第11話 佐伯蓮香

聡子さとこちゃん、なんでっ?」

 授業が終わった瞬間に、葵は大慌てで聡子の元へ駆け寄った。

「あ、葵ちゃん」

 葵を劇の主役なんぞに推薦した女の子は、にこっと可愛く微笑んだ。

なんで? なんで? 言葉がぐるぐると頭の中で回っている。結局やっとのことで言えたのは、葵達のクラスの演目だった。

「シンデレラっ」

 そしてそれは、葵が推薦されている役でもある。

 聡子はそれを聞くと、ふわんと綿菓子のように微笑んだ。

「私ね、葵ちゃんがぴったりだと思うんだあ。だから葵ちゃんを推薦したの。シンデレラ、だれも立候補しないし。あ、でも王子様役もいないよね」

「だから、あの」

 楽しそうに話す聡子を、葵はなんとか止めたかった。自分は、主役をやれる器じゃない。だって失敗してしまったら恥ずかしいし、何よりクラスの足を引っ張ってしまう。そんなこと、考えただけで怖い。

「私、できないっ」

「そんなことないよお」

 葵は、泣き出したくなる。どうしてこんなにも、聡子と会話がかみ合わないのだろう。だが元々、聡子とはこういうことがよくあった。お喋りの途中で急に話題が代わったり、人の話を遮ったりして、それによって周りが困惑する場面もあった。落ち着きがないのとは違うと思う。むしろ逆で、聡子はとてもおっとりとした女の子だった。

 葵がおろおろしていると、「ちょっと聡子ちゃん!」と、後ろからずんずん歩いてきた子が、葵の腕をがしっと掴んだ。

 びっくりして振り返ると、案の定、さくらが肩を怒らせて立っていた。

「なんであんな勝手なこというのっ?」

 甲高い声が、教室中に響いた。クラス中の注目を集めてしまい、かあっと頬が熱くなる。そして次に、しまった、と焦った。

 さくらと聡子は、すこぶる仲が悪い。

 ただ、単純に仲が悪いという意味とは……ほんの少しだけ、違う。

「葵だって腹立つでしょ! こいつ、葵を主役に推薦したんだよ!?」

 さくらが聡子を顎で示す。葵は聡子を振り返ると、息を呑んで固まった。

「あ……」

 聡子の表情が、すとんと消えていたからだ。微笑はもう、見る影もなかった。

 冷たい後ろ暗さから、葵は気付けば、言っていた。

「さくら、いいから……聡子ちゃんだって、私がいいって思ったから推薦、してくれたんでしょ? そういうのは、嬉しいし……えと、だから」

 声が、微かに震え出す。本心では決してなかった。だが嫌だとは言えなかった。

「葵、それほんとじゃないでしょ? それに、さくがせっかく先生に反対しても、聡子ちゃんが葵に押し付けちゃったら意味ないじゃん! 聡子ちゃんのやってることは、先生がミキちゃんにしたことと変わらないよ!」

 さくらがすぐさま噛みついてきた。その力強さに泣きそうになる。ただ胸の奥では依然として、聡子も気がかりなままだったが、さくらはこれで話しはついたとばかりに、「葵、いこ」と歩き出した。引き摺られて歩きながら、葵の中でもう一人の自分が、まだ震えた声で言っている。

 ――これで、ほんとうにいいの?

