第14話 ただ、また会いたくて

 夕日の差し始めた図書室で、葵は読みかけの本を閉じた。

 内容は頭に入らなかった。今朝の教室での出来事ばかりが、頭の中でぐるぐる回った。

 葵は登校するとすぐに、聡子の姿を探した。会って何を話したらいいか分からなかったが、ただ『おはよう』くらい言いたかった。

 すると、美紀を始め何人かの友達が、『葵ちゃん、おはよう』と言って通せんぼをしたのだ。聡子の姿は、友達の頭越しにしか見えなかった。

 美紀達は、葵を『守っている』つもりなのだ。

 そして葵も美紀達に守られたまま、こうして一日を終えてしまった。

 聡子とは結局、目を合わすことさえできていない。

「葵、お待たせ!」

 がらっと扉が開き、さくらが入ってきた。葵以外に利用者のいない図書室に、声が快活に響く。葵が「うん」と答えると、さくらが机の上へ目を留めた。

「シンデレラ?」

 その言葉に、葵は単純に驚いた。机に置いていたのはグリム童話だったからだ。

「さくら、どうしてシンデレラって分かったの?」

 グリム童話の中に、『シンデレラ』が所収されている。そんな会話は葵達の友人間では、まずできない類のものだ。さくらは得意げに胸を張った。

「シンデレラだけ知ってるの。グリム童話ってやつ。ねえ葵、人魚姫もグリム童話? さく、あの話好き」

「ううん、人魚姫はアンデルセン」

「ふうん? 物知りだねえ。葵くらい本読むのって泰介くらいじゃない? あいつ、意外に読んでるみたいじゃん。あ、葵と泰介ってそれがきっかけで話したんだっけ」

「うん。初めて話したの、図書室での自習の時間だったから」

 葵はグリム童話をランドセルへ仕舞い、もう一冊机に出していた方を手に書架へ向かう。「それなあに?」とさくらの声が背中にかかり、葵は振り返りながら「時をかける少女」と答えた。

「あ、タイトル知ってる! タイムスリップするやつだよね? すごいね葵。読めるんだ。難しい字いっぱいじゃない?」

 図星なので苦笑した。この本はまだ葵には難しい。図書室で辞書を引きながら、少しずつ読んできた本だった。

「葵、その本は借りないの?」

「うん。ちょっと待っててね」

「家では、シンデレラを読むから?」

 書架へ伸びた手が、止まった。

 もう一度振り向くと、さくらは真顔になっていた。

「ねえ葵。忘れたわけじゃないよね。このまま他に推薦とか立候補がなかったら、ほんとに葵がシンデレラになっちゃうんだよ?」

「……だからだよ。さくら」

 少し黙ってから、葵は笑った。

「私、シンデレラ役、もう仕方ないと思うの」

「じゃあ、なんでっ?」

 その質問に答える言葉を、葵は何も持っていない。

 だから、代わりにこう言った。

「さくらは、なんで聡子ちゃんが私を推薦したんだと思う?」

「えっ?」

 予期していなかったのだろう。さくらは戸惑っている。葵は何故だか動くことができず、さくらとの距離を開けたまま、言葉を重ねた。

「私、分かってるよ。私が聡子ちゃんの友達だから。理由は、本当にそれだけ。そうだよね?」

「それは……」

 口ごもるさくらを見て、葵は自分の中で何かが崩れていくのを感じた。これで後には退けなくなった。少しずつ問題を先送りにして逃げ回って、そして今崖の淵に立たされて、後は、自分が落ちるのを待つだけだ。

「聡子ちゃんは私と話せるなら、もう何でもよくて、でももう前みたいに普通に話しかけることも、どんどんできなくなっていって、こんな風にしかできないくらいに、聡子ちゃんは、一生懸命だっただけで……でないと私よりずっと内気な聡子ちゃんが、みんなの前で誰かを推薦なんて、するわけないもん。ねえ、あの時にはもうさくらたち、聡子ちゃんと私が話すの、いやだったでしょ?」

