第2話 始まりの朝
朝起きた時、ひどく頭が重かった。
先日引いた風邪を引き摺っているのかと訝ったが、喉も鼻も、特に風邪の症状はないように思う。頭だけが、痺れたようにぼうっとしていた。
しばらくの間泰介は首を捻っていたが、やがて突如鳴り響いた携帯のアラームに驚いて仰け反り、慌てて携帯を操作して音を止めた。
早朝の薄闇はほんのりと青く色づき、カーテンの隙間からは淡く白い光が射し始めていた。手にした携帯のディスプレイもぼんやりと白い光を発していて、泰介の顔を照らしている。時間を確認すると五時半だった。
どうやら今日は、普段より早く起きれたらしい。泰介は寝起きで少しぼんやりしながらも慣れた手つきで、他にもセットしていた幾つかのアラームを消した。最初の電子音で起きられなかった時の予防線だったが、大抵最初のアラームで目が覚めるので、別の曲を聴く事はほとんどなかった。
ただ、最初のアラームが鳴るより先に目覚めるのは少し珍しい。
やはりどこかで、体調の悪さを引き摺っているのだろうか。
何となく腑に落ちないものを感じたが、泰介はぐっと伸びをしてからベッドを降りる。携帯を机の上に置いて部屋を出ると、卵が焼ける香ばしい匂いがした。まだ寝ている家族を起こさないよう足音を忍ばせて階下に降りると、台所にいたのは予想通り母だった。
一歩部屋へ踏み込むと、顔を上げた母が泰介に気づいた。
「起きたのね、泰介。おはよう」
泰介も「ああ、おはよ」と返しながら台所へ目を向けた。台所とリビングを仕切るカウンターに隠れて母の手元は見えないが、泰介の弁当は既にできているようだった。
今の時刻を思うと、有難みよりも後ろめたさが先に立つ。泰介は髪を掻き揚げながら、寝起きでしゃがれた声で言った。
「こんな朝早くに起きてくれなくてもさ、俺、朝ご飯くらい自分で作って学校行けるって言ってんのに。毎日だし、慣れてるって」
泰介の朝はいつも早い。陸上部に所属する泰介は毎朝、学校へ早めに登校して校庭や校舎の外周の走りこみをしていた。自由参加型のものなので部員全員が同じ事をしているわけではないが、泰介は欠かさず参加している。泰介としては自分の都合で母にまで早起きを強いてしまうのは本意ではないが、それでも母は週に三度くらいの頻度で息子に合わせて早起きし、こうして世話を焼きたがる。
どことなく気まずい表情になる泰介を横目に、母は快活に笑っていた。
「別に気にしなくていいわよ。それに、母さん知ってんだからね。泰介、あんたまた食パン焦がしたそうじゃない。妙に減りが早いって思った」
「は?」
「それにスクランブルエッグも失敗したんでしょ? なんで失敗すんのかしらねー。ぐちゃぐちゃって混ぜるだけなのに。せっかちなあんたの事だから、強火にして焼き過ぎたんでしょ? そんな息子に台所任せられるわけないじゃない」
言いたいだけぺらぺらと喋って、呆れたように溜息を吐く母。泰介は唐突なクレームに面食らい、口を挟む余裕もなかった。勿論、図星だった所為もある。
だが何故バレたのだろう。焦がした食パンは処分したし、フライパンだって洗ったはずだ。証拠隠滅が不十分だったとは思えない。
そこでふと閃いて、泰介は誰何する。
「誰に訊いたんだよ……?」
「
やっぱりか、と泰介は頭をがりがり掻く。そんなところだろうと思っていた。
「ま、泰介は陸上部がんばってよ。これくらい母さんどうって事ないから。変な気なんか使わないでいいわよ」
そんなに気合の入った朝練ではないので、やはり善意が後ろめたい。だがそういった部の事情をいちいち説明するのは億劫だったので、泰介はただ「あー、ありがと」とぼそりと礼を言い残し、顔を洗いに行った。
洗面所にはうっすらとした冷気が漂い、蛇口を捻って水を出すと、そのあまりの冷たさに身体の芯が震えた。「うわっ、冷てっ」と思わず叫びながら、びしゃびしゃと顔を水で叩く。
秋が深まり始めた、十月の下旬。
日中であれば寒さはあまり気にならないが、さすがに早朝ともなると、冬場のように空気が冷え込む。ふと、目覚めた瞬間の奇妙な頭痛を泰介は思い返した。
思えば泰介は季節の変わり目になると決まったように風邪を引き、事実先日もそうだった。ただこの頭痛が風邪の名残だとは思い難く、泰介はその不明瞭さに少しだけ自分が苛立つのを感じた。不快感は薄まらなかったがこれ以上己の不調を無闇に気に病んでも仕方がない。泰介は水を止めると頭を振った。ぴんと意識を鋭敏にすると、重い澱はあまり気にならなくなってきた。
そんな時だった。
ピーンポーン、と、インターホンが鳴ったのは。
