第15話 青い、サテン地の、リボン

 混雑を覚悟していたが、車内は意外と空いていた。葵と泰介のいた駅が終点だからか、ここへ帰って来る人達と、間でたくさんすれ違った。それはスーツ姿のサラリーマンだったり、色んな制服の学生だったりする。御崎川高校の制服を着た人も何人か目にして、それは葵に蓮香の姿を思い出させた。

 葵と泰介は、並んで座席に座っていた。

 会話もなく、二人で車窓を眺めている。夜へと移り変わっていく街の中を電車はぐんぐん進んでいき、ネオンの輝きが星のように流れていく。その光に葵は見惚れた。普段じっくり見ることのない街の光。生きている人間がそこにいるという光。たくさんの光が、薄闇に息づいている。

「葵は……あいつと一緒にいるの、楽しいか?」

 不意に泰介が、窓を見たまま言った。

「あいつ?」

 腫れぼったい目を泰介に向けて、葵は「ああ」と気づく。力なく笑った。

「聡子ちゃん」

 泰介は、頷いた。

「……楽しかった」

 考えてから答えると、泰介は睨むような目で葵を見た。笑えば愛嬌のある顔をしているのに、真剣な顔は時に少し怖く見える。だが、もう怖くなかった。

「どうして、こんなことになっちゃったんだろ。私ね、聡子ちゃんのこと友達として……普通、だったの。うまく言えないけど」

 葵はポシェットの紐を指先で弄びながら、ぽつりぽつりと話し出した。

「私と似てるとこあるかなって、思ったこともあるよ。恥ずかしがりだし。でも、友達は友達でも、聡子ちゃんとはさくらほど一緒にいたわけじゃなかった。少し話をしたことがあるってくらいだったの」

 もぞもぞと紐を絡めた指を膝の上で動かしていたが、葵はそれを解くと、手をちゃんと下ろした。

「私、ほんとは、少しずつ聡子ちゃんが仲間はずれにされていってるの、分かってた」

 真正面へ視線を移すと、瞬く街の光の中に、座る二人の姿も映っていた。

「分かってたけど、みんなにそれをやめようって言う勇気、なかった。それにやっぱり聡子ちゃんは、私には少し、遠い友達だったから」

「もういいよ、葵」

 泰介が、口を挟んだ。

「そんなのが聞きたくて、おまえに質問したわけじゃねーんだから。けどおまえ、そいつを友達だって言ってもさ、明るくねーんだよ。前よりもずっと」

 窓に映る泰介が、窓に映る葵をひたと見た。

「おまえ、前はもっと笑ってたじゃん。楽しかったなんて言ってるくせに、何で今は、泣きそうな顔ばっかしてんだよ」

「……ありがとう」

 お礼が口をついて出ると、泰介は居心地悪そうに眉を顰めた。

「なんだよ急に」

「今のこととか、前のこととか。いろいろ」

 泰介と出会って言葉を交わして、葵は少しずつ泰介のことを知っていった。泰介はよく怒る。人を怒らせるような発言も多く、誰よりも人と衝突する。だがその感情が怒りだけではないことを、葵はもう知っている。

 自然と笑うと、その拍子にまた涙が滲んだ。

 ごしごしと手の甲で拭っていると、泰介が呆れたように息を吐いた。

「ほんと、泣き虫だな。お前って」

「知ってるくせに……」

 葵は手を下ろして泰介を睨んだが、何だかおかしくなってまた笑った。

 それからまた、泣いた。


     *


「泰介くんも入ってよ」

 葵が泰介の袖を引いて病室前へ近づくと、泰介は躊躇する素振りを見せた。どうやら待合スペースに座っている気だったらしい。

 だが葵は泰介にも来て欲しかった。泰介がいなければここまで来れなかったのだ。母も経緯を知れば、泰介に会いたいと思うだろう。

「おばさん、俺のこと覚えてるかな」

 気まずそうに泰介はぶつぶつ言っている。吉野泰介でも面識の薄い大人相手だと、こんな反応を見せるのだ。それが葵には意外だった。

「なあ、葵」

「なあに?」

「劇のこととか、学校のこと、おばさん知ってんのか?」

 スライド式の扉に手を掛けて、葵は動きを止めた。

「……少しだけなら、知ってるよ。でも聡子ちゃんのことは知らないと思う。蓮香お姉ちゃんには、すごくばれてたけど」

「は? なんでお前のねーちゃんがそんなの知ってんだよ」

 泰介は目を丸くしているが、葵にもそれは分からない。蓮香の言うような偶然でクラスの事情が知られたことに、まだ戸惑いが強いのだ。合点がいかない様子の泰介を伴いながら葵は扉を開けると、閉じられたカーテンの間を進んだ。