 分かっていた。言い過ぎだというくらい。だが止まれなかった。言わなければ、心が壊れてしまう。さくらを傷つけると、言う前から分かっているのに。

 さくらは、泣きそうな顔になっていた。

「葵は聡子ちゃんのこと、ほんとに友達だって、あのクラスの真ん中で言えるわけ?」

 その言葉に応えるには、短い台詞で十分だ。

「……言えるよ」

 だがそれを言うまでに、ここまで時間をかけてしまった。


     *


「葵、おかえり」

 帰宅してすぐに聞こえた声に、葵は驚く。

 また蓮香の方が、先に家に帰っていた。

「ただいま……」

 セーラー服姿の姉をちらちら見ながら、葵はランドセルを置きに部屋へ向かう。その途中で振り返ると、蓮香と目が合ってしまった。

「何よ。きょろきょろしちゃって」

 不可解そうに眉を寄せられ、葵は慌てて「何でもない」と手を振った。

 本当は、何でもないなんて思っていない。昨日のことも気になっていた。

 だが葵は、蓮香へ「忘れる」と言ってしまった。そう言った以上は、本当に忘れる努力をするしかない。葵は床に置いたランドセルを開けると、そこからグリム童話を取り出した。

 胸の辺りが、苦しくなる。早く読まなければという切迫感と、こんなものには手を付けたくないという相反する思いで、一ページも捲れない。

「シンデレラ?」

 横合いからの声にはっと顔を上げると、蓮香が台所からこちらを見ていた。

「どうしてグリム童話なのに、さくらも蓮香お姉ちゃんも分かったの?」

「今のあんたがグリム童話なんて、シンデレラ以外考えられないじゃない」

 呆れたように、蓮香は言う。その言葉で合点がいった。葵のクラスがシンデレラをやるのは、母を見舞った時に知られていた。

 蓮香は「まあ頑張りなよ」と軽い調子で言って背中を向けた。とんとんとん、と包丁がまな板を叩く音が軽快に響く。葵は考えてから、訊いてみた。

「ねえ、蓮香お姉ちゃん。アリス役は、蓮香お姉ちゃんがやりたかったの?」

「どうしたの? 急ね」

「蓮香お姉ちゃんの時は、立候補だったのかなって。それとも推薦?」

「なんでそんなのが気になるのよ?」

「教えてよお」

 葵は食い下がった。蓮香がどうしてアリス役を引き受けたのか、その思いを知りたかった。蓮香は怪訝そうにしていたが、「友達の推薦」とあっさり言った。

「推薦だったの?」

「そ。断る理由もないしね」

 葵が茫然としていると、包丁の音が止んだ。蓮香が、葵に向き直る。

「ねえ葵。あんた、この間からちょっと変よね」

 どきっとした。

「学芸会の話題避けてるかと思えば、今みたいに訊いてくるし。もう役決まってんでしょ? 何の役?」

 問い詰められて、葵は困った。まだ本決まりではないからだ。クラスでもう一度配役を話し合うのは明日だが、そんな複雑な事情を説明できる自信もない。結局葵は「シンデレラ」と、蚊の鳴くような声で言った。

 蓮香の反応は、予想通りのものだった。

「へえ! 葵、すごいじゃない!」

 そう言って、華やかな笑みを浮かべている。葵も、蓮香の真似をして笑った。ちゃんと真似ができたかどうかは、全く自信が持てなかった。

 そして葵の懸念通り、蓮香の表情が少し変わった。

「……葵。やっぱりあんた、嬉しそうじゃないね」

 きた。言葉に反応して、肩がぴくりと揺れる。

 やっぱり、蓮香を騙すことなんてできなかった。

「そんなこと」

「そんなことない、って?」

 蓮香は葵の言葉の先回りをして、溜息を吐いた。少し、見下された気がした。

「嘘。あんたお母さんの前であたしが言ったこと覚えてるでしょ? あたしあの時も言ったはずよ。あんた全然、嬉しそうじゃないって」

 誇張されていた。だが事実には違いなかった。葵はずばりと言い当てられて、返す言葉がない。それでもここで引き下がれば、蓮香の言葉を認めたことになってしまう。それは、だめだ。蓮香の言葉がどれだけ正しかったとしても、葵はそれを、認めるわけにはいかないのだ。

