第12話 嘘つき
翌朝、おそるおそる教室に入ると、何人かがちらと葵の顔を見た。
予想通りの展開だった。昨日の推薦騒ぎで葵が悪目立ちしたからだ。葵はひやひやしていたが自分の席まで歩くうちに、不思議なことに気がついた。
「……?」
みんな、苦笑のような顔をしている。
戸惑っていると、「葵ちゃん、おはよ!」背中に声がかかった。
「あ、ミキちゃん。おはよう」
クラスメイトの斉藤美紀が、快活に笑って教室の後ろへ歩いていく。葵は少し考えてから、ランドセルを抱えて美紀の背中を追いかけた。
「ミキちゃん。気になることがあるんだけど……私、もしかして見られてる?」
ロッカーの中へランドセルを押し込んでいた美紀は、葵を振り返って苦笑した。――他の子と同じ笑い方だ。
「昨日あんなことがあったもんねえ」
しみじみと言われて、葵は後ろめたい気持ちになる。それに今思い出したが、学級会で最初にシンデレラ役に推されたのは、この美紀だ。
「葵ちゃん、えっと……ごめんね?」
「な、なんでミキちゃんがあやまるの?」
驚く葵へ、「だって、私のことをさくらちゃんがかばったのが、これのきっかけでしょ?」と、美紀は上目遣いで葵を見た。「でも」と、葵は何とか反論した。
「ミキちゃんは、悪くないよ。それに私、さくらのしたことも悪いことじゃないと思うし、さくら本人も言ってたよ」
そう言って微笑みながら、内心で少し憂鬱になる。葵はさくらの行為を格好いいと思ったが、その結果自分がこんなことになるなんて、考えもしなかった。
「でも、葵ちゃん。聡子ちゃんのこと、とか」
「大丈夫」
言い募る美紀を、葵は遮った。
「私、大丈夫だから」
そう言って、笑った。蓮香のように、笑えていればいい。そう念じながら笑った。美紀も安堵したのか、一緒になって笑ってくれた。
そしてこの安堵が美紀の口を軽くしたのか、それは、さらりと告げられた。
「でも葵ちゃん、聡子ちゃんのことならもう大丈夫かも」
「……え?」
「葵ちゃん、辛かったんだよね。みんな葵ちゃんがそんなに思いつめてたなんて知らなかった。私達、葵ちゃんの味方だから。聡子ちゃんからは、私達が守ってあげる」
聡子。さっきも美紀は、聡子の名前を口に出した。そして美紀の言葉の意味に気付いた時、自分の心臓が動きを止めた気がした。
「あの、ミキちゃん……?」
聡子から葵を守る? みんなで?
何それ? 何するの? 聡子ちゃんは? 聡子ちゃんは、どうなるの?
「葵ちゃん。もう大丈夫だからね」
もう大丈夫だから。初めて人から言われたその言葉で、葵の腕に鳥肌が立った。
美紀の目には使命感が浮かんでいて、その使命感は熱っぽく、そして何かが歪んでいた。教室の空気が、軋んだ気がした。「葵の為」という名目で、重く淀んで濁っていく。ああ、と喘ぐように息をした。クラスメイトの視線の意味が、今になって分かったのだ。
それは、共犯者の目だった。みんなで共謀して聡子を輪から弾き出す、そのための団結だったのだ。葵はあまりの恐ろしさに震え上がった。
――ねえ、それって、〝苛め〟じゃないの?
「……葵ちゃん? どうしたの? どこか身体の調子が悪いとか?」
美紀はようやく葵の異変に気付いたのか、心配そうに、だが的外れなことを言っていた。「大丈夫……」と絞り出すように葵は言ったが、俯いた顔を上げることができなかった。泣いてしまいそうだった。
どうしよう。どうしよう。葵は涙を堪えたが、それも限界が見えていた。前髪で隠した表情が、苦しさから歪んでいく。今すぐさくらに会いたくなった。だがそのさくらはまだ登校していないのだ。せめてもの救いは聡子もまだ学校にいないという、その一点だけだった。
美紀の手が、葵にゆっくり伸びてきた。葵を気遣っての行為だと分かるのに、見た瞬間に葵が感じたのは絶望だった。
触られて、労わられたら。もう取り返しがつかない気がした。それなのに葵は動くことも拒絶もできず、迫り来る手を凝視した。
蓮香のような強さは、自分にはまだ遠すぎた。
葵が目尻に涙を浮かべながら、暗い絶望に呑まれかけた時だった。
腕が、強く引かれた。
「……ひゃ!」
持ちっぱなしだったランドセルを、思わず床に放り出した。ランドセルは美紀の足元にぽすんと落ちて、唖然とした様子の美紀が「あれ? 泰介くん?」と声を上げた。
――たいすけくん?