 母のベッドのカーテンは最初から開いていて、すぐに母の姿が見えた。

 緩い三つ編みに結われた髪が、水色のパジャマの胸元に垂らされている。母は手に青色の布を持っていて、のんびりとした様子で裁縫をしていた。

 その母が、顔を上げる。そして病室に来たのが自分の娘で、泰介も一緒だと気付いた。驚きが、顔いっぱいに広がっていく。

「葵。それに……そう、そうなのね」

 小さな二人を見下ろした母は、やがて朗らかに微笑んだ。

「来てくれて、ありがとう」

 それは葵だけでなく、泰介への言葉でもあった。

 泰介が前に進み出て、ぺこりと小さくお辞儀した。

「泰介君、久しぶりね。遅い時間なのに、ごめんなさいね」

「そんなことない、です」

「おうちの人には、ちゃんと言ってあるの?」

「はい」

 ぶっきらぼうなのか丁寧なのか、よく分からない口調で泰介が言う。敬語を使う泰介を、葵は初めて見た気がした。母は青色の布をシーツの上に置くと、ふわりと柔らかく笑った。

「泰介君は、葵を連れてきてくれたのね」

「そんなんじゃ、ありません」

「違うのでも、いいのよ。葵と二人でここに来てくれたことが、おばさん、とっても嬉しいの」

 おっとりと母が笑うと、泰介が居心地悪そうに葵を振り返った。かと思いきや、怒ったような顔で視線をぐるっと外される。「何?」と訊いたが返事もくれない。そんな二人を母は目を細めて見守っていた。

「……ねえ、葵。葵が蓮香と喧嘩なんて、珍しいわね」

「え? な、なんで、けんかって」

「分かるわよ。それくらい」

 葵は頬っぺたを手で触った。涙の跡でも残っているのだろうか。

「葵。最近の蓮香、家に帰るのが早いでしょう?」

「う、うん」

「そのことをね、蓮香に『どうして?』って訊いたら、だめよ?」

「え?」

 顔を上げると、母の顔はやはり今日も青白い。触れたら冷たいかもしれない。だがその表情には、対照的な温もりがあった。

「高校二年って……十七歳って、大人って感じするでしょ? でもね、蓮香自身はそんな風には思ってないの。むしろ、葵と同じ。自分のことをまだ子供だと思ってる。そんな中で、あの子もたくさん悩んでるの。どうしたらいいかを一生懸命考えながら、それでも今の自分にできる一番いいことを、選び取ろうとしているの。それが、あの子なのよ」

 それを言う母の眼差しは、優しい。だが言葉の内容は、葵にはまだ分からない。

 考え込んでいると、「なんでだよ?」と泰介が割って入った。

「葵だって、ねーちゃんのこと心配だから気にかけてんだろ」

 そこまで言ってから、「あ」と泰介が呟く。早速敬語を忘れたようだ。母は「いいのよ」と笑うと、二人の子供を見下ろした。

「蓮香も蓮香なりにね、頑張ってるの。ただ、その行動はもしかしたら、間違っているかもしれない。でも、正しいかもしれない。……ねえ、泰介君。今日葵とここに来たのは、偶然?」

 泰介は面食らったようだが、頷いた。

「おつかいの帰りで、駅が通り道で……そこで会ったから」

「じゃあ、泰介君がもし駅で葵と会わなかったら。葵はここに来れなかったかもしれないわね」

「……」

「ここで、泰介君に問題です。駅で葵を見つけるのが遅れて、病院の面会時間に間に合いませんでした。そこでもし、葵が時間を巻き戻せるとしたら。泰介君はどうする?」

「え?」

 葵は、母の突飛な質問に驚いた。

「病院の面会時間に間に合うように、葵に時間を巻き戻させる? それとも、間に合わなかったらそれでおしまい?」

 母の言葉は難しく、それに少し意地悪な気もした。

 泰介は戸惑っているようだが、その表情は質問内容をしっかりと受け止めて、整理しながら考えているように葵の目には映った。

 そして泰介は唐突に、はっきりと言いきった。

「それ、だめだろ。絶対やめさせる」

「駄目?」

 母が訊き返す。泰介は強く、首を縦に振った。

「気に食わないからやり直すってことだろ? そんなの、ずるじゃん。もし今日おれが、あお……あ……葵さんと会えなかったら、今日ここに来れてないけど、明日また会いに来ればいいだけだ。次の日だってまた来ればいいだろ。おしまいになんかならない。戻すなんて考えるのは、間違ってる」