「……、うそじゃないもん!」

 葵は立ち上がって、全身で蓮香に向き直った。足元のランドセルに爪先が当たり、中から教科書がなだれ落ちた。

「それだって嘘じゃない」

 蓮香の言葉は厳しかった。低い声に葵は怯えた。

 何故だか分からないが蓮香は今、機嫌がすごく悪い。

「蓮香お姉ちゃん……どうしたの?」

 怖々と訊いたが答えてもらえず、それどころか蓮香は話題を変えることは許さないとばかりに「葵はそれでいいの?」と訊いてきた。

「あんたの事だからどうせ誰かに押し付けられたんでしょ。それで断れなかったんだ。違う?」

 びっくりするくらいに、蓮香の指摘は当たっていた。

「ちがう!」と全力で叫びながら、これでは逆効果だと心のどこかで気づいていた。案の定、蓮香は必死の形相で訴える妹を、冷ややかな目で見下ろした。

「葵のそういう優しいとこ、姉ちゃんいいって思ってる。でも、嫌なものまで引き受けるのが優しさなんて思ってるなら、そんな面倒臭いもの捨てちゃえば?」

 辛辣な言葉を浴びせかけられ、ぼろっと涙が、目から溢れた。

 ぐにゃりと視界が歪み、姉の姿が滲んで見える。

「い、いやなんかじゃないもん」

「じゃあなんで泣くの」

「でも、さくらだって言ってくれたもん! 私のこういうとこ、好きだって!」

「さくらちゃんもあんたも、皆どっかおかしいよ。ねえ葵。あんた達のクラス、苛めみたいな事してるって本当なの?」

 涙も、嗚咽も、その瞬間だけぴたっと止まった。

「蓮香お姉ちゃん、それ、なんで……」

 蒼ざめた顔で訊くと、蓮香は一度だけ息を呑んだ。

 だがそれは、ほんの一瞬のことでしかなかった。

「あんたのクラスの男子が騒いでるのを、下校の途中で偶然聞いたの。サトコって子が随分あんたに入れ込んでるけど、周りのガードが厳しくて孤立してるって。それ話してた男子達、見たことある顔だったわよ」

 吐き捨てるように捲し立てられ、葵は混乱しながら想像した。クラスの男子。蓮香が顔を知っている男子。以前にグループ発表の授業の準備でクラスの子が家に来たから、その時の子だろうか。そこで、葵はふと気づく。

「蓮香お姉ちゃん。なんで最近、帰りが早いの?」

「え?」

 不意を衝かれたのか、蓮香は意外そうな顔をした。葵は緊張したが、ここで言葉を呑み込めば、もっと蓮香の機嫌が悪くなる。おずおずと、先を続けた。

「高校って、小学校よりも終わるの遅いでしょ? 蓮香お姉ちゃん、テストの時期は終わったのに……部活と、劇の練習は……?」

 言いながら、葵は失言を後悔した。

 蓮香の顔色が、みるみる変わっていったのだ。

「何でもいいでしょ」

 険を含んだ声に竦み上がると、仕返しとばかりに「ねえ、あんたのクラスの子達、なんでそのサトコって子のことが嫌いなの?」と話題がまた戻された。

「誰かあんたのクラスの子と折り合いが悪くなった所為でしょ? 別にその子、最初から孤立してたわけじゃないんでしょ?」

「蓮香お姉ちゃん、分かるの?」

「苛めの始まりなんてそんなもんでしょ。くっだらない理由なのよ」

 なんで? なんで? 頭の中が、疑問符で埋め尽くされていく。蓮香が葵に対して怒るのはこれが初めてではない。年が離れている所為か喧嘩自体珍しいが、それなりに衝突は、やはりある。だが、今回のような唐突な怒りは初めてだった。蓮香がどう思っているのかは葵には分からない。だが少なくとも葵は、蓮香が今自分に向ける静かで恐ろしい感情を、唐突だと感じていた。