タオルで顔を拭く手が、思わず、止まる。
「はーい」と母が間延びした声で、呼び出し音に応じた。
「は……?」
泰介は、驚きのあまり棒立ちになった。
インターホンが鳴って、母がそれに応対している。それだけならばどこを取ってもおかしな点は何もない。
だが、時間が問題だった。今は早朝の五時半を少し回ったくらい。六時にもなっていない。そんな早朝に突然鳴ったインターホンに泰介は驚いたが、それを受けた母の様子にも少なからず衝撃を受けていた。
妙な、違和感を覚えたのだ。
明らかに常識的でない時刻のおとないに対して、何の疑問も持たずに応対する姿が引っかかった。日頃から悪質な訪問販売等を嫌う、神経質な母らしくない。
それに、もっと火急の疑問もある。
一体誰なのだろう。こんな時間に、泰介宅を訪問した輩は。
「あら、葵ちゃん?」
驚いたような母の声が、リビングから聞こえた。
「……葵?」
泰介も驚き、その名を呼んだ。
先程母との会話でも名前が挙がったその少女は、泰介の幼馴染だ。小学校、中学校と同じ学校へ通い、現在は同じ高校へ進学している。同じクラスになったのは小学生の時分に一度あったきりだったが、高校二年になった今年、泰介と葵は再び同じクラスになっていた。接点があるようでないような泰介と葵だが、それでもクラスの枠を超えて何かと一緒に過ごす間柄だった。
泰介は、訝しむ。
何かがおかしかった。
確かに葵は泰介の部活事情を熟知していて、泰介がこの時間帯に起きているのも分かっている。だがだからといって、葵がこんな早朝に何の予告もなく泰介の家へやって来るのは妙だった。普通の家庭なら、まだ寝ている家の方が圧倒的に多いはずだ。
どうにも、不自然だった。
そんな風に考えると、す、と緊張感が身体に張った。
――何か、あったのだろうか。
泰介はタオルを首に引っ掛けたまま、洗面所から顔を出して玄関を覗く。
玄関に立つ母の背中の影に、泰介の通う高校のセーラー服が少しだけ見えた。顔は隠れて見えなかったが、右肩に提げられた鞄にサテン地の青いリボンが結われているのが見えて、本当に葵だと分かる。
ひっそりとした小さな声が、かろうじて聞こえてきた。
「連絡……連絡網が回ってきて、それで」
確かに葵の声だった。本当に、こんな朝早くに家へ来たのだ。
「葵?」
泰介が呼ぶと、はっと息を呑むような声が聞こえた。そして「泰介?」とか細い声が聞こえ、母の影から幼馴染の少女が姿を現した。長めの黒髪が、さらりと肩から零れ落ちた。
目が合った葵が、思い詰めたように息を吸い込む。こちらを見る葵の顔には、強い怯えが浮かんでいた。それがやがて安堵の色に取って変わり、表情が泣き出しそうなものへと歪む。
「泰介……、よかった……!」
絞り出すようにそう言った葵は、まるで身体を支える糸が切れたかのように力が抜けて、そのままふらふらと玄関へ蹲った。
「! おい、どうした!」
泰介が顔色を変えて叫んだ時だった。
リビングの方で、電話が鳴った。
母が弾かれたようにリビングを振り返り、葵の方を気に掛けながらも踵を返すと早足で歩き去った。蹲る葵だけが、電灯が灯って明るい玄関へぽつんと一人残された。
「葵!」
泰介は駆け出した。途中でタオルが床に落ちたが構わず玄関に滑り込んで、しゃがみ込む葵の肩を強く掴む。掴まれた葵は泣き出しそうな顔を跳ねあげて泰介を見ると、やはり息を呑み、そして感情を堪えるように唇をきゅっと噛みしめた。
「お前、何かあったのか? どうしたんだ!」
泰介は葵を軽く揺すって怒鳴る。
これだけ震えているのだ。何かが確実にあったのだ。
「……泰介、電話、繋がらなかったから」
「……はあっ?」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
唖然とする泰介へ「だって!」と葵が悲鳴のように叫んだ。
「だって、泰介に電話繋がらなかったから……っ、おうちにかけてもずっと話中で、繋がらなくて! ……心配、だったんだもん!」
言いながら、葵の目に涙が浮かぶ。
「電話……っ?」
話が、まるで呑み込めなかった。
「おい、待てよ。電話なんか、かかってきてねーぞ」
「え?」
葵が泰介を、茫然と見返す。泰介は凍りついた声で、淡々と述べた。
「……お前、いつ電話したんだよ。携帯には、かかってねえと思うし……家も、電話、話し中なんかじゃ……ない」
葵の顔が、青ざめる。
「……おい葵! 何があった!」
泰介はかたかたと再び震え始めた幼馴染を再度揺すると、こちらを向かせ、意気込んで訊いた。
だが葵が怯えながら絞り出そうとした言葉は、ばたばたとリビングから駆け付けた母の言葉によって、遮られた。