 曇りのない目だった。そして力強い言葉だった。

 だが葵は、「葵さん」と呼ばれて思いきり吹き出していた。案の定泰介が顔を真っ赤にして振り向き、怒鳴ることもできずに震えている。場所が病院だと、葵でも泰介と対等にわたり合えるらしい。母もくすくすと笑っていた。

「そうね。それが泰介君が正しいって思うことなのね。ちょっと回りくどくなっちゃったけど、そういうことなのよ。何が正しいかなんて考えるのは人それぞれだけど、それでもおばさんは、泰介君の答えをすごくいいと思うわ。……だからね。蓮香が何も言わないうちは、お母さんは見守りたいの。大丈夫よ。私の自慢の娘だもの。たとえ蓮香のしていることや、やろうとしていること全てが、正しいわけじゃないとしてもね」

「正しくなくても、いいの?」

 葵は、訊いた。

「間違っても、いいの?」

 その瞬間に、鮮やかに思い出される光景があった。

 まだ、母が元気だった頃。葵はまだ小学校へ上がる前で、蓮香は中学生だった。

 スカートの丈が異様に長く、金色に染めた髪がさらさらと靡く。皆が怖いと恐れた蓮香の葵を見る目が優しくて、手を握ることを躊躇わなかった。

 蓮香の非行の理由を、葵は知らない。姉は何かを間違えたのだろうか。間違えながら、それでも進んできたのだろうか。

 葵もきっと、たくさん間違っている。

 そのどれもが、とても恐ろしかったのに。

「いいよ」

 病気で辛いはずなのに、それでも何故だか幸せそうに、いつも母は笑うのだ。


     *


「ただいま」

 葵は玄関をそっと開けて、中を覗き込む。

 蛍光灯の明かりが、包み込むように葵を照らした。家の明かり。その光に安堵する。帰ってきた。その実感があった。

 テーブルの前に、蓮香は背を向けて座っていた。黒いセーラー服の襟からは、臙脂のリボンが覗いている。

 御崎川の女子の制服は、性質の悪い喪服のようだ。そう誰かが言っていたのを思い出す。黒と赤のコントラストを不気味に思う人もいるらしいが、葵は言われるまでそんなこと、思いつきもしなかった。

 黒い背中がぴくりと動き、ばっとこちらを振り返った。

 条件反射で葵がびくっと震えると、姉は苦笑して立ち上がった。そんな仕草一つを取っても、やはり母によく似ている。

「おかえり」

 短い台詞だった。だが、それだけで事足りた。

 葵は何だか嬉しくなって、もう一度「ただいま」と言った。

「葵。お母さんのとこ行ってたの?」

「うん」

「元気そうだった?」

「蓮香お姉ちゃんっ」

 葵は靴を脱いで、ぱたぱたと姉の元へ近づいた。

「これっ」

 ポシェットの中からそれを取り出して差し出すと、蓮香がはっと息を呑んだ。

「葵、これ……」

 さら、とした布の感触が手に伝わる。艶々としたこの生地は、サテン地と呼ぶらしい。母にさっき教えてもらった。からっと晴れた日の海のような青色が、白い光を照り返す。

「リボン。蓮香お姉ちゃんはアリスだもん。衣装がいるってお母さんと話してたんでしょ? お母さん、縫ってたの。でも布が足りなくて、リボンしかまだ作れてないけど、とりあえずできた分だけでも見せてあげて、って」

 葵が懸命に喋っていると、蓮香は神妙な表情で、青いサテン地のリボンを手に取る。それを凝視してから、静かに言った。

「……あのね、葵。衣装ね、昨日出来上がってるの」

 一瞬、呼吸が止まった。

 ざわりとした焦りに、心が揺れる。

「それって……」

「うん。明日お母さんに報告するつもりだった。だってお母さんが衣装作る気だったなんて、想像もしてなかった。病人なんだよ? 病室で絵本描いてるような病人だけど」

 後半は呆れながら言った蓮香は、リボンをきゅっと握ると、葵を見た。

「ねえ葵。私の作ったリボンでよかったら、あんたいる?」

「え?」

「リボン作ったの、あたしなのよ。あたしはお母さんのやつ使うことにするから、そうなると勿体ないじゃない。せっかく作ったのに」

「い……いる!」

「そう。ちょっと待ってて」

 意気込んで答えると、蓮香は笑みを見せてから共同部屋へ向かった。そしてこちらへ戻ってくると、ぽんと自作の方のリボンを放った。ふわりと舞う青いリボンを、葵は慌ててキャッチする。蓮香はエプロンを被ると、台所へ身体を向けた。

