきりとした怒気で歪んでいた。

 その表情を認めた瞬間、泰介の言葉はこの上なく明瞭なものになった。

「俺も葵も、お前と話す事なんてねえよ」

 ぴしゃりと、遮断するように言う。朝の静謐な空気を震わせた拒絶の言葉に、葵の腕が微かに震えた。

「葵、泰介と行くことなんてないじゃん!」

 さくらが、叫んだ。

「なんでそんなわけわかんない奴の言うこと聞いて、さくの話は聞いてくれないの? 葵、分かんないよ!」

「お前は、いい加減にしろよ!」

 泰介は怒鳴った。近所迷惑になると、遅れて気づく。だがこの苛立ちはどうやっても噛み殺せそうになかった。

「葵、行くぞ」

 振り返ると、葵は真っ青になっていた。だが泰介が促すと、こくりと、小さく頷いた。その首肯に確かな意思を感じ取って、泰介は葵の腕をそのまま引いて歩き出す。

「泰介! さくの話終わってない!」

 さくらが、背後で何事か叫んだ。

「葵抜きでなら聞いてやる」

 泰介は振り返らないまま、言った。

「でも、今日で最後だからな。それで決着つけようぜ」

 さくらは、追っては来なかった。

 歩道を歩き、駅へ刻一刻と近づいていく道すがら、「泰介」と葵が呼んだ。

「私は……泰介に任せて、もう、何も言わないで、本当にそれで、いいのかな」

「……任せろよ。俺に」

 泰介は、言った。

「お前は、言うだけ言っただろ。だからこれ以上は……もう、やめとけ。言い足りない分は、俺が言っとくから」

 相手を責める言葉を一つ使う度、葵の心は荒むだろう。自分の放った棘一つで、相手へ与えた傷をより一層増幅させて、抱きしめるように抱え込む。そんな血塗れの痛ましさが、簡単に予想できてしまう。

 泰介の言葉を聞いた葵は、悲しそうに俯いた。

「泰介。……優しいね」

「……優しくなんてねーよ。慣れの問題」

 最悪の気分での、登校だった。


     *


 教室の扉をがらがらと引いて開けると、その場にいる全員が自分達を注視したのがすぐに分かった。

 二年二組、島田学級。

 仁科要平の飛び降り自殺は、泰介達の教室が現場だった。

 今その教室は階層ごと丸々封鎖されていて、御崎川の二年生は皆、特別授業の際に使用される空き教室へ、クラス毎に分散されて収まっていた。

 いつもと違う朝の廊下の風景に、違う教室の前。そんな教室へ泰介と葵が二人で登校するようになってから、もう一週間以上が過ぎた。クラスメイト達の反応は、はっきりとした戸惑いと好奇、そしてまるで腫物にでも触れるような遠回しな配慮と痛ましさを帯びていて、それを隠そうともしない者が大半だった。

 元々、幼馴染という事で名前で呼び合っていた。それは秋沢さくらに対しても同じ事で、狭山敬だって葵を名前で呼んでいる。逆も然りだ。

 だから、二人で登校したところで別段囃し立てられたりなどしない。

 普段であれば。

 周りに、親しい友人などいくらでもいる。そんな下地を抜きにしても、自分達が日に日に浮いていっている事を、泰介は肌で感じていた。

 二人で教室へ戻ったあの日から、全て変わってしまっていた。

 だが、戻れなくてもいいのだと思っている。むしろ戻りたくないくらいだった。

 仁科がいないまま二年二組が元に戻るのだとしたら、そんなものは、悪趣味以外の何物でもない。

「……おす、吉野」

「……佐伯さん、おはよう」

 二人で教室に入ってきた泰介と葵を見た途端、和やかなクラスの喧騒が凍りついた。溶けたそれが、戸惑いと好奇へ変わる。

 泰介も葵も、それを分かっていた。分かっていながら、おそるおそるといった体で掛けられた挨拶に、それぞれがさらりと答えた。

「ああ、おはよ」

「おはよう」

 泰介は仏頂面のままだったが、葵はにこりと笑った。いつものように葵が笑うと、それだけでクラスに満ちていた緊張感が、ふっ、と音を立てて緩んだ気がする。

 いつも、最初だけだった。そしてすぐに、皆打ち解けるのだ。

 ――少なくとも、表面上は。

「葵、おはよう」

「おはよう」

「早いね」

 葵は早速女子生徒から挨拶の洗礼を受けて、それにいちいち笑顔で返していた。別段仲良くしているわけでもないだろうに、挨拶で繋がる友人というのは存外に多いものだと泰介は嘆息する。疲れるからやめとけと、いらぬ世話を焼きたい心境だ。泰介はさっさと自分の席へ着いたが、何やら視線を感じて振り返る。

