第3話 御崎川高校

 公立御崎川高校こうりつみさきがわこうこう

 泰介と葵の通う木造建築の高校は、例えるならホラー映画につきものの旧校舎のような、陰鬱とした佇まいの学び舎だった。

 外観も校風も共に古風であると有名な高校だが、それはやはり学校側が綺麗な言葉に変換した結果であって、結局のところは古臭くて不気味、の一言に尽きる。泰介は百五十二回生だから、今年は校舎が建ってから百五十三年目だ。入学当初は男の泰介でさえ、遅くまでは居残りたくないと思ったものだ。

 早朝の学校は墓地のように静かで、昇降口も廊下も無人だ。脆弱な高校生二人など捻り潰せてしまいそうな重い静寂が満ちている。毎日見慣れた校舎なのに、心情一つでこうも見違えるものなのだ。

「なんか、入るの怖いね」

「別に、怖くなんかねえよ」

 見透かしたように葵が言うので、反射的に言い返した。葵は目を白黒させてから吹き出したが、すぐに俯いたので泰介はむっとした。先程のように「不謹慎」などと考えているに違いない。

「それくらいいいだろ。あんまり気に病むなよな」

 泰介としては笑顔を作れるほどの余裕を葵が持てたなら安心だが、葵としてはそんな些細な感情さえ罪悪感に繋がるらしい。

 気持ちは分からないではないが、苛ついた。

「ごめんね。こういうのやめにしたいのに、でも、やっぱり落ち着かなくて」

 葵は鞄を肩にかけ直しながら、弁解するように言う。鞄に結わえられた青いリボンが揺れ、セミロングの髪も一緒に揺れる。年季を感じる黒ずんだ廊下の床板が泰介と葵の体重にぎいと軋み、それが余計に不吉さを煽った。嘆息した泰介は葵の頭に手を伸ばすと、がしがしと掻き混ぜるように髪を撫でた。

「泰介? ちょっと、痛い」

「うるせえよ。早く教室行こうぜ」

 ぐいぐいそのまま頭を押して、葵を前へ歩かせる。「もう」と葵は抗議の声を上げたが、無視して無理やり歩かせた。葵に文句も言えない以上、泰介としてはこのナイーブな幼馴染の思考の邪魔をして、溜飲を下げるしかない。

 だが、その時ふと窓側に目をやった葵が「あ!」と叫んだ。

「うわ!」

 泰介も驚いて叫ぶ。人気のない学校に自分の声が異様に響いた。「おどかすなよ!」と気色ばむ泰介をよそに葵は窓に近寄ると、硝子に手を当てて外を見た。葵の指が触れた辺りが、温度差で曇った。

「ったく……どした?」

「仁科が来てる」

 葵は泰介を振り返ると、窓の外を指さした。

 言われて泰介も窓に寄ると、校門の辺りに見慣れた長身痩躯が確かに見えた。

 校舎三階の距離から見下ろす青年の容姿は、かなり目を引くものだった。

 古風ゆかしい校風にそぐわない、前を大きく開けてだらしなく着こなした学ラン。鮮やか過ぎてほとんど原色に近いような、オレンジ色に染め抜いた頭髪。足が長いから歩幅も大きいのか、歩くペースは結構速い。ずんずんと校庭脇の小道を歩き、校舎に向かって突き進んでくる。一応だが県下第一の学力を誇っている高校でこんな奇抜な格好をする奴は一人しかいない。

 間違いなく、同じクラスの仁科要平だった。

「……仁科じゃん。電話繋がんないから寝てんのかと思ったぜ。連絡網聞いて来たんだな」

 珍しい、と泰介は悪態を飛ばす。そして同時に、仁科要平が無事生きて学校に来た事に、内心で胸を撫で下ろした。

 葵を盗み見ると、安堵の表情で窓の外を見下ろしている。もしかしたら泰介自身も同様の顔をしていたかもしれない。無意味に焦って表情筋を引き締めた。

 だが、やはり珍しい事もあるものだと泰介は思う。

 こんな早朝に仁科の姿を目撃するなど、今までにない事だった。

 仁科要平という男は時間に極端にルーズな生徒で、いつも遅刻ぎりぎりになって登校してくるのが常だった。始業のチャイムが鳴ってから教師が教室に来るまでの滑り込みで間に合う時もあれば、一・二時間目の授業の最中にのそのそやってくる事も珍しくない。日向ぼっこをする猫のように気ままな風体だと泰介などは思うが、かと言ってガラが悪いのかと言えば、そういうわけでもなかった。話しぶりは皮肉屋で、会話の度にかなり苛々させられるが不良というのは適切ではない。むしろ一たび授業に出ればその授業態度は実に真面目で、休み時間を使って自習に勤しむ姿も目撃するので、実際のところ仁科の成績はかなりいいらしい。