「夕飯、ちょっと待ちなさいよ。温めるだけにしてるんだから」

「……ありがとう」

 葵は、手の中のリボンを見つめた。

 母のものと同じ、サテン地の布だ。だが生地の色は蓮香の作ったリボンの方が、ほんの少し薄い。それがサテン地の艶やかさを、一層引き立てている気がした。葵はリボンを握ったまま、玄関へ向かった。

「あれ? どこ行くの?」と気付いた蓮香に訊かれたので、「ちょっと外。五分で戻るから!」と葵は叫んで飛び出した。

 扉を開けると、そこは完全な夜だった。階下を見下ろすと、まだそこにいてくれた。葵は嬉しくなって螺旋階段を駆け下りた。

「泰介くん!」

 街灯の下で、泰介がこちらを振り返った。葵はそこを目指して駆けていく。街灯が投げかける光の輪へ入ると、泰介は葵の表情を見ただけで察するものがあったらしい。快活に笑った。

「よかったじゃん。ねーちゃん、怒ってなかったんだろ?」

「うん! ねえ泰介くん、やっぱり家にあがってってよ。蓮香お姉ちゃんの料理、おいしいよ」

「さんきゅ。でも母さんに言ってないからいいや」

 泰介は葵の申し出を、そう言って辞退した。「そっか」と答えながら、葵は残念に思う。ご飯は人数が多い方がきっとおいしい。だが泰介にも家で一緒に夕飯を食べる家族がいるのだ。葵にとっての蓮香と父のような。そう考えると心がぽかぽかした。

「泰介くん、ありがと。おかげでお母さんに会えた」

「それは、別にいいよ」

 泰介はふいっと目を逸らした。顔が少し赤い。そして「お前のかーちゃんって、変わってんな」と決まり悪そうに呟いた。あのベッドの下に描きかけの絵本があると知れば、泰介はどんな顔をするだろう。何だか楽しくなって、葵は笑った。

「あのね、泰介くん。私ね、明日、聡子ちゃんとまた話そうって思うの」

 泰介は、少し驚いた顔を見せた。

「なんでまた?」

「クラスとかそんなの関係なしに、話してみたいの。私、聡子ちゃんのこと、全然知らないもん」

 それが葵の本心だった。さくらや美紀、クラスの皆。聡子のことを悪く言う人はたくさんいる。そんな皆に、自分の気持ちが引き摺られてしまった。葵はそれを、認めなくてはいけないと思う。

 泰介が感嘆したように「へえ」と呟く。

 そして、にっと歯を覗かせて笑った。

「いいじゃん」


     *


 葵のクラスを震撼させた劇、「シンデレラ」。

 結論を先に言うと、葵がシンデレラ役をやる事はなかった。

 劇自体が、中止になってしまったからだ。

 青いリボンを蓮香から貰った翌日、予定されていた学級会は自習に変わった。その日は別段誰も怪しまなかったが、事態はその後、思わぬ展開を見せた。

 体育館の改築。

 天井板が一枚剥がれて、六年生の体育の授業中に落下したのだ。それによって体育館が使用できなくなったが、かといって体育館に替わるスペースの確保も難しい。幸いどのクラスもまだ劇の練習の段には至っていなかった事もあり、その年の学芸会は中止となったのだった。何だが、拍子抜けしたのを覚えている。


「何だったのかなぁ……」


 佐伯葵は腰掛けた机の上で、大きく伸びをする。

 子供の使う机がこんなにも、今の自分にとって小さいとは思わなかった。葵もここに座っていたのだ。もちろん机にではなく、椅子に。

「あはは、かわいい」

 窓際に目をやると、頬が綻んだ。幼い姿をした葵が、ランドセルから猫のマスコットを外している。そして今まで付けていたそれの代わりに、青いリボンを結んでいた。

 だが不器用な葵では上手く結えず、リボンはぐちゃぐちゃになっていた。惨状を見兼ねたさくらが手を貸してくれたが、こちらも不器用さでは負けていない。リボンは異様な方向へ捻じ曲がっていく。微笑ましいが、葵は頭を抱えた。

