第16話 飛び降りと新聞記事

 躊躇いは、一瞬だけだった。

「――おらあああああ!」

 渾身のフルスイングを見舞うと、がちゃん! と耳を劈くような破砕音と共に、振るったバットの向こうへ硝子片が爆散した。

 鉱物のような輝きをきらきらと放ちながら、窓枠の向こうへ舞い散る破片。

 無数の煌めきを見下ろして、吉野泰介は肩で息をする。

 普段バットなど握らないので慣れない長物は手に馴染まず、己の行為がひどく滑稽に思えた。いっそ素手か蹴破る方がやり易いが、その方が効率が悪い上に危険だと分かっていた。

「一万五千円」

 仁科要平がぽそりと、少し離れた所で呟く。

「なんだって?」

 泰介は頭から被っていた学ランを引っぺがすと、ばさばさと振り回して硝子の破片を飛ばした。大半は室内の方へ飛散したが、こちらにも結構飛んできた。頬の辺りがちくりと痛い。もしかして、切れたのだろうか。だが構ってもいられなかった。

「いや、学校の硝子割った時の、一枚あたりの弁償金額。それくらいじゃなかったか? もっとしたっけ?」

 思いきり睨んでやりたいのを堪えながら、泰介はバットで窓を続けざまに殴打する。じゃりじゃりと冷たく鋭い音が一階の廊下へ耳障りに響いた。

「知らねえよ弁償金額なんか。学校の硝子なんか割った事ねーし」

「今割っただろ」

「……」

 泰介は金属バットを振り上げて肩に乗せると、その体勢のまま仁科をぎろりと振り返る。仁科は可笑しそうに忍び笑いを漏らした。

 溜息を吐いた泰介は無言でバットを構え直し、ドアの鍵を開ける為に、武骨な凶器を振り下ろした。


     *


 泰介と仁科は、職員室前へ到着していた。

 萩宮第一中学校。仁科要平の母校である中学校の一階だ。

現在地が特定できただけ前進したと見るべきだろうが、いつまた侑が現れるか分からない。まだ油断は出来なかった。

 この場所は、現実に存在する〝萩宮第一中学校〟とは、同一の場所ではないかもしれない。泰介はいつしかそんな考えを持ち始めていた。

 もちろん、そんな現実は受け入れたくない。感情は今もまだ全ての超常現象を否定している。だが実際に見てしまったものまで、否定する事はできなかった。

 もう割り切るか、観念するしかないのだと思う。

 ここは、そういう場所なのだ、と。

 そんな葛藤を抱えながら、泰介は仁科の案内で職員室まで来たのだった。

「ほら、これで入れるだろ」

 バットを持つ手を下ろしながら、泰介は仁科を振り返った。

 仁科は頷くと割合に素直な態度で寄ってきて、泰介の隣りに並ぶ。そうやって、二人揃って眼前の惨状に目を向けた。

 職員室の引き戸は、今や開け放たれていた。泰介が無理やり開けたからだ。嵌められていた窓硝子を叩き割り、隙間から手を突っ込んで開錠した。当然ながら足元は硝子の海と化している。まるで空き巣に遭ったような有様に、仁科がぽつりと漏らした。

「派手にやったな、吉野」

「うるせえよ」

 誰がこんな行為、好き好んでやるものか。泰介は吐き捨てたが、仁科は不謹慎にも少し愉快そうに笑っていた。

「なかなか見物だったな。こんなの現実じゃできないし」

「だから、お前うるせえっての。暢気言ってないで早く行くぞ。お前まで消えたら事だって言っただろ」

 脱いでいた学ランを着込みながら、バットを拾って泰介は言う。職員室へ踏み込むと、じゃり、と硝子を踏みしだく冷えた音が響いた。その音に急かされたような気分になり、泰介は僅かに顔を歪めた。

 葵とはぐれた時の事を、思い出していたからだ。

 葵は誰かに攫われたのか、この異常な環境で手品のように消されたのか。だとしたらどんな条件が揃えば人が消えてしまうのかは皆目見当がつかないが、ともかく泰介の視界から、仁科が消えないようにすればいい。それが今の泰介にできる最低限の自衛なのだ。

