第4話 邂逅
泰介が食ってかかろうとすると、葵が神妙な表情を仁科に向けた。
「仁科。私、仁科が私たちよりずっと詳しく今起こってること知ってるって安心したよ。でもお願い。知ってることもっと私たちに教えてよ。仁科はさっき私たちに『言いくるめられるとは思ってなかった』って言ったよね?」
「ああ、言ったよ」
仁科は白々しい態度で言ったが、意外そうな顔をしていた。怒る葵が物珍しいのだろうか。その顔のまま仁科は手近な机の一つに自分の鞄を放ると、その隣の机に腰かけてから、挑戦的な目で笑った。
「言ったけど、佐伯を怒らせるような酷い事は言ってないさ」
「でも仁科は煙に巻いてる」
葵は、めげずに食い下がった。
「泰介は、どうして仁科が学校に来たのかって聞いたんだよ? でも仁科は電話の話にずらして誤魔化してる」
「へえ。さすが御崎川の秀才は誤魔化せないか」
仁科は皮肉気な笑みを消すと、普通に笑って手を叩いた。
自身だって、その秀才のくせによく言う。泰介は仁科の言い回しが気に入らず鼻を鳴らしたが、葵は特に気にした風もなく「私は仁科の言うこと信じるよ」と言い募った。
「でも仁科、さっき自分で言ったじゃない。連絡網を回した人は、本当は私と泰介に脅迫電話をかけたかもしれないんでしょ?」
「言ったけど。それが?」
「仁科のとこにかかってきたのは、脅迫電話だったの?」
葵は、寂しそうに俯いた。
「学校に来いってだけ言って電話が切れたなんて嘘じゃない。その誰かって言うのは、もう仁科を脅迫してるんでしょ?」
気遣いの言葉を仁科は黙って聞いていたが、やがてふいと目を逸らした。いつしか無表情になっていた白い顔が、伸ばし気味の髪に隠れる。
「仁科さあ……俺らは関係ないとか言うなよ」
泰介は、ぶっきらぼうに言った。別に慰めるようなつもりはないが、さすがにこいつが何かを抱えているのは理解したのだ。
「もう呼び出されてるんだ。このまま帰るなんて、できるかよ」
たとえ家に帰ったとしても、半端に巻き込まれた所為で据わりの悪い思いをするだろう。泰介はこの珍事の結末を見届けて、文句を言わなければ気が済まない。
それに、疑問は他にもある。何故仁科は物事をこれほど確信的に話すのだろう。先程の仁科の言葉は普通なら夢物語だと笑われるようなものばかりだ。こういった類のものに一番否定的で、くだらないと切って捨てそうなのが仁科なのに。
だがそこまで考えて、一番否定的なのは自分かもしれないと考え直した。
仁科は母親の例があるが、泰介にはそれがない。きっと泰介自身が仁科同様の不思議体験をしない限りは、さっきの話を信じることは出来ないだろう。
ただ、今朝の出来事を回想すると、異質な記憶を一つだけ見つけた。
葵が玄関で蹲った時だ。母は顔色を失くした葵よりも鳴った電話を優先した。葵の訪問を自然に受け入れた様子にも、どこかちぐはぐな印象が残る。
「ねえ。なんで連絡網、あんな内容だったのかな」
葵が不安そうに言ったので、泰介は懸念を忘れてそちらを見た。
「それは……俺らを誘き出す為って仁科は言うし、ほんとにそれ確定していいのか知らねえけどさ。死んだなんて言えば何があっても来るからじゃないか? 命でも懸かってないと来ないかもしれないだろ」
言葉選びに気を揉んだが、迂遠な言い方も性に合わず思った通りの事を言った。だが自分で口にしておきながら、「死」という言葉にほんの少し嫌になる。
小学生の時分に、クラスメイトと盛大な喧嘩をして「死ねたいすけ!」と言われたので「おまえが死ね!」と売り言葉に買い言葉で言い返した事があった。その時は喧嘩の相手と一緒に廊下に出されて反省させられたものだが、そんな経験があったからか、泰介は「死」という言葉を使う事はもちろん、誰かの「死」が身近に迫る事さえ殆どなかった。家族も親類も、泰介はまだ誰も亡くしていない。
と、思ったが――一人だけ例外があった。
ひどく身近に迫った「死」が、たった一度だけあった。
だがそれは、泰介自身の親類ではないのだ。泰介は意識的に、その人物を勘定から外した。少しだけ、心に冷たい風が吹いた。
「吉野も、電話の時点でおかしいとか思わなかったのか?」
呆れ返った様子の仁科が、泰介をピンポイントで睨んできた。
「は? なんだって?」
