第40話 舞台裏・葵と泰介

 吉野泰介の三日ぶりの登校は、八時十五分だった。

 陸上部の朝練に積極的に参加している泰介が、始業十五分前に教室へ直に登校する。それだけで二年二組の教室は俄かにざわめき、好奇と気遣いの両方の視線が泰介へ無遠慮に向けられた。

 向けられた等の本人は露骨に嫌そうな顔をして、「お前ら気持ち悪りぃ。こっち見んな」と気安い友人達には文句を飛ばしている。

 頬はまだ、少し赤い。だが見る限り元気そうなので、快方に向かってはいるのだろう。佐伯葵は、ほっと安堵の息を吐いた。

 ふと、そんな泰介と目が合う。着席した葵は秋沢さくらと雑談を交わしている途中だったが、泰介へ笑顔を向けて、「おはよう」と手を振った。

 葵の挨拶にさくらも顔を上げて、教科書を机の中へ押し込んでいる途中の泰介へ、「あーっ、病み上がりさんおはよー!」と快活に叫んだ。

 泰介の顔が、みるみる赤く染まる。元々朱のさした頬は、今や茹るように真っ赤だ。

「うるせぇよ!」

 ずんずんと大股でさくらへ近寄った泰介が、怒りも露わに手にしたノートを振り下ろそうとする。きゃあと叫んださくらが「泰介こわーい」と笑い飛ばした。葵は思わず、苦笑した。

「さくらってば。元気になってよかったじゃない」

「あはは、まあねー」

 泰介としては、あまり触れられたくない話題だと分かっている。早めに切り上げてあげたいが、葵がやんわり諭しても、さくらの瞳からはまだ悪戯っぽい光が消えない。

「もう、悪乗りしすぎ」

「いいじゃん、葵。泰介が風邪なんて珍しいんだからさぁ。しっかりからかっとかないと。馬鹿は風邪引かないとか言うけどさあ、あれって嘘だったんだねえ」

 泰介のこめかみに、びきびきと青筋が立った。

「さく、お前なんかおたふく風邪なってただろうが! 人の事からかえる面じゃなかっただろ!」

「そんなの覚えてませーん。泰介が女子の顔をおたふくって言ったぁー最低ー」

「たらたら間延びした喋り方してんじゃねぇよ、うぜぇ!」

 壮絶な言葉の応酬が始まった。葵は慌てて、二人の間に割り込む。

「泰介も。病み上がりなんだから安静にしないと。怒ってばっかじゃ身体に障るよ? それにおたふく風邪、泰介もなったことあるじゃない」

「お前はどっちの味方なんだよ、葵」

 泰介に恨めしそうに睨まれたが、葵としては十分助け舟を出したつもりだ。それに、いくら宥めてもさくらと泰介では平行線だろう。どちらも並外れて好戦的な性格なので、今のようなじゃれ合いでも結構な延長戦になる。今回もそれは止められそうにないらしい。そんな二年二組の日常が戻ってきたのが嬉しくて微笑んでいると、泰介が再び葵を睨んできた。

「お前まで、俺を珍しいとか言うんじゃねぇだろうな」

「ううん。言わない」

 葵は首を横に振る。クラスメイトの皆は珍事のように受け取りがちだが、泰介が季節の変わり目によく風邪を引くのは付き合いが長いので知っていた。さくらも知っているはずなのだが、こちらは忘れているか、泰介をからかうのに忙しいのだろう。

 泰介は、飴玉を呑んだような顔をした。覚えられているとは思わなかった。そんな顔だ。泰介は本当に、考えている事が顔に出る性質だと思う。葵はほんの少しだけ笑ってしまった。二度も笑われた泰介は不本意そうな顔をしたが、今日くらいはこんな風に笑っても、罰は当たらないと思う。

「よかった。だいぶ元気になって」

「……」

 泰介が、葵を見下ろす。徐々に好戦的な光や戸惑いが失せ、真顔になる。

 葵もすぐにその変化に気づき、顔を上げた。

 無言で見つめ合う二人に、さくらが首を傾げた。

「どしたの、二人とも」

 葵も泰介も返事をしなかった。無視をするつもりはなかったのだ。だが、あまり耳に入っていなかった。さくらの目を気にした葵が先に俯き、泰介もそれに倣うように目を逸らした。さくらが視線を交互に動かす小動物のような動作だけが、視界に入る。葵は顔を上げたくなく、表情を見られたくないのは泰介も同じだったらしい。泰介は「葵」と呼ぶと、踵を返した。

「来いよ」

 短い、指示だった。葵は黙ったまま、席を立つ。

 さくらが慌てた様子で「葵? 何? どしたの?」と言ったが、葵は「ごめん」とだけ言い残した。それを言う自分の声が、不自然なものでないか。それだけが気がかりだったが、葵はそれ以上さくらに対して取り繕う余裕もなかったので、悪いと思いながらも振り返らずに歩いた。

