第10話 タイムリープ・1
暗く沈んだ視界に、白い光が薄く射す。
暈けた光にさえ眩しさを感じながら、佐伯葵は目を覚ました。
「えと……?」
細く、瞼を開く。何、してたんだっけ。葵はうつらうつら考える。だがそうやって微睡んでいるうちに、少女の妖しげな声を思い出した。
『ヒントをあげるわ。佐伯葵』
「……っ、泰介!」
がばと跳ね起きた瞬間、外光の白さが開いた目に突き刺さった。闇に順応した目はすぐに視力を回復せず、葵は目を庇うように手で抑えた。
そうだ。あの時。突き落とされて。
少女がこちらを、見下ろしていた。
手を降ろすと、ゆっくりと目を開けた。
そして目に飛び込んできた光景に、葵は呆然とする。
廊下の冷たい床。目の前にある教室。三年二組のプレート。
室内に溢れる光りは白く、黒板の上の掛時計は十一時二十分を指している。
この場所は、学校のようだった。教室が横一列に並ぶ廊下の真ん中で、葵は倒れていたらしい。すぐ傍の教室からは、微かな喧騒が聞こえてくる。快活さに満ち溢れた、年若い子供の話し声だ。
牧歌的な、雰囲気だった。
葵は戸惑い、心細さで委縮する。ただ同時に安堵も感じていて、溜息を細く吐き出した。自分は、ちゃんと生きている。正直助からないと思っていた。
だが、安心するには早すぎる。泰介達とはぐれてしまった。
ポケットから携帯を取り出したが、相変わらずの圏外だった。目尻に涙が滲んだが、いけない、と慌てて拭って立ち上がると、葵はまだぼんやりしている頭を必死になって回転させて、もう一度、辺りを見渡した。
そして、驚愕することになる。
「……うそ」
信じられなかった。だがもっと早く気づくべきだった。ぼんやりしていて、それが遅れた。葵は教室に駆け寄ると、窓に張り付いて覗き込んだ。
「先生! ちょっと待ってください!」
教室の中で、一際大きな声が上がった。子供達の中で一人、生徒が挙手して立ったのだ。あっと思わず葵は叫ぶ。その少女を知っていたのだ。
「さくら!」
立ち上がった子供は、葵と同じ二年二組のクラスメイト、
この少女は、間違いなくさくらだった。
だが、それではおかしかった。葵の知る秋沢さくらは高校二年。同級生だ。
それなのに、この姿は何事だろう。今目の前にいるのは、昔のさくらだ。
そして一人に気づくと、全員に気づいた。
教室にいるのは、ずっと昔のクラスメイト達だった。
「……」
動揺が、毒のように心を巡った。あどけない顔で犇めいている、かつてのクラスメイト達。しかもこの中の誰一人として、葵の姿を見ないのだ。
まさかとは思うが、もしかして――見えて、いない?
「はい。秋沢さん」
教師が、挙手するさくらを指名した。この教師にも見覚えがあった。確か藤見先生だ。小学三年の時の担任だ。
「先生! さくは反対です!」
さくらは、ばん! と机を叩いて激昂した。
葵はぽかんとする。目覚めたばかりの葵には、状況がまるで読めなかった。
「そう言ってもね、誰も立候補しないんじゃ仕方ないでしょう?」
対する教師は、投げやりな口調でさくらを諭した。さくらの目が吊り上った。ああ、と葵は頭を抱える。可愛い顔が台無しだ。
「だからって、先生が選んだ人にてきとうに押し付けないでください!」
おお……と教室に、どよめきが広がった。葵も思わず同じ反応をしてしまう。論争の議題は知らないが、どうやらさくらが優勢だ。
その時ふと、葵は既視感を覚えた。
あれ? と疑問に思う間に、話が少し進んでしまった。
「私、推薦します」と、さくらに同調した誰かが、続いて席を立ち上がった。
その女子生徒にも、見覚えがあると気付いた時――ぱちん、と。頭の中で何かが弾けた。
脳裏を駆けた、記憶があった。空気までもが鮮やかに、自分の中へ舞い戻る。葵の視線が少しずれて、歪み、教室の中へシフトする。そしてある一点で落ち着いて、そのままぴたりと固定された。
「葵ちゃんを、推薦します」
その声を葵は、教室の外で、中で、聞いていた。
チャイムが鳴って、子供達が席を立った。わあっと歓声を上げながら、廊下に立つ女子高生を素通りして、元気に外へ駆けていく。
葵は、窓に手をついた。
「うそ……」
眼前の眺めが、信じられなかった。
――ここはどこ?
葵は問う。自分をこの場所へ突き落した、おそらくは宮崎侑という少女に、葵は質問を投げかける。
だがそれは訊くまでもなく、答えは自分の中にあった。
――ここは、葵の母校の小学校だ。
教室の真ん中で、席を立つ少女がいた。そして自分を推薦した女子生徒の元へ大慌てですっ飛んでいく。肩口で切り揃えられた黒髪が、忙しい動きで大きく揺れた。再び、視界がシンクロした。葵は、この眺めを知っている。
記憶が今、目の前で再生されようとしていた。それはさながら、劇や映画のように。今の葵は観客だった。だから誰にも、感知されない。
教室の窓越しで十七歳の佐伯葵は、九歳の佐伯葵を見下ろしていた。
何故自分が過去を見ているのか、分からないまま見下ろしていた。
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