第53話 タイムリープ・0

 茜色の光と公園。その空間をぐるりと取り巻く灰色の住宅群。

 それだけが、世界の全てだった。

 ざり、ざり、と何かを擦る音がする。砂地の上で何かを引き摺るような音だと思い振り返ると、そんな感想を持った事が、間違いではないと気づかされる。

 履き潰したローファーの爪先が、公園の砂地を抉るように削り、そこに円を描いていた。

 砂の線で囲われた場所は、揃えた両足が入るか入らないかというような狭さだった。描きながら、紺色のプリーツスカートが揺れる。踝の辺りにまで丈の長さが調節されたスカートは、学校の制服だ。見覚えがあるので、知っている。

 少女は、中学生だった。すらりと背が高く、高校生のように大人びた風貌だが、制服の記憶から、間違いなく中学生と分かる。

 その姿は、奇抜だった。金色の髪が、ばさりと揺れる。ストレートの髪は脱色の際に傷んだのか、光沢があまりない。まるで人口毛髪を見ているような嘘っぽさを感じたが、夕陽に照らされた金髪は茜の光から艶を取り戻したかのように、時折きらきらと光った。

 見た目の印象だけで決めるなら、不良と思しき少女。円を一つ描き終えた少女は、そのすぐ隣にまた円を描く。

 小学生の時にやった、けんけんぱを思い出す。一つ、二つ、一つ、二つ。円が並び、描き足されていく。そうやって連なる円の小道が目の前で二メートルほどに伸びた時、少女が振り返った。眉のほとんどない顔が、こちらを真っ直ぐに見る。

 呆れたような、目をしていた。

「やっと、思い出したのね。吉野君」

「……」

 言われてようやく、我に返った気がした。

 吉野泰介は茫然と立ち尽くす自分に不意に気づかされ、眼前の景色に驚いた。

 ブランコ。雲梯、滑り台。砂場。小さな遊具が点々と並ぶ、こじんまりとした公園。その敷地のほぼ中央に、泰介は立っていた。

 こんな所まで歩いてきた覚えなど、なかった。気づけばここに、立たされていた。そしてそんな奇妙な状況にたった今気づくという非現実さに呑まれ、思考が停止する。

 現状が、全く把握できなかった。

 泰介は先程まで、教室にいたはずなのだ。

 さくらと敬が現れて追い詰められた、葵と二人きりの教室。そこへ仁科が飛び込んできて、さらに侑までもが現れ、皆消えた。そして三人だけになった教室で、泰介は葵のリボンを見て――記憶が、戻った。

 蘇った記憶は、驚くほどに鮮明だった。学校を出て、葵と二人、市街を抜けた。そしてどことも知れない公園で、二人で過ごし――泣く葵に、泰介は手を伸ばした。

 だがそこから先の記憶が、泰介にはなかった。

 忘れている、ではない。多分だが、それは違う。理由も確証もなかったが、何故だか違うとはっきり分かる。

 本当に、文字通り――――記憶が、ない。

 すぱん、と途切れていた。まるでそこで寸断されたかのように、そこから先は、何もない。

 唯一、その瞬間に感じたのは落下感だった。急激な落下感が身体を襲い、黒い闇の中へ風を切る感覚と共に凄まじい勢いで呑まれたような、そんな抽象的な感覚だけを、身体が微かに覚えていた。

