第18話 宮崎侑

 優等生と劣等生の差異について、考察する。

 まずは成績の優劣だろう。それに容姿も絡んでくる。髪を明るい色に染めて、ピアスホールを開けて耳を飾る。そんな小さな見栄の背伸びを堕落願望とまで言えば大げさだ。つまり主張を要約すると、この程度のことでやれ非行だの不良だのと叩く大人を見ても、仁科要平としてはいまいちぴんと来ないのだった。

 中学二年の秋、十月。誕生日を迎えた仁科は十四歳になっていた。

 仁科は自分が、優等生と劣等生のどちらでもないと認識していた。そう思うのには二つの理由がある。

 一つは、仁科の成績が並外れていい事。

 学習塾へは通っていない。自宅では家業の手伝いをこなした後で本を読み、音楽を聞いている。そうやって平凡に暮らすだけでテストでは毎回いい点数が取れ、模試でもそれは同様だ。だが勉強面で誰かを煩わせた事のない仁科は、決して優等生ではなかった。二つ目の理由の方が、仁科を優等生たらしめる成績の秀逸さを、ぶち壊しにしていたからだ。

 学校の、サボり癖。

 仁科は、学校へ気まぐれに登校する。遅刻の回数は多く、欠席の日もたまにある。病気や体調不良ではなく単なるサボりだ。辺りをぶらついていると、いつの間にかそんな時間になっていた。正直にそれを学校で言うと、教師をかんかんに怒らせてしまった。

「寄り道せずに、ちゃんと学校に来なさい」

「お前一体いくつだ。爺臭い」

「親御さんに連絡するぞ」

 小学生レベルの教訓から軽い脅しまで、色々な事を言われた気がする。だがその程度の警句では、仁科の放浪癖は止まらなかった。

 学校が嫌なわけではない。ただ、一人で過ごす時間が心地良かっただけだった。空の下で全身に風を感じながら、今頃は二時間目の授業か、などとぼんやり考えながら、あてもなくぶらぶらするのが好きだった。そうすると学校へ行く時間が、後へ後へとずれ込んでいく。

 学校側は、そんな仁科を持て余したようだった。仁科を怒る教師は勿論いたが、なまじ成績がいいだけに指導し辛いらしいのだ。仁科はそれを計算していたわけではなかったので、その対応に驚きを感じたものだ。こんな勝手なやり方、普通は通用しない。怒られて当然だ。だがどうやら自分は軽いお咎めで済むらしい。それを薄らと理解した時、深みに嵌るのを躊躇した。さすがにそれは、自分の中で引いた一線に抵触したのだ。仁科はそこまでは望んでおらず、出席日数だって全く気にならないわけではないのだ。

 仁科は、優等生でも劣等生でもない。自分をそういった言葉で表現するのなら、もっと適切な言葉があるのを知っている。ただそれは自分で気づいたのではなく、人に言われて知ったのだ。

 問題児。

 その言葉を聞いた時、ああ、そうか、と妙に納得をしたのを覚えている。

 はみ出し者の事を、人はそう呼ぶのだ。特に傷つくことはなく、寧ろぴったりの言葉が己に宛がわれたことで、安定感さえ得た気がした。

「仁科、そんなんでいいの?」

 心配そうにそれを言ったのは、誰だっただろう。元々友人は少ないので、そんな風に世話を焼いてくれた人が誰だったかくらい覚えていても良さそうなのに、もう顔も忘れてしまった。ともあれ仁科は自分を案じる声へいつも適当に頷いて、今日も気まぐれに学校へ行き、気まぐれにサボる。

 そして、今日も、怒る教師には怒られる。

「――仁科ぁ!」

「……うわ」

 思わず声に出てしまい慌てて口を噤んだが、静かな教室内の事だ。声は思いのほか大きく響き、教室のあちこちから忍び笑いが聞こえた。

「うわ、とはなんだ。うわとは」

 数学教師の戸川とがわが、黒板から離したチョークを手に仁科へ向き直る。やはり仁科は「うわ」と思った。同じ轍は二度と踏まず、今度は声には出さなかった。

 戸川は、頻繁に遅刻する仁科を「怒る」教師だ。一人一人の生徒に一生懸命になれる、昔気質な初老の教師。言葉遣いや物腰こそ粗暴だが、生徒からの人望は厚い。仁科も戸川の事は教師の中で好きな方だ。