「信じてのこのこ出てくるかって言ってる。しかも誰が死んだか知らないときてる。馬鹿じゃないのか? お前らさえ来なければ、俺は」
だがそこまで毒づくと、仁科は急に沈黙する。そして、はあ、と大げさに溜息を吐くと、再び手近な机へ座り込み、泰介から視線を逸らした。
当然、今の失言を見逃してやる義理はない。
「お前らさえ来なければ、なんだよ?」
「別に何も。何熱くなってんだか」
「おい……お前いい加減にしろよ」
すかした態度。冷ややかな眼差し。口元の笑み。どれを取っても苛々する。ここまで人を馬鹿にできるのも凄い。剣呑な空気を察知した葵が、「やめてよ!」と二人の間に割って入ると、「ああ。悪かった」仁科が低い声で謝ったが、葵の方しか向いていない。泰介が睨み付けると、葵の顔が少し歪んだ。
「私たちが喧嘩したって仕方ないじゃない。せっかく一緒にいれて、心強いって思ったのに、仲間割れなんてやめようよ……」
そのまま葵は顔を覆い、小さな嗚咽が漏れ聞こえた。
朝からの緊張の糸が、ついに切れてしまったらしかった。
「おい、泣くなって」
泰介は溜息を吐くと、葵に近づくと頭をがしがしと撫でた。仁科はと言うと寡黙に座り続けている。どことなく殊勝な様子に変わったので、葵を泣かせたことに罪悪感でもあるのだろうか。
なんだかんだ言って、仁科要平は佐伯葵に優しい。もしかしたらかなり優しい部類かもしれないとは時折思う。むしろ今日のように仁科が葵に対して詰問調になる方が珍しかった。葵は注意力散漫故によく廊下や階段や何もない所で転んでいるが、衒いなく手を差し伸べる仁科の姿を見た事がある。仁科は一応だが美貌の持ち主なので、オレンジ頭でさえなければ絵になる風景となっただろう。全くもって面白くないのだが。
「なあ。これの犯人って待ってたらそのうち教室に来るんじゃないか? もう今更三人で職員室行って行き違いなるのもヤだろ」
泰介は不機嫌な口ぶりになるのを隠そうともせずに言った。仁科へは反発したが、実際は指摘通りだと分かっていたのだ。この連絡網の怪しさは、見抜けて当然のものだった。
呼び出しの真意は不明だが、ここにはいずれ必ず、誰かが来る。
「ただ待ってるってのも馬鹿馬鹿しいけどな。いつまで待たせる気なんだか」
泰介の言葉に、「同感だな」と仁科が賛同する。
「ああ。そうだよな……って、仁科。賛成なのか?」
机の上に腰掛けた仁科は、まあな、と退屈そうに頷いた。
「だって馬鹿馬鹿しいだろ。待ってるだけなんて。何か行動起こして予想外だったってビビる顔、見てみたいじゃん」
「へえ」
泰介は仁科の言葉が何だか意外で、場違いにも感嘆の声を上げた。
「お前って、意外と好戦的だったんだな」
「お前みたいな喧嘩馬鹿と一緒にするな」
仁科がさらりと言い放った。やはりこいつとはどう頑張っても仲良くできそうにないらしい。泰介は怒りに打ち震えながら思った。
「じゃあさ、どうしたらいいの? 待ってるだけじゃ駄目だって言うけど、どうしようもないじゃない。何か策でもあるの?」
泣き止んだ葵が訊くと、「策、か」と呟いた仁科はくつくつと笑った。
「その言い方、いい。気に入った」
「からかわないでよう」
葵が赤くなって反抗すると、仁科は「策は思いつかないな。吉野、なんかある?」とこちらに水を向けてきたので「ねぇよ」と泰介は渋面を作る。
本当に仁科に策はないのだろうか。訝しさが顔に出たのか、葵が頬を膨らませた。
「泰介ってば。今更怒ったって仕方ないじゃない」
「うるせえよ! 俺だって早く部活行きてぇんだからな!」
泰介が怒鳴ると「喧嘩馬鹿じゃなくて体育馬鹿の間違いだったな」と仁科が呆れ、葵は「泰介はすごく好戦的だよね」と笑った。分が悪くなった泰介は窓際へと退散する。窓を開けると秋の風が、するりと冷たく吹き込んだ。
「あ、ちょっと寒い。泰介ってば病み上がりなのに。風邪引き戻しちゃうよ」と葵が抗議してきたが、泰介は「いいだろ、ちょっとくらい」と無視した。
見上げた空は澄んでいた。青磁のように滑らかな青は、何だか見ていて心地がいい。冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、枯草の匂いが微かに香る。泰介は少し落ち着いた。まだ怒りの火種は胸の内に残っているが、それでもこうしていると、全部が嘘のようだった。
