第20話 彷徨って、夜の中

「みぃつけた」

 甘ったるく間延びしたその声を、仁科は最初、自分に向けられたものとは思わなかった。

 その声は少女というより女性のもので、制服を着た自分には明らかに無縁だろうものだった。甘く湿っていて、どこか暗い。

 ただの雑音に気を取られる事はないので、仁科は雑踏の中をぐんぐん歩いた。

「ねえ、ちょっと、聞こえてないの?」

 声がまた聞こえた。女の声には微かな苛立ちが混じっていて、仁科はようやく首を捻った。聞き覚えを感じたのだ。気まぐれに機嫌の良し悪しが変わる声を。さっきは女だと思ったのに、怒りという感情が声に通った所為か、分かった。

 この声は、もっと幼い少女の声。

 そこでつい足を止めてしまったのが、仁科の運の尽きだった。

「みぃつけたっ」

 苛立ちがぱっと霧散して、声にべたついた甘みが戻る。仁科は振り返り、げっと呻いた。

「やっぱり、仁科だった!」

 息を弾ませながら、小走りでやって来た少女――宮崎侑は、仁科の前で両足を可愛く揃えて立ち止まると、にや、とチェシャ猫のような顔で笑った。

 夜の暗さと化粧、それに校則違反の髪色の所為だろうか。間近に迫ったスーパーの明かりに照らされた侑は、同い年のはずなのに高校生に見えた。そんな侑の纏う雰囲気に、仁科はたじろぎ、引いた。

 だが侑は、仁科へ嬉しそうに笑いかけた。

「私の事、ちゃんと覚えてくれてる? 名前とかさ」

 いっそ清々しいほどに、こちらの問いは無視された。

「用がないなら、もう行く」

 埒が明かないので、仁科は歩き出した。早く帰ってCDを聴きたいのだ。ズボンのポケットの中でたった一枚の硬貨が、ちゃり、と音を立てた。

「あ、待って」

 だが、声と足音は追ってきた。雑踏に紛れながらも確かに自分を追う音に、仁科は舌打ちしたくなると同時に、酷い脱力感を覚えた。これでは学校で出会った時とおんなじだ。そうなれば堂々巡りになってしまう。仁科は歩幅を大きくした。買い出しのおつりはいつも母から駄賃として貰えるので、家から近いコンビニを選ばずここまで足を延ばしたのだ。店の手伝いで給料は得ていたが、本やCDが必要な仁科にとって、これは大事な収入だ。それでもコンビニで済ませば良かったと心の底から後悔しながら、仁科は歩く事に専念する。

「もう、待ってったら!」

 それでも、侑はついてきた。仁科は、頭を抱えたくなった。

 本当に、追って来たのだ。

「なんで逃げるのよ」

 侑は仁科の前へ回り込むと、きっ、と睨み付けてきた。かと思いきや仁科が足を留めた途端、ぱっと非難の目をやめてにやにやと笑っている。

 何だか、かなり不気味なものと対峙している。腕に鳥肌が立ってきた。

「昼にも言ったと思うが、退いてくれ」

「嫌よ」

 構わず歩き出すと、侑が仁科の腕をがしっと掴んだ。あまりに粘着質なその態度に、さしもの仁科もぎょっとした。

「何なんだ、お前はっ」

 堪らず叫ぶと、揉める中学生の二人組を、行き過ぎる人達が振り返った。街の灯りの届く歩道で、二人は睨み合うように見つめ合った。この時仁科はおそらく初めて、侑という少女の容姿を、しっかり認識したと思う。

 す、と侑の目が細くなった。

「……〝おまえ〟?」

 薄く化粧をした顔が、こちらを真っ直ぐ睨み据える。

 その表情は、やはり息を呑むほど大人びていた。そこに込められた感情は確かに子供のもののはずなのに、顔付きだけは、大人に見えた。

 それともそれを、糊塗しているのか。

「私、名乗ったわよ。何? 〝お前〟って。名前覚えてくれなかったわけ?」

「はっ……?」

 突然の激昂に、仁科の方もかちんときた。何を手前勝手に怒っているのだ。あの邂逅からずっと怒りたいのはこちらの方だ。仁科は「忘れた」と言ってやった。これで侑は、さらに怒り出すだろう。ほら、怒れよ。怖くなんてない。だが、そうはならなかった。

「仁科」

 目に厳しさを湛えたまま、侑が口を利いた。

「忘れてても、私の事をお前だなんてこれから絶対呼ばないで。もう一度名乗るわ。今度は覚えててよね。私は宮崎侑。侑は、にんべんに、有るっていう字で侑。……いい? もう二度と、私の事をお前呼ばわりしないで」