 だが今のような状態ではとてもそうは思えなくなるから、人間とは誠に現金な生き物だ。戸川のチョークの先端が、今にも仁科を標的に捉えそうだ。

「今日は何してたのか訊きたいが」

 戸川はそこで、ちらりと黒板に視線を投げた。

「授業が先だ。後でじっくり訊いてやるから、席に着け」

 乱暴な言い方だったが、仁科は軽く頭を下げて、自分の席へと歩き出す。

 仁科が授業に遅れないようにという、戸川の配慮。それが配慮なのだときちんと意識したのは、実はつい最近の事だった。クラスメイトの塩谷にそう指摘された時はこじつけだろうと思ったが、途端に微細な配慮に気づけてしまうから、不思議なものだと仁科は思う。

 クラスのほぼ中央の自分の席へ鞄を置くと、向けられた視線の数を意識する。些細な遅刻程度のことで、よく飽きもせずにじろじろ見ていられるものだ。暇なのだろうか。自分が言えた義理ではないと自覚しながら、仁科は堂々とした態度で席に着き、鞄の中からてきぱきと教科書とノートを取り出した。

 昨日の授業中とその後の休み時間の間に、戸川の指示した宿題は終わっている。それに余った時間で予習も済ませてあった。

 黒板に目をやって、自分の答えが正しいかどうかを一瞥する。全部式まで合っていたのを確認すると、仁科は赤ペンで丸さえつけずに、授業に耳を傾け始めた。


     *


「にーしな!」

 数学の授業が終わると、塩谷太一しおやたいちの快活な声が仁科を呼ぶ。

 億劫に思いながらも仁科はノートから顔を上げ、自分から見れば元気過ぎる塩谷に、目線だけを向けた。

「今日の遅刻は十分くらいだったから、優等生な方だね。っていうか、よくもまあそんなに頻繁に遅刻できるよね」

 やって来た塩谷は感心の声で言ったが、次の瞬間、にやっと含み笑った。

「ねえ、ほんとはさっきの休み時間からいたんじゃないの?」

 隠すほどの事でもないと思い、仁科は適当に頷いた。

「見てた?」

「見てた。見てた」

「お前なら、今みたいに声かけてきそうなもんなのにな。どうしてそうしなかった?」

「だって仁科、教室と反対方向行くの見えたし。まだ教室に入りたい気分じゃないのかもなあ、って思って」

 仁科は肯定も否定もしなかった。塩谷太一は仁科の気まぐれを理解できる、数少ないクラスメイトなのだ。

「で、今から職員室?」

 席を立とうとする仁科へ、塩谷がひゅうっと口笛を吹いた。

「まあしっかり怒られてといでよ。戸川先生くらいなんじゃないの? 仁科をいまだに怒ってくれるような先生ってさ。怒られてるうちが華だよ、仁科。誰からも怒られなかったら、それはそれで寂しくなるんじゃない?」

「馬鹿言うな。俺はマゾか」

「まあ早く行っといでって」

 呆れ顔になる仁科へ塩谷はあっけらかんと笑い、手をひらひらと振って仁科を送り出そうとする。何という態度だろう。言われるまでもなく職員室へ向かう所だ。不本意ながらも言われるままに廊下へ出ると、秋の薄雲をたなびかせた優しい色の青空が、窓一面に広がっていた。

 不意に、屋上へ行きたくなった。こんな日に空の見える場所で眠れたら、どれだけ気持ちがいいだろう。コンクリートの床に身を横たえて、柔らかな陽の光を浴びて、風を感じながら眠る。仁科にはそれが最高の過ごし方に思えた。ふわ、と一つ欠伸を零し、口元をのろのろと手で覆う。職員室へ着くのが遅れれば、戸川の説教も必然的に短くなる。そう思ってだらだらと歩いていたが、歩調の遅さがどうにも自分で気になった。普段から下校時は早足で家に帰るので、そちらが癖になったらしい。仁科は慣れないだらだら歩きをやめて、普段通りに歩き出す。

 それにこれから説教を賜りに行く戸川も、仁科が勉学を舐め切っているわけではないという一点においてのみ、理解を示してくれている。次の授業に障るほど長く留めはしないだろう。それに放課後に呼び出したりしない所が戸川の甘さというか、優しさのように思える。階段へ向かいながら、仁科は漫然と思考する。

 学校というのは、つくづく妙な場所だと思うのだ。

 地元の私立中学、萩宮第一中学校。弾けるような笑い声。小波のように満ちて広がる喧騒。その全てが自分と同じ子供と、その子供を指導するための教師によるものなのだ。それだけの人間を閉じ込めた場所は、窮屈といえば窮屈で、閉鎖的と言えば閉鎖的。それは仁科にとって、「妙」としか言いようのない場所だった。