 すぐに、目が合った。

「……敬」

「おはよ、泰介」

 狭山敬が、穏やかに微笑んだ。

「……お前まで俺に、文句あるとか言うんじゃないだろうな」

 泰介は思わずそう零したが、敬はゆるゆると首を振ると「言わないよ」と優しく言った。そして席を立つと、真っ直ぐこちらへやって来る。

「僕は、泰介のやり方に賛成だって言ったよ。忘れた?」

「忘れてない」

「じゃあ、なんでそんなに機嫌悪いかな……」

「そんなの分かってるだろ、お前にだって」

「……僕に、気を遣ってるの?」

「……」

 敬は困惑した様子で、泰介を見下ろす。だが泰介としては、狭山敬にだけは、このいざこざについて何一つ話したくなかった。

 修学旅行の、初日の会話を思い出す。

 敬は、さくらの事を好きだと言った。

 結局その感情が恋愛感情なのかどうか定かではないままだったが、泰介はその話題に触れる事はしていない。あえて、訊かないように心掛けていた。

 今の泰介では、駄目だった。敬からそれに関して何を聞いたとしても、きっと耳を塞ぎたくなるに決まっている。

 こんな風に仲間内でこじれて尚、さくらが好きだ、と。もし敬に言われたら。

 泰介はきっと、敬を許せなくなる。それはくだらないエゴだと自分でも気づいていたが、その感情を心から掃き出す事は、どうしてもできなかった。

 だから、考えたくないのだ。泰介とさくらとでは、折り合う事はできないだろう。泰介は自分の主張を絶対に曲げないし、それはさくらも同じのはずだ。お互いに我が強すぎるので、話はきっと平行線だ。

 敬は、巻き込みたくなかった。優柔不断でお人よしで、さくらに対して恋愛感情を持っているかもしれない敬を、矢面に立たせたくなかった。

 そういう面倒事は、喧嘩慣れした奴がやればいい。泰介はそう思う。

 自分のような奴が、やればいい。

「僕には言えない事? ……葵ちゃんがらみだから、言いたくないとか?」

「葵がらみの事で、人に話す事なんかねえよ」

 つい、きつい言い方になってしまった。言われた敬が傷ついたような顔になって初めてそれに気づき、はっとする。「……悪りぃ。言い過ぎた」と泰介がすぐ謝ると、敬は悲しげに笑って首を振った。

「ごめん。僕の言い方が軽率だった。色々あった、後なのに。……謝らないでいいよ、泰介」

 そんな風に言われると、自己嫌悪が余計に増した。泰介は苛立ちを抑え込むと、溜息を吐く。やはり、どうにも調子が狂う。

「……敬に言ったら、ややこしくなるんだよ。お前じゃ、あいつの相手になんないし。心配してくれてる気持ちだけ受け取っとく。ありがとな。……いいから、忘れろ。大丈夫だから」

「大丈夫、って泰介……」

 敬は少しだけ、心配するように泰介を見下ろす。

「葵ちゃんみたいなこと言ってる。本当に大丈夫なの?」

「……」

 泰介は不意を突かれたように思い、それを言う敬を見上げた。目が合った敬は、人の良さそうな顔を困惑気味に曇らせながら、笑った。

「中学から一緒だったから、葵ちゃんが大丈夫って言ったら大丈夫じゃない時なんだって、気づくよ。泰介でなくても」

「……」

「でもさ、なんか、言わなくなったよね。葵ちゃん、大丈夫って。中学では時々言ってた気がするけど、高校来て、もう全然言ってないよ。普段は全然考えたことなかったけど、振り返ってみたら、変わったって思う」

 敬はそう言って、女子生徒の中で笑う葵を遠く眺めた。

「泰介達の間のことだから、僕が知らない小学校の時どうだったかとか、そういうの全然知らないけど。ここまでの時間かけて、泰介が葵ちゃんと一緒にいた結果がそうなんじゃないかな、って。僕は、そう思ってるよ」

「敬……」

 そんな風に敬が、自分達の事を見ていたとは思いがけなかった。

「あの、泰介。さっきの話だけど」

 敬は少し人目を憚るような素振りを見せて、ぼそりと言う。

「誰かに何か言われたみたいな口ぶりだったけど。大丈夫なの? クラスの人?」

「は? クラスの奴だけど……あー」

 一瞬、拍子抜けした。さくらだと、気づいていないのだろうか。それともさくらだと思いたくなくて、探りを入れてきたのだろうか。

 後者だろう、と泰介はすぐに断定する。そうでなければ自分に気を遣っているかどうかなど、泰介に訊くわけがない。苛立っている泰介へ配慮するあまり直接的な尋問を避けたといったところだろうか。さくらだと分からないはずがないのに、それを泰介へ訊こうとしない。優柔不断の敬がやりそうな事だと思う。泰介は苦々しい気持ちを呑み込みながら、髪を掻き揚げて天井を振り仰いだ。

「お前や葵の目に触れるとこでは喧嘩しないようにしたいけど……相手の出方次第だな」

 さくらには葵抜きでと釘を刺してはいたが、それを素直に守るだけの理性がさくらに残っているとは思えなかった。それにもしさくらの頭がもう少し冷えている状態だったとしても、奔放な秋沢さくらが粗暴な吉野泰介の言う事を律義に聞くわけがない。それは今までの付き合いからあまりに明白だった。

 泰介は、逡巡する。そしてぽつりと言った。

「敬。お前いっそ、今日早退してくれたらいいのに。今から」

「へ? ……えぇ?」

「そしたら一気にやりやすくなるな、って。今思った。お前、俺の味方してくれるんならさ、今すぐ葵連れて学校早退しろよ。そしたら人目憚る必要が一切なくなって丁度いい。ノートは取っといてやるから」