 仁科は、唖然とした。

 たかが「お前」と呼んだくらいで、これほど説教されるとは思わなかった。

「……なんで、俺に構う?」

 学校でも感じた疑問が、再び仁科の中で膨れ上がった。侑は仁科に声をかけられたのが嬉しかったのか、表情を機嫌の良いものへころりと変えた。

「私はずっと、仁科と話がしてみたかったの」

「それはもう聞いた」

 またこちらの問いを無視された。仁科が呆れていると、侑は胸を張って言った。

「あなた私と似てるもの」

 仁科は、動きを止めた。

 侑は、へらと笑った。

 夜の甘く冷えた空気が、至近距離で立つ二人の、身体の間を抜けていった。

「仁科は私と似てる。だから話してみたかったの。似てるって思っても、話してみたらきっと全然違うはずよ。でもやっぱり似てるかもしれない。そんな仁科の存在は、私にとってすごく面白いの」

 笑う侑の茶色の髪が、夜風に柔らかに踊っている。マスカラを乗せた睫毛の向こう、琥珀の瞳に映る自分は、能面のような無表情。その口が、やがて動く。

「あほらし。くだらないな」

「くだらなくないわよ」

「似てるって何なんだ。全然似てなんかないから」

「そうかしら」

 吐き捨てる仁科に、侑は不敵に笑った。

「仲良くしようよ、仁科。ねえ、早速訊きたい事があるわ。仁科は私の事を知らなかったのよね?」

 もうこんな狂人は放置して行こうと思ったが、また追いかけられても厄介なので「ああ。お前なんて知らなかったよ」と仁科はおざなりに答えた。侑は「またお前って言った」と恨みがましい目で言ったが、今はそこに拘泥する気はないらしい。続けてこう言った。

「なんで仁科は、私が有名だって思ったの?」

「は?」

「仁科、言ったじゃない。お前も有名なのか、って。確かに私は有名だわ。知らない人の方が稀なくらい。仁科が私を知らないって事にも驚いたのよ。でも知らなくたって別におかしくないわ。だって同じ学年でもクラスは違うし、共通の友達もいないしね。それにお互い、友達なんていないしね」

「……」

 少しタイミングを外しただけで寡黙になるのは仁科の性分なので仕方がないが、今回ばかりは口を挟むべきだっただろう。

 侑の言っている事はいっそ清々しいほどに真実で、だからこそ仁科の癇に障った。分かりきっている事を他人の口から聞かされる事ほど、鬱陶しくて時間の無駄な事はない。それとも塩谷の名前でも突き付けてやればよかっただろうか。だがもうそれさえ面倒臭かった。

「でも、仁科は私に言ったわ。お前も有名なのかってね。私の事、知らないはずなのに。だから私はますます仁科を面白いって思ったの」

 そこで侑は、じっと仁科を見てきた。ここで目を逸らしたら負ける気がして、仁科は無表情に侑の瞳を見返した。侑も、目を逸らさなかった。

 仁科の表情がもっと温和なものであれば、夜の歩道で見つめ合う自分達は恋人同士のように見えたかもしれない。塩谷の告げ口を回想しながら、漠然と考えた。そして思う。冗談ではない。

「どうして私を有名だと思ったのか。まずそこから知りたいなって」

「……何となく」

 失言を痛感しながら、仁科は何でもない風を装って言った。侑は当然、この答えでは不満だろう。仁科は来るべき追及に備え、身構えた。

 だが。

「……ふぅん」

 侑は小さく鼻を鳴らして、それから一人で頷いた。納得してくれたかどうかは怪しいが、追求はどうやらなさそうだ。侑の気まぐれに救われたと安堵しながら、「俺、もう行くから」と仁科は言って、馴れ馴れしい同級生の手を、自分から引き剥がす為に掴んだ。

 その時だった。侑が逆に、仁科の手を握ってきたのは。

「……何やってんの?」

「えへへ」

 にやにやと侑は笑った。その笑顔に、仁科は嫌な予感がした。

「その気持ち悪い笑い方、やめろ。俺急いでるんだけど」

「そんなの、私の知った事じゃないわよ」

「はあ?」

 突然、ふらっと景色が揺れた。強く手が引かれたのだ。伸ばし気味の髪が、遅れて身体と共に振れる。

「!」

 走っていた。仁科は走り出していた。侑に手を引かれて走らされていると脳が理解するのに数秒を要し、そしてはっと我に返った。

「おい……!」

「付き合ってよ、仁科!」

 走ったまま、侑がぱっと振り返った。セミロングの髪が大きく揺れ、毛先が仁科のブレザーを掠めていく。今仁科と走っているのが楽しくて堪らないのか、生き生きと輝く瞳に、街の光が瞬いた。