そんな名前で呼ばれる生徒は、このクラスに一人だけだ。顔は上げられないままだったが、自分の腕を掴んだのが吉野泰介だということだけは、今の葵にも分かった。
「なあ、斉藤。こいつ体調悪いんだろ?」
よく知っている男の子の声が、すぐ傍から聞こえてくる。乱暴な口調。大きめの声。間違いない。やっぱり吉野泰介だ。
「あ、うん。葵ちゃん、なんだか辛そうで……」
「それ、拾っといてやって」
戸惑い声の美紀に、泰介が短く言った。葵のランドセルを指さしているのが、前髪の隙間から見える。葵が状況を呑みこめないでいると、泰介が、びっくりするようなことを言い放った。
「おれ、保険係だから。こいつ、つれてく」
ぽかんとして、たっぷり十秒ほどの間が空いた。
「……え、えぇっ? た、泰介くん!」
顔をがばと上げると、ぐいっと泰介に引き摺られた。すでに美紀は葵の背後だ。葵同様に「えっ? えっ?」と騒いでいたが、返事をする余裕もなかった。
そして廊下へ一歩踏み出した瞬間、泰介は扉を閉める間さえ惜しいと言わんばかりの勢いで、いきなり全力で駆け出した。
「待っ……!」
引かれた腕が、ぴんと突っ張るように伸びた。だが離してくれない。泰介の手が離れない。登校のために歩いてきた廊下を逆走する二人に、何人もの生徒が慌てた様子で道を空けた。葵のスカートが、泰介のパーカーの紐が、激しい動きに大きく揺れた。ざざざざ、とすごい速さで廊下の景色が流れていく。左右を流れる生徒の顔があっという間に見えなくなり、喧騒は、何も耳に残らない。
――どうして、葵は、吉野泰介と一緒に、学校で走っているのだろう?
教師とも一人すれ違った。「きゃ!」と大げさな悲鳴を上げて脇に避け、壁に腰をぶつけていた。誰かと思って振り返ったら葵達の担任だった。「こら!」怒鳴りつけられて葵は竦み上がった。これで余計に立ち止まれなくなった。
階段前に差し掛かると、泰介は上へ行くことを選んだらしい。一瞬速度を落としたがすぐに葵を引っ立てた。
だがその時、「え、葵!?」と階下から声が聞こえてきた。
さくらだった。かなり下方の階段から、葵と泰介を見上げている。そして余所見をした所為で、葵は泰介の背中に鼻を思いきりぶつけてしまった。
「ったあ!」
「てっ!」
ほぼ同時に叫んだが、泰介はそれでも止まってくれず、無理にでも走ろうと葵を引っ張る。その段になってようやく、葵は段々腹が立ってきた。
「もうっ、何!」
泰介が初めて立ち止まり、葵を振り返った。
真剣で鋭い目が、葵を真っ向から睨みつけた。
「お前なあっ、ふざけんなよ!」
「!?」
頭の中が、一瞬で真っ白になってしまった。怒鳴り声に吹き飛ばされるようにして、心の中のあらゆる文句が消えていく。しばらく葵は真っ白なままだったが、やがてふつふつと湧いてきたのは、理不尽への怒りだった。
いきなり現れて、唐突に走り出して、脈絡もなく怒鳴られる。これではまるで分からなかった。葵は泰介を睨み返した。
「何なの! いきなり走って! それで、ふざけるなって、わかんないよ!」
他の男子だったらこんな風には言えなかったかもしれない。だが口の悪い泰介はたまに会話することもあって、葵にとって話しやすい相手だった。
だがそんな反発は、次の泰介の言葉で打ち砕かれてしまった。
「嘘ついてんじゃねえよ!」
「う、うそ?」
ぎくりとした。
「大丈夫大丈夫ってうるせえんだよ! 何回言えば気がすむんだよ! 聞いててどれだけむかついたと思ってるんだ! 見ててイライラするんだよ!」
頭を思い切り強く殴られたような衝撃が、心に走った。
それ以上、泰介に言わせては駄目だ。本能的にそれが分かった。だが泰介は葵の腕を放そうとしなかった。逃げられない。真っ青になった。
葵は、泰介から、逃げられない。
「なんでそんな、くっだらねえ見栄はるんだよ! 大丈夫じゃないならそう言えよ!」
泰介が何故か悔しそうな顔をするのを、葵は茫然と見返した。
その顔が、みるみる滲んで見えなくなる。
「あ、あれ?」
ぐい、と葵は目を擦った。泣いては、いけない。自分に言い聞かせたが止まらなかった。ぱたぱたと、服に、床に、雫が雨のように降っていく。