 そして暗転した記憶が、突如繋がる。

 薄目を開けて、目を覚ます。薄暗い部屋のベッドから見上げる天井の景色と、アラームが鳴るよりも先に目覚めた、あの頭痛を思い出す。

 その連結に、気づいた瞬間――愕然と、した。

 そして、気づけば――ここに、いた。

「……蓮香、さん」

 泰介は、茫然としたまま呟いた。

 目の前の少女の名が、何故か佐伯蓮香だと分かったのだ。

 妙な話だと思う。この蓮香の姿を見たのは一度きりで、それも写りの悪い写真の事なのに。それでも声が、立ち居振る舞いが、目の前の少女の全てが、泰介の意識へ訴えている。

 何故、中学生時代の少女の姿を借りているかは分からない。だが、今対峙している少女は紛れもなく佐伯蓮香だ。それだけは、疑いようがなかった。

「そうよ。あたしは佐伯蓮香。葵の義理の姉」

 泰介の視線を真っ向から受け止めて、挑発的に少女が笑う。

 蓮香が、笑う。

「蓮香さんが……なんで」

 ここに、いるのか。

 そう、言おうとした。だが、その言葉が喉で止まる。

 何故か――不自然ではないと、思ってしまったのだ。蓮香が、ここにいる事が。

 リボンを葵に見せられた瞬間に、過った顔を思い出す。

 蓮香、だった。あのリボンは蓮香が作り、葵に譲ったものだ。泰介はそれを、葵から聞いて知っている。

 そしてその葵が、泰介に託したものだった。

 結局それを、泰介は葵に返さなかった。返してしまったら、余計に傷つける気がしたのだ。葵も泰介へリボンを返すようには言わなかったので、結局泰介は、いまだに葵のリボンを返せないでいる。

「記憶は勿論のこと、あたしの事も一緒に連想したんでしょ。リボン作ったの、あたしだから」

「……。なんで、蓮香さんがここにいるんですか」

 考えを、改めた。泰介は躊躇と抵抗を覚えながら、目の前の少女へ、一度は諦めた質問を自分の意志で投げかけた。

 この際、少女の姿を取っている事はどうでもいい。ただ泰介の記憶についてはっきりと言及している蓮香に対し、何も訊かないわけにはいかなかった。ここで蓮香へ訊かずに逃げる事を、泰介の性格が許さなかった。

 知っている事があるのなら、教えて欲しい。それが今の泰介の、偽らざる本心だった。

 そうでなければ、泰介は――自分が、許せなくなる。

 意地もプライドも葛藤も、今は全て捨て去るべきだ。分かっていたが、それでもやはりできなかった。蓮香と向き合うだけで思わず身構える心が、条件反射で虚勢を鎧う。だが、筋違いだと気づいていた。

 最悪の想像の正しさに、もう自分でも気づいている。

 だからこそ、泰介は確かめなくてはならなかった。蓮香に。この場で。直接。

「……」

 蓮香はそんな泰介を冷淡に眺めていたが、やがて、ふ、と吐息を零し、面倒臭そうに目を細めた。まるで出来の悪い生徒を前にして疲労を隠そうともしない教師のように見え、そんな目で見られた事がこの期に及んでまだ癪だった。思わず、睨み返す。葵の姉を、散々世話になった女性を、泰介は睨み返した。

 だが蓮香は、そんな泰介の態度を気に入ったらしかった。にやりと存外に楽しそうな笑みが零れ、泰介は余計に挑発された気分になる。

「吉野君。今あたしが立ってる場所を、十月だと思って」

「は?」

「いいから、聞きなさいよ。ここは、十月」

 唐突な台詞に面食らう泰介をよそに、とん、と蓮香は地を蹴った。長いスカートがふわりと番傘のように広がり、揺れる。

 ざりっ、と音を立てて蓮香は片足で着地すると、すぐにもう一度弾むように跳躍し、足を開いて着地した。小石が小さく爆ぜて、跳ねた。三度飛んだ蓮香は片足立ちで次の円へと場所を移し、それを繰り返して進んでいく。

 その悠長さを見ているだけで、苛立ちが一気に増幅した。

「遊んでないで、俺の質問に答えて下さい」

「吉野君。その台詞、あんたにそのまま返すわよ」

 蓮香は泰介の目の前を通過するように進み、一番端の円へ到達する。そして泰介を振り返ると、厳しい眼で睨みつけた。

「ぬるい事やってたのはあんたの方でしょ? 思い出すの、遅過ぎなのよ」

「……!」

 せり上がった感情の多様さに、息ができなくなる。そして同時に湧いた凄まじい反発で、頭の中が真っ白になった。

 返す言葉など、なかった。だがそれは果たして蓮香に指摘される事なのだろうか。どこかでやはり筋違いと気づいていながら、一度湧いた反抗心は止まらなかった。泰介は怒りを隠さず蓮香を睨むが、蓮香はそんな視線をものともせずに、続けて言った。

