第17話 タイムリープ・2
「猫みたいな奴だったよ。あいつは」
何と言えばいいのか思いつかず、口をついて出た言葉がこれだった。
言った後で、あまりに脈絡のない事を口走ってしまったと気づく。だが後悔しても後の祭りで、案の定吉野泰介は「猫ぉ?」と頓狂な声を上げて、こちらをまじまじと見つめてきた。
仁科要平は、とりあえず頷くしかない。
「なんだよその扱い。もう人間じゃねーし」
「……なんでだろうな。猫、って思った。今」
「わけ分かんねぇよ。猫っつっても、どんなの? 捨て猫みたいな目ぇしてるって事か?」
「いや」仁科は即座に否定し、「つんとしてるっていうか、気まぐれっていうか……絵本の、チェシャ猫に似てる感じ」と、言えば言うほど普段の自分らしさが剥離して、自己嫌悪を覚える始末だった。
――仁科っ。
はっきりと耳の奥に蘇るのは、甲高い少女の声。
甘ったるく、耳につく。そして今まで離れない。
「……いっそほんとに猫だった方が、幸せな奴だったと思うよ」
無意識の呟きを拾ったのか、泰介がこちらを見上げてきた。仁科はふいっと目を逸らす。確かに泰介には事情を打ち明けると話したが、だからといって自分の内面まで見透かすような目は御免だ。
すると泰介が唐突に、背後の方へと歩いていった。
振り返ると、背を向けた泰介が廊下にしゃがみ、床に手を伸ばしていた。何事かと思ったが、立ち上がった泰介が抱えた物を見て事情を察した。
「ああ……佐伯の」
佐伯葵の鞄を、拾っていたのか。
泰介が提げた黒い鞄は、持ち手の部分が少し縊れている以外には何の変哲もない鞄だ。そこには確か青色のリボンがあったはずだが、今は忽然と消えていた。
その消失に些かの不審を感じたが、泰介が片手に金属バットを握り、もう片方で鞄を提げる姿を見ると、仁科は己の手持無沙汰を自覚した。
「吉野。それ、俺が持つよ」
そう声をかけて、仁科は虚空へ手を伸ばす。
「バット、そのまま持ってく気なんだろ。佐伯の荷物くらい、俺が」
「いい」
即答だった。
ぴしゃりと空気を打った返答はあまりに頑なに響き、無人の廊下が静まり返る。泰介の顔がひどく据わりの悪そうなものに、一瞬だけ歪んだ。
「……なら、いいけど」
仁科は静かにそう言って、泰介に背中を向けて歩き出す。
ちらと背後を振り返ると、泰介は険しい表情で仁科の後ろを歩きながら、視線は鞄へ落ちていた。鞄の紐に掛かった指が、生地に強く食い込んでいる。
泰介が消えた葵の事で、ストレスを募らせ続けているのは明白だった。
どれほどの時間を共に過ごした間柄かは知らないが、幼馴染と言い合うくらいだ。消えれば動揺するだろうし、気になるのも苛立つのも当然だ。
「……」
ただのクラスメイトに過ぎない仁科でさえ、同じように思うのだから。
「仁科」
泰介が、背後から呼びかけてきた。
「お前ってここに来た時、俺と葵に『あてなんかない』って言ってたけど、あれ、やっぱり嘘だったんだな」
「認めるけど、まだどうなるかは分からないさ。だから鍵を回収してる」
仁科がそう返すと、泰介は沈黙した。特に何かを思っての発言ではないらしい。言葉にも怒気は含まれてないように思う。何か話していないと落ち着かないのだろうか。この中で最も葛藤や不安とは無縁に見えるが、それでもやはり葵の失踪は、泰介の心をじわじわと蝕んでいるのかもしれない。
吉野泰介の精神状態を、少しだけ疑った。
だが、自分だけは人の事など言えないだろう。
「……」
最初に泰介と葵をはぐらかして時間を稼いだのは、確かに仁科の打算だった。願わくば自分と侑との関係を二人の目から隠したいという、幼稚な考えからそうしていた。母親の叱責を恐れた子供が、残してしまった弁当の中身を学校や駅のゴミ箱へ捨てるのと、それは何ら変わらない。とんだ愚作の馬鹿さ加減に自嘲の笑みを禁じ得ないが、そんな笑顔は長持ちせず、すぐに顔から消え失せた。
朝の教室での邂逅から、仁科はとうに諦めていた。宮崎侑について語らないまま、事が穏便に終わる。そんな期待は、最初からしていない。
それに、ほんの僅かだが気も咎めた。
仁科の個人的な都合に、泰介を振り回した。泰介からすればいい迷惑だっただろう。さすがにそれは分かっていた。