「サトコって子を表立って苛めてる奴も、黙って見てる元友達も、さくらちゃんも、あんたも、皆おかしいよ。あんたを優しいって言ったさくらちゃんが何してるか分かるでしょ? サトコちゃんと仲良くはしないのよ? しかもミキだっけ? さくらちゃん、ミキって子に葵がサトコで悩んでる事、話しちゃってるじゃない!」

 頭の中が、真っ白になる。

 蓮香の言葉が、分からなかった。

「あんたの吐いた弱音、さくらちゃん、人に喋ってるわよ。だからミキとかいう子が動いたんでしょ。あんたを守るーって!」

 疲れたと、弱音を吐いたあの日を思い出す。

 そしてその次の日、美紀に会った朝のことを。

 あれは、そうか。

 さくらが。

「そんな人間が、苛めない人間であるあんたに、優しいって言う。さくらちゃんは都合がいいわ。潔くもない。自分だけはいつも安全な場所に立とうとしてる」

「! さくらは、そんな子じゃ……」

 抵抗したが、声はがらがらに掠れていた。葵はこほこほと咳をした。

「葵。あんたも同罪でしょ」

「な……」

「周りの子がサトコちゃんに近づけさせないって? 笑わせるわ。あんたがほんとにその子と話したいって思ってるなら、その程度のこと簡単にできるはずよ。狭い教室の中のことなんだから」

「せ、狭い……」

 葵は愕然として、蓮香の言葉の中から拾った単語を復唱した。

「それができないあんたは、都合のいい台詞を葵に吐いて酔ってるさくらちゃんや、サトコちゃんを軽蔑してるクラスの子と、全然変わらない。……っていうか、案外苛め手引きしてんの、さくらちゃんじゃないの? 気づきなさいよ、それくらい」

 その言葉を受けた葵は、茫然と突っ立っていた。

 ただ、傷が痛むように、血が溢れるように、涙が頬を伝い落ちた。

 蓮香は葵から視線を外すと、肩からずれたエプロンの紐を直してから家事に戻った。とんとんとん……と規則的な音が、再び台所から流れ出す。

 その横顔は、やはり母に似ていた。

 そして、そんな姉に似ていない自分を思った。

 涙でもう、何も見えなくなった。

 はっと息を呑む気配だけを、最後に一瞬感じた。

「……葵!?」

 上ずったその声を、葵は背中で聞いていた。

 ばたん、と大きな音を立てて扉が閉まる。薄い扉を隔てた向こうで、姉がもう一度自分を呼ぶのが聞こえたが、ポシェットだけを引っ掴んで飛び出した葵の身体は、吹き込む風の中だった。その音に全てかき消されて、姉の声が本物なのか、幻聴なのかも分からない。螺旋階段をばたばたと駆け下りて一階に着くと、その勢いのままアパートの敷地を飛び出した。

 オレンジ色の夕空が、頭上いっぱいに広がっていた。赤にも茶にも黄土色にも見える色。寂しい色彩は海のように広大で、世界が上下逆さまになって、そのまま落ちていきそうだ。いっそ落ちてしまいたい。美しい空の下を、葵は一人で走り出した。

 行き先は、決まっていた。もう理屈ではなくなっていた。

 ――お母さんの所へ行こう。

 何から話せばいいのか、どこまで話せばいいのか分からない。だが強く思うのだ。母と話がしたい。すごく会いたくて、恋しくて、悲しいのだ。そしてもう何に泣いているのかさえ分からなくなった頃、息が切れた葵はゆるゆると走るペースを落とした。

