第3話
夕日でオレンジ色に染まる静かな教室。
その中で俺を待っていたのはなんと見知らぬ男だった。
男は同じ港尾高校の制服を着ているもののワイシャツはよれよれで汚らしくブレザーは持っている様子もなく行方不明。
しかも校則で禁止されているはずのピアスを堂々と両耳につけており、猫背をさらに丸め教卓の上に座り、棒付きキャンディーを真っ黒い唇で音を立てながら吸ったり舐めたりしていた。
金色に染まった髪は根元が黒くなっていてプリンのようである。もしや灯のプリンのメールはこれに対する伏線だったのか! なわけない。
その男を一言で表すなら、異形。
人を見た目で判断してはいけないと言うが、仕草や顔つき、どれをとっても薄気味悪いとしか思えなかった。
本当にうちの生徒か? 俺が疑問を抱きながら廊下から様子をうかがっていると、男と目が合ってしまった。
ねっとりとした笑みを浮かべ、男が手招きをする。
「どうしたんだい。早くこっちへきなよ」
男にしては高めの声で呼ばれた。
俺が教室に足を踏み入れると、男は教卓から降りて俺と向かい合った。こいつ、左目の下に泣きボクロがあるなと俺はいらんことを発見する。
「俺を呼んだのはあんたか」
「そうだよ。キミに用事があってね」
「一体俺に何の用だ」
俺は警戒心を強めながらぶっきらぼうに訊ねる。
「ところでさ、どうだ? この服。オレもキミらと同じコウコウセイに見えるかい?」
不敵な笑い顔そのままに、男はワイシャツを撫でながら言った。
「いいだろ、わざわざ似たような背格好のやつを襲って手に入れたんだ」
「おい待て……、それはどういう意味だ」
俺の脳裏に、行方不明になったという他クラスの男子生徒の話がよぎった。
男は俺の質問を無視して言葉を続ける。
「さあ、オレと一緒にゲームをしよう。ああ、もう何万年待ったかな。ずっと眠り続けて、ようやくこの時が来た。キュリオスティータイムの開始だ」
いきなり恍惚に満ちた表情で理解不能な痛々しいとしか思えない台詞をのたまいだした。
キュリ……何、ティータイム?
お茶の時間?
こいつは俺とお茶が飲みたかったのか?
俺が呆気にとられていると突如教室から色が失われ始め、壁や机、椅子、天井、床にいたるまで周囲の全てが灰色となりやがて俺と男だけが唯一カラフルな存在として空間に内在した。窓の外の景色も灰色のフィルターに覆われたように教室と同一色へと変貌していた。
これは夢か幻か。
どちらかであると信じたい。
「な……何だ、これは」
「これでこの場所は世界から切り取られた異空間になった。誰にも邪魔はされない」
世界から切り取られた空間?
こいつ頭大丈夫か。
だが俺もだいぶ疲れているのかもしれない。
だって視界のほとんどが灰色に見えているんだぜ。
犬猫じゃないんだよ、俺はさあ!
そんなことは置いといて。
これはなんだか不穏な空気が漂っている。
俺の生存本能が直ちに現場を撤退せよと勧告していた。俺はくるりと方向転換して脱兎のごとく駆け出し出口へと向かった。
男が追ってくる気配がないことに違和感を覚えながらも逸る鼓動を抑え込み、扉に手をかける。
だが、ぶよぶよした感触に阻まれ扉に触れることができない。まるで見えないゼリー状の壁がそこにあり、この教室を取り囲んでいるかのようだった。
「そんな……馬鹿な!」
俺は歯を食縛りながら見えない壁をぶん殴る。壁はびくともせず、そして俺の拳にも痛みは走らなかった。
「無駄な足掻きはその辺でいいかな?」
うきき、と鳥肌モノのおぞましい笑い声を上げた男は不気味な影のある表情を顔に貼り付け歩み寄ってきた。
「それじゃー、さっさと死んでくれる?」
男はそう言い、右手をデコピンの形にして俺に向け、中指をはじいた。
それは一瞬のことである。
本当に奇跡としか言いようがない。
自身の反射神経が全力で仕事をしてくれたおかげで俺は男の指先から放出された銀色の光線のようなものをすんでのところで躱すことができた。
あまりの出来事に俺は驚いて尻餅をつく。もちろん本当に光線なら反応なんて出来るわけがない。
男の指先を始点に、俺の首があった位置を通過して壁に張り付いているのは糸状の物質。これは……蜘蛛の糸?
こいつ、何者かという以前に人間ですらないのでは?