「吉野君。今あたしが立ってる所を、今度は十一月だと思って」

「……っ、蓮香さん!」

「聞きなさいよ。あんたの為にわざわざ説明してやってんのよ」

 蓮香の声に、凄みが滲んだ。

「今、十月から十一月まであたしは進んだ。正常な時間の流れよね。さっきみたいに普通に進むだけで、普通に時間は流れていく。……ここで」

 蓮香はそう言って、くるりと振り返った。長いスカートが、また翻る。

「反対を向いて、跳んだら。十一月から十月に戻る事になる」

「……」

「十一月のあたしが、端っこの十月へ向けて跳んだら。こうなるでしょ」

 とん、と。蓮香が跳んだ。

 ざっ、と砂が舞い、小石が弾ける。

 円を繋いだ小道の真ん中辺りに、蓮香は着地していた。両足を揃えた蓮香は円の内側には立っておらず、爪先で描いた円は、輪郭が擦れて歪んでいた。

「綺麗に着地、できなかった」

 蓮香が顔を上げて、泰介を振り返る。

 真顔、だった。

「でたらめに跳べば、こうなる」

「……」

「そして、こうなったのが、あなたよ」

「!」

 ざああ、と、風が激しく吹き荒れた。

 突如全身に吹き付ける風は砂を巻き上げ、けぶるような粉塵が視界を覆う。細かい砂に目がちかりと痛み、泰介は堪らず腕で目を覆った。蓮香のすらりとした立ち姿が砂埃の中に掻き消え、あっという間に見えなくなる。

「〝ゲーム〟の正体。見せてあげるわ。ついてきなさい」

 そんな声が聞こえた時、世界は既に変わっていた。

「……?」

 急に、静かになったのだ。

 ばっ、と腕を下ろして辺りを見回すと、泰介は目の前に広がった光景に唖然とした。思わず蓮香の姿を探すと、蓮香は泰介のすぐ傍に立っていた。

 腕を組んでこちらを見下ろす蓮香の姿は、今度はジャケットにパンツスーツという馴染みの姿を取っていた。蓮香は無表情のまま、つまらないとでも言いたげな不機嫌さで、泰介の背後を顎で示した。

「ここは、御崎第二中学校。懐かしいでしょ、吉野君。母校よ」

「……!」

 教室、だった。

 泰介と蓮香は教室の一番後ろに、二人並んで立っていた。日は既に沈み、夜の気配が薄々と蒼く満ちた教室に、整然と並ぶ机と椅子。黒板には期末テストの時間配分、科目の順番がのたうつような字で書かれている。

 この光景に見覚えはなかったが、この場所ならば、確かに泰介の記憶にあった。

 御崎第二中学校。

 ここは、泰介の母校だった。勿論、葵の母校でもある。

 そして、同時に――蓮香の母校でもあるはずだ。

「吉野君。見てなさい」

「!」

 蓮香に言われるまでもなかった。

 人が、いきなり目の前を通過したのだ。紺色のブレザーと、同色のプリーツスカートが翻る。二つに結った髪がさらりと揺れて流れていった。

 女子生徒、だった。

 だが、人影は一人ではなかった。

 がたん、と机を動かす音が聞こえ、泰介は二人目の生徒に気づく。今度は男子生徒だ。黒板の横辺りに陣取っていて、掲示物の傾きを直すような動きをしている。

 三人目の生徒は、机の一つの下に蹲っていた。こちらも男子生徒だ。手にはセロハンテープ。机の脚に顔を近づけ、矯めつ眇めつ手元を覗き込んでいる。握り締めた紙片には、何やら細かい文字がびっしりと書き込まれていた。

 四人目の生徒もまた男子生徒で、窓際をうろうろと徘徊し、廊下に立つ五人目の男子生徒へしきりに視線を送っている。そのアイコンタクトを受けた五人目の生徒が、重々しく頷いた。