 そんなこちらの注意深さを仁科は茶化してくるかと思ったが、仁科は特に何も言わず、笑う事もなかった。やはり素直に頷くと、泰介に従って付いて来る。

「……」

 何気なく手中のバットを見下ろしながら、泰介は昇降口での出来事を回想した。

普段から喧嘩は腐るほどしてきたが、あれだけ互いの事を馬鹿だ馬鹿だと罵り合ったのは初めてだった。微かな爽快感めいたものが、泰介の心を包んでいた。それは仁科も同じらしく、あれから口喧嘩の回数は劇的に減っていた。

 きっとこれは、一時的な事だろう。泰介と仁科の二人で仲良く一緒に過ごすなど、狂気の沙汰もいいところだ。どうせすぐに、派手にやらかすに決まっている。

それまでに、葵を見つけられたらいい。

 バットを握り直して職員室へ目を向けると、明かりの点いていない室内は、ただただ陰鬱な雰囲気を湛えていた。事務机と椅子と、いくつかの衝立。その向こうには来客用のソファが見える。窓の向こうには校庭と、外周に植えられた枯木、そして灰色の街並みが遠く窺えた。

「鍵はこっちだ」

 仁科はこちら側へ降り立つと、無駄のない足取りで職員室の壁の一角へ歩いていく。泰介も後を追うと、壁にずらりと並んだフックに、鍵が鈴なりにぶら下がっているのが見えた。その量に泰介は思わず呻く。ざっと三十はある気がした。

「こんなにあるのか……」

「生徒のクラス以外にも、特別教室の鍵もあるし。お前がやろうとしてるのはこういう事だ」

 諦観を僅かに滲ませながら、仁科が言う。だがやめようとは言わなかった。

 そして代わりに、感情のこもらない声で言った。

「吉野、提案がある」

「何だよ」

「教室で一つ、心当たりがある。全部を虱潰しに探す前に、まずそこを当たりたい。そこに行けば多分だけど、状況が何か変わる気がする」

「……どこだよ、その教室」

 泰介は、仁科を見上げた。

 金属バットの一件があった直後、仁科は宮崎侑という少女の事を話すと、泰介へ再度許諾してくれた。そして実際にその話を聞こうとしたのだが、泰介が葵を探しながら聞きたいと言ったので、実はまだ何も聞けていないに近い。

 唯一、その場で泰介が仁科から聞いた事と言えば。

「宮崎に縁のある場所の一つが、〝昇降口前の窓〟だったんだろ? 他にもあるのか?」

 昇降口前の窓。それが宮崎侑という少女に関わりのある場所だという事だけは、泰介は仁科から聞き出していた。

「一階昇降口の窓は、宮崎が割って回ったからだろ。他にもヤバい場所があんのか?」

「硝子を割っただけが、全てじゃないさ」

 泰介の言葉に、仁科が首を横に振った。

「夕方の七時くらい。生徒の下校時刻はとっくに過ぎてる時間に、あいつは野球部のバットを盗んで、その足で一階の昇降口前で硝子を叩き割った。目撃者もいたらしい」

「その目撃者って、先生か?」

「まあ、先生も職員室にいたけど。見たのは警備員のおっちゃん」

 仁科はすっと手を伸ばすと、鍵の一つを迷いなく取る。かちゃり、と付けられたプラスチック製のネームプレートが、軽い音を立てた。

 そこにマジックで書かれた文字は――二年、一組。

「宮崎の容姿、思い出せるだろ? 本当に、あのままだった。……有名人だったよ。あいつは。中学生であれだけ明るい髪の色で、化粧もしてたら当前だ。いろんな噂にも事欠かない奴だった。だから割れてる硝子を見た警備員のおっちゃんも、犯人が学校内部の人間で、名前もすぐ分かったんだろうな。……けど」

 仁科が、拳を握り込む。長く細い指の中に、教室の鍵が隠された。

「この騒ぎは、表沙汰にはならなかった」

「はあ? なんでだ?」

「箝口令敷かれたから。萩宮は私立の学校だし、外聞とか、評判を気にしたらしいな。学校の対応としちゃ間違ってるんだろうけど、揉め事はなんとか内々で消そうとしてたっぽい。まあ、あんま意味なかったけど」