「あのなぁ!」

 仁科はまた言おうとした。自分は、忙しいのだと。だが、言っても無駄な気もした。どうせ聞きやしないのだ。自分の言いたい事だけを言って、こちらの主張は完全無視。それが今日一日の会話の中で、仁科が知った宮崎侑だ。

 街灯の下をいくつも抜け、人の波を掻い潜る。通り過ぎる光と人が段々と目に入らなくなっていき、視界がどんどん狭まっていく。本来の目的地であったはずのスーパーも通り過ぎてしまった。牛乳を買う為に家を出たはずなのに、何故こんな目に遭っているのか。制服を翻しながら手を取り合って走る自分達は、青春という言葉に酔いしれた痛々しい輩に思えて、走らされながら、仁科は呻いた。

「女子が、男子誘拐してどうすんだ」

「あら、逆ならいいの?」

 いけしゃあしゃあと言われ、もう何も言うまいと心に決めた。侑との会話は疲れる。どこかでその言葉を自分も人に言わせた気がする。そんな共通の認識さえも、何だか酷く疎ましい。

 もうどうにでもなれ。

 街のネオンの中へ一目散に駆けながら、仁科は投げやりに思った。


     *


 侑の足取りはしっかりとしていて、迷いのないものだった。

 最初こそ侑に手を引かれていた仁科だが、今は手など繋いでいない。絶対に逃げないという条件で離してもらったのだ。侑の我儘に振り回されている仁科がそんな提案をするのも妙だが、拘束が解けるなら何でもよかった。

 侑は、わざとではないかと疑わしくなるような内股で、ふらりふらりと仁科の前を歩いている。一見危なっかしい足取りだが、目的地を持った歩き方だと仁科は既に見抜いていた。その証拠に、あちこちの路地を抜け、複雑で物騒な細道を度々通るものの、寄り道をしているわけではなさそうだ。それにこういった場所は普通、女子は怖がったり不潔がったりして、近寄りたがらないものだろう。

 緩く弧を描く細道は、どこに続いているのか見当もつかないほど暗かった。ここには、街の光が少ししか届かない。

 無言で付き従う仁科へ侑は時折話しかけてきたが、その内容は「晩御飯なんだった?」や、「仁科ってなんで男子なのに髪切らないの?」など、どれも他愛のないものばかりで、仁科は無視するか、適当に流す事に徹していた。

 今、何時だろう。ふとそれを思ったが、確かめる術がなかった。

「今、何時か分かるか?」

 仕方がないから侑に訊いた。返事が見当違いのものでも害はない。そう判断しての問いだったが、侑は律儀に答えてくれた。

「八時十二分……あ、今十三分になったわ」

 暗闇の中に、ぽうっと薄青い光が浮かび上がる。路地裏に灯った小さな光が、侑の白い指を照らした。へえ、と仁科は思う。

「携帯、持ってんのか」

「……そうよ。珍しい?」

 ぱしん、と携帯を畳んだ侑が、こちらをぎろりと睨む。

「そりゃ、まあ中学生だから。一応、校則違反だし」

 やたらと感情の起伏が激しい侑に、段々と仁科は慣れ始めていた。「不細工に見えんぞ。やめとけ」とあしらうと、侑は仁科から顔を背けて、ずんずんと路地を闊歩した。胸が少しすっとした。

「なあ……」

 俺、もう帰ってもいい? 自然とそう言いかけて、はたと気づいて口を閉じる。逃げないという約束だった。

「帰っていいか、って言おうとしたでしょ」

 振り向かないまま侑が言った。別に偽る必要もないと思い、仁科は素直に言う。

「そうだけど。帰りたい」

「仁科ってひどい。年頃の女の子をこんな物騒なとこに一人でほっぽっていいって思ってるの?」

「誰が年頃だ」

 マセガキもいいところだ。仁科は躓いて転びそうな程に脱力する。くすくすと忍び笑いが聞こえてきたので、からかわれたと遅れて知る。何度目か分からない溜息を、仁科は重く吐き出した。

「年頃の女の子はこんな物騒な所に、年頃の男の子連れ込んだりしないから」

「年頃? 仁科が? あはははっ、年頃だってぇ」

「……疲れる」

「もうへばったの? 男子のくせに情けないわね」

「足が、じゃなくて、お前に」

「お前ってまた言った」

 仁科は眩暈を覚え、額に思わず手をやった。侑との会話が、面白いくらいに噛み合わない。自分が億劫に思って避けた人付き合い。そのツケがこれなのか。だとするなら避けた代償はあまりに大きい。そう後悔してやまないほどに、侑とのやり取りは仁科の体力を削っていた。