「どうしよう。とまらない……」
泰介は、掴んだままの葵の腕をまた引いた。さっきよりも、少し控えめな引き方だった。
「葵! ねえ泰介、葵に何してんのよお!」
さくらの声が近づいてくる。階段を上がってきたのだ。泰介が舌打ちし、「行くぞ」と葵を促す。葵は抵抗せずに、従った。さくら、ごめんね、と心の中で謝った。あれだけ会いたかったさくらなのに、もうそんな気持ちは崩れていた。
無言で階段を上がる間、泰介の悔しそうな表情が、葵の頭から離れなかった。
*
一時間目の始まりのチャイムが鳴ると、わあっと声を上げて生徒達が自分のクラスへ入っていく。ランドセルを背負ったままの子もかなりいた。
その中で葵と泰介だけが、戻ろうとしない。
「ねえ、どこにいくの?」
葵は半泣きのまま、泰介に訊いた。
「どっか空いてるとこないかなって、思ってんだけど」
そう言って泰介はきょろきょろと辺りを見回していたが、やがて「あそこでいいや」と理科室を指さした。
「怒られちゃうよお」
葵はべそをかくが、泰介はそんな葵を持て余したような表情で見つめ、「平気だって」と言い捨てると、躊躇いなく引き戸を開け放った。
理科室には、今まで入ったことが一度もない。というのも、理科室での授業は四年生からなのだ。葵は入り口付近に立つ人体模型に怯えたが、泰介はどこ吹く風で室内へ入ると「そこ、閉めとけよ」と振り返った。葵は慌てて、そうっと静かに戸を閉めた。
「……」
密室になると、元々静まり返っていた校舎は、もっと静かになってしまった。
心細さと緊張で、葵は胸がどきどきした。泰介をそろりと振り返ったが、泰介は机の上に平然と座って、足をぶらぶらさせていた。泰介も、葵を振り返った。目で着席を促されたので、葵は泰介の斜め前まで歩いていき、丸椅子にちょこんと腰かけた。隣に並んでいるのかいないのか、はっきりしない微妙な距離が、二人の間に空いていた。
「始めに言っとくけどな、俺がいつもこんなことしてるなんて思うなよ!」
言い訳のように泰介は言う。葵は少し緊張がほぐれて、笑った。
「私も、こんな事がなかったら、ずっとしなかったって思う」
泰介はそっぽを向いて、返事をしてくれなかった。葵としては何だか面白くない。めげずに「ねえ」と呼びかけた。
「泰介くんは、なんで分かったの?」
ずっと、それが気になっていた。走っている間は泰介の気遣いが分からなかったが、今ならちゃんと分かる。
泰介は、葵を助けてくれたのだ。
美紀の言葉から、ひいては教室の雰囲気から。
「分かったって何が」
泰介はとぼけている。葵はむきになって「泰介くんは、なんで私、を……」と言い募ったが、続きを言うのは恥ずかしくて、顔をそのまま伏せてしまった。
男の子に、助けられた。それだけのことが葵の顔を、上げられなくさせていた。
「葵はなんで、そんなに我慢できるんだ?」
余所見をしたままの泰介の声に、さっきとは別の意味で葵は動けなくなる。
瞼をきつく閉じた。そうしていないと、また泣いてしまいそうだった。
「……蓮香お姉ちゃんみたいに、なりたいから」
「ハスカ?」
「うん。私のお姉ちゃん」
涙が一筋、頬を濡らした。結局我慢できなかった。何故涙がこんなにも溢れるのか、泣いている葵自身、謎で仕方ない。
「私、すごく年の離れたお姉ちゃんがいるって、話したことあったよね。高校二年生なの」
目を開けると、驚く泰介と目が合った。
「姉貴がいるのは、知ってたけど」
これほど年上だとは思わなかったのだろう。葵は泣き笑いの表情で続けた。
「蓮香お姉ちゃんは、何でもできて、かっこいいの。それにやさしいよ」
「いい人なんだな」
泰介の言葉に、葵はきょとんとしてから頷いた。いい人。そうかもしれない。自分の姉をそんな風に評されたことはなかったが、確かにそうだと葵も思う。
「蓮香お姉ちゃんみたいに、なりたいの」
祈りを捧げるように、葵は言った。
