第9話 失踪

「どういう事だよ、これ」

 泰介は屈みこんで、仁科に背中を向けたまま訊いた。

 手元には、黒い鞄。持ち手の一部分だけが名残のように縊れている。そこに結っていたはずの青いサテン地のリボンは、嘘のように消えていた。

 その持ち主と、同様に。

「知らないって言うんなら謝るぜ。だけどお前、俺らに悪かったって言ってただろ」

 泰介は葵に悪いと思いながらも鞄を開けて、中身をざっと検めた。

 ――携帯は、入っていない。

 葵が持っているという事だろうが、元々使える代物ではなかった。泰介が鞄を元通り閉めて立ち上がると、仁科が朴訥な声音で言った。

「吉野には悪いけど、俺に訊かれても分からないさ」

 そう言って表情を変えないまま、閉じた引き戸へ目を向ける。

「状況的にこの教室が一番怪しいけど、違うんだろうな。鍵かかってる」

 泰介は引き戸に手を掛けたが、力を込めてもびくともしない。がちゃがちゃと耳障りな音を立てるだけだ。焦燥と苛立ちで手つきが乱暴になる。

「蹴破ることはできると思うぜ」

「やめとけ。どうせ無人だ」

「……じゃあ、どうすればいいんだよ」

 提案をあっさりと一蹴した仁科を、泰介は厳しく睨み付けた。

 ――泰介と仁科は、最初に放送を聞いた場所へ帰ってきていた。

 放送室で宮崎侑を見失った後、葵を探す為に戻ったのだ。泰介は放送室に向かう際に葵へ一緒に来るよう叫んだが、葵はいつまで経っても来なかった。はぐれた可能性も考えたが、ここで葵の鞄を発見して、泰介は一つの結論に達していた。

 葵はこの場所を動かなかった。

 そして、ここで消えたのだ。

 何者かに攫われたと考えるのが自然だが、先程まで人気のなかった校舎での出来事としては妙だ。それに何となくだが葵は校舎内にはいない気がした。

 何故そう思ったのかは分からないが、嫌な予感が止まらなかった。そしてそんな抽象的な理由を元に校内を探さないのは、泰介の性格が許さなかった。

「葵を、探す」

 苦渋を呑み込み、泰介は淡々と言った。

「校舎を一周して、それでも見つからなかったら職員室に侵入して鍵を探す。そしたら教室全部洗い直すぞ。お前とまではぐれたら骨だから付き合え。行くぞ」

「吉野。怒ってるだろ」

 仁科が、ぽつりと言った。

「何が」

「佐伯が消えたの、俺の所為だって思ってるだろ」

 さっきの反撃のように、仁科が言う。泰介は答えようとしたが、仁科が畳み掛ける方が早かった。

「佐伯に何かあってからじゃ遅いって、お前佐伯本人前にして平気で言えるんだもんな。さすが幼馴染。感動するね」

「……黙れよ」

 泰介は、恫喝した。

「お前、俺がそう言ったら、何つった? ――請け負うって言っただろうが! 全然請け負えてねぇくせに、がたがた文句抜かしてるんじゃねぇよ!」

「お前が佐伯ほったらかして、俺なんかを追っかけるからだろ」

 仁科は何食わぬ顔で言い返した。泰介は、怒りで視界が真っ赤に染まる。

 だが、それはとっくに後悔していた。わざわざ仁科に言われるまでもなかった。葵が来ないと気づいた瞬間の思慮の浅すぎた自分への怒りで、握り込んだ手が震えた。

「……ああ。そうだよ。置いてきたのは俺だ。けどな、それでもやっぱり俺はお前の言い分が気に食わねえ。大体その前に俺ら置いてったの、お前だろ」

 八つ当たりだと自覚があったが、どうしても割り切れなかった。

「葵を探す。それに付き合ってもらう。っていうかお前も一緒に探せ。いいな」

「……お前はそんなに俺に反感持ってるのに、どうしてそれでも、俺を同行させる?」

「あいつがまた泣く」

 泰介は、苦々しげに吐き捨てた。葵は泰介と仁科の度重なる喧嘩を悲しんでいた。もし葵と合流できた時に泰介達がばらばらだったら一悶着あるだろう。そうなると余計にややこしいし、何より気が滅入るのだ。

「もうどんな馬鹿でも分かるだろ。ここに今いるのは、俺とお前と葵と、それに宮崎だけだ。何が起こるか分かんねえけど、宮崎はヤバい。俺らが女子に負ける事はないだろうけど、葵はどうだか分かんねえ」