「ちょっと泰介、何言ってんの……」

 あまりに横暴な発言に敬はぎょっとしている。そして過激な冗談だと思ったのか、苦笑気味に笑った。

 だが泰介としては、そうしてくれたら願ったり叶ったりだった。冗談のように見せかけて、半ば以上本気だった。

 今朝のさくらの待ち伏せを見た瞬間に、懸念が湧いたのだ。葵を今日このまま登校させて、本当に大丈夫なのか、と。

 嫌な、予感がした。

 敬や葵の目に触れないように、さくらと衝突する事は。

 多分だが。

 できないのかもしれない。


 ――ぱぁん、と。


 扉が勢いよく開け放たれた。

 誰もが視線を奪われた。

 朝の教室に響き渡った音に、誰もが言葉を失くした。

 そしてそこに立つ秋沢さくらを見て、誰もが息を呑んだ。

「……遅かったじゃん。さく」

 泰介は、言った。スイッチが、かちりと音を立てて切り替わる。

 さくらの顔を見た瞬間に、悟ったのだ。

 ああ。今か、と。

「……。泰介。あんたに話があるんだけど」

 さくらは淡々と、本日二度目の台詞を述べた。

 そして感情が抜け落ちたような濃淡のない顔つきで、泰介をひたりと睨む。嵐の前の静けさを予感させる、抑えられた声だった。

 クラスの空気が、再び凍りつく。誰もが、引き戸の前から動かない秋沢さくらから目を離せなかった。こんな状態のさくらを、誰も知らなかったのだ。

 ただ、泰介達は知っている。それだけの事だった。

 その敵意が自分に向けられたのは初めてだという、本当にそれだけの事に過ぎなかった。

「ああ。いいぜ」

 泰介は言って、立ち上がった。

「泰介、だめ」

 葵がこちらに駆け寄ってきたので、「お前は残ってろ」と囁いた。葵にだけ聞こえるよう小声で言ったつもりだが、傍にいた敬には聞こえたらしい。敬は諦観が濃く浮いた声音で、絞り出すように言った。

「……さくなんだね、やっぱり。泰介」

 泰介は敬を振り返り、その表情を見てすぐに、自分の予想が当たっていたと悟る。やはり、鎌をかけられていたらしい。

「……お前には悪いと思うけど、許せないんだよ。俺は」

「ううん。悪いなんて、思わなくていいよ」

 敬は、首を横へ振った。

「……?」

 泰介は、そんな敬を見返した。

 ――違和感を、覚えたのだ。

「敬くん……?」

 不審に思ったのは泰介だけではなかったようで、葵が気遣わしげな表情で、敬の顔を覗き込む。敬は葵に微笑み返すと、「葵ちゃん。大丈夫だから」と静かに言った。

 大丈夫。

 それを言う敬の顔が、全く笑っていない。

「おい……敬?」

 違和感の正体が、分かった。

 敬は、無表情だった。友人二人を前にして、僅かほども感情の浮いていない白い顔が、早朝の教室の中で血色悪く浮かび上がる。その様子があまりに鬼気迫るものに映ったから、泰介は思わず息を呑んだ。

 先程まで泰介と会話を交わしていた敬と、同一人物とは思えなかった。

 それほどまでに、普段の敬との乖離が酷かった。

「ちょっと泰介、聞いてんの? さく、待ってるんだけど。いつまで葵と敬にかまけてこっちほったらかしたら気が済むわけぇ?」

 さくらが、乱暴な口調で泰介を呼んだ。はっと泰介が振り返ると、さくらは既に泰介の背後一メートルの距離まで迫っていた。

 内心で、身構える。無暗に近寄るなという思いが、この一週間でかなり強くなっていた。葵はさくらの接触を耐える事はできるだろうが、あんなにも空虚な目つき、泰介は日に何度も見たくない。一回見るだけでも御免なのだ。そしてさくらさえ来なければ、そんな顔は見ずに済む。