 もちろん成績は良くとも遅刻魔なので、教師は仁科に良い顔はしない。だがなまじ成績優秀なだけに叱り辛いのか、今や仁科を本気で指導する教師は少数派だ。女性教師に限定して言うならば、仁科の容姿が並外れて端麗だというのも要因の一つかもしれない。確かに髪色の奇抜さを抜いたなら容貌はかなり整っている。全くもってどうでもいい事だが。

 少なくとも悪意はないようだから、無害には違いないが、ともかく。

 仁科要平は間違いなく、この御崎川高校で浮いている存在だった。

「泰介ってば。失礼なこと考えてるでしょ」

 葵が泰介の顔を覗き込んで呆れている。「別にそんなんじゃねえし」と言い返しながら、図星なので泰介はそっぽを向いた。

「もう。もっと仲良くしたらいいのに」

「うるせえよ。別にいいだろ。あいつはお前以外のヤツに興味なんかねえだろうし」

「そういう問題じゃないと思うけど……」

 不服そうに葵が唇を尖らせ、それから窓の外をもう一度振り返って微笑んだ。「……よかった。仁科は生きてる」と囁いたので、泰介はもう一度そっぽを向いて、頭髪をがしがし掻き回した。

「じゃ、ここで待ってやるか」

 仕切り直すように言って、廊下を振り返る。

 二年二組の泰介達の教室は、もう目と鼻の先だった。

 葵が教室に近づいて、引き戸をスライドさせた。がらららら、と、突っ掛ったような硬い音が廊下いっぱいに響き渡る。そして一歩踏み込んで、葵が動きを止めた。

 垣間見える横顔に、戸惑いの表情が浮かぶ。

 引き戸を半開きにした状態のまま、葵は泰介を振り向いた。

「泰介、いつも朝早いよね。でも、朝ちゃんの方が学校にいつも先に着いてるんだよね?」

「ん? ……ああ」

 咄嗟に名前が浮かばなかったが、葵の言う「朝ちゃん」とやらは舟木朝子ふなきあさこの事だろう。泰介のクラスで最も勉強熱心で登校時刻の早い生徒だ。泰介は頷いた。

「大概クラブ棟にそのまま行くから確証はないけどな。校舎見上げたら窓際で勉強してんの何回か見たぞ」

「でも教室、誰もいないよ」

 しん、と静寂が広がる。葵の声が、妙に響いて聞こえた。

「朝ちゃんも、連絡網回してるはずの島田しまだ先生も、誰もいないよ」

「はあ? まさか、そんなわけ……」

 泰介はつかつかと引き戸に近寄り、葵に代わって扉の前で仁王立ちになる。そして驚きで目を丸くした。

 教室が、本当に無人だったからだ。

 泰介と葵は、誰もいない教室に入る。窓から入る早朝の薄ぼんやりとした明かりを受けて、机の表面が白い光を照り返した。

「……偶然だろ。落ち着けよ」

 自分でも何かがおかしいと感じながら、泰介は言った。

「俺らが一番に来たってだけだろ? 別に何もおかしくなんかねえよ」

「でも、朝ちゃんがいないよ?」

「体調悪かったとかで、遅れてるだけだろ」

「それでも……なんか、変じゃない?」

「……なんで、誰もいねぇんだよ」

 泰介も結局、吐き出すように呟いた。

 妙だった。泰介と葵は電車通学組なのだ。このクラスには学校まで徒歩圏内の生徒もいたはずだ。にも関わらず電車組の泰介達が一番というのは不思議だ。連絡を回したはずの教師の不在も、不審に拍車をかけている。

「俺、職員室行ってくる。島田先生なら来てるだろ。お前も来るか?」

 こくこくと必死に頷く葵に「よし」と頷き返した時、泰介はふと、こちらに近づいてくる物音に気付いた、

 きい、と床板が軋む音。それにこつこつという靴音が耳に届く。緊張が一気に背筋を掛けた。人がいるのだ。そしてここを目指している。耳を澄ますと早いペースで歩いてくるのが分かる。葵も気づいて泰介と顔を見合わせた。