「……」

 ――やはり、あいつが宮崎侑で間違いないのか。

「宮崎、硝子割って回ってからどうなったんだよ」

 泰介は、率直な疑問をぶつけた。

「犯罪だろ、それ。校内の硝子割ったらニュースになるんじゃねえの? 箝口令敷くにしたって限度があるだろ。御崎川から萩宮まで少し距離あるけど、同じ市内じゃん。ニュースになれば、俺らだって知ることになるだろ?」

 少なくとも泰介は、そんな事件は聞いた事がない。忘れているだけかもしれないが、何となく気になった。

「ニュースには一応なったんだ。でも、報道されたのはそっちじゃない」

「? どういう報道されたんだ? 一体」

「自殺」

 間が、空いた。

 だが、それほど驚かなかった。もしかしたら泰介自身、その答えをどこかで予期していたのかもしれない。仁科と宮崎侑の年齢のずれを知った時から。主不在の放送から。葵が消えた、この現実から。

 死者の存在など、信じていない。そんなものの存在に脅かされてるのは馬鹿げている。少なくとも泰介は、そう信じて生きてきた。

 だがそれでも、声の掛け方が咄嗟に分からなかった。仁科の表情には何もなかった。さらりと衒いなく「自殺」と言ってのけたくせに、仁科の顔からは代わりに表情が失せていた。

 だからか、と。今更のように、思い知った。

「自殺……教室でか。だから、二年一組?」

「ああ。飛び降りだったよ。その現場に唯一居合わせたのが、俺」

 今度こそ、言葉を失くした。

 ――それでも。

「……話して、くれるんだよな」

 心を鬼にして、そう訊いた。

 言葉にするのに、努力が必要だった。だが努力という認識自体がおこがましいと、さすがに泰介でも気づいていた。

 これから話す努力をするのは、泰介ではなく、仁科だ。

「……話すさ」

 まるで挑むように声を低くする泰介の心情を、仁科がどんな風に解釈したのかは分からない。ただ、いつものように仁科は卑屈とも取れる歪んだ笑みを、口の端に浮かべただけだった。

 誤魔化し笑いのような表情は痛ましいだけで、泰介にはその嘘っぽさがひどくもどかしく感じられた。

 そんな感情に衝き動かされて、口を開きかけた時だった。


「は……? 吉野……?」


 突然仁科が、間の抜けた声で泰介を呼んだ。

 表情が一変している。笑顔は一瞬で霧散した。仁科は何やら珍妙な表情になり、まじまじと泰介の顔を見つめている。鳩が豆鉄砲を食らう、というのはこういう顔を言うのかもしれない。とても今の今まで自殺の話をしていた人間とは思えなかった。

「な……なんだよ?」

 最初に泰介が感じたのは、居心地の悪さにも似た焦りだった。

 自分は何か、妙な表情でもしていたのだろうか。それとも仁科はこんな時にまで、泰介の表情をからかう気なのだろうか。そう推察してみると、あながち外れではない気がした。

「なんだよ、俺が真剣な顔してちゃ悪いかよ!」

 泰介は毒づくが、意外にも仁科は首を横に振った。

「いや、そうじゃなくて」

「じゃあ何だよ?」

「後ろ」

「ああ?」

 泰介は言われるままに、背後を振り返る。

 そして、仁科の言わんとしている事を察知し、凍りついた。

「なっ……!」

「ああ、やっぱりアレ、吉野なのか」

 仁科は感嘆したようにそう呟く。いつもは細めている目がしっかりと見開かれていて、どれほどそれに驚いていたかを雄弁に物語っていた。泰介は動揺と焦燥で、顔が赤くなったのか青くなったのかさえ分からない。

「なんで……これが、ここにあるんだよ……!」

 仁科が指さした壁には、大きめのコルクボードが掛けてあった。そこには様々なプリントや、伝達事項の記されたメモが貼ってある。見た目通り、ここの教師達の掲示板に違いない。