 そこで、聡子がそっとリボンを解いた。

 慣れた手つきですいすいとリボンが結われ、可愛い蝶々結びに歓声が上がった。こちらまで楽しくなるような純粋な笑みを見ていると、ほんの少し、切なくなった。

 ――葵の母、佐伯和歌子が亡くなるのは、これから一か月後のことだ。

 時間はもう、あまり残されていない。

「……ねえ、私、もう三日もしないうちにね。高校の修学旅行に行くんだよ。泰介と。私たち、こんなに長い間一緒にいるんだよ。それって、すごいことだよね」

 葵は、そっと囁いた。誰も聞いていないと分かっているから、返ってすらすら言葉にできた。だが微笑みながら、やはり悲しみが溢れて止まらなかった。

 もう、分かってしまったからだ。これが一体、何の〝ヒント〟になるのだろう。おかげで、知らないでいい事を知ってしまった。

 ――ごめんね、泰介。

 目尻に、涙が浮かんだ。知っても仕方のないことに、ずるずると引き摺られて思い煩う。それを馬鹿だと罵った、昨日の泰介を思う。

 全部、泰介の言う通りだった。それを今更気づいた。どことも知れないこの場所で、たった一人になってようやく。

 家族が好き。その気持ちが全てで他は何も要らないと、割り切る強さはどうしてこうも得難いのだろう。十七歳なんて、まだ子供だ。葵はそれを、噛みしめる。

「泰介……」

 声が自然と零れたが、小学三年の方の泰介は、今は教室に見当たらない。大方、校庭でドッジボールでもしているのだ。葵が呼んだのは、高校二年の泰介の方だ。

 そして、泰介と共に残してきた仁科要平にも思いを馳せて、きゅっと唇を噛みしめる。仁科の見せた不安定さが、葵を落ち着かない気持ちにさせていた。

 今、二人はどうしているだろう。

 仲良く、は望めないかもしれない。

 だがせめて、一緒にいて欲しい。ここで葵が過ごした時間が長いのか短いのか、その感覚さえ覚束ないが、消えた葵を二人が探しているだろう事は簡単に想像できるのだ。葵は、ここへ落ちる直前の出来事を思い出す。

 誰かが、〝アリス〟――。

「……あ」

 唐突に、気付いた。

 机の上で膝を抱く自分の右手に、布の感触がするりと滑る。

 サテン地の布の手触りだ。驚いて見下ろすと、右手の辺り、左足にリボンが引っ掛かっていた。追い立てられるように辿った記憶の中で、蓮香からもらったリボンと同じだ。だがこちらの方が、布の色が抜けて古ぼけている。

 これは――十七歳の、葵のリボン。


「〝アリス〟が誰か、分かった?」


 凛と、響くような声が聞こえた。

 はっとした。振り返る。そして見つけた。紺色のブレザー。赤いチェックのスカート。波打つ茶髪は教室の風に煽られ、緩やかに流れている。

 白い光の溢れる教室の隅に、ひっそりと、本当にひっそりと――その少女は、立っていた。

 その姿には、出会いの時に感じた不気味さはなかった。それどころか自然な立ち姿はどこか神々しくさえ感じられて、葵は声を掛けるのを躊躇った。

 動揺はしていた。だが怖いとは思わなかった。

「私……これがどういう〝ゲーム〟なのか、まだはっきり分からないままだけど。〝アリス〟の正体、分かったかもしれない。自信、ないけど」

「多分それ、間違ってるわよ」

 くすくすと、少女が笑った。あっさりとした返事だった。こんなにも簡単に成り立ってしまった会話に、緊張感で息が詰まる。

「〝アリス〟は……あなたが言うなら、そうかも。でも、私は」

 葵は少女を、真っ直ぐに見た。


「あなたが誰なのか、分かったと思うの」


 少女は、少し驚いたような顔をした。だが悪戯っぽく細められた目は、初めからこの展開を知っていたかのように楽しげで、同時にどこか愛おしげだった。

 不意に。

 少女が、動いた。

 髪が、揺れた。瞳が、笑っていた。スカートが、ふわりと膨らむ。そしてそのまま教室から、滑るように出て行ってしまう。

「……っ、待って!」

 葵は机から飛び降り、走り出す。追いつかなければならなかった。開け放した扉の向こうに、人影はもういない。分かっていても、叫ばずにはいられなかった。

「ねえ! 〝アリス〟の正体! 私が分からなくても! 間違ってても! ……大丈夫だよね! 私たち、大丈夫なんだよね! 泰介と、仁科がいるから! 私一人で考えて、分からなくても、三人でいれば大丈夫だから、ほんとのほんとに、大丈夫なんだよね!」

 大きく息を吸い込んで、葵は自分がそうだと信じる名を、叫んだ。


「―――― !」


 途端、わっと白い光が溢れ出し、声が、視界が、瞬く間に塗りつぶされて――。

 そこから先は、分からなくなってしまった。

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