第39話 駆け引きの名前

 葵は、教室で悶々とした時を過ごしていた。

 一人だけすっきりと片付いた席に着いて、何度もそわそわと時計を見上げる。

 こんな所で、授業を受けている場合ではなかった。教室を何度も出ようとしたが、その度に周囲の生徒に代わる代わる話しかけられ、最後には教師に引き留められた。その異常にすっかり身体が竦んでいたが、泰介と仁科の事を思うと焦燥が胸の内で膨らんだ。

 何故、ここに連れ戻されてしまったのだろう?

 幾度目かの自問の瞬間、一時間目終了のチャイムが鳴った。がたがたと席を立つ音が響き、生徒がまばらに立ち上がる。葵も当惑しながら席を立ったが、またしても脱出は叶わなかった。

「葵!」

 緊張が走った。さくらだ。自分の席からこちらへ向かって、満面の笑みで走ってくる。葵は普段と何ら変わらないその行為に、血が凍るほどの恐怖を感じた。

 ――どこにもいかないでよ、葵。

 台詞が、リフレインする。さくらは椅子にへたり込む葵の元へ来ると、「さっきの授業眠かったぁ」と欠伸をして、とん、と机に手をついた。

 さりげなく、行く手を阻まれた気がした。錯覚かもしれない。だが怖かった。〝ゲーム〟が今どんな風に舵を取っているのか全く読めず、先の分からない恐怖が目の前の友人への恐怖に拍車をかけていく。

 葵はどこかで、〝ゲーム〟を楽観していたのかもしれない。自分に理解できる筋が見えたから、解決は簡単だと。その慢心が、この結果を招いたのだろうか。

 ぎゅ、とスカートのポケットを握りしめる。蓮香からもらった青いサテン地のリボンを、今はそこへ入れていた。だが少し長めに尺を取ったリボンはポケットに収まりきらず、生地が少しはみ出ている。また落とす心配があるので、腕にでも括り付けた方がいいだろうか。そんな風に考えていた矢先だった。

「ねえ、葵ってば。聞いてるの?」

 さくらが、声を荒げた。

「……!」

 びくりと顔を上げると、さくらの顔からすっと表情が抜け始めた。

「葵、さくの話聞いてくれてなかったでしょ」

 先程と同じ豹変だった。仁科の名前が、挙がった時と。蒼ざめた葵は「……さくら、ごめん!」と謝った。話が通用するのかさえ最早怪しかったが、今は低姿勢を貫くしかなかった。

 さくらは無表情だった。特定のワードに反応して喜怒哀楽が切り替わるような人間味を欠いた反応は、機械を相手にしているようだった。葵はがくがく震えながら、今の哀願が届くのを祈るしかない。

 ――ほんとに、さくらなの?

 そんな疑問が頭をもたげると、さくらが、酷薄な笑みを浮かべた。

「そうだよね。葵、優しいもんね。さくの話無視するなんて、そんな事するわけないよね……?」

「……!」

 葵は、立ち上がった。緊張と恐怖が臨界点を突破した。さくらの声は笑みを含んだものだったが、瞳は冷たい輝きを帯びたまま、葵を爛々と見つめていた。

 さくらじゃない。確信が、強固なものへと変わった。

「葵。どこ行くの?」

 かちかちと、歯の根が合わない。後ずさると机に腰がぶつかり、足は誰かの鞄を蹴った。それを謝る余裕もないまま、葵はじりじりと後退した。さくらは空いた距離だけ詰めるように、葵へ数歩、近寄った。

 ――泰介……!

 泣きそうになる。本当ならばここにいるはずの幼馴染のクラスメイト。屈託なく笑う顔に、怒りに染まった強い眼差し。

 だが、泰介はいない。

 葵が、探さなくてはならないのだ。

「……っ!」

 覚悟を決めた。

 全力で駆け出すと、さくらが「あっ」と叫んだ。人間を擬態したような温度のない声が、走る葵の背を叩く。教室中の視線が、ざっと音を立てて葵へ集まり、三十以上もの人間の視線がこれほど凶悪だと初めて知った。リボンが翻り、髪が頬を叩く。そして目前に迫った引き戸へ、葵が手をかけた時だった。

 横合いから、手首を掴まれた。

「! や……っ!」

 乱暴に掴まれた手が上へ引っ張られた。びん、とセーラー服が引き攣れたように上へ思い切り捲れ上がり、裂くような衣擦れの音が響く。僅かに露出した肌に冷えた風が抜けた。それに動揺する暇さえ与えられないまま、高く吊るされた右手首が、容赦なく、締め付けられた。