 それに、どうにも調子が狂うのだ。侑と話していると、仁科は普段より饒舌になっている気がする。いや、それは最早明らかだ。

 侑のペースに、引き摺られている。それが仁科には気に入らなかった。

「仁科。この辺に今まで来た事ある?」

「ないけど」

 くるりと振り返って訊く侑に、仁科は返事も面倒だと言わんばかりの雑さで答えた。普段から感情を表に出さない性質なので、自分が今不機嫌なのだと誇示するような態度は我ながらわざとらしく、格好悪い気さえした。そんなこちらの葛藤に侑は気付かなかったのか、「そっか」と頷いて薄く笑う。

「私もね、ここら辺は初めて」

「嘘だな」

「どうして?」

 仁科は言おうとして、躊躇う。自分の発言を侑に誘導されているような、そんな気がしたのだ。被害妄想だと己を自嘲し、冷めた一瞥を侑に向ける。

「どう見ても、初めてっていう足取りじゃない」

「それは仁科の妄想でしょ」

 あっさりと侑は返してきた。それも、仁科の痛い所を突いてくる。侑が再び踊るように進路を変えると、赤いスカートが闇の中で揺れた。

 侑と仁科の歩く先が、仄かに光り始めていた。それはピンクであり、黄色であり、青でもあり、赤くもあった。クリスマスツリーの電飾のような華やかさを遠目に見ながら、何度も着古したシャツのような、疲れて爛れた雰囲気を、仁科は肌で感じていた。疲労と悲哀を織り交ぜて、それらに電飾を巻いて光らせて見れば、とりあえず体裁くらいは整うだろう。誰かのそんな意図が見え隠れするような、綺麗で、だがどことなく穢れを放つネオンの洪水に瞳が順応し始めた時、ついに路地の終わりに到着した。

 視界が開けた刹那、仁科は呼吸も忘れて立ち尽くす。

 自分の住んでいる地域から、だいぶ離れた所へ来た。その実感が込み上げる。路地の終着点を見据えて歩いた道すがら、抱いた印象が一気にこの場で濃縮されて、弾けたような感覚があった。

 音だ。それに、人だ。たくさんの人の声が、仁科の聴覚を満たした。ざわざわと波のような喧騒が、人と共に道を流れる。揚げ物の香ばしい匂いも一緒に漂ってきたが、それよりもこの場に立ち込めた煙草とアルコール臭が鼻をついた。突っ立った仁科の肩が、誰かの肩とぶつかった。仁科はふらつく程度で済んだが、相手は転倒寸前にまで身体が傾いだ。若い女性だった。ちっ、と舌打ちしたその女性は、毒々しい程に赤い紅の唇を歪ませ、仁科を罵倒しながら立ち去った。

「わあ、こわぁ」

 くすくすと笑われ、振り返った。侑だ。仁科は、無言で侑を見下ろした。

 この場所について、話には聞いた事があった。少し歩くだけで簡単に行けてしまう。危険なので興味本位で近づくなと、学校のHRで教師から注意を受けていた。ここが自分達中学生には相応しくない、いわゆる歓楽街と呼ばれる場所だと、仁科はすぐに気づいていた。

「綺麗なとこね」

 侑との距離は、かなり近い。文字通り仁科の目の前に立った侑は、艶然と笑った。学生服を着た自分がこの場所に不釣合いだと感じたのに対し、同じ学生服に身を包んだ侑は、仁科とは違っていた。

 この場所に、似合っていたのだ。

 そしてそんな侑を、仁科は綺麗だと思った。

 元々、仁科はそういった感覚に疎い方だ。クラスの誰かが他者の容貌をほめそやしても、仁科自身がそう感じる事は稀だ。客観的な「可愛い」や「美人」に理解がないわけではないが、主観的な意見を仁科は持たない事が多い。

 侑の容姿に関しても同様だ。塩谷が「美男美女カップル」という言葉を使っていたが、己の事はさておき、仁科自身も侑の事は美貌の持ち主だと認めている。だがそれは塩谷を始めとするクラスメイト達の意見に沿ったものだ。己の本心は、侑に二度目にあった時点でも不明のままだった。

 それが今、初めて、自分自身の確かな実感として、侑を綺麗だと思った。

 ネオンのけばけばしいピンクの明かりが、侑の白い頬を照らしている。少女ではなく大人の貌で、侑は綺麗に笑っている。やはり、化粧の所為かもしれない。それでも仁科は、本当にそう思った。

