第41話 名付けられない心
葵は薄目を開けて、辺りをそっと窺った。
普段、こんな風に教室を見る事はない。だからつい、見入ってしまう。
蛍光灯の高さが普段見るよりずっと高い位置にあり、等間隔に並ぶ机と椅子を、木々を振り仰ぐように葵は見上げた。すぐ横が窓際の壁なので、良く晴れた空も見渡せる。
まるで、小人になったようだと葵は思う。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に、そんな薬があった。身体の大きさが変えられる、劇薬。ただ、実際に葵が置かれている現実は、そういった可愛さとは程遠いものだった。
床に転がされてから、どれほど時間が経っただろう。
そもそも、〝ゲーム〟が始まってからどれほど時間が経っただろう。
時間の概念が擦り切れて、空腹感も分からない。不思議なものだと思ったが、案外そういうものかもしれない。葵は寝返りを打つ要領で、そっと身体を傾けた。
ぎしり、と。床が小さく軋る。
その音に少し動揺したが、さほど大きな音ではなかったのでほっとした。拘束されているのが腕だけの為か、思ったよりも自由が利く。こんな事ならもっと早く動けばよかったとも思ったが、先程まで腹部と腕の痛みで蹲っていた自分にできる事があったとは思えない。
なんとか上体を起こそうと頑張るが、重い痛みに思わず呻く。まだ、腹部に鈍痛が残っていた。だいぶ薄らいではいるもののまだ根強く残る痛みと格闘しながら、葵は床に肘を押し付けて、ほうほうの体で上体を起こす。とん、背中を窓際の壁へともたせ掛けたところで安堵の息を吐くと、葵は辺りをもう一度見渡した。
誰もいない、空き教室。
葵はそこに、転がされていた。
腕は後ろ手にリボンで縛られていて、思うように動かせない。
「……」
黒いセーラー服の空っぽの胸元を見下ろすと、何となく空虚な気持ちになる。黒一色となった制服は御崎川高校のものではないようで、少し奇妙な感じがした。それでも、あれ以上の暴行がなくてよかったという安堵の気持ちが、ぽっかりとした空虚を埋める。
引き絞られた手首に、リボンが擦れるのが痛かった。だが気になったのは最初だけで、今は当て布のように捉えていた。外気に触れるのが辛かったので、返って気が紛れていたのは事実だ。
多分、場違いなくらいに暢気なのだと思う。
――葵は拘束された後、この空き教室に置き去りにされていた。
『逃げないでね。……夕方までここにいてくれたら、何もしないよ』
そう念を押して引き上げていったクラスメイトの言葉を最後に、扉はぴったりと閉じられた。手さえ自由が利けば逃げられるかもしれないが、もし扉を開けた際に人影があった場合、先程の二の舞になってしまう。扉は近くにあるが、葵には開ける気になれなかった。人を一か所に閉じ込めるなら、恐怖を叩き込むのが一番なのかもしれない。
とはいっても、恐怖だけの感情で、そうしているわけではなかった。最初こそ葵は恐怖で震えていたが、その感情は既に放置した炭酸水のように抜けていた。虚脱状態に近いのかもしれないが、それも何だか違う気がする。
孤独に、時間を過ごす。
たった一人、誰もいない教室で、思考以外にする事もなく、時間を浪費する。
単調に流れる時間の流れは、世界から自分が弾き出された疎外感にも似た気持ちを葵に抱かせ、同時に誰の目にも触れない状況に置かれた事が、心に安堵を齎した。葵は先が分からない状況に戸惑いながらも、静寂の中で落ち着きを取り戻し、ずっと〝ゲーム〟の事を考えていた。
〝ゲーム〟の事。
そして、泰介の事を、考えていた。
昨日の、事だった。
風邪で病欠を続けていた泰介が、学校へ戻ってきて、すぐの事。
そして、それよりもずっと前の事も。
御崎川高校に通い始める、ほんの二か月ほど前の事だった。
葵の我儘に、泰介を巻き込んでしまった。
あの時も、確か同じだった。
葵の挙動不審を見抜いた泰介が、突然声を掛けてきたのだ。
さくらに、言われたのだ。
自分の血液型を知らないなんて、おかしい、と。