 そわそわした。背中に視線が突き刺さる。まだ聡子は、葵達を見ている。そんな視線から葵を逃がそうとしてくれたのか、さくらは同じグループの友人の元へは行かずに、葵を教室の外へ連れ出した。

「ごめん。葵」

 廊下を歩きながら、さくらが神妙な顔で言った。

「葵って、こんなふうに注目されちゃうのヤだよね」

「ううん、気にしないで……」

「さくね、先生がゆるせなかった。ミキちゃん、先生に言われて断れなくて、悲しそうだったの見ちゃった。さく、自分のした事まちがってないって思ってるけど、葵には悪かったかな、って」

 そう言って、さくらはしゅんとした。葵はびっくりして「さくらは悪くないよ」と手を振った。それは本心のはずなのに何故か胸の奥がざらざらして、息が少し、苦しくなった。

「……ねえ。さくら」

 訊こうとして、言葉に詰まる。急に怖くなったのだ。こんな事を、訊いてはいけない。訊いて何になるのだろう。だが葵は、もう言ってしまっていた。

「さくらはやっぱり、聡子ちゃんが嫌いなの?」

 さくらの返事は、早かった。

「うん。嫌い」

 自分から訊いたくせに、葵はひどくショックを受けた。

さくらの言葉には、躊躇いが全然なかったのだ。

「聡子ちゃんってもう皆から嫌われてるじゃん。元から友達だった子もヤだって言ってるし、みんな、嫌いなんだって」

「……」

 知っていた。訊く前から、分かっていた。だが、以前はここまでではなかったのだ。聡子だっていつも何人かの輪の中にいて、だがそれがいつ頃か少なくなって、そして、ついには。

「さく、同情しないよ」

 さくらの言葉は、厳しかった。葵はその理由を訊けなかった。さっきの学級会を思い出す。突然の推薦が脳裏に蘇ると、それだけで葵は、震えるほどの恐怖を覚えた。今日のようなことがあるから、葵は聡子が孤立するのもなんとなくだが分かってしまう。

 俯いていると、さくらが突然言った。

「さくは、葵がすごいと思うの」

 脈絡のない言葉だった。葵は目を瞬いて「なんで?」と訊ねる。この言葉を聡子には言えなかったのに、今さくらには言えたと気づいた。

「だって聡子ちゃんのこと、葵は嫌いって言わないもん。離れないし。そういうのって葵だけじゃん」

 さくらは嬉しそうに笑ったが、でも、と付け足して表情を曇らせた。

「聡子ちゃんのこと、葵は好きじゃない気がする。ねえ葵、実はつかれてるでしょ?」

 どきっとした。

 そんなことない。そう否定すれば済むことだ。だがそれをしたくない心に気づいてしまい、葵はひどく動揺した。

「それ、は……」

 孤立した人間が縋る、自分を拒否しない優しい人。

 はっきりと自覚があった。そんな風に聡子が選んだのが葵だった。

 同じグループにいて、少し会話を交わした程度。あの程度の会話はただの知り合いでもできるだろうと思うほどに、葵は聡子と一緒にいたわけではなかった。

ただ、仲が悪いわけではなかった。

 お互いに、笑いかけあったことは確かにあった。

 葵は思う。聡子は、友達だ。

 だが、どうしてそれを、自分は認めようとしないのだろう。

「……葵、どうしたの? ねえっ」

 さくらが、はっとしたのが分かった。いけない。このままでは泣いてしまう。だがそれだけは駄目だった。葵は必死に拳を握りこむ。ぎゅっと、強く。爪が手の平に食い込むまで。痛みで涙を忘れるまで。悲しくないと言い聞かせて、自分の心が騙されるまで。

 それでも、もう限界だった。

 葵はすぐ傍に立つ友人に、小さな、本当に小さな声で、囁いた。

「もう、つかれた……」

 さくらが顔色を変えるのと同時に、チャイムが鳴った。

 涙だけは、見せずに済んだ。

 鈍い達成感だけが、放心する葵の心に残った。


     *


 玄関の扉の前に立って、服の中にぶら下がる鍵を引っこ抜く。

 今まではポケットに入れていたが、最近うっかり抜き忘れた所為で、洗濯機で回してしまった。怒られるかと思ったが、父も蓮香も怒らなかった。返ってそれが、何故か悲しい。そんな自分が、何だかおかしい。

