第19話 戯曲の家

 宮崎侑と話したって、ほんと?

「……」

 手元のメモ用紙を、仁科は無言で見つめた。

 そして、こんなものを勉強中の自分に投げつけてきたのは誰か、と背後を振り返って軽く見回す。そんな行動を取る仁科の顔が、険のあるものかそうでないかは、見る者によっては見破る事ができただろう。だが周囲には仁科の表情はいつもと同じように映るらしく、こちらを訝しげに見る者はいなかった。

 ただ、一人の生徒とは目が合った。クラスのリーダー格の女子生徒だ。名前、なんだっけ。ぼんやり考えたが、思い出せそうになかった。

 女子生徒は、にこっと歯を見せて仁科へ笑いかけてくる。その笑みから下卑た好奇心の欠片を拾った仁科は、何の反応も少女に返すことなく黒板へと向き直った。ひそひそと、そんな仁科の態度を非難しているらしい囁き声が聞こえたが、あまり気にはならなかった。「そりゃあ、仁科君にちょっかいかけたあんたが悪いって」と別の友人が彼女を諌める声まで聞こえたので、仁科は溜息を吐く。

 分かりきってはいるが、こういう時、自分がクラスの皆に一目置かれるくらいの変わり者で、問題児なのだと実感せざるを得なかった。ともあれそれ以上気にするのは止めにして、仁科は黒板の内容をさらさらとノートに書き写した。その周りに社会科教師が喋った内容から重要と思われる部分も抜粋して、ぽつぽつと書き足していく。休み時間に教科書を斜め読みしていたので、仁科にとってこの行為は「テスト前の暗記用ノート作り」というよりも、「確認作業」の方が近い。

 少しの時間でも、集中して取り組む。小学生の頃からそれをやって、当たり前のようにそれが出来た。それは出来ない者に対する皮肉などではなく、仁科には本当に大した事ではなかったのだ。

 社会科教師の話が脱線して自分の一人娘の話になってしまったので、仁科は小さく鼻を鳴らした。こうなるとこの教師は長いのだと、経験上知っている。握っていたシャーペンを軽く放るように転がすと、シャーペンはノートの上で弾み、開いたノートの溝へと緩やかに転がり落ちて、止まった。仁科はだらしなく頬杖をつき、やはり溜息を吐いた。そしてさっきのメモの内容を、反芻している自分に気づく。

 ――宮崎侑と話したって、ほんと?

 ふぅん、と仁科は思う。

 やはりあの女子生徒は、有名人だったのだ。

 仁科は、自分に人が寄り付かないのを自覚している。自分から壁を作っているのだから当前だ。そんな仁科にそれでも話しかける物好きなど、能天気な塩谷か先程の女子生徒のような、好奇心に駆られた人間くらいのものだ。

 そんな自分に、好戦的とも取れる態度でぶつかってきた変人、宮崎侑。

 全くもってどうでもいい事だ、と。欠伸を堪えながら仁科は思った。

 ――話してみたかったの。

 また、声を思い出す。甲高い、少女の声。教師の話が社会の話に戻っているのに気づいた仁科はくだらない思索を打ち切って、再び授業に集中した。

 よって仁科は、この日の放課後に起こる事をまだ知らなかった。

 宮崎侑という女子生徒の存在は仁科に強い印象を残したものの、そんな午前中の奇妙な体験は、昼休みを挟み、授業を二時間分受けている間に薄れたのだ。元々、他者への興味は希薄だ。