「悪かったよ。吉野」
素直に謝ると、あっさりと仁科が折れたからか、泰介が背後でたじろぐ気配がした。
「今日のお前気持ち悪りぃ。葵に謝るならまだ分かるけど、俺にまでとかありえねえ。素直になんか謝るなよな」
「……あっそ」
仁科は嘆息して、口の端で笑った。どうやら要らぬ気遣いだったらしい。泰介の乱暴な口調が今の仁科には返って有難たく、心地良かった。
「二年一組は……お前ならもう見当ついてるだろうけど、俺が中学二年の時の教室だ」
歩く二人の靴音が、夕暮れの校舎に響いていく。母校の階段を上がりながら、仁科は息苦しさから目を眇めた。懐かしいとは思わなかった。郷愁を感じられるほどの美しい思い出を、仁科は持ち合わせていないのだ。
「宮崎とはクラスが違ったけど、あいつは俺の教室を死に場所に選んだ」
一つ言葉にする度に、自分から感情と呼べるものがどんどん欠落するのを感じた。ああ、と思う。これはまだ仁科にとって、過去になどなっていない。
「宮崎のあの〝放送〟を聞いて、俺は真っ先に自分を疑ったよ。俺の所為か、って。唯一の知人なんだからさ」
「ここは、死者でも簡単に出てこれるようなとんでもない場所だって事かよ」
「それが分かれば、苦労しないさ」
仁科は首を振って、吐き捨てるような泰介の言葉の返事とする。
ふと、そこで足を止めた。
すると泰介の方も、背後でぴたりと足を止めた。仁科が止まったから立ち止まったというわけではなさそうだ。振り返らなかったが、そうだと分かる。
「仁科、ここ、だいぶ明るくないか?」
怪訝そうに、泰介が言う。仁科も、それに気づいていた。
気の所為ではない。校舎の黄昏の色が薄らいでいる。こうしている間にも少しずつだが、校舎は明るくなっている。
外から日が射しているのだ。それも、沈む寸前の夕陽ではない。仁科は息を呑んだ。
「吉野、見ろ」
外を指し示すと、あっと泰介が叫んだ。
太陽が、昇っていた。瞬く間に眩い光が階段の踊り場を照らし尽くす。やがてスポットライトのような眩さは徐々に円やかなものへと変わっていき、白々とした陽光が、戸惑う仁科と泰介へ降り注いだ。ざわりと、空間が歪んだように音が唸り、聴覚が馬鹿になったのかと思った刹那、鮮やかな変化が起こった。
――足音が、聞こえたのだ。
既視感を、覚えた。これでは今朝とおんなじだ。宮崎侑の足音を耳にした時と、同じ緊張が身体を走る。だがその足音は、一人分ではあり得なかった。
喧騒が、二人しかいないはずの空間に突如として湧いたのだ。
そして音だけでなく人の姿も、わっと溢れるように出現した。
「……うわ!」
泰介が急に叫んだ。隣に急に〝誰か〟が立ったからだろう。顔色を変えて金属バットを構えたが、相手はそんな高校生へ頓着せずに、とことこと小走りで去っていく。
その相手は女子生徒だった。紺のブレザーを羽織り、赤いチェックのスカートを履いている。その付近には同色の紺のブレザーとズボンの生徒が、廊下をせかせか歩いていく。今度は男子生徒だ。仁科にはそれだけで十分に分かった。制服を知っているのだ。簡単に分かる。
「吉野。見たまんまだけど、こいつら中学生だ」
「中学生?」
「萩宮の、この学校の中学生だ」
そう言い捨てて階段を駆け上がった仁科は、ざっと廊下を見回した。二年一組は目前だ。そんな距離まで迫った今、男子生徒が二人ほど、こちらに向かって歩いてきた。彼等は仁科には一瞥もくれず、何事かを話し合いながら歩き、すれ違い、そしてそのまま、歩き去った。
「は?」
追いついてきた泰介が硬い顔で、さっきの二人連れを振り返った。
「おい、今、あいつら……!」
「ああ。俺にぶつかったはずなんだけど」
「はず、ってなんだよ!」
「見ただろ。当たったんだ。腕が。でも、当たってないんだ。それどころかあいつら、俺らのこと見えてなかったんじゃないか?」
何でもない事のように言いながら、仁科も内心では驚いていた。
この体験が現実のものだとは、俄かには信じられなかった。
「見えてなかったって……仁科、本気か?」