 赤い煉瓦で覆われた駅舎が、もう目と鼻の先に聳えていた。

 肌寒さに、身体が震える。ポシェットから出したティッシュで顔を拭いてから葵は駅構内へ入り、立ち竦んだ。

 周囲は、背の高い大人ばかりだった。考えたら葵は、一人で母に会いに行くのも、一人で電車に乗ること自体初めてなのた。

 いつも、蓮香と一緒だったから。

 首を振って、気持ちを切り替える。弱気ではいけないのだ。人ごみを避けながら切符売り場の前に立つと、葵は切符を買うためにポシェットを開けた。

「……え?」

 棒立ちになった葵の傍を大人が一人走っていき、その鞄が葵の背中にぶつかる。為す術もなく転ぶと、「あ、わりっ」と声が飛ぶ。葵は振り返りもしなかった。それどころではなかったからだ。

 茫然と目線を、足元に落ちたポシェットへ向ける。

 ポシェットの中身は、飴玉とハンカチ、ティッシュ。それだけだった。

 財布は、入っていなかった。

 葵は今、一円だって持っていない。


     *


「葵?」

 声をかけられたのは、どれだけ時間が経った頃だろう。葵には分からなかった。

ただ、涙に濡れた顔を上げると、そこに吉野泰介が立っていた。

 泰介の格好は、今日学校で会った時と同じだった。学校指定の体操服の上に、水色のパーカーを羽織っている。今の時期に剥き出しになった膝小僧が、ひどく寒そうに見えた。

「泰介くん?」

 ぽつりと、葵は呼んだ。背の高い大人ばかりの駅に、自分と目線が同じ誰かがいる。そして自分に、話しかけてくれている。

 力が抜けていきそうな安堵を、感じた。

「おまえ、何やってんだ?」

 驚き顔の泰介が、葵に近寄ってきた。いけない、と、葵は涙を袖で拭う。

「なんでもない」

「……なんでもなく、ないだろ」

 泰介の戸惑いの声に、微かな苛立ちが混じった気がした。

「ほんとに、なんでもない、から……」

 笑わなきゃ。咄嗟にそう思った。蓮香の顔がフラッシュバックする。だが結局葵の表情は変わらなかった。涙を流し続け、泰介と向き合ったままだった。

 笑えなかった。できるわけがなかった。

「またおまえ、そんな見え見えのうそつく気かよ」

 そうしている間にも、泰介は普段の調子を取り戻したようだった。

「さくが、おれに言ったことがあるんだ」

 きっ、と泰介が葵を見据えた。

「おまえは普段ずっと笑ってるようなやつで、ヤなことあっても絶対泣かないし、弱音もめったに吐かないし、すげえやつなんだって。それ、さくのカンチガイだろ」

 ずけずけと言われ、葵はかっとなった。

「なんで、そんなこと言うのっ?」

 さくらが侮辱された気がしたし、何より自分を侮辱された気がした。今までの努力全てを無に等しいと言われた気がした。足場が崩れていくような恐れが胸を掴み、葵の目からまた一筋、涙が流れた。

 睨み返す葵の視線を受けても、泰介は平然としていた。

 そして、言った。

「だって、おまえ、めちゃくちゃ泣き虫じゃん」

 それは葵が想像していたより、ずっと穏やかな声だった。

 怒鳴られなかった。

 怒られなかった。

 優しかった。

 どうして、そんな風に言うのだろう。

 泰介が、驚きと戸惑いが混ざった顔で、再び葵を見たのが分かった。困らせている。負担になる。家族の顔を思い出した。佐伯家の負担になんてならないと誓った、あの日の決意を思い出す。

 それなのに、やっぱりどうしようもなかった。

 どうしようもなくなってしまった。

「う……あ、ああああっ」

 葵は泰介のパーカーを喧嘩でもするかのように引っ張って、引き寄せた。がつんと腕が痛いくらいに額にぶつかる。パーカー越し当たる肩に顔を強く押し付けると、葵は大声を張り上げて泣いてしまった。