 その掲示板の隅の方に、新聞のスクラップが一枚貼ってあったのだ。

 仁科の目は、そこに釘付けだった。

 泰介は、その視線を遮るように身体の位置を変える。

 途端、仁科が堪えきれずと言った様子で「ぶっ」と思いきり吹き出した。

「わ……笑うんじゃねえ!」

 泰介は頬を紅潮させて喚いたが、笑われても仕方のないことは十二分に承知していた。

 そこには、吉野泰介の人生史上、最悪の汚点が掲示されていた。

 ――御崎第二中学二年、お手柄! 万引き犯逮捕!

 そして、問題の写真はその見出しのすぐ隣にあった。恨みがましい目でカメラを睨む、顔面を負傷した少年の白黒写真。

 誰かなんて明白だ。自分が一番知っている。

「最悪だ……!」

 血を吐くような声で呻いた。大げさに書かれているが、こんな事は望んでいなかったのだ。ただ、母の使いでスーパーへ行っただけだった。それがまさかこんな事態になるなどとは、あの時は思いもしなかった。

 当時中学二年生だった泰介は、駅近くのスーパーへ買い出しへ行った帰り道に、高校生の一団が文房具店へ入っていくのを見た。そして自分も筆記用具をいくらか切らした事を思い出し、釣られるように高校生へ続いたのだが、これが彼等にとっても、そして泰介にとっても運の尽きだった。

 シャーペンやボールペンの並ぶ一角を、巣にたかる蜂のように密着して占拠する集団は非常に目を引いた。泰介が不審に思って覗き込むと、万引きをしている一人を三人で匿う姿を目撃した。

 見た瞬間に声を張り上げ、店員を呼び、万引きと叫んだ。

 そして叫んだ瞬間、ぶん殴られた。

 店内の陳列物を大量に薙ぎ倒しながら、自分の身体が面白いように吹っ飛んだのを覚えている。頭もしたたか打ち付けたのに、意識は異様に冴えていた。泰介を殴った高校生は店員に捕まったが、他の三人はすぐさま逃げた。

 泰介が取るべき行動は決まっていた。

 大根やニンジンやネギが入った袋を放り捨て、鞄までも放り捨て、猛然と高校生を追い駆けたのだ。

 当時から、陸上部に所属していた。

 追えば必ず追いつけるという、確固たる自信もあった。

 かくして中学二年の泰介は、逃亡した三人のうちの一人に狙いを絞り、相手が根を上げるまで追いかけ回し、疲れ果てて転倒した高校生の腕を締め上げて、警察へと突き出したのだった。

 今思い返せば、若気の至りもいいところだった。文房具店で一人は万引き犯を捕らえているのだから、後はそこから芋蔓式に残りのメンバーを捕まえられたはずなのだ。それに防犯カメラも設置してある店内で、泰介がそこまでする必要は全くといっていいほどなかった。最初に万引きを告発した時点で、泰介の役割は終わっていたのだ。

 それをわざわざ引っ掻き回すように、事態を余計に目立たせてしまった結果……警察に表彰され、揚句、新聞に載ってしまった。

 非行少年達の名前は出ていないが、泰介の名前は載っていた。

 だが泰介としては、これは苦い思い出だった。

 やらないでいい事にまで手を貸して、自分の怒りを消化する為だけの理由で追い縋る。使命感という言葉で片付けるのは容易かったが、それは最初だけだと気づいていた。後はただ殴られた所為で、理性が焼き切れただけだった。

 これは己の短気と幼稚さの、象徴のような事件だった。

 葵などは、そんな風には取らなかったようだが。

『泰介、ほっぺの怪我……っ、歯ぁ折れてない? 大丈夫? 大丈夫じゃないよね、痛いよね』

 過保護なほどに動揺する幼馴染の、悲しそうに歪んだ顔。おまけに少し泣いていた。それが余計にこの記憶を苦いものへと変えていた。

 母はこの日、買い物を放置するどころか不良と喧嘩をした泰介に激昂した。尋常ではない怒りだった。今にして思えば不良と立ち回った息子を心配しての怒りだったと推察できるが、当時はただ恐ろしいばかりだった。