「あ……っ、ああぁ……!」

 何者かの爪が袖の生地越しに食い込み、万力のような力で手首をきつく絞め上げた。鬱血しそうなほど握られた手首は熱を帯び、対照的に指先は冷えていく。

 足は、既に爪先立ちだった。右手だけで吊られた身体が揺れて、どん、と扉へぶつかる。嵌め殺しの窓が振動し、木枠が軋んだ。傾いだ身体は振り子のように再度揺れ、吊り上げた主の胸元へぶつかる。視界が黒く染まった。学ランだ。葵はその時初めて手首を掴んだ顔を見る。

 そして、混乱した。

 葵を掴んでいたのは、クラスメイトの男子だった。だが名前が分からない。顔に見覚えがあるだけだ。葵とてクラスメイト全員の名前を把握しているわけではなく、痛みで白濁してきた意識を総動員しても思い出せない。

 それくらいに、他人だった。それほどまでに佐伯葵と接点のない生徒が、今、葵の手を掴んでいる。

 今更、気づいた。教室が、異様に静かだった。

 爪先立ちの身体が揺れて、濁った視界がぐらついて――目が合った。

 クラスメイト達が全員、葵を見ていた。まるで処刑直前の囚人を眺めるように、光を返さないたくさんの目が、葵を冷淡に見つめていた。その異様さに慄いた瞬間、急に手が離された。

 玩具から興味を失くした子供のように放り捨てられ、支えを失くした身体が、膝から折れて崩れ落ちる。外気に触れた患部に壮烈な痛みが走り、葵は悲鳴を殺して床で震えた。横倒しになった葵の身体を、その生徒が徐に蹴飛ばした。

「!」

 どす、と鈍い音が響く。

 腹に、まともに入った。ひゅう、と呼吸が細く気道を抜けた。

 身体が、九の字に折れる。その蹴りは戯れに小石でも蹴とばすようなものだったが、鈍痛がぞわりとした嫌な手触りとなって、内臓へ波紋のように広がった。おぞましい感触に、汗がびっしりと身体に浮いた。葵は目尻に浮いた涙を堪えながら、突然の被虐体験に為す術もなく震えていた。

「葵。逃げないでよ」

 声が、呼ぶ。横倒しになった視界に、上履きを履いた足がたくさん映る。その一つがこちらに近づいてくるのに気づき、葵は頭が真っ白になる。

 これ以上何か、まだひどい事があるのだろうか。

 だが、動けない。蹴られた身体は麻痺したように鈍くしか動かず、指先は痙攣した。呼吸を焦れば咽返り、這うように逃げてもまるで進まず、もどかしさが焦りに繋がり、確実にこちらへ近づく人影への恐怖が加速する。

「……たす、け、て」

 ――これだけは、言わないと決めていた。

 最初にそう決めたのはいつだったのか、まだ覚えている。

 母の病気が分かった時だ。

 自分は大丈夫だと、祈るように言い聞かせたあの時。助けられた葵は、それでもやはり言えなかった。

 怖かったのだ。手を伸ばす事が。曝け出した弱さを拒絶されてしまったら最後、本当に自分は大丈夫ではなくなる気がした。

 今でもまだ、怖いと思う。

 ――そんな弱さが、何より嫌いなのに。


「――――助けて、泰介ええぇぇぇ!」


 泰介は、失望するだろうか。

 いつまで経っても弱い葵に、失望するだろうか。

 だが助けてと言わなかったら、もっと怒られる気がした。

 怒った顔ばかりが想像できて、必死になって助けてくれると、何故だか信じる自分を感じ――こちらへ伸ばされるさくらの手を、見た。


     *


「学校行くぞ、仁科」

 泰介は背後を振り返ると、仁科へ言った。それを聞いた仁科はゆるゆると顔を上げ、気だるげに答えた。

「学校? どっちの」

「御崎川に決まってんだろ」

 泰介は叱咤するように叫び返した。

「葵は萩宮に関係ねえだろ。いるとしたら御崎川くらいしか思いつかねえよ。ほら、行くぞ」

 肩からずれた葵の鞄を提げ直すと、泰介は丁度今来たばかりのバスに目を留め、仁科を急かす。

 ――仁科にはああ言ったものの、泰介の内心はけして明るいものではなかった。

 〝アリス〟が、誰なのか。誰であっても守ると言ったのは自分だ。その言葉に嘘はなく、紛れもない泰介の本心だ。

 だが、誰でもいいわけがなかった。

 一刻も早く、正体を明かさなくてはならなかった。全員の安全を泰介一人がいつまでも保障できるわけもなく、限界はいつか必ず訪れる。事態は既に、無謀な自衛や正義感だけで何とかなる問題ではない気がした。