 親に言われるままに受験して入学したはずなのに、迷い込んでしまった気がした。自分がここにいる事に対する違和感のようなものが、常に仁科に付き纏う。

 そんな仕様のない事を考えながら階段に辿り着くと、そこにある姿見に自分の姿が映った。

 ブレザーは前のボタンを留めておらず、だらしなく着崩している。ズボンのベルトはバックルがごてごてしていて、我ながら馬鹿みたいな趣味だと思う。伸ばし気味の黒髪だけが唯一、あまり良いとはお世辞にもいえない仁科の雰囲気を僅かながら緩めていたが、逆に言えば、ここで髪まで染めれば完璧だ。二度目の欠伸を噛み殺しながら、仁科は階段を下り始めた。


 その時に、音を聞いた。


 その音は、足音だった。複数の人間が歩く廊下や階段の喧騒の中から、何故かその足音だけが、特別大きく耳に響く。

 何故、その音が仁科の注意を引いたかは分からない。その音はあくまで日常の一部に過ぎないからだ。だから仁科がその音を意識したのは、本当にただの気まぐれだった。自分のよくする、遅刻のような。

 階下を、仁科は見下ろした。ここは二階なので、手すりの横の隙間から一階へ降りる階段が、螺旋状に見下ろせる。茶色い髪と赤いスカートが揺れるのを、そこに仁科は見た。

 女子生徒だ。女子生徒が小走りで駆けて、ぐんぐんこちらへ迫ってくる。見る間に眼下の踊り場まで来たので、仁科は身体を脇へ避けた。走ってくる女子生徒に体当たりされては堪らない。だが、その最中に足を止めた。

 階段を上がってきた少女が、踊り場で立ち止まっていたからだ。

 見下ろすと、目が合った。

 上方の仁科と下方の少女は、しばし無言で、見つめ合った。

 ――何なんだ、こいつは。

 それが、仁科の感想だった。動くのを躊躇わせるほどに、少女は仁科を真っ直ぐ見ている。その視線の、あまりの強さにたじろいだ。他のものを見ているのではないかという不安を一切感じさせない、射抜くような視線だった。

 思わず口を開きかけて、ぐっと黙った。ここまで無遠慮な目で見られて、こちらから声を掛けるのは癪だった。仁科は金縛りのような視線を振り解くように、静かに歩みを再開させた。

 少女の視線が、ついて来る。やはり明らかに仁科を見ている。まるで自ら少女に近づくように歩く仁科は、ますます自分に向けられた視線を意識した。クラス中からほとんど毎日のように奇異の目で見られても、別段何も感じない。だが今は、少女から放たれる視線が気になって仕方なかった。こんなにも居心地の悪い視線は、今までにないものだった。

 まだ、少女は仁科を見ている。もう仁科は視線を合わせようとはしなかった。目を逸らしても分かるほどの視線を、徹底して無視する。少女の茶に染めた髪も、耳のピアスも、何もかもを仁科は視界の隅へと追いやった。そうやって少女の脇を、何でもないように通り過ぎようとした、その時。

 くす、と笑い声が聞こえた。


「仁科要平」


 鈴を転がすような声音で、少女が言う。

 仁科は、足を止めた。

「……お前、何?」

 ゆらりと振り返り、手を伸ばせば届くような距離にいる女子生徒と対峙した。

 対峙、だった。仁科はその少女に対し、敵意に限りなく近い感情を向けていた。

 直感的に思った。そして分からない方が馬鹿だと思う。それほどに目の前の人間が浮かべた笑顔には、人の神経を逆撫でするような不快さがあった。

 少女は、くすくすとまた笑った。薄化粧に縁取られた双眸が、可笑しそうに細められる。

「やっぱり、あなたが仁科要平なのね」

 少女は長身の仁科から見ると小柄だが、実際は平均的な身長の持ち主なのだろう。短く折ったスカートの所為か、足がすらりと長く見えた。上目遣いで仁科を見上げ、少女はにこにこ笑っている。

 否、にこにこというよりは、にやにやの方が近い。遠い昔に読んだルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』。その絵本に載っていた不気味なチェシャ猫を想起させる顔に見えた。その目と真っ向から向かい合ううち、仁科は急速に馬鹿らしくなった。