泰介と、葵と仁科を、恐らくは負の感情でもって呼び出した者がいる。それが泰介には信じられない。誰かの怒りを買った覚えがないからだ。
誰かが、泰介の心ない発言で傷ついた? 自覚がないだけかもしれないが、やはり心当たりはなかった。無理に捻出するなら仁科要平くらいのものだが、そのオレンジ頭は今ここで同じ被害を被って、眠たそうに欠伸をしている。
「……」
猜疑の目を、仁科に向けた。
仁科はやはり、何かを隠している気がする。
「おい仁科。お前、これの犯人に心当たりあるんじゃねえの?」
泰介が探るように仁科へ訊いた、まさにその瞬間だった。
邂逅の時が、突然に訪れた。
目を、瞠る。葵と仁科の表情も固まった。ひゅう、と音を立てて吹き抜けた風が窓枠と引き戸を揺らしていく。その音に混じって、ぎい、と木の床が軋る音がした。
「葵、下がれ」
潜めた声で呼ぶと、ぱっと葵が振り返った。戸惑っていはいたが冷静な目で、泰介の元まで歩いてくる。教卓付近の仁科が最も引き戸に近い。引き戸は仁科の登校時から開け放したままだった。泰介が葵と入れ替わりで仁科の方に近づくと、机から下りた仁科が泰介の隣に並んだ。二人で、静かに身構える。
足音はもう、すぐ傍まで迫っていた。
大丈夫だ。消えていない。己の怒りは生きている。泰介は己の気持ちを確認しながら、足音の主を待ち受けた。
だがその時泰介達が見たのは、全く予想外の光景だった。
「え……っ?」
驚いた葵が、小さな声を上げた。
開け放した扉から見える廊下を、一人、誰かが横切っていく。
足音の主だ。間違いない。長方形に切り取られた廊下の景色を歩いていく。
その人物は――少女、だった。
紺のブレザーに、赤いチェック柄のスカートを合わせている。同色のリボンがブラウスの襟に留めてあった。
見知らぬ制服だった。葵が着用しているような黒のセーラー服に臙脂のリボンの制服ではない。少女の茶に染められた頭髪が、緩やかに波打った。
――誰だ?
泰介が茫然としていると、教室を横切っていく一瞬、少女はこちらを見た。
その貌は、はっとするほど美しかった。幼い面立ちをしているのに大人びた印象を強く持つ。化粧をしているのだとすぐに分かった。
立ち尽くす一同を見て、少女は笑った。
はっとするほど綺麗な笑みだった。
だが同時にその笑みは、驚くほどに温度のないものだった。
空っぽの内面を皮肉で糊塗して誤魔化したような、推定中学生と思しき少女の、年齢に不相応に倦んだ笑み。そんな形骸化した笑みが見えたのは一瞬で、少女は一言も喋ることなく。優雅に廊下を歩き去った。
それは少女が教室の扉の前を横切る間の、たった一瞬の邂逅だった。
足音が遠ざかり、泰介は我に返った。
「今のっ、誰だ?」
答えなど期待していなかった。ただ反射的に口をついて出た言葉がそれだった。泰介はそう訊こうとして真っ先に、最も近い位置にいた仁科を振り返る。
そして、唖然とした。
仁科はまるで化け物でも見たかのような形相で、無人の廊下を凝視している。
「……今の、誰?」
泰介が言えなかった問いを、寄ってきた葵が引き継いだ。そして仁科の異変に気付いたのか、「どうしたの?」と目を瞬く。泰介にも答えられない。何が仁科をこんなにも驚かせたのか分からないのだ。
驚く、というよりも、まるで怯えているような顔だった。
「えと。今の人、仁科知ってるの?」
葵がおそるおそるといった様子で訊いたが、仁科は答えなかった。
ただ――いきなり、駆け出した。
仁科が手を掛けた引き戸が、大きな音を立てる。あっという間に仁科は視界から消え、呆気に取られる泰介と葵が教室に残された。
「仁科!? 待ってよ!」
葵が叫び、慌てて仁科の後を追い駆けた。その姿はすぐに引き戸の向こうに消え、黒いスカートが翻る。葵は左へ駆けていった。取り残される形になって、泰介も慌てて後を追った。
「待てよ仁科! 葵!」
廊下と教室を仕切る引き戸。その境界線を、越えた、瞬間。
泰介は、たたらを踏んで立ち止まった。
飴色の光が、わっと溢れたからだ。