 ――何をやっているのか、さすがに分かった。

「蓮香さん。……こいつら」

「ふぅん? 吉野君、これ見ただけで分かったの?」

「カンニング」

 吐き捨てるように、泰介は言葉を叩き出した。

「カンニングペーパーをあちこちに仕込んで、テストに備えてるように見えます。違いますか」

「正解」

 蓮香は泰介を見下ろして、挑戦的に笑った。そして視線を、教室内へ戻す。

「努力の方向性を誤ってるこの馬鹿達は皆、あたしが中学二年の時のクラスメイトよ。そして――この光景を、見てた。ここで」

 すっ、と蓮香の指が動き、ぴたりと一点を指さす。

 その時になって、初めて泰介はその存在に気づいた。蓮香の影になっていたから気づかなかったのか、希釈された存在感によって隠されていたのか。少女はそこに、立っていた。


「……蓮香、さん?」


 セミロングの黒髪に、すっと通った鼻筋。モデルのように細い、すらりとした立ち姿。髪色は金色ではなく、スカート丈も普通だ。だからこそ分かりやすい。

 少女は、佐伯蓮香だった。

 中学の制服を着た蓮香の顔色は蒼白で、下ろされた両手は強く握り込まれて震えている。

 五人の生徒が目的を持ってごそごそと動き回る様は、家人の留守宅を我が物顔で這い回る害虫を髣髴とさせた。蓮香の目が、それを凝視している。凝視して、震えていた。激しい怒りと生理的嫌悪が手に取るように分かった。何の関係もない泰介でさえそうだからだ。この光景は当事者であれば、尚更許し難いものだろう。

 蓮香の隣を男子生徒が通過したが、その生徒は立ち尽くす女子生徒には何の関心も払わずに、せかせかと歩き去っていく。他にも何人かが蓮香の前を往復したが、誰も立ったまま怒りに震える女子生徒とは、目を合わそうともしなかった。

 それが、何を意味するのか。泰介はもう知っていた。

 己が、経験済みだからだ。

「――これは。あたしの見せられた〝過去〟」

 少女の自分を見下ろした蓮香は、うっすらとした笑みを浮かべた。

「でも、あたしの場合は吉野君の時よりも、ある意味で状況が悲惨だったの。この佐伯蓮香は、ある致命的な状況に身を置いていた」

 かつん、とヒールの靴音が鳴らされる。

 途端、ぱっ、と白い光が視界を照らし尽くした。

「っ!」

 強烈な光の攻撃から目を守るように、泰介は再び顔を腕で庇った。そして薄らいだ明かりの中で薄目を開けた時、そこはもう学校ではなくなっていた。

 空調の音が、静かに流れる。エアコン特融の調整された空気の匂い。設定温度が低めなのか、ほんの少し肌寒い。

 そこは、白い空間だった。白い壁、白い机、白いホワイトボード。そして壁には白の領域を駆逐せんばかりに貼り巡らされた、ポスターと成績表のグラフの数々。それらが犇めくように並ぶ様は壮観だった。整然と並ぶ机と椅子に、泰介は視線を彷徨わせる。

 学校ではない。だが、限りなく学校に近い設備と環境。

「……予備校? 塾?」

 思わずそう呟くと、蓮香が隣で頷いた。

「あそこで勉強してる子、見て」

 言われるままに泰介が教室の隅へ目を向けると、そこに髪を二つに分けて結った少女の姿を見つけて、驚いた。

「こいつ、さっきの……」

「そう。あたしの友達。実子みこっていうの」

 そう言って、蓮香は目を細めた。その眼差しが意外な程に優しかったので、泰介は思わず面食らう。先程までカンニングの準備を整えていた少女へ向ける目とは、到底思えなかったのだ。蓮香はそんな狡猾さを容認できるような器量ではないはずだ。むしろ、潰しにかかるに決まっている。蓮香は泰介の懸念の眼差しに気づいているのかいないのか、独りでに話し始めた。

「実子って子はね、美術の授業が大好きな、お絵かきばかりやってるような子なの。内気で、ぼんやりしてて、引っ込み思案。人が怖くて、いつもあたしに隠れてるような女の子。あたし、あの子のそういう所、時々すごく嫌いだった。でもほっとけなかったのはなんでかしらね。弱いって思ったから、守らなくちゃって思ってたのかもね」

「……」

「でもそんなのは建前で、不器用なんだからあたしの言う事だけ黙って聞いてりゃいいって思ってたのかもしれない。そんな傲慢が、あの頃のあたしにはあったと思う。今だから言えるけど、多分あたし、この子を見下してた」

 今の話を聞いて、はっきりとした怒気を向けた泰介を、蓮香は振り返らなかった。ただ目の前の少女だけを、じっと真摯に見つめていた。

「あの子がどうして弱いのか。……考えようとした事なんて、多分、この日までなかったのよ」

 泰介は、実子と呼ばれた少女を見る。

 少女以外に、ここには誰もいなかった。少女はホワイトボードの一番近くへ陣取るように座っていて、一心不乱に問題集を解いていた。

 かりかりかりかり……シャーペンがノートを削るような音が、途切れる事なく響く。それほどにここは静かだった。無人の塾の一室で、少女は誰にも顧みられる事なく、目の前の問題だけに没頭していた。