蓮香は強い。自分に自信を持っている。葵もそうなりたかったのに、結局葵は弱い葵だ。思い詰めるとますます泣けてきてしまい、泰介がおろおろと狼狽え出した。「おい、泣くなよ、泣くなって」と、慎重に声をかけてくる。吉野泰介がこんなにも自分に気を遣った声を出すなんて。葵は目をぐしぐしと擦った。
「ハスカって人、そんなにすげぇの?」
「うん」
「ハスカって人、泣かないのか?」
目を擦る手が、止まる。葵は、泰介を見上げた。
頷くことも首を横に振ることも、そのどちらもできなかった。
「……わかんない」
母の病を知った時、蓮香も本当は泣きたかったのではないか。そう考えたことはもちろんあったが、葵は現実に泣いている蓮香を一度も見たことがない。
「そっか、わかんねーのか」
泰介はそう呟くと、やがて何かに納得したのか、明るい声で言った。
「だったらお前のねーちゃんって、ほんとにすげぇんだな」
「え?」
「だってそうだろ」
泰介は、あっけらかんと言った。
「妹に心配かけないようにしてるんだろ? おれ一人っ子だからそうゆうのって縁ないけど、すげぇって思うよ」
葵はぽかんとそれを聞いていたが、泰介はぎょっとした様子で再び狼狽え出した。
「なんだよ、まだ泣く気かよ!」
言われて葵は、自分がまた泣き出したと気づいた。
「あ、ごめん……大丈夫だから」
「嘘つけ!」
「今度は、ほんとだよ」
泰介の即答がおかしくて、葵はまた笑ってしまった。
泣き虫の葵は、まだまだ変わりそうにない。
ただ、思っていたよりもずっと自然に、笑うことができていた。
*
泰介が何故自分を助けてくれたのかは、結局訊きそびれてしまった。
それに泰介が現在の聡子の状況をどう思っているのかも、葵は少し気になっていた。
何故だろう。今朝一緒にいて、葵の考えには変化があった。
聡子の件はさくらよりも、泰介に相談する方がいい気がした。
あれからチャイムが鳴って休み時間になると、葵は泰介に付き添われて本当に保健室へ行った。先生も葵へ何も追及せずに、あっさりとベッドへ通してくれた。
泰介は「じゃあなっ」と言い残して元気に駆けていき、保健室の先生から「走らないっ」と叱られていた。葵はその後すぐに眠ってしまい、目覚めた時には夕暮れ時の赤い光が、白い天井を照らしていた。
結局一日、保健室で過ごすことになってしまった。
葵は上体を起こした体勢でしばらくじっとしていたが、やがてベッド脇にあるパイプ椅子の上に、自分のランドセルを見つけた。それを重石にしてメモ用紙も一枚挟んである。葵はそれを引っ張り出すと、表情を少しほころばせた。
だいじょうぶ? いっしょに帰ろ! 図書室でまってるね! さくら
さくらは、自分に優しい。葵がベッドから下りてランドセルを背負っていると、しゃっとカーテンが開き、保健室の先生が顔を出した。
「佐伯さん、起きてたの? 体調はどんな感じ?」
「あ……はい。えっと」
「間で友達が何人か来てたわよ。よく寝てたわねえ。全然起きなかったのよ」
感心したようにそう言われて、葵はもじもじする。かなり恥ずかしかった。
すると、「……また、いつでも来なさいね」と優しい声が降ってきて、ああ、そっか、と葵はすとんと納得した。返事の仕方に困ってしまい、結局そっと微笑んでから、葵は深く頭を下げた。柔和に笑う母の顔を、ふっと思い出していた。
保健室を出ると、遠くから子供達の笑い声が響いてきた。それをぼんやり聞きながら、葵は渡り廊下を歩き出す。赤い光が、眩しかった。
何気なく窓へ目をやると、グラウンドを走る泰介の姿が目に飛び込んできて、はっとした。
寝起きの頭に立ち込めていた霧が、たちどころに引いていく。
「たいすけーこっちー」
クラスの男子の掛け声に、泰介が「おう!」と威勢よく応じて、サッカーボールを蹴り上げた。ぽーん、と蹴られたサッカーボールが、綺麗な放物線を描いて飛んだ。「ナイシュー!」と歓声が上がり、勝気そうに泰介が笑った。
立ち止まった葵は、窓硝子に指で触れた。
自分の顔が薄く映る、その向こう側へ目を馳せる。
そして、ふい、と視線を窓から引き剥がして、図書室へと急いだ。
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