「泰介っ、早く葵ちゃんと学校行って! 今うちにも連絡網来た!」
「は?」
泰介は突然掛けられた言葉に驚いて振り返り、葵と同様に顔色の悪い母を見て、絶句する。
いつものように巡って来たはずの朝に、怯え切った幼馴染と共に聞いた言葉は、こうだった。
「あんたのクラスの子が、突然死んだって、さっき連絡が……」
*
「泰介、ごめんね」
葵にそう言われたのは、電車から降りた時の事だった。
「?」
泰介は何を謝られたのかよく分からず、隣を歩く葵を見下ろす。見下ろすといっても、小柄な葵よりは確実に高いという程度で、男子生徒の平均と比較するとやや低い身長だったが。
「朝早く押しかけちゃって。泰介のお母さんにも迷惑だったかな、って」
葵はそう言うと、少し俯いた。ああそんな事か、と泰介は首を横に振る。
「別に。そんなの気にすんな」
「そっか。でも、ごめんね。……あと、ありがと」
葵は弱々しく微笑んだが、その顔色はまだ相当悪かった。今にもプレッシャーに負けて倒れてしまいそうな姿は、隣を歩いていてとても不安だ。
「おい……」
「あ……、大丈夫だから」
葵がぱっと顔を上げて、違うというように手を振る。それから何事もなかったかのような顔で、改札口に定期を通した。
「ごめん、顔色悪いって気にしてくれてるでしょ。びっくりしちゃっただけだから、平気」
「……」
「やだ、気にしないでよ。ほんとに、大丈夫だから」
葵は気丈に振る舞って笑ったが、それからすぐに、不謹慎だね、と呟いて表情を悲しげに陰らせた。
弱っている。少なくとも泰介の目に葵はそう映った。
無理もない、とは思う。クラスメイトが死んだという報せを受けただけでもショックだろう。なかなかあるものではない。
だがそれはただ驚かされたというだけで、泰介としては合点がいかない所が多かった。
クラスメイトが、死んだ。
なるほど、それは分かった。
問題は、誰が死んだかだ。
連絡網を受けた母は、ただ泰介達に学校へ急ぐように促しただけだった。泰介は即座に一体誰が死んだのかと詰問したが、母は困惑顔で「分からない」と言うのみだった。
『教室で、泰介達のクラスの生徒達に一番に報せる』
そういった内容らしかった。その話しぶりだと一時間目の授業は全校集会に置き換わるのかもしれない。泰介はやり取りを思い出すと、我知らず唇を噛みしめていた。
「死」という言葉が泰介に与えた衝撃は、そう大きくはない。だが、誰が死んだか分からないままの登校は、凄まじいストレスとなって泰介に圧し掛かった。
誰が、死んだのだろう。自分の友人の顔が幾人か脳裏を過る。そのうちの誰かが死んだクラスメイトかもしれない。そんな予感が胃の底を冷やした。少なくとも、ここにいる佐伯葵ではない。その確証だけが唯一、泰介の理性を繋いでいた。
葵は即座に
先程判明したのだが、葵が今朝息せき切って泰介の自宅へやって来たのもそれが理由だった。
一体何が原因なのか不明だが、どうにも電話が繋がりにくいらしいのだ。
連絡網を受けた葵は、真っ先に泰介へ電話を掛けて安否確認をしたらしいのだが、何回かけても繋がらなかったという。携帯も自宅も話し中のコール音が鳴り響くばかりの状況が続き、不安に駆られてすぐ近くの自宅へ直接駆けつけたというのが今朝の訪問の真相だった。
泰介は携帯を検めたが、やはり葵からの着信履歴はなかった。
そしてそれを聞いた直後、泰介も友人へ電話をかけてみたが、こちらも駄目だった。電話が混線でもしているのだろうかと訝ったが、こんな早朝に何故なのだろうという不信感が拭えない。
結局、この最悪の状況から安息を得る手段など一つしかないのだ。
一刻も早く教室に駆けつけ、真偽を確かめる。それに尽きる。
だが分かっていても、不安は止まらなかった。そしてそんな不安に突き動かされるように、気づけば泰介は口走っていた。
「頭、痛いのか?」
「え?」
葵は突然の泰介の言葉に面食らい、きょとんとしている。泰介ははっと気づくと、何だか体裁が悪くなってぼりぼりと頭を掻いた。
「あー……悪りぃ。俺も朝から、調子あんまりよくなかったから。だからうっかり言っただけだ。忘れろ」
「泰介、もしかして風邪ぶり返したの? 大丈夫?」
「ああ。まあ、お前よりは」
心配が嬉しくないわけではないが、元は失言だったので気恥ずかしい。泰介は素っ気なく悪態で返す。案の定葵は納得がいかなかったらしく、頬を膨らませてむくれた。
「何よう」
「だってお前、さっきまであんなに」
そう言って、ふと言葉に詰まる泰介。
あんなに、何だろう?