「吉野。お前は自分の目で見たものは信じるタイプだろ。そんなに疑うんだったらそこらへんのガキに体当たりしてこい。絶対お前は、誰にも当たったなんて思わない」
「……くそっ。仁科。お前はこれを、どういう事だと思う?」
「どうって……」
仁科は答えようとしたが、その時目の前を横切っていた数人に見覚えを感じ、さっとそちらを目で追った。
「吉野。あいつら」
「ん?」
「あいつら、俺のクラスメイトだった」
泰介が、息を吸い込む。そしてすぐに、こんな言葉を寄越してきた。
「いつの?」
「……」
仁科はゆっくりと、視線を泰介へ戻した。
分かってはいた。覚悟もしていた。泰介はおそらく仁科が思うより聡いのだろう。葵は人の感情の機微に敏感だが、泰介は違うベクトルで秀でているのだと、仁科はいつからかそんな風に、泰介を分析するようになっていた。
もう、卑怯な逃げは通用しない。この少年相手に、同じ騙しは二度できない。何より泰介自身が、それを仁科に許さない。怒り狂う姿が容易に想像できて、顔に自然と笑みが浮かぶ。
全く、いっそ憎たらしいほど直情径行で、狡さのない奴だと思う。どうすればこんな風に真っ直ぐ生きていけるのだろう。仁科にとって吉野泰介は謎だった。諦めにも似た気持ちを抱きながら、仁科は待たせた答えを告げた。
「中二の時。その時のクラスメート」
「……そっか」
あれだけ渋ったというのに、言ってしまえば何という事もなかった。案外そんなものかもしれない。泰介は意外にも、にっとこちらに笑ってきた。童顔によく似合う、勝気そうな笑みだった。
「状況、ちょっとは動いてくれてるみたいじゃん。楽観はできねえけど、俺としては悪くねえよ。なんか出てきやがったらぶっ飛ばそうぜ」
「……同感だな」
肩の力が、ほんの少しだけ抜けたのが分かった。
侑がどういう心算でこんな〝ゲーム〟を始めたのか、その真意は仁科ですら、はっきり掴めない部分がある。だが仁科達はメンバーを人質に取られたようなものなのだ。泰介ではないが、もうここまで来たらやるしかない。覚悟めいたものを仁科が薄らと固めていると、泰介が訝るように言った。
「なあ、仁科。まさか葵が消えたの、この現象と関係あるんじゃないか?」
「この現象?」
「お前の言葉が正しいなら、ここって〝過去〟だろ? 昔のクラスメイトがいるならさ。葵も俺らみたいにどこかにいるのかもしんないって、今考えてみた」
それを言う泰介の表情は、しかし複雑に曇っていった。安堵と焦燥が入り混じりながらも、ひどく何かに苛立っているような表情は、泰介の内面をそのまま映し出しているように見えた。
大方、過去に飛ばされたくらいならば、危険はないのではないかという安堵。だがそれが本当に安全なのか確証がないという焦燥。そしてそんな非現実的なものを土台に据えて思考しなければならないこの現状と、葵の失踪の原因となった〝ゲーム〟そのものへの怒り。そんなところだろうか。泰介は思考が読みやすい。
その表情を観察しながら、成程、と仁科は頷いた。確かにそれは一理ある。
だが、不確かな事を不用意には言えない。
「さあな」と適当に濁すと、むっとした目で泰介がこちらを見上げてきた。だがその時仁科の視界には、もっと目を引くものが入ってきた。
驚いて、早口で泰介に告げた。
「それより、あいつ」
指でさし示した先では、一人の男子生徒が歩いていた。
早めの歩調のその生徒は、男子としては伸ばし気味の黒髪を掻き揚げながら欠伸をした。肩から提げた学校指定の鞄が、動作に合わせて揺れる。
「あ」
口をあんぐりと開けた泰介が、男子生徒を凝視した。
仁科は、気まずさを覚えた。冷や汗が背筋を伝って初めて、自分が緊張していると気づく。鍵を握った握り拳が震え出したのにも気付いたが、泰介に気取られないよう、手に力を強く込めた。拳の震えが、今すぐにでも止まるように。
――最悪の場面が、もう一度自分の目の前で上映されるかもしれない。
この〝ゲーム〟は、悪趣味だ。
今ほどそれを、強く思った事はない。
泰介が、乾いた声で言った。
「あいつ……仁科だろ」
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