「待て。さく。葵抜きって約束だ。場所変えるぞ」

「泰介、何言ってんの? ここで話すに決まってんじゃん」

 さくらは泰介を蔑むような目で見ると、葵の方へ視線を向けた。

 見られた葵が、表情もなくさくらを見返す。やがて見つめ合う時間の中で葵の無表情は崩れ、悲哀と怒りが織り交ざったような、複雑な感情が浮いた。

 葵は、首を横へ振った。そして、何も言わない。

 ――拒否。

 さくらの顔が、怒りで真っ赤に染まった。

「葵……なんで……!」

 さくらが一気に距離を詰めてきた。ずかずかと大股で歩き、机を蹴って、椅子が倒れる。乱雑にそれらを蹴とばしたさくらはまるで掴みかかるような勢いで、葵へ手を伸ばした。

 条件反射で身体が動いた。

 泰介は瞬時に一歩強く踏み込むと、伸ばされたさくらの手を掴んだ。

 ――静寂。

 一瞬にして、教室中が静まり返った。

 だが、均衡が崩れるのもまた一瞬だった。

「――何するの! 離してよ泰介えぇ!」

 教室の中央で、さくらの怒号が炸裂した。

「じゃあお前は! 今何しようとしたんだよ! 言ってみろよ!」

 即座に泰介が怒鳴り返し、振動した空気をさらに混ぜ返す。だがさくらは怯まなかった。

「触るのも駄目? 触るのも駄目なの!? ――泰介は! 葵の何なの!? 幼馴染だったじゃん! ただの! なんで! どうして泰介が葵にそんなに構うの!」

「だからお前は、いい加減にしろ!」

 泰介はさくらの手首を放り捨てるように離し、怒鳴った。

「今の! 触るじゃなくて殴りかかる勢いだっただろうが! 怪我させる気か!」

「何それ!」

 さくらが、鼻で笑い飛ばした。

「なんだ。泰介やっぱり葵が好きなんじゃん。そんなに大事なんだ? さくにも触らせたくないくらいに大事なんだ? へええ? 過保護過ぎるんじゃないの? ねえ!」

「ああ」

 泰介は、はっきりと頷いてやった。

「お前にだけは、絶対触らせたくねえよ」

 さくらの表情が、変わった。

 教室に、どよめきが広がった。

 挑発と、そして認めたと思われたのか。各々がそれぞれの受け取り方をして、事態の急変に息を呑んだ。完全に挑発のつもりで叫んだ泰介だったが、言ってから明らかな失言だったと気づかされて鼻白む。だがだからといって一度ついた勢いは自分でももう止められず、それはさくらも同じだった。唇をわなわなと震わせて泰介と葵とを見比べたさくらは、怒りの形相で泰介を睨めつけると、割れるような声で叫んだ。

「物見たいにっ、言わないでよ!」

「先に言ったのは、お前だろ!」

「さくら! もうやめて!」

 声が、突然割り込んだ。

 葵だった。ついに口を割ってしまった葵は、蒼白になりながら泰介の学ランの裾を掴んでいる。かたかたと、手が小刻みに震えていた。泰介は葵を振り返って視線で制すが、葵は泰介を見上げると、懇願の目で訴えた。

 これ以上、黙ったままではいられない。そんな、眼差し。

「ちっ……」

 泰介が舌打ちして黙ると、葵は毅然とした表情で、さくらをひたと見つめた。

「さくら。お願い、もうやめて。ここでそんなに怒鳴らないで。泰介を責めないで。皆見てる」

「泰介を……なんて? 葵」

 さくらの顔が、意地の悪いものへと歪む。睨みつけて歪んだ顔の口の端に、挑戦的な笑みが浮かんだ。

「葵……っ」

 泰介は泡を食って叫ぶ。葵もはっとした表情で、泰介を見返した。

 まずかった。言質を取られた。葵もしくじった。すぐに気づいたが、もう遅い。

「泰介を庇うんだ、葵。さくより泰介が大事ってこと? ねえ、どうなの」

 葵が、言葉に詰まる。

 ただ、決然とした表情は変わらなかった。焦りだけが、顔にじわりと滲む。

「……さくら。やめてよ、そんな質問。やだよ」

「甘い事言ってないで、答えなよ。葵」

 さくらは追及の手を緩めなかった。

 教室は、今や再び静まり返っていた。

 誰も、何も言わなかった。

 視線だけが、生々しかった。

 ほぼ教室の真ん中で突如勃発した喧嘩に、誰もが目を奪われていた。

 驚愕。心配。好奇。そのどれもが射るように、泰介達へ集中していた。

 矢面に立つ、泰介へ。

 そして、背後の葵へ。

「……っ」

 誰もが、葵を見つめていた。

 切り込むような質問を受け、その質問に答えられずに震える葵の一挙手一投足を、クラスメイト全員が、無言のまま見つめていた。

 その中には、葵の友達の姿もたくさんいた。誰もが葵の言葉をはらはらとした様子で見守り、心配よりも明らかに興味が勝る顔色で、ただただ葵を見つめていた。

 葵は、竦んでいた。無遠慮な大多数の視線に晒され、その鋭さに射抜かれて、身体の震えが伝わってくる。厳しい眼差しでさくらと対峙し続けていたが、隠しようのない焦燥と動揺は、最早何も誤魔化せていなかった。

 葵はそんな状況でも、泰介から手を離さなかった。

 離さなければ、余計に見られる。葵ならそれくらいの事は分かっているはずだった。それでも震える手を頑なに握りこむ様子に、葵の覚悟と意地の、両方を感じた。

 ――逃げられない。

 泰介は悟る。もう、機を逃した。葵を連れて教室を出たところで、最早どうにもならないと知った。クラスメイトをこれほど巻き込んだ喧嘩で、学校に逃げ場などどこにもなかった。学校を舞台にした諍いとはそういうものだ。立ち位置の無くなった方が敗者。あまりにシンプルなルールだった。

 だがそれに則った喧嘩ができるほど、泰介もさくらも器用ではないはずだ。

 何故、と思う。何かが、おかしかった。ストレートな物言いや暴言はいかにもさくららしいものだったが、さくらは泰介よりも周到さが段違いに上だった。

 そして、周到という言葉に思い至った時――ようやく、悟った。

 狙いが、読めた。最初から、さくらは。

 ヒステリックな罵声を思い出し、その挑発にまんまと乗った自分を思い出す。仁科の顔がフラッシュバックし、苛めの一つ一つの陰湿さが脳裏を過った。

 そしてその一つ一つに憤り、仁科の死後勃発した喧嘩騒動を皮切りに、さくらを避け続けた自分達の行動を思い返す。

 網を張られたのだと、ようやく悟った。

 学校で、視線で、人の壁で。

 逃げられないように。そしてもう、逃がさないように。

 泰介達は、今、教室に閉じ込められていた。策謀に、嵌められていた。

 それに気づいた瞬間、突き上げるような怒りが湧き上がった。

「……ふざけんなよ、さく。お前……いつからそんなに腐ってたんだよ」

「……」

「見世物じゃねえんだよ。俺達は。あと、周りで見てる奴らも。言いたい事あるんなら、言えよ。黙ってないで。聞いてやる。吐けよ」

「泰介……だめ」

 葵が、裾を引いた。だが、もう引き下がれないのだ。

 こんなにも人がいて、こんなにも孤独だった。

 泰介と葵は、二人だけだった。学校に閉じ込められてたった二人、手を差し伸べる者は、一人もいない。最初から期待などしていなかったが、おざなりに周囲をぐるりと見回した。