 泰介と連れ立って教室を出る葵を、何人かの生徒が目で追った。幼馴染という事は公言しているので皆知っているはずだが、二人きりで行動するとなると、時折こういう風に見られてしまう。さくらと泰介ではあり得ないのに、葵だと何故かそう見られる。行動が何かと鈍い所為で泰介に助けられる事が度々あるからかもしれないが、理由はよく分からなかった。

 泰介は視線に気づいていないのか、気にも留めていないのか、何とも思っていない風に見えた。何となく、前者な気がする。気にしても仕方ないので葵も同じような態度を取っているが、今日は、視線が少し気になった。

 弱っている。そう思う。それを病み上がりの泰介に見抜かれたのが何だか情けなくて、葵は肩を少し窄めた。

 二年の教室が並ぶ階を降りて、渡り廊下を二人で歩く。校舎と校舎を繋ぐ廊下の真ん中辺りまで歩いた所で、泰介は立ち止まり、振り返った。

 その顔は予想通り、不機嫌を色濃く滲ませたものだった。

「何だよ」

 泰介は言う。これではガンを飛ばす不良のようだったが、葵にはそれで意味が通じた。

 今のは、質問だ。泰介には敵わなかった。葵の笑顔はそんなにも、人に看破されやすい無理のあるものだったのだろうか。ふとそれを訊ねてみたくなり、葵は質問の答えになっていないと知りながら、言った。

「ねえ。そんなに、無理してるように見えた?」

 泰介は、途端に決まり悪そうな顔になった。葵としては答えが欲しかったが、泰介には話す気がないらしい。そんな幼馴染の考えが手に取るように分かり、葵は笑った。こんな風に笑えば気遣う泰介は余計に苛立つに決まっているのに、それでも笑ってしまった葵は、やはり本調子ではないのだろう。

「……何もないなら訊かねえし。俺に話せる事じゃないなら、やっぱり訊かねえけど。なんだよ、お前。三日前と顔全然違うじゃん」

「顔?」

「……雰囲気?」

 泰介は頭髪をがりがりと掻きながら、「あー」と苛立たしげに呻くと、葵に背中を向けた。

「なあ。それ、俺が訊いてもいいんだろ? 早く吐けよ」

「……」

 そんな風に言われるのは、困る。本当に、困ってしまう。葵はぼんやりと笑った。嫌がられるだろうと思ったが、笑う事しかできなかった。

「私……、……ごめん。自分で決めなきゃ、いけない事だから。泰介には」

「吐け」

 泰介が振り返った。

「それ。聞かせろ」

 ――ああ、と思う。

 今の会話だけで、分かった。バレたのだ。泰介に。葵の抱えたものが何なのか。泰介は不機嫌を一層深めたような顔で葵を睨むと、「何だよ」と最初の質問を繰り返した。

 泣きそうに顔が歪んだのが、自分でも分かった。

 葵はスカートのポケットを弄ると、そこに入れていた紙片を握り締める。貼り合せた紙の角が指先にちくりと触れ、つるつるしたセロハンテープの継ぎ目が指の腹を撫でた。

 ポケットから引き抜く、ぎりぎりまで躊躇した。これは、たとえ泰介が相手でも、人に見せていいものなのか。その判断を、この期に及んでまだ躊躇う。だが同時に、泰介以外に見せられる人もいないのだ。

 泰介だけが、知っていた。他の友人は、誰も知らない。

 そしてその泰介が、むっとした顔を崩さないまま、葵を待っている。待ってくれている。葵は迷いを振り切ると、それでも吐き気がするほどの緊張で胸がいっぱいになるのを感じながら、握り締めた紙片を取り出し、泰介へ差し出した。

 それは、手紙だった。

 だが、ただの手紙ではないと一目で分かるような有様だった。泰介の目が手紙へ吸い寄せられ、そのあまりの異様さに顔がはっきり強張った。

「私……、養女だったって、前、分かっちゃったでしょ。泰介が、前に付き合ってくれた時に」

 言葉尻が、どうしようもなく震えた。

「……ああ」

 泰介は、硬い表情で頷く。そして手紙を葵から奪うように掴み取ると、慌ただしい手つきで広げた。



佐伯葵様


一度でい  あ たに会い 

本当はこ して な     さえ罪 いこと  承知し います。

ごめんなさい。謝って済む問 では   れど、   許  欲し

叶うなら私は、あなたと一緒に暮らしたいと考えています。でもそれを言う資格が私にないの は、分かっ

あな  姉  の  も、話し  の。

十月二十八日、萩宮  構内の喫茶店、***で待っています。

葵。

会いたい。

                                棚橋円佳



「……」

 俯いてそれに目を通した泰介は、葵の目の前で、その手紙を握り潰した。

 ぐしゃり、とあっけない音を立てて、セロハンテープで継ぎ接ぎされた手紙に皺が寄る。ぎりぎりとそれを潰しながら、泰介が葵の顔を見た。

「私の……ううん」

 葵は、首を振る。

 そして、言い直した。

「私を、産んでくれた人」

 告白の声は授業開始前の喧騒に掻き消え、怒りに震える泰介の耳にだけ、届いた。

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