 少女に乗せられて口を利いてしまった。それに気づいて白けたのだ。

 見た所この女子生徒は、仁科と同じ中二だ。学年集会の時に姿を見たような気がする。あまり自信はないのだが。ともかく。

 同学年のガキに、自分が揺さぶられた。

 それだけで苦い後味を感じた仁科は、少女を無視して背中を向けた。そのまま階段を降りて一階へ向かう。戸川をいつまでも待たせるわけにはいかないのだ。

「待ってよ、仁科」

 少女が背後から呼び止めてきたが、仁科は返事をしなかった。既に教室を出る際に塩谷に時間を取られたので、休み時間の残りは少ない。腕時計も携帯も持っていないので、こんな時不便に思う。

「ねえ、待ってったら」

 かつっ、床を蹴る硬質の音が背後から聞こえる。さっきの少女が駆け出したのだ。仁科の前に回り込んだ少女は、こちらを見上げて挑戦的に笑ってきた。どうやら通せんぼのつもりらしい。仁科は少女を避けて、階段を降りようとした。

 少女がすっと横に平行移動し、仁科の行く手を阻む。

 少女は、にやっと笑った。

 仁科は自分の表情が、僅かに歪むのを自覚した。

「邪魔なんだけど」

 対する少女は、やはり嬉しそうに笑った。

「やっと止まってくれた」

「退いてくれ」

 仁科はにべもなく言い放った。もう一階の床は目と鼻の先なのだ。わざわざ戸川に怒られに行くのは憂鬱だし嫌だと思う。できる事なら一階になど行きたくない。だが、ここまできたら仁科も意地になっていた。何が何でも、少女を振り切って一階にいかなければならない。戸川に会って説教を食らって、そして教室へ帰るのだ。妙な義務感に駆られていた。

 だが少女はこちらの台詞には全く答えず、飄々とした態度でこう言った。

「私、宮崎侑」

 突然の自己紹介に、仁科は面食らう。こちらの言い分を無視された事さえ、一瞬忘れた。

「私ね、あなたとずっと話してみたかったの」

「は?」

「仁科。私の事知ってた? 同じ学年よ」

「知らん」

 仁科は短く答えを返す。わけが分からなかった。だがこちらを見上げる少女の瞳に理性と呼べそうな光を見て取った仁科は、愕然として、やがて途方に暮れた。

 どうやらこの少女は正気で仁科を通せんぼして、正気で会話をしているのだ。

「私は知ってたわ。去年から知ってたのよ」

 にやにや笑いながら言われると、何だかストーカーじみた響きを感じる。仁科が奇異の眼差しを向けると「あ、別にあと尾けたりしてたわけじゃないし、誤解しないでね?」とこちらの考えを見透かしたように少女は言う。そんな仕草が余計に仁科を複雑な気分にさせた。

 自分の心を覗かれたような不快感と、得体の知れない同級生に対する苛立ち。それは今までになく、不気味で不愉快な感覚だった。

「だって、仁科要平は有名だもの。私でなくたって皆知ってるわ」

 少女は失礼な想像をした仁科に対する怒りを示すように、手を腰に当てて、こちらを少しだけ睨んでくる。その物言いに苛立って、思わず口を開いていた。

「お前も有名なのか」

 少女が、目を見開く。それを見て取るや否や、仁科ははっと黙り込んだ。苦々しく息を詰まらせる。

 うっかり、口を挟んでしまった。

 驚き顔の少女は、ぱあっと明るく花のように微笑んだ。

「やっと、ちゃんと話してくれた」

 その台詞を最後まで聞かずに、仁科はさっと少女の脇をすり抜けた。

「あ」と侑は不意を打たれたように呟いている。棒立ちになっているのを良い事に仁科はずんずん階段を降り、全てを拒絶するような足取りで廊下を歩いた。

「仁科!」

 背後から、声が飛んだ。

「今度はもっとちゃんと話そうよ。私、あなたと話すの、ほんとに楽しみにしてたんだから!」

 やはり仁科は振り返らなかった。すっと曲がり角を横に折れて、仁科の身体が少女の視界から消える。そこでようやく、立ち止まった。

 にたりと笑う顔が、脳裏に張り付いて離れない。ぶん、と軽く首を振って、仁科はまた歩き出した。

 どういう事だ?

 なんで面識のない俺なんだ?

 様々な疑問が泡のように浮かんでは消え、最後に思う事は一つ。

 何なんだ、あいつは。

 仁科要平は、それだけを思う。

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