 泰介の恫喝を受けたクラスメイト達は皆、恐れをなしたように視線を逸らし、誰も口を開かなかった。クラスに何人かいるお調子者の生徒でさえ、泰介と目が合うと気まずそうに顔を背けた。殺気立った目をしているのだと、自分でも分かっていた。

 だが理由がそれだけではない事に、泰介はもう気づいていた。

 ――仁科要平。

 修学旅行の翌日に突然命を絶った、泰介と葵の友人。

 その死の記憶がまだあまりに新しすぎて、誰も何も言えないのだ。だから野次が飛んでこない。だから視線に、手心が加わる。この場で中傷と揶揄の雨に降られず、毅然とした態度を崩さないでさくらと対峙できているのは、仁科の記憶が全員に刷り込まれている所為だった。

 それほどまでに、死の記憶は鮮烈だった。

 そしてそれほどまでに、仁科要平の存在感は二年二組で大きかった。

 仁科の存在だけが、今の泰介と葵を守っていた。

 だからこそ、思う。

 異常だった。

 人死にが出た教室で、それでもはっきりと好奇の目に取り巻かれ、それで、何も思わないほど――精神的に参っているつもりは、なかった。

 手が、震える。さくらが女子でなかったら、殴っていたかもしれない。そんな風に思うほどに、今、泰介はさくらが許せなかった。

「葵、答えなよ。泰介とどういう関係なの?」

 さくらが葵を見て、口の端を吊り上げた。さくらがそんな風に笑う所を、泰介は初めて見た。だが初めて見る顔のはずなのに、どこかでそんな顔を見た気持ちも同時に感じた。

 多分、気づいていなかっただけなのだ。見ようともしなかったから、取り零した。都合のいい所しか、見えていなかった。

「どういう、って……さくら、なんでそんな質問……」

 葵は、震え声で言った。

 最早、さくらが何を言いたいのかが分からなかった。さくらを見ても、それは分からない。泣き顔にも笑顔にも見える顔を、悪意で無理やり固めたような、引き攣った表情のさくらの真意が、もう泰介には分からなかった。

 ただ泰介と葵を苦しめる為だけに、閉じ込めている。そんな気さえした。

「さく、止めろ。お前が何言ってんのか、もう分かんねえよ。ってか、俺らの事なんかほっとけよ」

「……ほっとくわけないじゃん。泰介の所為で、全然葵と話もできなくて、追い払われて。それで黙って納得しろっていうの!? わけわかんない! できるわけないじゃん! ふざけないでよ!」

 さくらが頭を振って、泰介をきつく睨め付けた。瞳に宿る憎悪が、刺し貫くようにこちらへ向いた。

「泰介。一個訊きたいんだけど。陸上部、なんで辞めたの」

 泰介はそれを睨み返すと、低く答えた。

「受験勉強。ほっとけよ」

「嘘。顧問に訊いた。……何よ、身内の不幸って。葵が心配だから部活まで辞めるわけ? 泰介、葵の身内なの!?」

「勝手に根掘り葉掘り訊き出してんじゃねえよ。お前、気持ち悪りぃ。あとそれが葵だなんて言った覚えもねえよ」

 激しい怒りに燃えたさくらの目が、はっきりとした嘲りに歪む。

 今ので堪えたかと思った泰介は、手応えのなさに違和感を覚えた。さくらに、余裕が感じられたのだ。

 そしてその感覚は、間違いではなかった。

 次にさくらが放った一言で、泰介はその場に凍りついた。

「泰介。……さく、昨日、泰介が学校帰りにどこ行ったか、知ってるよ」

「!」

 最悪の想像が、脳内で電流のように走った。

 まさか。だがそれ以外考えられなかった。

 ――尾行されていた。

「……っ!」

 怒りよりも先に、鳥肌が立った。そして遅れてやってきた焼けるような憎悪と憤りで、一瞬にして視界が赤く染まった。

 返す言葉など何もなかった。事実だからだ。だがそこまでして自分達を陥れようとするさくらの妄執が信じられなかった。そこまでして泰介を破滅させようとする執念に、肌が粟立つほどの戦慄が走った。

 泰介だけが、憎いのだと思っていた。

 だが、もう違っていた。さくらは標的を見失いながら、葵まで巻き添えにして泰介へ攻撃を仕掛けている。

 もう、何の為の糾弾なのか分からなかった。この断罪に何の意味があるのかも分からなかった。だが、それを一番さくらが分かっていない。切りつけるさくらは既に、目的を見失っていた。付き合いが長いからこそ、泰介にはそれが分かってしまった。