 まさか、もう一度侑と話す事になろうとは、この時は思ってもみなかった。


     *


左奈田さなださんから、宮崎さんのこと訊かれたりしなかった?」

 放課後に塩谷からそう訊かれ、仁科は沈黙した。

 教科書を鞄に詰める手も止まり、またもや仁科の席へ寄ってきた塩谷を緩慢に見返す。塩谷は「何見てんのさ仁科」と居心地悪そうに身を引いた。

「ああ、悪い」

 仁科は軽く詫びると何事もなかったかのようにひょいひょいと鞄にノートを詰め、塩谷がそこに立ったままだという事を忘れかけた。

「ちょっと、仁科ってば!」

「あー。そういやいたな、お前」

 のらりくらりとした仁科の態度に、塩谷ががっくりと肩を落とす。「仁科と話してると疲れるよ」などとぼやき始めたので、仁科は呆れた。

 勝手な事を言っている。ならば話す必要などないだろうに。

「で? なんか用?」

「用件なら最初に言ったんだけどなぁ。仁科、社会の時間に左奈田さんからメモ受け取ってたでしょ?」

 あれは受け取ったのではなく投げつけられたのだと、そう言ってやりたい気持ちに駆られたが、わざわざそんな主張をするのも大人気ない気がして、黙る。

 ともかく、あの女子は左奈田というらしい。

「物好きもいるもんだな」

「え?」

「俺なんかに、わざわざ話しかける奴。そんなのが、お前以外にもまだいるっていうのがおかしい」

 午前の邂逅を回想しながら、仁科は嘯く。あの変人さえ現れなければ、左奈田という女子生徒が自分にメモを投げつける事もなかったのだ。宮崎侑の存在が及ぼす波紋に複雑な気持ちになっていると、塩谷の顔に呆れめいた笑みが浮かぶ。

「そりゃ、クラスメイトなんだからさ。話しかけられるくらいで何言ってんの」

「左奈田のメモが何?」

 遮るように、仁科は言った。塩谷がこれ以上、仁科に言わせれば生ぬるいとしか思えない言葉を連ねる前に、会話を打ち切りたかった。すっぱりと糸を切るかのような仁科の言葉に、塩谷は困ったような顔をした。

「宮崎さんの名前、メモに書いてたり、しなかった?」

 また、宮崎。仁科はそっぽを向いて「だったら何なんだ」と言ってやった。ジジッと鞄のチャックを引いて閉め、席を立つ。

「クラスの女子が騒いでるの、聞いたから」

「……だから、何なんだ」

 仁科は内心で少しずつだが、思い切った話の進め方をしない塩谷に苛立ち始めていた。声に、態度に、自然と威圧が滲む。

「仁科、宮崎さんと今日階段で話してたって事、今すごく有名になってるよ」

 すっと、頭が冷えた。

「なんでそれ、知ってんの」

「もっと周り気にしなよ。ギャラリーは結構いたはずなんだけどな。学年中で騒いでるんだよ。あの仁科と宮崎が、って」

「俺らが、何なんだってんだ。妙な想像してるんだったら今すぐやめろ。あんな奴、もう話す事もないはずだ」

「いや、そんなの僕はしないけど」

 塩屋は困惑気味の表情で周囲にちらと目をやると、声を潜めるようにして「でも周りはそうは取らないかも」と囁いた。

「美男美女カップルって女子が騒いでる。左奈田さんとかも面白がってるって」

「お前、なんでそんな事をわざわざ俺に教えてくれんの?」

 善人も行き過ぎると不快なだけだ。塩谷の話した内容は、仁科からすれば聞こうが聞くまいが同じなのだ。自分がどんな風にクラスの人間に見られていても、学年中で噂になっていても、そんなものに興味はない。

 仁科は知らないみたいだから、教えてあげたんだよ、ねえ僕ってほら親切でしょ?

 反吐が出る。

 大した正義感だと皮肉ろうとしたところで、「だって、仁科」と塩谷が抗議の声を上げた。

「また家の手伝いするんでしょ? 左奈田さんみたいにちょっかいかけてくる人は少ないとは思うけど、何かと時間取られそうじゃん。まあ、一応言うだけ言っとこうって思って」

「……あっそ」

 本当に、余計なお世話だ。その本音を声に出さない代わりに、別れの挨拶もしなかった。鞄を掴んで教室を出た仁科は、そのまま家に帰りつくまで、背後を振り返らなかった。

 刺すような視線だけを、周囲から感じた。


     *


「要平、手を休めるな」

 突如飛んできた低い声に、仁科は「はいはい」と適当に返事をする。少しサボったらすぐこれだ。モップをタイルの床へ滑らせると長い黒髪が絡んだので、靴で踏んで引き剥がした。それらを回収して袋に纏めた所で、吐息をつく。