 だが、それはあくまで容姿の感想のみだった。

 たったそれだけの、一つの感慨に過ぎなかった。

「……付き合えって言った場所、ここか?」

 仁科は、口を開いた。

「そうよ」

 侑は、衒いなくそう言った。

 仁科はそれに呼応するように、短く言った。

「付き合ってられるか」

 元来た道を強引に引き返すつもりで、路地へ足を向けた。

「仁科と一緒に来たかったの」

「俺と?」

 仁科は振り返り、鼻で笑った。ひどく温度のない笑みだと、自覚があった。

「俺とどこへ行こうって? お前、俺を襲う気なのか?」

 そう言って、侑の背後を見やった。通りの細道には人の流れができている。路地付近に立つ仁科と侑の間にも、幾人かが通過した。饐えた匂い。停滞した空気の淀み。笑い声に、それから罵声。ここがどれだけ治安の悪い場所か、仁科には感覚的にだが分かっていた。そしてどれだけ誘惑の多い場所であるかも分かっていた。ただ、それが誘惑なのだと、自分が感じないだけだった。仁科は思う。ここは危険だ。ここにいるのは間違いだ。

 侑は、仁科の目が自分を見ていないと察したらしい。わざとらしく後ろを振り返り、それからくすりと笑う。視線の先、細道の暗がり。ホテルの看板を縁取るネオンが、侑の横顔をちかちかと照らした。その時侑が浮かべた笑みは、ひどく品のないものに見えた。

 看板から先に目を逸らしたのは、仁科の方かもしれない。だがどちらが先かなんて分からなかった。気付いたら二人とも、看板を見てはいなかった。

 侑がこちらを振り返り、にやにやと笑った。

「私、仁科に言ったよね? 付き合ってって」

「何言ってんだか」

 仁科が、動揺する事はなかった。

「付き合う、ってそういう意味で言ったのか? 違うだろ」

「仁科ってば、つまんない。愛の告白じゃない」

「嘘つけよ」

 纏わりつくような言葉を一蹴して、仁科は敵対の姿勢を見せる。少なくとも仁科は「敵対」のつもりだが、侑からすればそれはもしかすると「お喋り」に過ぎないかもしれない。同級生の余裕の笑みが、尚更仁科を苛つかせた。

「そんなに冷たいと、もう女の子にモテなくなるわよ? きっとみんな仁科に幻滅しちゃうわ。いいの?」

「へえ、俺ってモテてんだ。知った事じゃないけど」

「じゃあ、仁科は意気地なしなのね」

 侑は断定的に言った。かなり分かりやすい挑発の文句だった。

 仁科は大きく、溜息を吐く。馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。

 路地の暗がりに身体を向けて、足を一歩踏み出す。「仁科」と背後で侑が呼んだ。

「追っかけてくんなよ」

 振り返らないまま、辛辣に言った。女子一人をこんな場所へ放置するのが、道徳的に間違いなのは分かっている。普段であれば、途中まで一緒に帰るくらいの甲斐性は見せられただろう。だがそんな事すらどうでもいいと思うほどに、仁科は疲れ、呆れ、何より苛立っていた。ホテルへ行こうと迫ってきた上に、言うに事欠いて意気地なし。仁科の苛立ちは正当なものと言えた。ここへ自分を連れてきたのは侑なのだ。この後どうするかは侑の好きにすればいい。

 ただ、自分がわけの分からないそれに付き合わされるのは御免だった。

「仁科」

 侑が背後で、仁科を再び呼んだ。仁科は侑が追ってくる事を予想していたが、声は先程よりも遠くから聞こえた。振り返ると、仁科が歩いた分の距離が、仁科と侑との間にあった。

 少し、意外に思う。侑は追いかけてくるという予想は、この時完全に裏切られた。

「ばいばい。仁科。また明日ね」

 侑は、今までと変わらない笑顔で、軽く手を振ってきた。

 それはあまりにあっさりとした、仁科への解放宣言だった。

 仁科は拍子抜けしたが、すぐさま踵を返して歩き出した。

 ――何なんだ、あいつは。

 一日の中で、何度そう思ったか分からない。だが、何度でも思う。何なんだ、あいつは。背後が少し気になった。振り向けばまだこちらを見ている気がした。うっかり目が合う事を恐れて、もう振り返るまいと思いながら、仁科は暗い路地へと身を沈め、元来た道を辿っていった。

 宮崎侑と仁科要平のファーストコンタクトは、ストーカーとその被害者という図式に近い。

 そしてその図式は、この日以降も続いていく事になるのだろうと、仁科は帰路につく途中、薄らと予感していた。

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