「根拠は?」

 白々しく仁科が訊いてくる。泰介はかっとなった。

「知るかよ! それを探して歩いてたんだろ!」

 仁科は言い返さなかったが――ただ、卑屈に笑ってきた。

 一瞬、殺意が湧いた。見知らぬ校舎へ迷い込み、しかも葵が消えている。その上自分達の誰かが殺されるかもしれないという最低最悪の状況なのだ。仁科の神経が泰介には理解できなかった。

 だがそんな殺意は、笑う仁科を睨むうちに、通り雨のように引いていった。

 仁科が、無理矢理笑っていると気づいたからだ。

「……」

 今更、気づいた。仁科要平にとって佐伯葵は、自分を除けば唯一と言っていい友人なのだ。そして他には誰もいない。泰介にとっての葵が日常の大半を占める幼馴染であるように、仁科にとっての葵は高校での数少ない友人なのだ。

 失う痛みは同じだった。青白い仁科の顔を見て、ようやく泰介は気づかされた。苛立ちと焦燥感と未消化の怒りの残り粕だけが、泰介の胸中に残された。

「……佐伯、生きてるかな」

「ばっ、馬鹿言うなよ! 生きてるに決まってんだろ!」

 空虚な声にぎょっとして、泰介は即座に言い返した。

「葵は生きてるし、今だって俺らが来るのをどこかで待ってるはずだ。あんな放送がなんだよ! 生きてるって、お前が信じなくてどうすんだよ!」

 半分は自分を鼓舞する為の嘘だったが、残りの半分は本気だった。あんな放送一つでいきなり生死まで疑ってどうするのだ。

 毅然と言い放つ泰介を、仁科は不可解だと言わんばかりの目で見てきた。

「なんで、自信もってそんなふうに言える?」

「あいつとは付き合い長いから。こんな時あいつがどう考えるかくらい分かる」

 はきはきと答えると、仁科は虚を突かれたような顔をした。その表情にむっとして、泰介はつっかかる。

「何だよ。今のじゃ不満かよ?」

 面食らった顔のまま、「あー、まあ」と仁科は言った。

「不満っつーか、それ。答えになってない」

「付き合いの長さ云々は仁科に分かんなくて当然だろ。納得できなくても納得しろよ」

 仁科が試すような目で見てきたが、泰介は目を逸らしてなるものかと逆に睨み返してやった。先に目を泳がせたのは仁科だったが、その時ぼそりと呟かれた。

「吉野。お前……」

「なんだよ」

「いや、やっぱりいい」

 妙な勘繰りをされたようだが、追及は免れたらしい。泰介は溜息を吐いた。追及されたところで、返す言葉など何もないが。

 ふとそこで思い出した。先程の混乱の所為で仁科の打ち明け話が途中のままだ。話の続きを急かそうとして、泰介は胸が悪くなる。自分への追及は免れておいて、仁科には厳しく追及する。何だか短い間に随分と悪人になった気がした。

『みんなには〝アリス〟を探してもらう』

 不可解な放送と、侑の声とが蘇る。

 ――〝アリス〟って、何だ?

 泰介は首を捻りながら、葵の鞄を肩に提げて、階段を足早に駆け下りた。葵の姿を景色の中に探しながら、思考は侑の言葉に流れていく。

 〝アリス〟探し。それを宮崎侑と名乗った少女は、泰介達に要求した。

 その内容は、狂人の戯言そのものだった。侑は〝アリス〟と繰り返すが、そもそも〝アリス〟の定義とは何だろう。しかも定義付けさえされていない〝アリス〟は泰介達の中にいるかもしれないという。だが現時点では〝アリス〟とやらの特定はおろか、推測すら泰介には出来ない。定義が分からないのだ。特定のしようがない。

「〝アリス〟って、お前は何だと思う? 仁科」

 訊いてみたが、背後は無言だ。足音だけが泰介の後についてくる。

「おい。返事くらいしろって」

 階段を下りきると、泰介はその階の廊下に立った。現在地は多分二階だ。渡り廊下をざっと見通し、横の廊下にも目を配る。そしてそのどこにも人影が見えないと分かると、仁科を振り返った。

「おい、どっち行く? 向こうの校舎は後にして、先に降りて一階探すか?」

 仁科は何事かをしきりに考えている様子だった。だが泰介に呼ばれてはっとすると、「あ、ああ。そうだな」と歯切れ悪く返事をした。

「仁科、しっかりしろよ……」

 叱咤するが、仁科はやはり「ああ」と生返事をするだけだ。それでも泰介から離れずに歩いているので、放っておいても平気だろう。

 泰介としても、いい加減口喧嘩に疲れていた。これから仁科とどれほどの時間を行動するかは不明だが、実のない衝突は互いの体力を削るだけだ。苛立ちを極力殺しながら、泰介は階段をずんずん降りた。踊り場を曲がり、一階まで一気に下りる。その時仁科が、何事かを呟いた。