そんな予感に俺は悪寒を覚えた。
つーかどうしてこうなった。
なぜ俺は高校生のコスプレをした不審者に日頃勉学に励んでいる教室で襲われなくてはいけない。
誰か俺に教えろ。
そしてついでに助けてくれ。
「お前、俺に何の恨みがあるというんだ」
俺は立ち上がりながら、打開策を練るための時間稼ぎも兼ねて訊いてみた。
「恨み? そんなものはないよ。言っただろ、これはゲームだって。遊びは楽しいからこそやる意味がある。つまらないことはしない。強いて言えば女王への手土産にキミの首はちょうどいい。それぐらいかな」
恐ろしい動機をさらりと言ってのけやがった。
「女王だと?」
「そう。キュリオスティータイムはイーヴルの王にその配下の戦士たちが戦いを挑み、新たな王を決めるゲームだ。オレは女王の驚く顔が見たい。だからキミの亡骸を持って行った上で、女王と戦いたいんだよ」
またよく解らん単語が出てきたぞ。
その上変態としか思えない趣向をアピールしてきた。
こんなやつが目の前にいたら滅茶苦茶怖いんじゃないだろうか。実際、眼前にしている俺は超怖いと思っている。
「お喋りはこの辺でいいだろ? そろそろ死ねよ」
再び右手をデコピンの形にする蜘蛛男。
「……俺はまだ死にたくないんだが、どうすればいいかな」
「んー、そうだなあ。とりあえずオレに殺されればいいと思うよ?」
話通じねえ。
クソッタレ、馬鹿言うな。
死ねと言われて、はい死にますと言う馬鹿がどこにいる。
冗談じゃないぞ。
楽しいから? そんな理由で俺は命を狙われたのか? 正体不明のびっくり人間に意味も解らず殺されてたまるか。
蜘蛛男は余裕綽々といった感じで棒付きキャンディーをレロレロ舐めていた。俺は少しでも男から距離を取ろうと教室の後方へ駆け足で退避する。
「チョロチョロするな。鬱陶しい」
パチンと指を弾く音が聞こえ、繰り出された糸は俺の両足を縛りあげた。下半身の自由を奪われた俺は正面に倒れ無様に床に這いつくばる。
どうやら蜘蛛男の指から出される糸は直接的な攻撃性を含むものではないらしい。
だが強度は無駄にあるようで、もがいても手で引き千切ろうとしてもびくともしなかった。身動きの取れなくなったこの状態は詰んだと言っても過言ではない。
「さてと、どうやって殺してやろうかな。窒息死、窒息死、窒息死。あー、オレ、それくらいしか殺す方法なかったわー。うけけ」
にじり寄ってくる男の愉快で仕方ないといったような声。
もう終わりなのか?
俺は何か起死回生の道具はないかと体をまさぐる。何もない。唯一あったものは上着のポケットに入れてあった額田推薦の文庫本くらいだった。
ポケットから本を取り出して表紙を見る。
『絶望から救いの希望を見出すことのできる物語ってところかしら』
額田はそうこの小説を表現した。
だが、現実はシビアだ。大抵の場合、絶望に陥った人間にそうそう救いの手などはもたらされない。
今の俺のこの現状がそれを物語っていた。
「畜生! 神でも仏でもいいから俺を助けろ!」
俺は床に本を叩きつけた。
「まあ、そう悲観するなよ。大丈夫、死んでもきっと来世があるさ」
蜘蛛男は新たに精製したらしい銀色の糸を両手でピンと張った。ああ、そうか。あの糸で俺の首を締め上げるつもりなのだ。
俺が何もかもを諦めかけたその時である。
床に放り出した文庫本が突如輝き出し、光の柱を形成し始めた。
「は……?」
俺は開いた口が塞がらなくなり、マヌケ面を晒す。
天井にまで伸びていく光の束。
神々しい輝きを放つその中から女神が来臨した。
「どうやらギリギリで間に合ったみたいね」
皆の者、驚け。
光の柱から姿を現した女神はついさっき図書室で別れた額田の外見をしていた。
「え? 何で額田が? は、本の中から? 召喚? 俺が召喚しちゃったの? これ俺の妄想幻覚?」
混乱しながら思ったことを口に出すと意味不明な文章が誕生した。
「妄想でも幻覚でもないわ、本人よ。こうなるかもしれないと思ってあなたの本の栞をテレポートタグにすり替えておいたの。とりあえずここは私に任せて」
もはや俺は大体の超常現象を看過してしまえるような人間にトランスフォームしてしまっていたので額田のその言葉に対して、はあ、そうなのか助かった。と細かいことは気にせず無条件に安堵してしまった。
冷静に考えると絶対おかしいわけだが。