「ねえ。言っていいの? 言われたら、困るんじゃないの? ねえ。泰介。どうなの? ……答えなよ。何、してたの」

 泰介は、黙った。ぎり、ときつく歯を食いしばる。

 もう、何も言ってはいけなかった。ここで黙る事の愚かしさは肯定と同義だと分かっていても、それでも今は黙らなければと、防衛本能がしきりに訴えている。

 感情的になった言葉は、沈黙よりも重い被害をもたらすだろう。自分で、分かっていた。言い繕えない。泰介には、それができない。

 今度しくじったら――本当に、駄目になる。

「さくら」

 葵が、一歩進み出た。そして、静かに言う。

「いい加減にして」

 短い言葉だった。

 はっきりとした、拒絶を孕んだ言葉だった。

 それを聞いたさくらが、少し傷ついたような顔になる。だがそれは一瞬でしかなく、すぐに挑戦的な光を湛えた目が、葵を舐るように見た。

「何、葵。やっと喋ってくれる気になったの? それとも代わりに言ってくれんの? 黙っちゃった泰介の代わりに」

「……っ!」

 握り込む手に力が入り、爪が激しく食い込んだ。葵がそんな泰介の服の裾を、少しだけ引いた気がした。

「言い訳、できるよ。さくらが納得できるような。……でも、教えたくない。言いたくないの。何もさくらに、言いたくない」

「はあっ? 何それ。葵、言えないんだ」

 さくらが声を立てて笑った。

「じゃあ、いいよ。今さくがばらす。それで周りで聞いてる皆もすっきりするんじゃないの? 一週間前から二人して連れ立って、おかしいもん」

「おかしくなんか、ないよ」

「おかしいよ。葵。変わっちゃったじゃん!」

 さくらが顔を歪めた。

 今にも泣き出しそうな顔だった。

「なんでよ、葵、なんでよお! さく、悪くないって言ったじゃん! 信じてくれない葵が悪いんじゃん! 仁科の花瓶割ったのも、お花捨てたのも、さくじゃないもん! なんで信じてくれないの!」

「お前は……っ、まだ、そんなこと言うのかよ……!」

 唐突に飛び出した仁科の名前に、葵が表情を引き攣らせた、その時。


 ぱんっ――と、乾いた音が、した。


 さくらの茶に染めた髪が揺れ、顔が横へ振れる。ゆっくりと頬を抑えて顔を上げたさくらは、驚愕に目を見開いて、目の前に立った人物を見つめていた。泰介も茫然と、その背中へ声を掛ける。

「敬……」

 狭山敬、だった。

 泰介と葵の背後にいたはずの敬が、前へと進み出てきた。

 そして――さくらの頬を、打った。

「あ……え……敬……?」

 何が起こったのか、分からない。そんな様子で目を潤ませながら、さくらは敬を見つめ返す。敬は、泰介達へ背を向けたまま、言った。

「言い訳するの、もうやめなよ。さく」

 微かに、震えた声だった。

「け……敬くん………」

 葵が蒼白になって、敬の背中へ声を掛けた。手がすっと敬の方へ伸ばされかけたが、虚空へ伸びた手が上がりきるより先に、敬は言った。

「知ってるよ。僕は。――さくが、花を捨てたとこ。見てた」

「!」

 クラス中が、凍りついた。

「花瓶割ったとこも見てたけど、言わなかった。びっくりし過ぎて、言えなかった。それでも言おうと思ったら、葵ちゃんに先越されちゃったんだ。……さく、上履きに硝子の破片、残ってたから。僕も気づいてた。葵ちゃんは言わなかったみたいだけど、スカートに花びら、ついてたよ」

「……!」

 さくらの顔が、青ざめた。

「後悔、してたんだ。責任、感じてた」

 敬は、訥々と言った。

 感情のこもっていない平坦な声で、訥々と話し始めた。

「僕は、泰介と葵ちゃんと、仁科君の三人で、修学旅行、行かせるべきだったのに。揉めてるの見て、纏めなくちゃって思って話しかけたけど……うまくできなくて。さくに舵、取られちゃってた。そんな風に助けてもらった事も多かったし、その時は、もういっか、って思っちゃったんだ。……あんまり、こじれたから。纏まったならそれでいいよねって、思った。疲れて、怠けちゃったんだと思う」

「……」

「僕が止めてたら、三人で修学旅行、行く事ができたら。もしかして仁科君、死なないで済んだのかな……って。ずっと考えてた。……だから、もう、嫌なんだ。さくが仁科君の事で、葵ちゃんと泰介苦しめるの。もう、嫌なんだよ」

 敬は、淡々と言った。

「さく。……もう、うんざりなんだ」

 ――感情は、なかった。

 擦り切れてしまっていた。

 こんな風になるまで、敬は誰にも言えなかったのだろうか。抱え込んで、削れたのだろうか。

 泰介の心に、やるせなさが空虚に広がる。自分達の事しか考えていなかったと、もう、気づかされてしまっていた。

 教室は、しんとしていた。クラスの委員長の突然の告白に、誰もが言葉を失くしていた。

 さくらがその場にへたり込み、声を殺して泣き始める。誰も、声を掛けられなかった。重く気まずい沈黙が場を支配して、身動き一つにさえ躊躇を覚える。

 そんな沈黙に、皆が耐えかね始めた時。

「……さくら」

 葵が、口を開いた。

 瞬間、教室が再び水を打ったように静まり返る。葵はさくらを見下ろすと、もう視線を気にする素振りは全く見せずに、さくらだけを睨みつけた。強い意思の目に真っ直ぐ射抜かれたさくらが、顔色をはっきりと怯ませた。

「泰介も言ったけど、私たちは……見世物じゃ、ないよ。だから、さくらにだって何も言いたくない。クラスの皆にも。誰にも何も、言いたくないの。まだ、嫌なの。できないの」