 抜いた鍵を服の中へ落とすと、葵はドアノブを回した。

「あれ?」

 扉は開かなかった。鍵を回した時、確かにかちっと音がしたのに。開いていた扉に鍵をかけたのだと気付いた時、もう一度「かちっ」と音が鳴った。

 急に扉が開き、ぐんとこちらに迫ってくる。葵は「ひゃあ」と悲鳴を上げて、尻餅をついて転んでしまった。

「葵でしょ? 何ぼーっとしてんのよ」

 ハスキーな声が、頭の上から降ってきた。

 涙目で顔を上げると、そこには黒いセーラー服を着た長身の女性が立っている。胸元の臙脂のリボンが灰色一色のアパート二階の風景で、炎のように鮮やかだ。

「蓮香お姉ちゃん……」

 葵の姉、佐伯蓮香さえきはすかだった。

「おかえり」

 八重歯を覗かせて、蓮香は快活に笑った。

「またあんた転んでー……って、平気? 扉ぶつからなかった?」

 葵は頷くと、蓮香に引っ張られるまま立ち上がり、二人で一緒に家に入った。

「蓮香お姉ちゃん。私より早く家にいるなんて、珍しいね」

 靴を脱ぎながら訊いた時、蓮香はすでに家の中で、エプロンを頭から被っていた。肩紐が結んだままなので、まるで衣服を着るような動作だ。

「今日はテストで昼までだったの。たまにはこういうのもいいでしょ」

 にたりと笑う蓮香に「うん」と答えて、葵は蓮香との共同部屋へランドセルを置きにいく。すると「葵」と今度は呼ばれた。

「姉ちゃん、もうちょっとで夕飯の支度終わるから、後ちょっとで出れるよ」

 部屋の扉から頭を出すと、蓮香は今度は台所にいた。見る度に立ち位置が変わる姉の動作は、いつもきびきびしていて無駄がない。「今日の晩御飯なぁに?」と訊くと、「煮物」と蓮香は即答して、鍋の中身を菜箸で突ついた。

「お母さんほど上手くできないけどね」

「私、蓮香お姉ちゃんの煮物好きだよ」

「そう? 葵。前にお母さんに手紙書くとか言ってたでしょ。あれ書けたの?」

「……えと、まだ」

「あれ? まだだったんだ?」

「だって……何書いたらいいか、わかんなくなっちゃった」

 正直に白状すると、蓮香は呆れと苦笑が入り混じったような、何だか温かい表情に変わった。

「分かんないなら、無理に書かなくていいんだよ」

「でも、書いた方がお母さん喜ぶと思うから……」

 もそもそと言い募ったが、「お母さんは、私や葵が会いに来てくれるのが一番嬉しいんだよ」と言って、コンロの火を消してエプロンを脱いだ。それを椅子の背もたれに引っ掛けると、葵との共同部屋にやって来る。

「ほら、行くよ」

 葵は少し元気付けられて、「うん」と答えて笑った。

 玄関へ再び向かう蓮香に、お気に入りのポシェットを抱いた葵が続く。こんなに早い時間に蓮香が家にいるのが久々なら、こんなに早い時間に家を出るのも久々だ。いつもよりも明るいアパートの風景が、葵の心を軽くさせた。

 今から姉妹はいつものように、母親の入院先の、病院へ行く。


     *


 葵と蓮香の母親、佐伯和歌子さえきわかこの病気で入院したのは、半年ほど前のことだ。

 癌だった。それを知った日から佐伯家は、ほんの少しだけ変わった。

 父は多忙になった。残業の回数が格段に増えた。高校二年の蓮香は家事を覚えていった。

 そして小学三年の葵は、待つことを覚えていった。蓮香は自分の所属するバスケ部を辞めることだけは絶対にしないと、母の入院が決まった日に公言していた。誰も反対はしなかったし、する権利もない。だが葵のことはどうするつもりなのかと、父が蓮香を怒ってしまった。