「……一階は、まずいかもしれない」

 先を急ぐ泰介には、その台詞が聞き取れなかった。

「今、なんか言ったか?」

 足を止めずに、昇降口へと繋がる廊下を真っ直ぐ歩く。この廊下はそのまま隣の校舎へと繋がっているようで、その中間地点に下駄箱が林立している造りだ。昇降口の対面には窓硝子が一面に並んでいて、そのどれもが夕日を映してオレンジ色に光っていた。ここは他のどの場所より明るかったが、同時に他のどこよりも冷え込んでいる気がして、泰介は姿を消した葵の事を再び考え始めていた。

 ――泰介っ。

 泰介を呼んで、穏やかに微笑む幼馴染。笑顔が脳裏を掠めていく。泣き出しそうな顔で泰介と仁科の喧嘩を諌める姿も、一緒になって思い出す。

 こんな場所に、たった一人でいるのだ。葵は。

 葵がついてきていないと気づいた瞬間、不甲斐なく苛立った自分を思い出す。そして苦い思いで唇を噛んだ。こんな所に一人で残されたら、誰でも心細くなるだろう。己の心の狭さが恥ずかしかった。泰介が注意していれば済んだのだ。その責任は葵に転嫁するものでも、ましてや仁科に転嫁するものでもない。

 一刻も早く探すべきだ。泰介は歩調を心持ち早め、そして仁科からいまだに返事がないと気付く。

 急に、不安になった。足音こそ聞えるものの、ちゃんとついて来ているのだろうか。葵失踪の件があったというのに不用心過ぎたかもしれない。

 泰介は、振り返った。

「仁科?」


 あはははははははははは………。


「……」

 足を、止めた。

 蒼白な表情の仁科が、ほんの二メートル先に立っている。同じく足を止めていて、泰介を驚愕の目で見つめていた。


 ふふふふふ……あはははは……。


 無人の昇降口前で、互いに身じろぎもできず、恐怖の形相で見つめ合った。エコーを伴う哄笑だけが、ただただ響き続けていた。

「これ、どこから聞こえてんだよ、おい……」

 もう驚きの連続で、笑ってしまいそうだった。冷や汗が背筋を伝い落ちるのを感じながら、周囲に警戒の視線を目まぐるしく向ける。どこかから視線を感じた。それが焦りに火を付けた。下駄箱の影? 違う。昇降口のガラス扉の向こう? 違う。廊下の果て? 突き当り? どれも違う。

 じゃあ、どこだ?

「吉野! 引き返すぞ!」

 仁科が血相を変えて、泰介の視界を遮るように回り込んだ。

 息を呑んだ泰介は、あまりの真剣さに気圧された。

「仁科……っ?」

「一階はやっぱりまずい! それ以上進むな! 早く……逃げるぞ!」

 焦りで強張った仁科の顔は、激昂寸前のように引き攣っていた。恐れと手の震えが伝わってくる。恐怖か、戸惑いか、武者震いか。

「……けど! 葵が、いるかもしれないだろ!」

「お前がその前にどうにかなる! 吉野、いいから今は俺の言う事を聞け!」

 仁科は泰介の肩を乱暴に掴んだ。

「逃げるって、何から逃げろって言うんだ! どうにかって何だよ!」

「説明してる暇はっ」

 焦る仁科が、泰介に言った時だった。

 がしゃん! と背後で硝子が割れるような音が響いた。

「!」

 泰介はすぐさま振り返った。

 その音源は、すぐに見つかる。

 廊下の突き当たりの窓硝子が、一枚割れていたのだ。粉砕された硝子の破片がばらばらに散っている。夕日の光を受けて煌めく破片はまるで宝石のようだった。じゃりっ、じゃりっ……と音を立てて、硝子の破片がさらに砕ける。次いで隣の窓硝子も、ぱんっ、と小気味いい音を立てて破砕した。そしてその隣の硝子までもが内側から弾けて飛散した。