 澄んだ感情を顔に、声に、浮かべながら。葵は教室の真ん中で、言った。

「お願い。――もう、やめて」

 静謐さを帯びた言葉には、さくらを含めたクラスメイト全員への怒りと、友人の死への悲しみの両方が、真摯に織り込まれていた。そんな声が、凛と響く。

 熱が、ふわりと下がった気がした。

 クラスに張り詰めていた緊張も好奇も、何もかもが温度を下げて、すう、と冷たさを取り戻す。

「……」

 クラスメイトの目が、明らかな動揺で揺れた。葵を見ていた何人かが、目線を逸らして俯く。罪悪感にも似た後ろめたさが次々浮かび上がり、そんな表情が、どんどん周りへ広がっていく。

 ――仁科要平。

 葵は名前こそ出さなかったが、全員がきっと、同じ顔を思い出している。

 それを忘れて熱狂した自分達を、恥じているのだろうか。

 葵が、思い出させた。視線を跳ね除けた末の落ち着いた声は、確実にこの場を取り巻く人間の意識を、少しだけ変えていた。

 さくらは葵の顔をじっと見上げていたが、やがてその表情を、さらに悲しげなものへ崩した。

「葵……さくのこと、嫌いになったの?」

「……何も言いたくないって、今言ったよ。さくら」

 葵は、悲しそうに笑った。

 仁科要平がいなくなって初めて、さくらへ向けた葵の笑顔は――あまりにも、綺麗だった。


 言葉にならなかった。


 時間が止まった。その凄絶さに、胸が閊えた。仁科が消えて、泰介は今まで知らなかった葵の顔を既に見た。だが、比較にならなかった。さくらに初めて激昂を見せた時とは、衝撃の度合いが全く違った。

 綺麗、過ぎた。

 あまりにも。

「……葵。帰るぞ」

「……え?」

「ほら、行くぞ」

 泰介は葵を引っ張った。自分の鞄も乱暴に掴むと、葵の席へ寄って葵の鞄も回収する。鞄を二つ提げて、空いた方の手で葵の腕を掴み直し、歩き出す。

 クラスメイトは、何も言わなかった。

 もう、好奇の目はなかった。

 誰もが夢から覚めたように茫然としていて、あるいは痛ましいものでも見るかのように、泰介達を見つめていた。

 どうでも、よかった。

 だが、今日はもう、学校にいる気は失せてしまった。

「……敬くん」

 泰介に引き摺られながら、葵が敬を振り返った。

「ありがとう。……また、明日」

 泰介も、最後に一度だけ振り返った。

 俯くクラスメイトと泣き崩れるさくら。そして、その中央に立つ孤独な友人を振り返った。

 敬は泰介と葵を振り返ると、うっすらと笑った。

 いつもの、敬の笑顔だった。手をひらりと振って、大丈夫だとでも言うように、一つ頷く。

「うん。また明日。葵ちゃん。泰介」

「……さんきゅ。敬」

 泰介もそれだけを言い残すと、もう振り返らなかった。

 葵と二人で踵を返し、すすり泣きの声が響く教室を後にした。

 そして、もう、戻れなくなった。


     *


 行くあてなどなかった。

 学校へ戻る気もなかった。

 泰介と葵はぶらぶらと日中の御崎川をうろついて、市街を抜けた。街に出たところで突出して面白いものなど何もなく、店に入る気もしない。だがだからといって、家に帰る気にもなれなかった。

 早めに葵の家へ行くという選択もあったが、泰介と葵は歩く事を選んだ。

 家にいたら、何となくだが制限時間を設けられている気分になるからだ。

 有限だと、分かっている。その上での疑似的な家族関係。

 夜が来れば、終わる。それを突き付けられる佐伯家にいる事を、選びたくなかっただけかもしれない。

「……さくら。どこまで見てたんだろ」

「……まさか部屋覗いたりしてないよな。あいつ」

「二階を? 外から?」

 葵は泰介を見上げて、くすりと笑った。

「でも、さくらならやりそう」

 さああ、と開けた景色が眼前に広がった。

 行くあてもなく歩いていたら、来た事もないような寂れた公園に辿り着いていた。大きな人口池を真ん中に据えて、柵がぐるりと囲んである。他には芝生が広がるだけで、人の姿も全くない。

「……ねえ、泰介」

「なんだよ」

「ありがと」

 とん、と葵が泰介の前を弾むように歩いていく。そして金属の柵を掴んで池を見下ろしてから、くるりとこちらを振り返った。

「嬉しかった」

「何だよ、それ」

 泰介は、口をへの字に曲げた。

「めちゃくちゃ嫌な思いしただろ。あー。あの野郎。腹立つ。むかつく。ありえねえ。ぜってー許さねえ。男だったらぼこぼこにしてた」

「泰介。かっこよかったよ」

「……」

 葵が、泰介を手招きする。

 そんな仕草をされなくとも、歩いている途中だった。少し歩調を速めて、葵の隣に並ぶ。

 いきなり、両肩に手が乗せられた。

 泰介の肩が軽く下がり、ふわりと、身体が近づく。

 背伸びをした葵の髪が揺れて、視界を塞いだ。風景が見えなくなったと思った途端に額へ唇が触れるのが分かって、身動きができなくなる。

「……おでこ?」

「おでこ」

 とん、と着地するように背伸びをやめた葵が、笑った。

「だって、そうじゃないとちょっと恥ずかしいもん」

 そっちも大概恥ずかしいと言い返したかったが、泰介は何も言わずに俯いて、すぐに視線のやり場に困って水面を見たが、結局そこにも自分達が映っていて、逃げ場のない羞恥で顔が火照る。