その台詞がずっと頭から離れなかったのは、多分、葵の気にし過ぎだ。さくらに悪気がない事は分かっていたし、純粋に思った事を口にされただけだった。それを聞いて傷ついたのは、完全に葵の都合だった。
時々。
本当に、時々。
葵は知らない人から、話しかけられる事があった。
指をさされ、ちらちらと見られる事もあった。
それは大人の時もあれば、自分とそう変わらない年の子供の時も多かった。葵の知らない人が葵を指でさして、何事かを囁き合う。そしてじっと、見つめている。話しかけられても、何の事か分からない。
怖かった。
笑われたような気がしたのだ。
それが被害妄想だと分かっていても、心はその度に傷ついた。次第に他者が恐ろしくなり、一時葵は口数が激減した。
日に日に憔悴していく葵の姿は、最早誰の目にも明らかだった。さくらには心配され、他の友人にも気遣われた。皆に心配をかけたのが申し訳なくて取り繕った笑顔が、さらに葵を追い込んでいく。
このままではいけないと分かっていた。だがそれ以外の自衛を葵は知らなかった。限界が最早秒読みだと、途中から気づいていた。それでも止まれなかった。
誰かに相談すればよかったのかもしれない。だがそんな感情を吐露するのはもっと恐ろしかった。自分でも被害妄想だと思っているのだ。そんな戯言を誰かに話す勇気を、葵は持っていなかった。
こうやって心を追い詰めたのが、二度目だという事。
同じ袋小路に、一度既に嵌った事。
それを思い出したのは、中学三年の冬の日。廊下を歩き、足早に学校を出ようとしていた。さくらとの何気ない会話で、たったそれだけの言葉で荒んだ心と取り繕えない顔を見られたくなくて、俯いて歩いたあの日。
背後から走って追いついてきた泰介に、肩を強く掴まれて、名を呼ばれた、瞬間――葵は学校の廊下にも関わらず、涙が止まらなくなってしまった。
ごめんね。
ごめんね。泰介。
顔をブレザーに当てて、泰介に引き摺られるようにして中学を飛び出しながら、泣きじゃくった葵はその言葉ばかりを言った。
一度助けられていた。それなのに、繰り返した。
自分が泰介の気持ちをどれほど踏み躙ったのか、肩を掴まれた瞬間に気づいていた。泰介さえも怖くなる。それなのに離れたくない自分がいて、泰介のブレザーを掴んでいた。縋った狡さに嫌気がさす。それでも離れられなかった。一緒にいてくれて、嬉しかった。
謝り続けた葵に、泰介は何も言わなかった。ただ、怒ったような顔でずっと唇を引き結んで、視界が塞がった葵を引いて走り続けた。
長い間、二人で話した。
公園のベンチに並んで座り、互いの顔を見ないまま、二人で長い話をした。
葵の話は要領を得ないものばかりで、それを聞く泰介もけして聞き上手とは言えなかった。つっかえては泣き、泣いてはつっかえるを繰り返す葵に相当苛々したはずなのに、その日の泰介は文句を言わなかった。気づけばあっという間に日が落ちて、寒さの厳しい夜の中、葵が泣き止むまで一緒にいてくれた。
ごめん、と何度目かも分からない謝罪を口にした時。
それ以上謝ったらぶっ飛ばす、と。ようやく相変わらずの悪態が飛んできて、そんな乱暴さに、また泣いた。安堵したのだと、遅れて気づいた。
荒っぽく扱われても、よかったのだ。大事にされて何も知らずに怯えるよりも、その方がずっと嬉しかった。
後日、二人で病院へ行った。
蓮香にも父にも、内緒だった。
中学の制服を着た一組の男女が、他に誰の付き添いもなく病院の検査へ向かう様は、傍から見て異様だったと思う。
あの時葵を止められなかった事を泰介は後悔していると気づいていたが、葵は当時、後悔などしていなかった。自分の事を知りたいと思う気持ちは紛れもなく本物で、それに対して歯止めを利かせようとすればするほど、疑心暗鬼と不安が膨らみ、どうしようもなく怖くなる。得体の知れない佐伯葵という個人が、とても恐ろしいものに思えてならなかった。
それが、家族への裏切りに近い行為だと。気づけないほど愚かだった。
それでも。だからこそ思う。
泰介がいてくれて、葵は嬉しかった。
葵が自分の限界を見誤った時、いつも泰介に先回りされていた。葵が、駄目になる前に。風を切って走る泰介は眩しかった。周りの風景が少しだけ、煌めいて見えた気がした。一緒に走って目にした景色の眩しさに、今でもまだ、目が眩む。高校生になった、今でも。