 葵は、それが嫌だった。蓮香がその時葵へ申し訳なさそうにしたのも嫌だった。入院が決まってから、母が自分達を心配そうに見つめることがあるのも嫌だった。

 年少の葵が、佐伯家の重荷になっている。それは、子供心に傷ついた。

 蓮香は葵に、ごめんねと言った。言われた瞬間に、自分の中で何かが冷たく凍りついた。

 あ、泣きそう。そう思ったのに、葵はその時、何故だか微笑んだ。

「私、大丈夫だから」

 その言葉は、後に何度も言うことになる台詞だった。

 自分を心配そうに見下ろす人達へ、葵は何度も繰り返し言った。

「私、大丈夫だから」

 そう言って葵が笑えば、相手は少しでも笑い返してくれた。安心してくれたのかは分からないままでも、そんな表情が見られたら、葵は救われた気分になる。

 葵は癌がどういう病気なのか、知っている。小学一年生の時に、小児癌で入院していたクラスメイトの男の子が、教室からいなくなった。今まで一度も学校に来なかった彼を、葵達は名前でしか知らなかった。その彼が亡くなったと聞かされて、葵達は皆で葬儀に行った。葵にとって、生まれて始めての葬儀だった。

 その頃の記憶は曖昧で、思い出せないことが多い。はっきりと覚えているのは、葵達は誰も泣かなかった、ということだけだ。彼の死に実感がなかったからだろう。名前しか知らない彼とは、共有できる思い出もない。何一つ、ないのだ。

 なのに、悲しくなった。

 葵が泣けなくても、彼のために涙を流す人はいる。彼のことが大好きで、死んでほしくないと感情を剥き出しにする人は、確かにあの場所にいたのだ。葵は家に帰ってからずっとそれを考えて、それから、声を殺して泣き出した。

 最低の涙だった。彼の人となりも何も知らないで、同情だけで泣いた。そんな身勝手さがとても嫌で、泣いたくせにやはり大して悲しめない自分も嫌だった。

 そんな葵を抱きしめたのは、母だった。

「そこまで考える葵は、すごいね」

 この時の母の言葉は今日のさくらの言葉に少し似ていて、だからあの時葵は泣きたくなったのかもしれない。

「葵はきっと、色々気にしすぎなのよ。きっと皆そこまで考えてないよ」

 葵はすごいね。優しいね。すごくなんかないよ。優しくなんかないよ。葵は内心で、密かに楯突く。本当に、そんな綺麗なものではないのだ。だが、母の言葉の意味は分かった。葵にも自覚がある。自分は、人目を気にし過ぎている。

 母の病気を知った時も、葵は泣いた。あの小児癌の彼のように、母がいなくなってしまう。葬儀で見た棺桶の中に、葵の母が入ってしまう。それはひどく恐ろしい想像で、遠からぬ未来で現実だった。その時が本当に来た時のことなんて、まだまだ想像がつかない。父も少し泣いていた。

 だが、蓮香だけは泣かなかった。

「泣いたら、本当に「そうなる」みたいでしょ」

 そう言って泣く二人を、きっ、と見据えた。そして屈みこんで葵と目を合わせると、悲しそうに微笑んだ。

「がんばろうね、葵。姉ちゃんもがんばる」

 強い、と思う。蓮香は葵の姉であると同時に、葵の憧れの人だった。

 葵は、そんな蓮香のような強さが欲しい。

 辛くても笑えるような、そんな強さが、欲しいのだ。


     *


 母の入院先の病院へ着いた時、時刻は五時を回っていた。

 秋が深まっていく中で、日没の時間は次第に早くなっていく。まだ外は明るかったが、これから先、母に会えるのは日没後が増えるだろう。蓮香の部活が終わるのを葵は待っていたいから、それはどうしようもないことだ。