「誰?」

「分かんねえ」

 ひそひそと喋りながら、泰介は肩から下げていたスポーツバッグを床に落とす。来るのが誰であれ上等だった。教師なら事情を聞かせてもらうし、生徒なら生存確認ができる。

 泰介は待ち構えたが、教室の前に現れた人物を見た瞬間、盛大に脱力した。

「……なんだ、お前らか。二人揃って朝っぱらから何怖い顔してんの?」

 何という事はない。奇抜なオレンジ頭のお出ましだった。

 仁科要平はわけが分からないとでも言いたげな様子で、眉根を寄せて立っていた。

「仁科?」

 葵も拍子抜けの顔をしている。泰介は自分の緊張と意気込みがこの瞬間に全て無駄になった事を悟ると、しゃがみこんで頭を抱えた。

 そんな泰介を見下ろすオレンジ頭の長身痩躯は、何事かとしばらく思案気に沈黙していたが、やがて、

「こんな早くから何やってんのかと思ったら。吉野、暇なんだな」

 ふっと口元を笑みの形に歪め、泰介の体たらくを嘲笑った。

 一気に堪忍袋の緒がブチ切れた。

「仁科ってめぇ!」

「仁科、おはよう」

 立ち上がった泰介が罵詈雑言を吐き散らす前に、すかさず葵が言った。

「よかった、来てくれて。仁科来ないんじゃないかなって思ってたけど、さっき歩いてるとこ窓から見えたから安心したの」

 ほっとした様子ながらも矢継早に喋っている。泰介に文句を言わせない意思が明白だ。泰介が睨みを利かせると、葵はちろりと舌を出した。

「ああ。おはよ。吉野が早いのは分かるけど、佐伯まで早いなんて珍しい」

「珍しさだったら仁科ほどじゃないよ」

 仁科の軽口に苦笑しながら葵が応じた。文句もろくに言わせてもらえなかった泰介としては実に面白くない。「よく起きれたよな。遅刻魔」とあからさまな皮肉を飛ばすが、こちらを見下ろす仁科はにやりと笑っただけだった。

 仁科要平は百七十センチをゆうに超える長身なので、泰介は仁科と会話する際、少し見上げなくてはならない。いつの日か仁科を見下ろす事を心に誓いながら泰介は目の前の長身痩躯を睨んだが、そこで唐突に、我に返った。

 仁科要平がここに来たからといって、事態が進展したわけではないのだ。

「……」

 たった三人しか人間がいないと思想は空気を伝うのか、葵も泰介と同じ考えに至ったらしい。笑顔に影が差した。

 押し黙る二人を仁科は不審そうに見下ろし、やがて言った。

「なんか雰囲気暗くないか? お前ら」

 あっさりとした言い方に、泰介はぎょっとした。

「何言ってんだよ、仁科。そりゃ暗くもなるだろ」

 恫喝する泰介を、仁科は無感動に見返した。何も表情が浮かんでいなくてよかったと思う。ここでにやけられたら、自分を抑えられなかったかもしれない。

「クラスメイトの誰かが死んだって聞かされて、まだそいつが誰かも分かってないんだぞ! 明るくなんて、いられるかよ」

「泰介、やめて」

 葵が泰介の腕に触れたが、泰介としてはここで言葉にしておかなければ気が済まない。だが仁科が見せた反応は、やや意外なものだった。

「吉野。詳しく話を聞かせてくれ」

「は?」

 泰介はぽかんとした。

 仁科の表情が、真面目なものに変わったからだ。

 普段自分と仕様のない口喧嘩ばかりをしている仁科の、こんな態度は見たことがない。しかもその口喧嘩というのが、人を小馬鹿にしたような笑顔で失礼発言を連発する仁科に泰介が躍起になって反論するという、なんとも不毛な構図を取っていた。だからこそ突然の真剣さに泰介はたじろいだ。

「な……なんだよ」

「吉野も佐伯も、お前らなんでここにいるんだ」

「いや……そりゃ、来るだろ」

「だから、なんでだ」

「なんで、って……」

 噛み合わない会話に、仁科が口の端に僅かな苛立ちを滲ませた。だが泰介とてふざけて受け答えしているわけではないのだ。こちらも釣られて苛立った時、ふと泰介はぴんときた。

 まさか。

「仁科、ひょっとして……知らないの?」

 まさにそう訊こうとしたタイミングで、葵がおそるおそる言った。

「知らないって、何が?」

 仁科はすっと切れ長の目を細めると、視線を横へ滑らせて葵を見る。

 相手が葵であっても、凄みは泰介の時と変わらなかった。

「私たちのクラスメイトの誰かが、……死んだって、連絡網が回ってきたの。知らないの?」

「誰?」

「え?」

「死んだ奴、誰」

「分かんないよ……。それを聞くために、ここに来たんだもん」

 口籠りながら葵は言う。明らかに畳み掛けるような調子の仁科に威圧されて、委縮しているように見えた。

「仁科、怖い。私たちちゃんと話すから、そんなに畳み掛けないで……」

 尤もな意見だ。泰介はここぞとばかりに仁科を睨む。仁科も我に返ったらしく、葵には「ああ、悪かった」とあっさり謝ったが、泰介には嘆息しただけだった。やはり腹が立つ男だった。