 修学旅行の記憶が、蘇る。

 あの時のフラッシュバックが、棘のように胸に閊えた。

 ――本当に、いいのか。

 泰介は唇を噛みしめながら、自問する。仁科に訊かないまま、気遣いで答えを手放し、手がかりを見失う。それで、本当にいいのだろうか。

 葵がどこにいるのかも分からない現状で、仁科の状態が不安定で、その危うい均衡を崩す事を躊躇う心が下したこの選択は、本当に正しかったのだろうか。

 仁科を見守りながら流れる時間が、もどかしかった。

 見つからない葵の存在が、ずっと思考を急き立てた。

 泣き顔の、フラッシュバック。葵がひどく、泣いていた。

 何故、泣いているのだろう。今日こんな風に自問するのが何度目なのか分からない。それほどに泣く葵の姿ばかりを思い出す。肝心なところは何一つ思い出せないままなのに、葵の悲しみばかりが記憶に焼き付いて離れない。

 そんなにも、鮮烈な記憶だったのだろうか。

 では何故、泰介はそれを忘れてしまったのだろう。

 苦しかった。思い出したかった。思い出せそうなのに思い出せないのがひどく歯痒く、自分の事が腹立たしかった。思い出せなくても分かるのだ。自分が失った記憶が、どれほどかけがえのないものなのか。そしてそれが分かるから、こんなにも許せない。

 ――このままで、いいのだろうか。

 仁科に何も訊けないまま、時間の流れに身を任せ、悪戯に〝ゲーム〟を進行させて、それを指を咥えて見つめたまま、仁科への配慮という名目で、諦めてしまっていいのだろうか。

 訊かないままで、このまま、終わる?

 決まっている。

 いいわけがない。

「仁科」

 泰介は、バスに乗り込む乗客の最後尾に付きながら、仁科を振り返った。

 心ここにあらずといった様子でついてくる仁科の顔色は相変わらず青く、泰介の呼び声が聞こえているのかも怪しい有様だった。「仁科」と再度呼ぶと、緩慢な動きで仁科は泰介を見る。朝の光を空虚に映す瞳は虚ろで、疲れた薄ら笑いで「何」と素っ気なく言った。

 そんな仁科を見ながら、泰介は痛む心を無視し、拳を握り締める。

 傷つけない努力。

 それは、もうできなかった。

「……俺らが、帰った後の事だけど。葵達と約束してた事があるんだ。皆で出かける。それ、お前も来いよ」

「何だ、それ。吉野が遊びの誘いなんて、珍しい事もあるもんだな」

 仁科は空虚な笑い声を立てて、「前」と泰介の前方を指さす。泰介は進んだ列に気づくと大股で遅れを取り戻し、「たまにはいいだろ」とぶっきらぼうに言った。

「女子はカラオケ行きたいって言ってる。何人かで行くって話だぜ」

「なんでそんなのに、お前は俺を誘うかな。面倒だからいい」

「一応最後まで聞けよ。メンツ言うから」

 泰介は、振り返らない。バスのステップを上がり、整理券を抜き取る。

「まず俺だろ。吉野泰介」

 もう一段上がり、背後の仁科がそれに続く。停車したバスの振動が身体に伝わり、排気ガスの匂いが鼻腔を掠めた。

「佐伯葵」

 ステップを上がりきり、バスに乗り込む。

「狭山敬」

 ラッシュを過ぎた車内は空いていて、前方の座席も空いていた。泰介はそちらへ歩きながら、背後の仁科を意識する。

「舟木朝子」

 名前を、迷う。

 どちらを言うか、最後に迷う。

 その迷いを一瞬で断ち切って、泰介は言った。


棚橋円佳たなはしまどか


 仁科の反応は、あっさりとしたものだった。

「お前と佐伯以外、本気で誰か分かんないんだけど。吉野、ほんとになんで俺を誘うんだ」

 ああ、と思った。

 そうか、仁科は。

「……そう言うと思ってたぜ。お前、人の名前覚えないもんな」

「それにしたって、聞き覚えない名前もあったと思うんだけど」

「主席の仁科要平の記憶力も堕ちたもんだな」

 二人掛けの座席へ座ると、泰介は隣に座る仁科を盗み見た。

 僅かに、訝しそうな顔。だが不自然なところは何もない、仁科要平の顔。

 泰介は、確信する。

 仁科は、何も。

 掴み損ねた手がかりの欠片を追うように、泰介は窓の外へ視線を馳せた。

 記憶があった方がよかったのか、それとも失くされて尚藪蛇にならなかった事を安堵しているのか。緊張で麻痺した感情が癇に障り、慣れない腹芸に手を染めた自分を詰るように、泰介は重い溜息を吐き出した。

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