多分、ずっと、好きだった。
もう一緒にいる時間があまりに長すぎて、これが恋愛感情なのか友愛なのかさえ分からない。どちらでも、よかった。
気づいたら助けてもらっていた、ではなくて。せめてきちんと、自分から助けを求められるようになりたかった。助けられてばかりで何も返せないのは悲しい。そんな状態のまま会えなくなるのは、もっと悲しい。
泰介に、会いたい。
だから――〝ゲーム〟は、終わらせなければならなかった。
「………」
葵は壁にもたれながら、手首をもぞもぞと動かす。頑丈に結び付けられたリボンは一向に緩む気配がなく、拘束はやはり解けそうにない。どういう結び方をしたらこんな拘束力を生むのだろう。構造が理解できなかった。
ただ、気がかりな事が一つあった。
葵が腹を蹴られ、身動きができなくなった後。
更なる暴行を葵は覚悟していたが、近寄ってきたさくらにリボンを抜かれて括り付けられただけで、あれから危害は加えられなかった。
こんな風に思うのは、おかしいのかもしれない。
だが、何となく――助けられた、気がしたのだ。
何らかの操作が働いて、害意が急に希釈された。そんな唐突な手心を、葵はあの教室で感じたのだ。葵が暴れたり学校の外へ飛び出そうとしない限りは、もしかしたら安全なのではないか。その推測が正しいのかは定かではないが、無闇な抵抗を止めてからは、特に身に迫る危険はない。
葵は、二年二組での行動を誤ったのだろうか。
あの場では、学校にいるという選択こそが、正しいものだったのだろうか。
「……」
葵が学校で待つ事で、〝ゲーム〟がどう動くというのだろう。予想はつかなかったが、きっかけだけは分かった。
泰介と、仁科だ。
二人が学校にやって来た時、〝ゲーム〟が動く。そんな予感が不安と共に湧き上がる。来てほしい。来ないでほしい。相反する気持ちと決別するように、葵は肘を壁に当てて、とん、と軽く押し返す。反動で身体が揺れ、そのまま跳び箱の着地の要領で弾みをつけると、葵は両足で床を踏みしめた。
――立てる。
ほっとした葵は腕を背に回したまま立ち上がり、背後を振り返った。
その瞬間に、わっ、と飴色の光が溢れた。
一瞬の変化だった。世界の色が変わった。鮮やかな閃光が走り、火の粉のような燐光を散らして霧散する。風が、優しく吹き抜けた。窓が開いているのだ。目の前のカーテンが大きくたわみ、制服と髪がたなびいた。
あっという間だった。もう、驚くこともなかった。
つい先程まで白く射していた陽光が、光の向きを変えている。濃いオレンジの輝きが、教室と、そこに立つ葵の色を変えていく。
まるで、スタート地点から一歩踏み込んだ、あの学校のようだった。
眼前の夕景色に、葵は見惚れた。住宅地の向こうの太陽が、赤く燃える様は美しかった。黒髪が、風に洗われるように揺れていく。転んだ時に毛先のほつれには気付いていたが、こんな状態では直す事もできない。二人に見られたら笑われてしまうかもしれない。それよりも先に、怒られるだろうか。
こつん、と葵は窓枠に額を当てた。金属の冷たさが、額に伝わる。
――泰介。仁科は。
仁科の事を、葵は思う。
卑屈に笑う仁科の顔が、何故だか薄幸に見えた時。
颯爽と歩いく足取りに、微かな不安を覚えた時。
長身の仁科が、ひどく脆く、見えた時。
いつからか、気づいていた。多分、最初から気付いていた。気づいていない振りを、無意識のうちにしていたのかもしれない。
――仁科は……仁科も。
全然、似ていないのに。
――泰介は、怒るかもしれないけど。
何となくだが、分かってしまった。
――仁科も、助けて、って。言えない人だと思う。
だから。
――泰介が先回りして、助けてあげて。
「……仁科」
助けたかった。自分の事さえ満足に面倒を見れない体たらくで、それでも助けたいと思うのは傲慢だろうか。
それでも、と葵は思う。
皆で、帰りたかった。
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