第6話ジャンル

 カクヨムにはこのようなジャンルが設定されている。

- ファンタジー

- SF

- 恋愛・ラブコメ

- 現代アクション

- 現代ドラマ

- ホラー

- ミステリー

- 歴史・時代

- エッセイ・ノンフィクション

- その他


 また、別のところではジャンル再編の準備が進められている。


 これらのジャンルの内、エッセイ・ノンフィクションとその他を除くと、定義や記述が難しいのがファンタジーとSFだ。というのも、「こういう要素があればそれだ」と言えるものが存在しないからだ。

 ファンタジーにおいては、確かに魔法が重要だ。だが、ファンタジーは大まかにこのように分類できる。

- ハイ・ファンタジー

- ファンタジー

- ローファンタジー

 これは何によって分けられるかと言えば、基本的には魔法による。

 ハイ・ファンタジーと言われた場合、どのようなものを思い描くだろうか。ゲド戦記(アース・シー)を思い浮かべられた方、かなり近い。指輪物語(ミドル・アース)を思い浮かべられた方、基準が甘い。コナンを思い浮かべられた方、ハズレだ。

 ハイからローは、一つの基準として、魔法がどれほどありふれているかによる。この基準で言うなら、私達が電気を使うのと同じくらいに魔法がありふれているのがハイ・ファンタジーだ。ただのファンタジーは、魔法はあるものの、一定の条件や人物によることが必要なものだ。そしてロー・ファンタジーは、魔法はあるものの、そうそうあるものではないというものだ。そして、もしかしたらあると思われているものの、実はないのかもしれない。

 ゲド戦記はハイ・ファンタジーに近い。ミドル・アースはハイ・ファンタジーとファンタジーの間。あるいはファンタジーの基準として用いてもいい。そしてコナンはロー・ファンタジーに近い。コナンはシャーマンっぽい人がいたり、変身する神官(?)がいたりすることからハイ・ファンタジーと思われる人もいるだろう。だが、それらの人がありふれているだろうか。ありふれてはいない。そこそこありふれてさえいない。コナンをハイ・ファンタジーと思うなら、それは基準がブレブレだからだ。

 この基準に基づくかぎり、舞台に制限はない。AD&DのサプリメントにSpelljammerというものがある。あれでは、AD&Dの種族が宇宙船を持ち、宇宙に乗り出している。では、宇宙であるから、それはSFだろうか。違う。ファンタジーだ。宇宙に乗り出していようとも、やはりファンタジーだ。Spelljammerを読み、あれがSFだという人がいるなら、ぜひその根拠を教えて欲しい。


 では、SFはどうだろう。ファンタジーの魔法に対して、科学技術という声がでてくるかもしれない。なら、その科学技術の範囲はどこからどこまでなのだろう。

 どこからどこまでなのかというのは重要な点だ。現在はまだ存在しない科学技術を想定したとしよう。それは現実の科学技術の発達により、やはりただの空想だったということになるかもしれない。では、SFはどの作品もいずれは、書かれた時代においてはSFだったが、「今となってはファンタジーだ」ということになる運命なのか。SciFi創作論にも書いたが、ヴェルヌの作は今となってはファンタジーなのだろうか。違う。

 ならば、科学技術は香りづけだとしても、ファンタジーにおける魔法ほどにすら基準にはならないということだ。


 では、ファンタジーもSFも、何をもってファンタジーであり、SFであるのか。それはただ、作者がその作品をファンタジーであろうとし続け、SFであろうとし続けるという姿勢のみによってなされる。それは科学において、科学たろうとすることによって科学足りえるのと似ている、あるいはおそらくは同じだろう。

 これによって、異能や超能力が出るものはSFから排除される。その時点でSFたろうとしていないからだ。巨大ロボットや人間くらいの大きさのロボット、あるいはずっと小さいロボットが出たら、SFなのか。それらをもってSFと主張するのならば、その主張によってこそ、その作品はSFから排除される。存在する、あるいはありえそうな科学技術によってSFとなるのか。いや、それらをもってSFと主張するのならば、その主張によってこそ、その作品はSFから排除される。

 SFにおいては、これが出てくればSFだというものはない。一つの例として、ある科学技術が現れたとしよう。それが魔法だと置き換えてみても成立するなら、それはSFではない。もちろん、「これは」であり、「ではない」と主張する人もいるだろう。では巨大ロボットとゴーレムは何が違うのだろうか。仕組み云々を言う人もいるだろう。では、その仕組みはその作品において必要だろうか。必要ないなら、機能や役割として、巨大ロボットはだ。ならば、その作品はSFではありえない。

 科学技術に基づく不思議な状況という場合もあるかもしれない。ならば、その状況はそれ以外ではに書けないのだろうか。書ける可能性があるなら、それはSFではない。

 SFたろうとし、SF以外ではに書けない。それがSFだ。そしてそれをもたらすものは、SFたろうとする姿勢以外には存在しない。


 気楽にSFを標榜している方は、もう一度考えて欲しい。それは本当にSFなのかと。それがSFでない可能性があるなら、今すぐにSFを標榜するのはやめたほうがいい。そのような標榜は日本におけるSFの基準を腐ったものにするからだ。あるいはこう言おう、そのような標榜が日本にけるSFを腐敗させたと。まぁ、これは日本に限った話ではないが。

 SF風の世界で恋愛ものを書いたなら、それは恋愛ものだ。SF風の世界でミステリを書いたなら、それはミステリだ。

 それはファンタジーも同じだ。ファンタジー風の世界で恋愛ものを書いたなら、それは恋愛ものだ。ファンタジー風の世界でミステリを書いたなら、それはミステリだ。

 ファンタジーもSFを、ファンタジーたろうとSFたろうとする姿勢から生まれる。その姿勢を持たないなら、一見どれほど見事なファンタジーやSFであろうとも、実際にはファンタジーやSFではありえない。なぜなら、ファンタジーでしかありえない、SFでしかありえないという姿勢がないからだ。その姿勢がないなら、その作品はファンタジーやSF以外のものとして書くこともできるだろう。ならば、そちらで書けばいい。

 ファンタジーたろうとしてない、SFたろうとしていない作品において、ファンタジーっぽさやSFっぽさはフレーバーだろう。フレーバーであり、その作品そのものではない。ならば、それらはファンタジーではありえず、SFでもありえない。

 「なんとなくファンタジー」とか「なんとなくSF」というものは、ファンタジーというジャンルやSFというジャンルを構成する作品ではない。


 さて、ここで実は一つ問題が生じる。ファンタジー風ではあるがファンタジーではない作品や、エセSFをくくる言葉がないのだ。それらを「ファンタジー」と呼ぶとすると、いわゆるファンタジー(狭義のファンタジー)、SF、風刺小説をくくるファンタジー(広義のファンタジー)とも合わないのだ。ならば何と呼べばいいのだろう。おそらくは「妄想文学」とでも呼べばいいのだろう。あるいは「電波文学」と呼んでもいいだろう。いや、ダメだ。それらでも意味が生じる。やはりこう呼ぶのがいいだろうと思う。「」と。これが一番適切であり、妥当だろう。


 よし。わかったら今すぐファンタジーやSFというジャンル区分を外したまえ。

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