 まるで外側から誰かが、窓硝子を叩き割っているような――。

「吉野、いい加減にしろ! 上に戻るぞ!」

「おい、あれ……!」

「殴り殺されたいのか、お前は!」

 仁科の怒号が響き渡った。

 言われた内容に、驚愕する。到底聞き流せるものではなかった。

「殴り殺されるって、お前……!」

 泰介の襟首を仁科が問答無用で鷲掴みにして、元来た道を引き返す。泰介は泡を食いながらも仁科の手を振り解き、自分の足で走り出した。何が始まったのか分からなかった。だが予断を許さない状況だけは理解した。

「なんだよ、これは……!」

 怒鳴りながら階段前へと駆けつけた時、泰介は背後を振り返った。また硝子が割れる音が聞こえたのだ。

 そして振り返ったその刹那。

 鉛色の輝きが、視界を掠めた。

「! 仁科っ、伏せろ!」

 階段に足を掛けた仁科へ鋭く叫んだ。だが反応が遅い。振り返ろうとする仁科の動きが、水中の出来事のようにゆらゆら見える。間に合わない。駄目だ。遅い!

 身体が勝手に動いていた。泰介は全身で仁科の背中にぶつかっていった。

 体当たりされた仁科は、前のめりになって転んだ。その勢いのまま泰介は、仁科の上に覆い被さる。視界が学ランの背中に隠れ、暗転した瞬間。

 ごぉん……! と、鈍い音が校舎へ響き渡った。

 泰介と仁科のすぐ頭上だった。真横の壁が、空気が、衝撃でびりびり震える。ぱらぱらと細かい硝子の破片が頭上から降り注ぎ、顔を上げた泰介の頬を掠めた。

 躊躇している余裕はなかった。

 泰介は即座に横倒しになった体勢のまま身体を捩ると、ばっと手を頭上へ、思いきり突き出した。

 ぱしっ! と金属に肉がぶつかる、乾いた音が響き渡った。

「吉野!」

 仁科が上体を起こしてきた。泰介は間髪入れずにその身体を勢いよく足蹴にした。男に至近距離で起き上がられても邪魔なだけで何にもならない。蹴られた仁科が呻き、案の定泰介へ文句を言おうと表情を盛大に歪めていたが――そのまま蒼白になった。

「仁科、先に行け。やっとお出ましみたいだぜ。こいつが硝子割った犯人だ」

 茶髪が、鼻先にかかる。階段に倒れたまま鉄の棒を受け止める泰介の向こうに、にたりと笑う顔が見えた。悪趣味な笑みをぎろりと睨み付けながら、この膠着状態に内心でかなり驚いた。中二の女子の腕力が、高二の泰介と同じなのだ。ふざけるなと叫びたかった。

「……!」

 仁科が、はっきりと息を呑んだ。

 その瞬間に少女の姿が一度消えて、ふっと凶器が床に落ちる。

 カランと澄んだ音が響いたが、すぐにそれは持ち上がり、少女の姿も復元した。その段になってようやく、自分が手の平で受け止めたものの正体も分かった。


 ――金属バットを握った侑が、泰介を挑戦的な目で見て笑った。


 泰介は場違いにも笑みを浮かべて、その少女を睨み付ける。

 やっと敵が、再び手の届く距離に出てきたのだ。

「仁科、早く行け。後で絶対追いつく」

「吉野、馬鹿か! おとなしく退け! 亡霊なんか、お前に相手できるわけないだろ!」

 仁科が、階段へ崩れるようにへたり込んだまま叫んだ。

 決死の言葉だった。その声を出したのが仁科要平だとは信じ難いほどに、血でも滲んでいそうなほどの真剣さが伝わってくる。その声を聞いた泰介は、不覚にも――少しだけ、笑ってしまった。

 緊迫した空気を、この一瞬だけ綺麗に忘れた。揶揄の笑みばかり浮かべる仁科が、これほどまでに動じたのだ。残念だ、と本気で思う。仁科が今どんな顔で立ち塞がる泰介を見ているのか、確認できないのが悔しかった。

「仁科さあ、勘違いすんなよ。自己犠牲とかそういうの、俺は死ぬほど嫌いなんだよ。見てるだけでも反吐が出る。別にお前の為に身体張ってるわけじゃねえよ。……けど、逃げろって言われてすぐ逃げなかったのは……俺が悪い。だから今仁科に何かあったら、それは全面的に俺が悪いんだよ。分かってるんだよ、言わせんな」

 ここまで吐いたなら、最後まで躊躇う理由はなかった。きっ、と表情を引き締めて迷いを断つと、前を向いたまま泰介は怒鳴った。

「仁科! 葵と、三人で帰るって言っただろうが! 御崎川に! 三人で! その葵がいなくなって、それでお前まで欠けるなんて冗談じゃねえんだよ! お前がいなくなったら葵にどんな言い訳しろって言うんだ! 中二の女子にバットで撲殺されたとか言わせる気か! 言えるか! 恥ずかしい!」