「終わったよ。親父」

 声を掛けると、振り返る長身痩躯。

 細身ながら引き締まった身体付きは、同じ長身でも全く自分と似ていない。

「じゃあ、夕飯にするか。要平、母さんを手伝ってこい」

 寡黙そうに引き結んだ口元を、もそりと無愛想に動かして――仁科健吾にしなけんご、つまり仁科の親父である男は、閉店準備を開始した。

 今日の営業終了を実感として得るのはいつも、親父が後片付けを見た時だ。仁科はモップを片付けながら、親父の背中に言った。

「俺、別に飯いいよ」

「母さんの作った飯を見てから言え」

 親父は仁科を叱るような事は言わず、ただそれだけを背中を向けたまま言った。仁科は嘆息しつつもとりあえず頷き、狭い店舗の隅にある扉を開けて、中へ入る。吊られた暖簾を手で軽く払うと、そこはもう見慣れた我が家のリビングだ。靴を脱いで家に上がると、香辛料の匂いがした。今日の夕飯はカレーのようだ。忘れていた空腹を思い出す。客のパーマを手伝っている時も、親父が切った客の髪を掃いて捨てている時も、レジに立っている時でさえそんなものは忘れていたのに、自分はやっぱり育ち盛りなんだな、と他人事のように思った。

 仁科は真っ直ぐに台所へ向かい、棚から箸を取り出した。自分と両親の三人分だ。コップも同様に三人分出した所で、母が台所にやってきた。

「あら、要平。おかえり」

 夕飯の支度を手伝い始めた息子を見て、母は嬉しそうに笑った。

「ご飯、どっかで食べてきたりしてないわよね?」

「食べてない」

 仁科は短く答えながら、冷蔵庫を開けて茶の入った瓶を取り出す。沸かした茶はまだ冷まし始めて間もないのか、ほんの少しぬるかった。隣で母がカレーを盛りながら、軽く振り返って訊いてきた。

「今日、お客さんどれくらい来たの?」

「少し。キャンセルもあったし」

「……」

「でも、昨日よりは多い」

 母は仁科の言葉に落胆したのか、苦いものでも噛み締めたような顔をしている。仁科は内心で、大きく肩を竦めた。

 仁科の家は、商店街を抜けた先の、寂れた路地の一角にある。

『コーディーリア』

 それが仁科の小さな家が掲げた看板。親父の営む美容院の名前だ。

 コーディーリアとは、シェイクスピア悲劇『リア王』に出てくるリアという名の王様の、三女にあたる娘の名だ。仁科がそれを知ったのも、実はつい最近の事だった。

 店舗は極めて狭く、設備も充分には整っていない。美容院によっては染髪の待ち時間等にドリンクや菓子を振舞うサービスがあるようだが、当然そんなサービスは『コーディーリア』には存在しない。古き良き時代の床屋を連想させるような、前世紀の遺物のような佇まいの店なのだ。たかが小さな美容院に、意味の分からないカタカナの店名。大した稼ぎもないのに何だか仰々しい気がした。レトロな字体も相まって昭和の香りもする。コーディーリアなど、まるで似合っていない。完璧に名前負けをしていた。