 そしてその夜。頬の治療を済ませた泰介は、禊として髪をバリカンで刈られる羽目になる。その状態で後日、新聞掲載用の写真を撮られてしまった。

「なんで坊主? お前、野球部だったの?」

「色々あったんだよ、色々!」

 泰介は抵抗するが、仁科の声は震え声だ。腹を抱えて笑っているのを何とか堪えようとして、堪えきれずに自滅している。何とも腹立たしいが、笑う気持ちも分からないではないくらいに、ぶすったれた表情で頬に大きなガーゼを当てた坊主頭の少年はシュールだった。何故これを掲載しようと思ったのだろう。叶うなら当時の新聞記者をぶん殴りたい泰介だった。

 そして泰介は、もっと恐ろしい事実に気づく。

 こんな黒歴史ともいうべき新聞記事が、何故仁科の中学でスクラップされて、こんな所に留められているのか。

「おい、まさかこれ、近隣の中学みんな、こんな風に掲示してたのかよ……?」

「少なくとも、俺のとこではそうだったって事だな。言われてみればこれ、見覚えあるし。校舎のどこかにもあるかもな」

 平然と仁科に言われ、泰介は眩暈で倒れかけた。

「勘弁しろよ……」

「ぱっと見誰もお前だなんて分かんないさ」

 しっかり泰介だと気づいた奴がよく言う。踵を返した泰介は「早くその教室行って、葵探すぞ!」と誤魔化すように叫んだが、その時仁科が、不意に言った。

「ああ。今ので一個、合点がいった」

 先程までの爆笑が嘘のように消えて、しん、と職員室の静寂が、僅かな耳鳴りを帯びて空気に広がる。「何が」と泰介は素っ気なく答えた。

「だから、ここにお前の写真と名前があるから」

「は?」

「ずっと、疑問だったんだ。あの〝放送〟聴いた時から」

 泰介は、足を止める。

 振り返った泰介が見た仁科の目は、厳しく細められていた。

「あいつは……宮崎は、俺らを名指しで呼んだだろ。仁科要平、吉野泰介、佐伯葵、って。フルネームで」

 どくん、と心臓が打つ。

 今。言われて、やっと気がついた。

「宮崎は、俺の名前を知り得たって事か。そう言いたいんだな?」

 泰介が意気込んで言うと、仁科は頷き、不快そうに眉根を寄せた。

「それは今分かったんだ。でも吉野。おかしいだろ。まだ分からない事がある」

 仁科は前髪をくしゃりと掴むと、僅かに俯いた。

「あいつが、在学中から……生きてる時から、吉野泰介って名前を知ってたかもしれない。それは分かった。けど、じゃあ佐伯は? あいつの名前なんか、それこそ関係ない」

「……」

 苦渋を滲ませた仁科の顔を、泰介は何も言えずに見上げた。

 あの時呼ばれた、泰介達の名前。何故名前を知っているのかという動揺と、一方的な物言いに腹を立てた、あの放送を思い出す。

 ――宮崎侑は、吉野泰介を知っていた。

 だが、それが何だというのだろう。こちらは宮崎などという人間は知らないのだ。それなのに相手はこちらを知っていて、明らかな害意でもって泰介達を弄んでいる。

 それに、葵。

 仁科の言う通りだった。佐伯葵の名も、宮崎侑は知っていた。

 どこで、知った? 鼓動が、早くなっていくのを感じた。嫌な予感がじわじわと這いより、泰介の心を締め上げていく。葵の安否が、気になった。今、どこにいるのだろう。一人で、泣いているのだろうか。逸る気持ちが募るばかりで、何もできていないのだ。それを思うと、焦りと怒りで気が急いて――自分の事が、嫌いになりそうな気持ちになる。

 そしてそこで、はっとした。不意に、泰介は気づいたのだ。


 泣く葵はいつも、こんな気持ちだったのか、と。


 柄にもなく感傷的な気持ちを覚え、それを吹き飛ばすように首を振ると、泰介は職員室を出る為に歩き始めた。

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