「わっ……、なあおまえっ、そもそもなんで泣いてんだよ? 三宅のことか?」

 あたふたと泰介が叫んでいる。三宅、というのは聡子の苗字だ。葵は違うと言おうとしたが、あながち外れでもない気がした。聡子の件が解決済みなら、葵と蓮香はこんな喧嘩をしなかった、だがやはり、泣いた理由はそれとは違う。首を横に振った。

「じゃあ、わかんねーよ。おまえなんで泣いてんだよ、こんなとこで」

 泰介は、葵をそっと引き離した。葵はまだ顔を上げられず、しゃくり上げた。

「で、電車……」

「電車?」

「電車に……のっ、乗りたかったの」

 涙の熱さを頬に感じながら、必死になって言葉を紡ぐ。

「乗りたかったけど……乗れないの……」

「なんでだよ?」

 葵がいつもの調子なら、次の台詞を躊躇ったかもしれない。普段の泰介なら間違いなく、乗車運賃を忘れて取りに帰ることもできない葵を笑うだろう。だが今なら何故か、すんなり言えた。

「お金、忘れちゃった。蓮香お姉ちゃんともケンカ、しちゃった」

 だから、と葵は続ける。

「お母さんに、会いにいけないの……」

 指で顔を覆って泣くと、その隙間から少しだけ、泰介のパーカーの水色が見える。何もかもが滲んで見えなくなった中で、その青さだけが鮮やかだった。

「おばさんに、会うのか? 今から?」

 泰介は、どこか神妙な声で言った。葵は、頷く。

「会いたいのか?」

 こくこくと、もう一度強く頷く。涙の雫が、タイルへ散った。

「……会いたい」

 しゃがれた声で、葵は言う。うまく声が出せず、もう一度叫んだ。

「会いたいよお!」

「……そっか」

 泰介が言って、葵の頭にぽんと手を置いた。

 それから、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるように撫でてきた。

 葵は驚いて顔を上げたが、すぐ傍に立つ泰介の顔は、腕に遮られて見えなかった。泰介は手を止めると、葵へ言った。

「なあ、会いに行こうぜ」

「え?」

 今から鬼ごっこしようぜ、と言っている時と同じ調子の声だ。聞き間違いかと思ったが、やはり「会いに行こうぜ」と言われた気がする。

「ごめん、今、なんて言った?」

 訊き返すと、泰介はむっとした顔で「だからっ」と叫び、大きな声で言った。

「会いにいこうぜ! おばさんに!」

 今度は、ちゃんと聞き取れた。

 その叫びを聞いた瞬間、葵は自分を取り巻く全ての音が、まるで気にならなくなっていた。泰介の声だけが心の奥まで響き、すとんとどこかへ落ち着いた。すん、と鼻を鳴らした。

「……今から?」

「ああ」

 自信に満ち溢れた泰介の言葉に、葵の中で希望と不安が同時に膨らむ。

「で、でも、私、お金持ってない……」

「おれが持ってる」

 泰介の言葉は明瞭だった。はきはきと、葵が不安に呑まれる隙さえ逃さないようなテンポの良さで答えて、葵の手を取る。

「早く行こうぜ。でないと、おばさんとこに着く時には日が暮れるだろ」

 とんとん拍子に進む話に茫然としていると、泰介に「おい葵、聞いてんのかよっ」と怒られた。葵はびくっと顔を上げると、大慌てで言った。

「あ……、あのね、お母さんの病院、三つ先の駅なの。御崎南駅」

「決まりだな。行こうぜ」

 泰介は、にっと笑った。手を引っ張られて、葵はずっと立ち尽くしていた場所から初めて動き出した。葵はさっきの泰介の声に応えるように、こくんと一つ頷いた。

 涙は、もう止まっていた。

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