 だができるなら、明るい時間に来たかった。太陽の光が、優しく入る病室がいい。蛍光灯の明かりよりも、太陽の光の方がいい。

「お母さん、ちゃんとご飯食べてるのかな。昨日ね、痩せた気がしてびっくりしたの」

「そんな短期間に痩せるわけないでしょ? お母さんは元気になろうってがんばってるの。ちゃんとたくさん食べて、病気と闘ってるんだから」

「ほんとに?」

「うん。本当」

 不安はいっぱいだったが、蓮香に肯定してもらえて葵はようやくほっとする。そうしているうちに病室の前に辿り着いた。四人部屋のネームプレートの中に母の名前を見つけて、葵の背筋が伸びる。

「何緊張してんの」と蓮香が笑いながら、扉をスライドさせて、開けた。母のいるベッドは窓際の右側だ。そこまでそうっと歩いていくと、ベッドの周りに張られたカーテンを、蓮香がそろりと捲った。

「お母さん」と蓮香が呼んだ。

「お母さん」と葵も呼んだ。

 そこは、思っていたよりも明るかった。窓から入るオレンジ色の陽光が、ベッドで上体を起こす母を、綺麗に照らし出していた。母は、長い黒髪を胸の辺りで三つ編みに結っている途中だった。こちらを見て、あら、と囁く。髪を束ねるゴムを探し、そうするうちに我が子達を見つけたとでも言う風に、丸い瞳がくりっと動いた。白い顔に、ふんわりと温かな微笑が乗った。

「蓮香、葵。来てくれたのね」

 葵は、何だかじんとした。母がいた。母がいる。たとえ病床でも、すぐそばに。それがすごく嬉しくて、葵は「お母さんっ、ちゃんとご飯食べてる? 病院のご飯っておいしいの?」と、蓮香に笑われてしまうような質問をしてしまった。案の定苦笑されてしまったが、葵はとにかく、たくさん母と話したかった。

 母はくすりと笑うと、葵のくだらない質問に答えてくれた。

「病院のご飯より、蓮香のご飯の方がおいしいわ。でも葵、食べてみたい?」

「え? えと……うーん」

 そう訊かれるとは思わなかった。少し考えてから、葵は首を横に振る。

「お母さんと、蓮香お姉ちゃんのご飯の方がいい」

「葵ってば」

 蓮香の頬が少し赤くなる。母はそんな二人を見て優しく笑った。

「そうね。私も早く二人にご飯作ってあげたいなあ」

「なら、がんばってね」と、蓮香が照れ隠しのように母を励ます。もちろん、と母は意気込んで答えて、身体を心持ち蓮香へ傾けた。

「蓮香、学校の方はどう?」

「うん。充実してる。部活も楽しいし。それに家事も楽しくなってきたかも」

 軽い調子の言葉に、母の顔に悲しそうな苦笑が浮かぶ。

「それは助かるし、いい事だって思うけど、なんだか悪いわね」

「楽しんでるんだから、それでいいじゃない」

「ありがとね、蓮香」

 母は思案気に頷いてから、しみじみとした様子で言った。

「姉妹で仲良くしてるか、ちょっとだけ心配だったんだけど、心配いらなかったみたいね。元からあなた達すごく仲良かったから、安心はしていたけどね」

 葵と蓮香は顔を見合わせた。そして、どちらともなく笑い合う。

「そこらの姉妹よりよっぽど仲いいでしょ」

 蓮香が悪戯っぽくそう言って、葵の頭にぽんと手を乗せた。葵はくすぐったくなって、えへへと笑う。そんな姉妹の様子を見つめた母は、穏やかな眼差しをそっと細めて、一層優しい顔になる。