 ――親父、シェイクスピア好きなのかな。

 少し気になったが訊くのが面倒で、まだ一度も訊ねていない。

 仁科がテーブルへ茶を運んでいると、カレーを盆に載せた母もやってきた。すると間もなく、親父がのっそりと現れた。店の片付けが終わったらしい。

「おかえりなさい。健吾さん」

 母がそう言うのが、いつしか「いただきます」の代わりとなった。仁科はカレーをスプーンで掬い、黙々と口に運び始めた。

 親父がつけたテレビが、夜のニュースを喋り始める。その声は母が親父に話しかける声と交じり合い、仁科の耳を右から左へ抜けていく。時折顔を上げて、思い出したようにテレビ画面へ目を向けた。随分古い型のテレビで、側面が分厚い。画質の悪いテレビに映るのは、殺人事件の報道だ。仁科はそれを、ぼんやり眺める。快楽バラバラ殺人。犯人の自宅からかなり遠いゴミステーションから見つかった遺体は、若い女性のものらしい。目まぐるしく画面が切り替わっていき、人相の悪い容疑者の顔が映る。冴えない表情をしていたが、きっと普段は普通の顔で、周辺の歩道なんかを歩いているに違いない。このニュースを見ている不特定多数のうち何人かはこの男と、必ずすれ違っている。目の前でくるくると移り変わっていくニュースに目を向けて、仁科は無為な考察をするのだった。

「情死か……怖いわねぇ」

 ニュースの一つを拾った母が、溜息を吐きながらそう言った。ジョウシ、と仁科は声には出さずに呟く。言葉の意味を自分の子は知らないと思っているのだろうか。その程度の言葉など、本から既に拾っている。「心中」よりも「情死」の方が、何だか艶っぽい気がした。

 スプーンを置いて、立ち上がる。母がサラダを出し忘れている事に気がついたので、カレーのおかわりを盛るついでに冷蔵庫から取り出して、三人分を黙ってテーブルに並べた。「あら、忘れてたわ」と驚く母を尻目に、皿にかけてあったラップを自分の分だけ剥がして、ミニトマトを口へ放る。親父はこちらへ頷いただけで何も言わず、それきりテレビ画面へ向き直ってしまった。

 仁科は、カレーを平らげる事に専念する。さっさと二杯目のカレーを胃に落とし、さらにおかわりをするか考え込む。今しっかり食べておかなければ、あとでお腹が空く気がした。全く、さっき何故親父へ夕飯はいらないと言ったのか、自分でもよく分からない。何が自分に夕飯を拒絶させたのだろう。何だか、馬鹿みたいだった。

 結局サラダをおかわりする事にして、仁科はカレー皿を流し台に持って行く。まだ母も親父も食べ終わっておらず、自分の分だけを水に漬けた。そして流し台の前に一度立ってしまうと、サラダをおかわりする気が失せた。

 ざああ、と蛇口を捻って降り注ぐシャワー状の水音に、母がはっと振り返った。

「ああ、要平!」

「何?」

 少しぎょっとする。洗剤を乗せたスポンジを、素手で握った所だった。以前に「手が荒れる」という理由でゴム手袋をつけるよう、叱られた事があったのだ。だが母は仁科の手元を一瞥しただけで、予想と異なる言葉を言った。

「牛乳切らしちゃってたの。買ってきてくれない? それ洗っとくから」

 そう言って立ち上がると、リビングの隅に放ってあった鞄をごそごそと弄る。そして財布を探し当てると、五百円玉を取り出した。

「俺、やる事あるんだけど。……勉強とか?」

 小さな抵抗を試みるが、母は硬貨をキッチンとリビングを仕切るカウンターにことりと置いた。

「家であんた、勉強なんてした事ないじゃない」

 返す言葉が出てこない。仁科はただ肩を竦めた。まあいいか、と思う。

 スポンジを置いて手を水で濯ぎ、布巾で水滴を拭い、五百円硬貨を学生服のポケットに滑り込ませた。

「要平、着替えてなかったのか」

 気づけば親父がこちらを見ていて、出かけようとした仁科へ声を掛けた。

「そりゃ、学校から帰って仕事手伝い終わって、そのまま飯だったから」

 そもそも同じ場所で働いていたのに、何故気づかないのか。妙な所で抜けている自分の父に仁科は呆れながら、今度こそ出よう、と踵を返す。

 帰宅したら、さっさと部屋でCDを聴こう。買ったばかりで全く聴いていないものがある。昨日は本と向き合っていたので、そちらはショップ袋に入ったままだ。思案しながら玄関へ向かう仁科を、母の声が呼び止めた。

「要平」

「何?」

「あんたは男の子だからあんまりうるさく言わないけど、ちゃんとゴム手袋しなさいよ」

 今度は返事をせずに、仁科は履き潰し気味の運動靴を足に引っ掛けた。

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