「吉野……」

 仁科が、呻く。だが泰介はもう取り合わなかった。

 少女の映像は、時折ノイズが走ったように掻き消えた。本当に仁科の言うように亡霊なのだろうか。だが負ける気など全然しない。女子中学生に男子高校生が負けたら恥ずかしいし、それこそ御崎川には戻れない。

「お前って……なんで、疑わないんだ。帰れないとか、生き残れないとか」

「抜かせオレンジ頭。さっさと逃げろ」

 泰介は吐き捨てると快活に笑った。ここに来てこれだけ清々しく笑えたのは、今が初めてかもしれなかった。

 だが、その時だった。

 侑と思しき人影が、今度こそ掻き消えたのは。

 ぶつん、とテレビの電源でも落としたかのように消失し、バットが何もない空間を振りかぶって、落ちる。カラン――と。澄んだ音が反響する。金属バットは床で跳ねて、その度に騒がしくタイルを打ち鳴らしながら転がり、やがて硝子の破片の海へ突っ込んで止まった。それきり何の音もしなくなる。

「はあ……?」

 泰介は間の抜けた声を上げた。

 さっきまで硝子を幾枚も叩き割ったバットは、最早ぴくりとも動かない。泰介は仁科と顔を見合わせて茫然とした。だが本当に動かないのか不安になり、そろりそろりとバットへ近づく。「吉野、やめとけって。何やってんの」と呆れた仁科が警告するが、泰介としてはどういう原理になっているのか気になった。

 グリップを握って持ち上げると、金属バットは何の抵抗も無く泰介の手に収まった。こうして見るといよいよ普通のバットだ。だがいつまた動き出さないとも限らない。薄気味悪くなって手放そうとした時、それが偶然、目に入った。

「吉野?」

 仁科が硝子を踏みしだきながら、泰介に近づいてくる。

「仁科。これ」

 泰介は仁科に、それを指し示した。

 仁科は、それを見ると――無感動に目を細め、口の端だけで少し笑った。

また、何かを諦めたのだろうか。そんな哀切の表情に何故だか見えた。

 金属バットのヘッドの部分。

 そこには油性マジックで、所有主の名が書いてあった。


 萩宮第一はぎみやだいいち 野球部


「この学校は、萩宮第一中学校。――仁科。確かお前の通ってた中学だろ」

 ずっとひっかかっていた。仁科の表情や行動に、何度も無理や諦めが滲む。その謎を謎のままにした所為で、事態がここまで進んだのだ。

 もう、はっきりさせるべきだった。

「話す前にバレる、か。カッコ悪い事になったな」

 仁科は苦笑して口を閉ざした。泰介はそんな仁科を静かに待った。

 二人の間には沈黙が流れたが、それは決してこの学校へ来て何度も味わったような重苦しいものではなかった。初めて怒りや焦燥に囚われないまま、泰介は自然体で仁科を待てた。それが自分でも不思議だった。

「放送で邪魔が入ったからな。話途中だったな、そういや」

 泰介が見上げた仁科の顔は、愉快そうに笑っていた。苦笑に近い、諦観混じりの複雑な笑み。だが今までのような不自然さはなく、むしろ自然な笑みだった。

「吉野。今度こそ話す。佐伯にはできたら黙っといてくれるか? 俺はこんな話を、あいつには聞かせたくないんだ」

 仁科がそう言って、今度は泰介の言葉を待つ。泰介は、笑ってやった。

「焦らし過ぎだよ、お前」

 葵には言わない。そうきっぱり言うと、仁科は軽く息をついて、その吐息に乗せるように、短い言葉を告げた。

「さんきゅ。吉野」

 ぽかんとしてから、泰介は気づく。

 仁科に礼を言われたのは、これが初めての事だった。


     *


 ただ――語り始めた仁科の言葉に耳を傾けながら、泰介にはある疑問があった。

 仁科を庇って倒れ込み、素手でバットを受けとめた時のことだ。

 侑は何故、引き下がった?

 何だか、見逃された気がするのだ。あの少女は本当に、泰介と戦う気があったのだろうか。大した疑問ではないのだろうが、妙にそれが引っかかった。

 泰介は無人の廊下へ打ち捨てられた、バットを見下ろした。

 仁科の母校のバットはもう二度と動く事なく、ただ冷たく転がっていた。

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