「やっぱりそうなのかしらね。他と比べた事ないから、こんなものだと思ってたけど。なら、うちは幸せね。ああ、そういえば蓮香。実子ちゃんは元気? 仲良くやってる?」

「ああ、実子ね。相変わらずって感じ。あ、そうだ」

 蓮香は突然、肩から提げていた鞄の中身をまさぐり出した。ほどなく一枚の紙をファイルから取り出したので、葵は首を傾げる。

「蓮香お姉ちゃん、それなあに?」

「パンフレット。うちのクラスで出してるやつ」

 蓮香が手に持ったそれを、葵の目線に下ろしてくれた。

 葵は、わあっと歓声を上げてしまった。

 そこには、時計を持ったウサギと、それを追う少女のシルエットが描かれていた。白と黒と赤のぱきっとした色彩が、目に鮮やかに飛び込んでくる。薔薇の蔦やトランプの模様など、細かい模様も凝っている。

「『不思議の国のアリス』でしょ? これ!」

 葵は、あの話が大好きなのだ。病院だから、と蓮香に人差し指を唇に当てられてはっとする。反省して、声を潜めて喋った。

「蓮香お姉ちゃん、これ何? かわいい!」

「でしょ? 実子がデザインしたの。あの子って才能あるよね」

 まるで自分のことのように得意げに蓮香は笑った。葵も実子のことは知っていた。何度かうち来たことがあって、優しくて物静かな、蓮香の親友と呼べる人。葵がパンフレットを母へ回すと、手に取った母が息を呑んだ。

「あの子、元々絵がすごく上手いって思ってたけど、そっか……こんなに上手になってたのね。……あら」

 母が、手を口元に当てた。

「これ、劇のパンフレットじゃない」

「え? あ、……あー、そうだけど。学園祭の出し物」

 蓮香は、気まずそうに頬を掻いた。さっき様子が違っていることに、葵はなんとなく気がついた。蓮香は母の手からパンフレットを取り返し、そそくさと鞄に戻そうとする。葵は慌てた。アリスのパンフレットをもう一度見たかったのだ。

「蓮香お姉ちゃん、それもっかい見せて?」

 せがんだが、「帰ったら見せたげる」と早口で断られてしまった。母が「蓮香?」と呼んで、にっこりした。

「蓮香は、何の役をやるの?」

 蓮香は、露骨に動揺した。パンフレットなんて見せるんじゃなかったと、今にも言い出しそうな顔になった。

「やだ、お母さんてば。あたしは単に実子のパンフレット見せたかっただけで」

「いいから教えてよ。お母さん気になるなあ」

「あー……」

 蓮香は渋っていたが、やがてきっぱりと言った。

「主役」

 葵は、ぽかんとした。……主役?

 不思議の国のアリスで、主役と言えば――。

「アリス?」

 目を輝かせて、葵は蓮香を見上げた。

「蓮香お姉ちゃん、アリスをやるの?」

「そうよ」

 蓮香は照れ笑いを浮かべていたが、何だか嬉しそうだった。葵まで嬉しくなって、すごいすごいと連発した。蓮香の顔は毅然としていて、自分の役を演じ切る自信と誇りに満ちあふれている。

「……」

 気持ちが、すっと沈んでいった。

「すごいじゃない蓮香」

 母もさっきの葵のように興奮しているようだった。「もう一回パンフレット見せてよ」とお願いして、蓮香からパンフレットを受け取っている。その様子を見上げながら、葵は思い出していく。葵ももしかしたら、主役をやるかもしれない。