その変化が何なのか分からなかった。ただ、空気が変わった。引き戸を出て真正面に見える廊下の窓から、光は溢れ出していた。太陽が沈もうとしているのだ。建物の群れを雑然と押し込めた灰色の街の景色の中、マンションの乱立する住宅街の向こうで、赤い太陽が燃えている。飴色に染まった世界の中で、泰介は仁科と葵を追うのを忘れた。
今しがた出たばかりの教室を振り返ると、一瞬前まで朝日が照っていたはずの教室は、最早別のものへと変わっていた。
「おい、何の冗談だよ……これ」
最初から、気づいてはいた。教室を見た時から気づいていた。
ただ、認められないだけだった。
自分の見たものが、信じられなかった。
「……ここ、どこだよ」
タイルの床に、暗い赤と橙を混ぜ合わせたような退廃的な色みの廊下。そんな廊下の窓から見える見知らぬ街の風景。老朽化の進んだ公立御崎川高校の面影を、見渡す限りのどこからも見つける事ができない。
背後を振り返ると、二メートルも離れていない距離に葵がいた。泰介に背を向ける形で、廊下の果てを見つめている。仁科も葵からだいぶ離れた所だが、同じ廊下に立っている。二人共、立ち止まっている。ふと泰介は葵の鞄に目を留めて気づいた。
さっき見た教室の風景。あの場所に残してきた泰介と仁科の鞄が、室内に見当たらなかった気がしたのだ。
慌てて教室をもう一度覗くと、薄闇の中にあるのは忘れられた手提げや出しっぱなしの筆記用具くらいのもので、泰介と仁科の鞄はやはりなかった。
「泰介……、これ、何?」
葵が夕日に照らされた顔でこちらを見た。ひどく退廃的な黄昏の光が、不安に揺れる目に映る。
「……わかんね」
泰介は、きつく口元を引き結ぶと――意を決して、前方に叫んだ。
「仁科!」
仁科はただ、背を向けて立ち尽くしていた。黄昏時の風景に溶けてしまいそうな心もとない後姿に、泰介は罵声をぶつけた。
「お前、まだ何か隠してるだろ!」
葵が沈痛な面持ちで、仁科の痩躯を見守っている。泰介に分かるくらいなのだ。葵もきっと感づいている。こうなって初めて少女を見失ったと気付いたが、もう追い駆けて間に合うのかさえ定かではない。
ただ、仁科とあの少女の間には、きっと泰介の知らない何かがある。
「仁科……」
葵が痛々しい表情のまま、ゆっくりと、仁科に近づく。かつん、と白いタイルが硬質の足音を立て、ここが御崎川ではない事を、否応にも思い知らされる。
「私は……仁科が嫌なら、何も言わなくていいよ」
「な……っ、おい、葵!」
「泰介、ごめんね」
泰介の方をきちんと振り返り、葵は謝ってきた。その哀しげな表情に、泰介は言葉を呑み込む。だが聞き入れられるわけがない。手がかりは明らかに仁科が握っているのだ。泰介は歯噛みした。
こんな顔をする葵を見るのは、昔から嫌だった。
「泰介にだって訊かれたくないことくらいあるでしょ? 私にも、あるもん。だからそんな詮索の仕方、よくないよ」
「けどなあっ」
「私も知りたいことあるけど、もういいの。でも、何かしなきゃ」
葵は視線を、仁科に戻した。
「なんでこんなことになったのか分かんないし、どうしたらいいかも分かんないけど。じゃあせめて、私たちの高校に帰ろうよ。その方法、皆で探そう?」
葵の言葉が途切れると、そこには本物の静寂が訪れた。それぞれの感情がぎりぎりの均衡を保った静寂の中で、最初に動いたのは仁科だった。
「……少し、時間をくれないか?」
こちらを振り返った仁科は、疲れたような卑屈さで微笑った。
「佐伯。……吉野も。ちゃんと話すから……今は、待ってほしい」
諦観の笑みだった。打ち明ける事への折り合いだろうか。納得はいかなかったが、葵の眼差しが気になった。ちくりと胸が痛む。また、あの顔をしていた。
「……一つ確認がある。こいつに何かあってからじゃ遅いからな。先延ばしにする以上、最低限そこは守れよ」
「ああ。請け負う」
「……待ってやる。でもふざけたはぐらかし方したら、ぶっ飛ばす」
傍若無人で口が悪い仁科の事を、泰介は思った。無礼な同級生との半年程の付き合いを振り返り、一瞬で馬鹿らしくなって嘆息する。
毒を食らわば皿までだ。ここで信頼できないなら、普段の馴れ合いに意味などない。そんな関係、泰介はお断りだ。
これからどうすべきかを考えながら、泰介は見知らぬ景色を睨み付けた。
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