そこは絶命の危機に瀕していて藁にもすがる思いだった俺の心情をくみ取っていただけるとありがたい。
額田は上着の内側から拳銃っぽい形の何かを素早く抜き出し蜘蛛男へ向け、引き金を引いた。
銃声が響き、火薬の匂いが辺りに立ち込める。
拳銃っぽい何かは、やはり拳銃だったようだ。
ここで俺はようやく少し冷静さを取り戻す。
どうして真面目な学級委員である額田がそんな物騒な物を所持しているのだ。そんな当たり前の疑問を思い浮かべることができるくらいには。
「おい、額田。そんなものを使ったら、あいつ死ぬんじゃ……」
「やっぱり普通の銃弾じゃ効かないわね」
額田が苦々しげにつぶやく。
何と男は生きていた。銃弾は男の腹部にめり込んでいたものの、男がフッと息を吐くとポロリと床に転がった。
傷跡はなく、血も流れてはいない。嘘だろ。
「このアマぁ……。どうやってノワールの中に割り込んできやがったァ!」
男が今までの斜に構えた態度を崩して激高した。
額田がここに現れたことは蜘蛛男からすれば信じられないことだったようだ。確かにドヤ顔で『この場所は世界から切り取られた異空間になった。誰にも邪魔はされない』とか言ってやがったからな。
「残念だけど古代とは違うのよ。私たちの時代ではノワールの構造はすでに解明されているの。人間のテクノロジーを舐めないで欲しいわね」
額田はそう言って、太ももの辺りをサッと撫で一発の銃弾を取り出した。その銃弾を拳銃に装填し、再び額田は蜘蛛男へ銃口を向ける。
どこにそんなものをしまっていたのか気になるところだが今はそんなことを訊いている状況じゃない。
だから後で訊ねるとしよう。
男は糸を放つべく構えたが、額田は先手を打って手早く引き金を引いた。外界と隔離された教室で二度目の銃声が鳴り響く。
銃弾は男の横腹に命中した。どうせまた効かないのでは、と俺は思っていたのだが今回はどうも様子が違う。
「う……おお……」
男は顔を苦痛に歪ませ呻き、銃弾の当たった箇所を手で抑えながら崩れ落ちて床に膝を着いた。
「馬鹿ね。ノワールの仕組みが解明できているなら、あなたたちイーヴルに通用する武器も作られているに決まっているじゃない」
額田は拳銃を上着の内側にしまいながら静かにそう言い放った。何だかよく解らんが、あの弾は蜘蛛男に対して有効な特殊兵器だったようである。
「さて、生きているわよね、聖沢君」
振り返る額田。
「ああ、お陰様で何とか九死に一生を得ることができたよ」
溜息とともに俺は安堵の気持ちを吐露する。
「ところでこの灰色の空間からはどうやって出ればいいんだ?」
変わらぬ殺伐とした雰囲気の無色世界を眺めて俺は訊く。
「大丈夫よ。もう少しで元に戻るはずだから」
額田の言葉通り、すぐに白黒映画のようだった教室に色が蘇り始め、やがて見慣れたカラフルな元の二年B組の景色が姿を取り戻した。そういえばいつの間にか俺の脚を束縛していた糸も蒸発したように消え失せている。
「なあ、あいつ、死んでるのか? あれ、見つかったらやばくないか。見た目はどう見ても人間だし……」
俺は銃弾を食らってからうつ伏せに倒れこんだままピクリともしない蜘蛛男を見て言った。
もし誰かにこの場を目撃されれば間違いなく明日の朝刊の記事に載る。
「心配ないわ。この中にある成分を体内に流し込めばイーヴルの肉体は塵一つ残さずに消えてなくなるから」
額田は注射器を取り出して俺に見せた。
そんな便利な物が都合よく存在するのかと俺は感心してしまう。ある種恐ろしいモノである気もするが。
「あっ」
額田の声に反応して視線の先を追ってみる。すると、さっきまであった蜘蛛男の姿がいなくなっていた。
「逃げられたのか……?」
「みたいね。油断していたわ」
額田が悔しそうに言って、注射器を懐に収める。
「なあ、ところでよかったら教えてはくれないか。お前や、あいつは何者なんだ?」
「そうね……。赤司さんの髪の色が変化した時点であなたにはすぐに話しておくべきだったのかもしれないわね。いいわ、説明する。ついてきて」
灯の髪の色?
それがどうしてここで出てくるのだろう。そう思ったものの、とりあえず俺は無言で頷き、教室を出る額田に倣ってその場を離れた。
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