 それを言うのは、簡単なようで難しかった。

「ねえ、これいつやるの?」

「一ヶ月後」

 その言葉に、はっと葵は母を見た。

 蓮香のクラスの上演を、母はきっと、観に行けない。

 固まる葵をよそに、蓮香はあっけらかんと笑っていた。

「気にしないでよ。高校の劇なんてどこの親も観に来ないって。ほら、覚えてる? 去年の体育大会。ほとんどの親が来なかったじゃない」

「そう? 残念ね。私、観に行きたかったのに」

 本気で残念そうにしている母を、蓮香は「身体治す方に専念してよ」と諌めた。

 そして、さらりと続けてこう言った。

「それに、学園祭に来るんだったらさ、あたしより葵の方に行ってやってよ」

「え?」

 蓮香は葵と目が合うと、やはりさらりと言った。

「今くらいの時期じゃないの? 御崎第一小の学芸会」

 心臓を、鷲掴みにされた気がした。

 ついに、恐れていた話題になってしまった。母が「そういえばそうねえ」とおっとりした口調で言う。自分に集まった二人の視線に、葵ははっきりたじろいだ。

「葵、何をクラスでやるの?」

 母が言った。純粋に気になって、訊いているという表情。その目に抗うことはできなくて、「……シンデレラ」と、もじもじしながら言った。

「あれ? なんか嫌そうね」

 蓮香が、葵を覗き込む。逃げるように、葵は目を逸らした。

「べつに、いやってわけじゃないもん」

「ふぅん?」

「……。葵。役はもう決まったの?」

 葵は、ふるふると首を横に振る。

 母は朗らかに笑うと、葵の頭を撫でてくれた。

「決まったら、教えてね」

 葵はただ、頷いた。


     *


「お母さん、思ったより元気でよかったね」

 病院を出て、帰りの電車の中で蓮香が言った。

 日はすでに沈んでいた。名残のように赤く染まった空に、押し寄せてくる深い青。窓の外から、夜が静かに迫ってくる。

「でもやっぱり、ちょっと痩せた気がする」

 葵がそう言うと、蓮香の表情が少し動いた。だが蓮香はすぐに、表情を笑顔に切り替えた。

「大丈夫よ。ちゃんと食べてるし。それにお母さんが帰ってきたら、姉ちゃんが栄養のあるものたっくさん作ってあげるんだから」

「……そうだね」

 そっと葵が笑みを返すと、会話はそのまま終わってしまった。がたたん、ごととん、と電車が次の駅へと走る音だけが聞こえてくる。すると、思考は何度でも、聡子のことへ引き摺られた。

 聡子がどうして、葵を推薦したのか。それを葵は、薄々とだが分かっていた。

きっと聡子本人が言ったような、葵が適任という理由ではないのだ。むしろ葵は、不適任だ。クラス中が驚きにざわついたあの時、きっと皆も思ったはずだ。何故佐伯葵のような引っ込み思案な子が、主役に推薦されるのか、と。

 なのに聡子は、葵を推薦した。それは多分、はっきりとした理由があってのことではないのだ。ただ、それがいいと思っただけなのだ。聡子は。

 これ以上は、考えてはいけない。

「ねえ、葵」

 蓮香が、葵を呼んだ。

「なぁに?」

 葵は、答えた。

「あんた、何かあったの?」

 少し、間が空いた。

「……何も、ないよ?」

 夜の街並みを映す窓に、並んで座る葵と蓮香が半透明に映っていた。葵は微笑んでいたが、蓮香は真顔だった。ひやひやしながら、葵は耐えた。

「……ならいいけど」

 蓮香は短く言って、不審そうに葵を見るのをやめた。

 葵は、ほっと胸を撫で下ろした。

 まだ葵には、蓮香のような強さはない。それでも、佐伯家の重荷にはなりたくないのだ。家事に忙しい蓮香も、入院費を捻出するのに必死な父も、病院のベッドの上で病気と戦う母も、みんなが年少の葵を気遣っている。だから、泣いてはいけないのだ。こんなにも泣き虫な自分とは、さよならをしたかった。

 笑おう。

 私、大丈夫だから。

 大丈夫だから。

 大丈夫。

 葵は今日も、そう念じる。念じ続ければいつか本当になるかもしれない。いつか本当に「大丈夫」になるかもしれない。葵は、そう信じたい。聡子の顔が頭の奥でちらついたが、葵は首を振って、自分に向けられた微笑の記憶を、頭の中から追い払う。

 さくらと一緒に教室を出た時の、視線。

 それだけが忘れられずに、背中に焼き付いて残っていた。

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