「じゃあ、佐伯が言うその連絡網だけど。他には何も言ってないのか?」

「うん……多分。二年二組の生徒は教室に六時半に集まるように、って。そこで、先に先生からお話があるからって聞いてる」

「多分?」

「うん。私が直接電話出たわけじゃないから。家族からそう訊いたの」

「その電話は誰から?」

 事務的に問う仁科に、葵は考え込んでから答えた。

「小宮さんだと思う。私の前だから」

「おい。そんなこと葵に訊いてどうすんだよ?」

「吉野は?」

「は?」

「吉野は誰から連絡受けた?」

 泰介の問いを無視して、一方的に仁科は訊く。唯我独尊とはこういう奴の事を言うのだろう。やはり癇に障るが、喧嘩ばかりしていても埒が開かない。先の怒りはひとまず水に流して、泰介は考える。

 だが結局、泰介とて葵と立場はそう変わらないのだ。

「わかんね。母さんが出たから。そのまますぐ家出たし。まあ俺の前っつったら山川じゃねえの?」

 九月に台風が来た際に連絡をくれたのがその生徒だったはずだ。泰介の次――吉野泰介は最後なので、連絡が回った事を確認するために教師――には、母が連絡を入れると請け負ってくれていた。

「嘘は言ってねえぞ。葵もその場にいたからな」

 そう説明した時、葵がはっとした様子で口元を押さえた。

「あ、でも私も泰介と一緒だ」

「ん?」

「蓮香お姉ちゃんに、連絡網回すの任せて家飛び出したの。私より後に連絡回したのは、私じゃなくてお姉ちゃん」

「……二人とも直接聞いたわけじゃない。しかも二人とも家族に電話を任せて飛び出してきた。そういう事か?」

「うん」

 仁科の追及はそこで止んだ。葵はほっと息を履いていたが、泰介は黙考する仁科を睨み付けた。

 一つ、疑問が湧いたからだ。

「仁科。お前、連絡網知らなかったんだろ? 知らないのになんでこんなに早く登校したんだ?」

 葵が、息を吸い込んだ。

 仁科は泰介へ視線を寄越すと、蒼白の顔に微笑を貼りつかせ、首を横に振った。

「その連絡網は、違う。本物じゃない」

 返事になっていなかった。

 だがその言葉が泰介に与えた衝撃は、件の連絡網よりずっと大きいものだった。

「本物じゃない?」

 葵が、掠れた声で訊き返す。仁科は浅く頷いた。

「で、でも! 蓮香お姉ちゃんが、連絡網だって……」

「こんな警備員が来てるか来てないかって時間に生徒呼び出すと思うか?」

 仁科は歯牙にもかけなかった。

「それに吉野は早いって言ってくれてるけど、連絡網が本当だったら俺は学校に間に合ってない。遅刻だ。お前らとここで話した時間を引いても、ほら、見ろ」

 そう言って、黒板の上の掛け時計を指さしてくる。

 泰介は驚愕して、時計の針を凝視した。

「六時……四十二分……」

 葵のか細い呟きが、何かの呪文のように室内に響く。

 電話では、六時半と言われていた。だが指定の時刻をとうに過ぎても、人数が全然足りていない。これは多分に有り得る事だ。何しろ集合時間が早いのだ。だがたとえそうだとしても、現時点で集まったのがたったの三人というのは少なすぎる。泰介のクラスの人数は三十八人。四分の一にも満たない人数しか定時に集まれないなどという事が、果たして実際に起こるだろうか。

「じゃあ……あの電話は何? 仁科知ってるの?」

 泣きそうな顔で訊く葵に、仁科は乾いた声で言った。

「佐伯や吉野本人が出たのなら、連絡網って言ってかかってこなかったんじゃないかと思う」

「仁科お前、どこまで知ってるんだよ」

 泰介は口を挟み、仁科に凄んだ。

 今、自分達が半年以上過ごしてきた教室で起こっている事は何なのだろう。そもそもクラスメイトの訃報はどうなったのだ。死んだと聞いたから駆けつけたというのに、その連絡網の信憑性が仁科の言葉でどんどん揺らいでいく。