「あ、照れてる。昨日は押し倒してきた人が照れてる」

「葵、お前、調子乗ってんじゃねえぞ」

 睨み付けたかったが、こうなったら顔をそちらへ向けるのも無理だった。泰介が柵に手を付いて水面を睨むと、葵も隣で手すりにもたれた。冷たい風が、吹き抜けていった。

 怒りの感情は、もう残滓だけだった。

 敬と、それから葵のおかげだろう。葵は泰介に礼を言ったが、泰介ができた事など些細なものだった。言い返しただけなのだ。そしてそれさえも、最後はできなくなってしまった。

 さくらとはもう、元には戻れないだろう。

 だが、寂しさはあまり感じなかった。代わりに怒りも、少しだけ沈下した。許したわけではけしてなかったが、だからといって恨み続ける事もないだろう。

 多分、あの時断ち切られたのだ。

 葵に。諭すような、笑顔で。

「……ねえ。泰介。ちょっとだけ、仁科の話してもいい?」

 泰介は、葵を振り返る。

 葵は人工池へ身を乗り出すようにして、揺れる水面を見下ろしていた。

「私……仁科、自殺じゃないんじゃないかな、って。そんな風に思ってるの」

「? なんだよ、それ」

「今、なんとなく思ったの。そうだったらいいなって気持ちじゃなくて。もしかしたら、って」

 葵は身体を、さらに少し乗り出した。柵を越えた身体が、ゆらりと前方へ傾いでいく。

「!」

 泰介は咄嗟に手を伸ばし、襟を引っ掴んで葵を止めた。

「おいっ……、何やってんだよ、お前!」

「……ごめん。泰介」

 葵は申し訳なさそうにしながら、それでも何かを訴えるような目で泰介を見た。

「何にも考えないで、ぼんやり見つめてたら……敬くんの言葉、思い出したの」

「?」

 何故ここで敬の名前が出てくるのか、分からなかった。

「敬くん、疲れたって言ったでしょ。もう、いっか、って。諦めたみたいに。あんまりこじれたから。怠けちゃった、って」

「……ああ」

 敬の言葉を思い出すと、罪悪感めいた感情が湧き上がった。

 全く、気づいていなかった。多分、気づいてやらなければいけなかったのだと思う。あんな風に敬が自白する前に、もっとまともな状況の中で話を聞くべきだったのだ。泰介は、そんな風に思う。

「もしかしたら、だけど。……仁科、本気で死ぬ気、なかったんじゃないかな……って」

「……どういう、事だよ」

「落ちてもいいや、って。そんな風に、疲れて。それでうっかり落ちちゃっただけなんじゃないかな……って」

「はぁぁあ?」

 泰介はぎょっとして、葵を見た。だが葵の表情は真面目なもので、冗談を言っている風ではなかった。

「泰介が今、掴んでくれたでしょ? 仁科には掴んであげる人がいなかったってだけで……なんとなく、それだけなんじゃないかなって、そんな気がするの。……だって」

 葵は空を振り仰ぐと、黒髪を風に靡かせながら、ぽつんと呟いた。


「仁科。面倒くさがりだし。……サボっちゃうと思うの。生きるの」


 ざああ、と風が吹いた。

 言葉が――咄嗟に出て来なかった。

 馬鹿げた推論だと笑い飛ばすのは簡単なはずなのに、どうしてか納得してしまった。パズルがぴたりと嵌ったような気持ち良さが、認識となって降ってくる。今までの茫洋とした感情の理由までもが、この瞬間に分かってしまった。

 悲しみもあるだろう。きっかけとなった遺品の事もあるだろう。だが、それだけではなかったのだ。

 きっと、分からなかったからだ。

 何故、死のうとしたのか。仁科は何故死のうと思ったのか。その感情が分からないのが嫌だっただけなのだ。

 何故か、分かった。

 多分、葵は正解を引き当てた。

 これ以上ないというくらいに、正鵠を射た解答。真相はもう確かめられないと分かっているのに、泰介には確信できた。

「葵。それ、間違いねえよ。あいつの死因は、サボり癖だ」

「もう、酷いよね。仁科って」

 葵が、薄く笑った。その目に、涙が滲む。

 滲んだ涙がどんどん溢れて、頬を伝って流れ落ちた。

 葵は、そのまま俯いてしまった。

「……泰介」

「……なんだよ」

「どこにも、行かないで」

「ああ」

「本当に?」

「行かねえよ。行くとこなんか他にねえし」

「……」

「……いるから」

「……うん」

「嘘じゃねえぞ。嘘なんか、ついた事ないだろ」

「……うん。……うん」

「だから、……泣くなって」

「……ごめん」

「……やっぱり、……泣いてもいい。……許す」

「……ありがとう」

 葵が、笑って顔を上げた時。


 吉野泰介の姿は、そこになかった。




「…………泰介…………?」




 一人残された葵の声が、虚空へ響き、溶けて、消えた。


     *


 失踪翌日の早朝に、家族によって警察へ捜索願が出された。

 御崎川高校二年の男子生徒、吉野泰介の行方は杳として知れず、一週間経った今も捜索が続いていた。

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