 まるで、戦っているようだった。勉強という一言では片付けられないほどの切迫感には、走る先から道が崩れて追い立てられていくような絶望を感じさせた。少女の凄惨な学習の姿勢に、泰介は僅かに怯み――やがて、驚いた。

 俯く少女の目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。

 ぱたっ、と落ちた涙がノートに染みを作り、紙が歪む。そうなって初めて少女は手を止めて、シャーペンを取り落とす。かつん、とそれがノートの上を跳ねて転がり、手で顔を覆った少女がしゃくり上げた。

 手で顔を隠す前に見えた少女の顔は、苦悶と恐怖で歪んでいた。

「……言ったでしょ。美術が好きな子だって。他の事はあんまり得意じゃなかったの。細かい作業以外の要領はすごく悪かった。勉強は平均くらいにはできる子だったけど……平均では、実子の両親は納得しなかった。優しい子なの。文句なんて、言わなかった。努力しない自分が悪いんだって決めつけて、親が望む程に上がらない成績に悲しみながら、毎日ぼろぼろになるまで勉強してた。要領が悪いって言ったでしょ。成績、少しずつしか上がらなかったのね。それで余計に怒られて、でも不平不満は言わない。そんな状況を、あたしは何も知らなかった。この子、睡眠時間ほとんどなかったの。ぼんやりしてるのは、全然眠れてなかったからなのに……弱い所為だって、思ってた」

「……」

「……もうすぐ、来るわ」

 蓮香の言葉が終わらないうちに、ばんっ! と大きな音を立てて扉が開け放たれた。

 ――入り口に、佐伯蓮香が立っていた。

 蓮香の目はどこか虚ろで、明らかな疲労が濃い隈となって浮いていた。黒髪を乱し、壁を支えにするようにしてふらふらとやって来た蓮香は、やがて室内に座る級友の姿に目を留めた。見られた少女は、固まっていた。

「はすか、ちゃ……」

 か細い声を、少女が絞り出した時。

 がつっ、と強く、少女の手首が掴まれた。

「!」

「行こう」

「え?」

「行こうよ。あんたが誰か、やっぱり全っ然分かんないけど。マトモそうなの、あんた一人だけじゃない。誰も来ないし。お腹すいたし。人に会ってもわけ分かんないし。家族もわけ分かんない事言ってるし。ここさあ、ほんと何なの? ねえ、知ってるなら答えなさいよ」

「蓮香ちゃん……?」

「ここいても、つまんないでしょ。――っていうか! お腹すいたんだけど、あたし!」

 がばっと蓮香は顔を上げると、掴んだ少女の手を引っ張った。「ひっ」と少女が悲鳴を上げたが、蓮香は問答無用で少女を机から引き摺り始めた。

「あああああ、もう! 勉強なんかクソつまんないわ! あんたも本当はそう思ってるんでしょ! ほら、こんなとこ出よう! もう一秒だっていたくない!」

「あ、あの……でも、まだ終わってな……」

「そんなもん、知るか!」

 必死の抗弁をする少女を、振り返った蓮香が一喝した。

「つまんないしお腹すいたって言ってんのよ! あんたもご飯まだなんでしょ! どうやって生きてく気なの! 食べないで何日ここに詰めてる気なの! 馬鹿なの!? 死ぬわよ! 死んでもいいの!? あたしは嫌よ!」

 蓮香が扉まで少女を引き摺る。そしてカブでも引っこ抜くような乱雑極まりない勢いで少女を引っ張り、教室から剥ぎ取るように連れ出そうとする。

「帰ろう! もうこの際どこでもいいから! 一緒に! ええと……誰だっけ」

「……実子、だよ。蓮香ちゃん」

「ずっと気になってたけど。なんであんた、あたしのこと知ってんの? まあ、聞いても分かんないだろうけど」

 少女の目にはまた涙が浮かんだが、頭を振ると、笑顔で蓮香の手を取った。

「うん。知ってる。友達だから。……蓮香ちゃんと、帰る」

 晴れやかに笑う少女の足が、教室から完全に出た時。

 視界が、真っ白に染まった。

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