 何故かは分からないが、仁科は何かを知っている。

 理解しようと望むなら、こいつから事情を訊くしかない。

「……今朝、家にかかってきた電話には俺が出た」

 仁科の目が、すっと細くなった。

「結論を先に言うと、俺の所にきた電話は連絡網じゃなかった。六時半に学校、自分の教室に来るように。そう言って電話は切れたんだ」

「は? それだけ? 嘘だろ?」

 泰介は信じられず、仁科に問う。仁科は諦めにも似た卑屈な笑みを浮かべていた。その笑顔を見ているうちに、新たな疑問が湧き上がった。

「なんでお前は、ただの呼び出しに応じた? 仁科、何か隠してるだろ」

「なんでそう思う?」

「お前の行動が変だからだ」

「何を言うかと思ったら」

「早起きくらいは別に何とも思わねえよ。でも呼び出しに応じてのこのこ教室に来るのだけは絶対おかしいぜ? お前だったら間違いなく二度寝かまして重役出勤だ。妙な呼び出しの電話なんてガン無視するだろ。バレバレの嘘ついてんじゃねえよ。他に何を聞いたんだ」

 泰介の主張はただの誹謗中傷だったが、仁科は微妙な表情で黙った。横で成り行きを見守っていた葵も掛ける言葉がないのか、苦笑いを浮かべていた。

「まあ、仕方ないか。ここで言いくるめられるとも思ってなかったし」

 仁科は腕を頭の後ろで組むと、軽い調子で言った。

「吉野。佐伯」

「なんだよ」

「電話を取ったお前らの家族。多分、連絡網回してない」

 理解するのに、時間がかかった。

 葵の方が先に我に返ったらしく、「えっ?」上ずった声を上げた。

「あと連絡網を回してきたってお前らが推測してる小宮と山川だけど、多分そいつら違うな。連絡網とやらはそいつらの家には回ってないはずだし、回してもないはずだ。携帯で確かめようにも、圏外になってて無理だろ」

「うそ、圏外!?」

 葵が慌てて鞄から携帯を出そうとする。泰介もズボンのポケットから携帯を引っ張り出して、目を見開く。

 アンテナが、一本も立っていなかった。圏外、と小さな赤い文字が光っている。じじ、と砂嵐のようなノイズが一瞬、画面に走る。最早電話の混線云々というレベルではなかった。ばっと顔をあげると同じく携帯を見て驚いた葵と目が合う。お互い何も言えなかった。

「推測だけど、お前らを呼び出そうとしたのが目的だと思う」

 仁科は感情を殺したような声で、機械的に言った。

「家族が出たから連絡網って形式を取った。本人が出たなら脅迫でもなんでもしてここに来させるつもりだったのかもしれない。それに連絡を受けた佐伯の姉や吉野の母親は多分、そんな電話を受けた事をもう忘れてる」

「はあ? 忘れてる?」

 唖然とした。

「言葉通りの意味だけど」

 仁科はさらりと即答する。葵が、困惑気味に訊ねた。

「忘れてるって……電話を受けたことを覚えてない、って、そういうこと?」

「ああ。その通りだ」

「そんな……非現実的な事、あるわけないだろ!」

「あるんだよ、吉野。俺の母親がそうだった」

 淡々と言った仁科はポケットから携帯を取り出し、軽くこちらへ振って見せる。

「俺は連絡を受けて、家をすぐに出た。偶然起きてた母親にも送り出されたさ。けどすぐに忘れ物に気づいた俺は、家に一旦戻った。……その時だ。俺が玄関から入ると、母親はびっくりして俺を見たんだ。吉野。なんでか分かるか?」

「……なんでだよ」

 泰介は話の流れについていけず、また突然の問いの意味も、それを答えて自分に何を納得させるつもりなのかも分からず、ただ仁科へと訝しげな目を向けた。

 仁科は、冷めた目つきでこう言った。

、って母親は言ったんだ」

「……!」

 泰介の顔が強張った。

 圏外の表示が消えない携帯を握る手に、汗が滲んだ。

「気になるなら、帰ってもいいと思う。その方がいいだろうな。佐伯、顔色悪いじゃん。吉野も。二人で今から帰ればいいだろ。多少家族の反応が薄気味悪いだろうけど。忘れて寝たほうがいい。それに今のは俺の寝言だと思ってくれてもいいし。……まあ、何にせよ」

 仁科は不機嫌そうに目を細めると、こう締めくくった。

「お前らは関係ない。これは俺の、問題だ」

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