怯えていた? 悲しんでいた? 不安がっていた?
どれも正しいには違いないが、しっくり来ない気がしてしばらく黙り、
「あんなに取り乱してたのに」
結局そう言った。都合のいい台詞だと、何となく思った。
「……泰介」
はっと我に返ると、泰介は足を止めていて、葵が真剣な表情で泰介を見上げていた。真っ直ぐに見つめられた泰介は、たじろぐ。
葵は小首を傾げ、ぽつりと短く言った。
「なんか、怒ってる?」
自分でもびっくりするくらいに、その言葉に過剰に反応した。
「怒ってなんかっ」
泰介は口走って、そして葵から目を逸らし、黙った。
――図星だった。
すとん、と泰介の中で不快に引っ掛かっていた何かが、葵の指摘をきっかけに落ちた。
事実、だった。あっさりと葵に看破されて初めて、現状に対する理不尽さを全て怒りへ変換している自分に気づかされてしまった。
状況そのものに振り回されているような不快感に、わけもなく腹が立っていた。
そんな泰介の心情を、葵はこちらの顔色を見ただけで見抜いてきたらしい。
案外葵よりも、自分の方が参っているのかもしれない。それを思うと、情けなさでさらに苛立つ。だがこの理不尽をぶつける場所はどこにもないのだ。
少しだが、頭が冷えた。
泰介は大きく溜息を吐き、首を横に振る。
「……悪りぃ。苛々してた」
葵はほっと息をついて、安心したように微笑んだ。
「ほんと。しっかりしてよ」
「うるせえよ。朝から泣きついてきた奴の言う台詞かよ」
そう言ってやると、葵の顔が赤くなる。泰介はそんな幼馴染の様子を見て溜飲を下げると、やがて表情を引き締めた。
「急ぐぞ。……敬とさくが着いてるといいけどな」
泰介の言葉に、葵もまた表情を強張らせながら頷く。
「うん。敬君はいるとして、普段だったら考えられないけど、さくら、今日はもういると思うよ。それに………電話、繋がらなかったけど、でも」
「なんだよ?」
「仁科も、来るよね?」
一瞬、両者の間に奇妙な間が開いた。
泰介はやや鼻白んだが、不安げにこちらを覗き込む葵と目が合い、思わず逸らす。そして適当な言葉を探し、すぐには見つからないで結局悪態になった。
「あんな遅刻魔の事なんか、分かんねえよ」
「もう、泰介ってば」
「けど」
「?」
「簡単に死ぬような奴じゃないだろ、あいつは。来るに決まってる」
「……。うん。そうだよね」
駅を抜けて、並木道を二人で足早に歩いた。学ランのポケットに突っ込んだ携帯を引っ張り出して時刻を確認すると、六時十五分。慌てて家を飛び出してきたので、いつもよりかなり早い時間帯だ。
そしてそんな時間差が、毎日のように通る駅前の風景をほんの少しだけ変えていた。早朝の駅前はいつも以上に閑散としていて、並木道を歩く人影は泰介達の他にはサラリーマンやOLが二人ほどいるだけだった。隣を歩く葵を見れば一人ではないと安心できるが、それが気休めである気も少しして、不安でもあった。こんな根拠のない不安は初めて経験するもので、そんなあやふやなものに揺さぶられている自分が情けなく、苛立たしかった。
それに、まだ気になる事もある。
泰介は知らず知らずのうちに、額に手を当てていた。だが頭痛を気にするその仕草を自覚した時、泰介は自己嫌悪を覚え、ぱっと手を下ろした。
風の冷たさに震えた葵が空を振り仰ぎ、釣られて泰介も見上げた空は、現れて間もない太陽の光を受けて、脆い希望のように白く光っていた。
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