第1話


 平日の朝。

 ぐうたらなニート星人に成り下がっている従妹を起こすため、高校の制服に袖を通した俺は従妹の部屋のドアをノックした。


 …………。


 返事がない。

 ただのニートのようだ。


「おい、起きろ」


 ドア越しに声をかける。起こしたところでどうせ俺が学校に行っている間にまた寝ることは分かり切っているけど。


 虚無的な行動であると感じえないこともないが、従妹が堕落の一途を辿るのを見過ごすわけにもいくまい。返事はなく、起きてくる気配も見られないので俺は扉を開けて室内へと足を踏み入れる。


 部屋の内部は脱ぎ散らかされた衣類や雑誌類が床に散乱していて汚いという感想が第一に浮かんでくるような有様だったが、それでも女子の部屋だと俺に意識させるどこか甘ったるいような匂いが生意気にも漂っていた。


 窓際に置かれているベッド。そこにこんもりと盛り上がっている布団を引っぺがし、中身を剝き出しにする。


「うひゃー」


 奇怪な叫びを上げて転がり出てきたパジャマ女こそが俺の従妹、赤司灯あかしあかりである。小柄な体格に、整ってはいるが幼さの残る顔立ち。仕草も子供っぽいので下手をすれば小学生にも見えてしまうあどけない雰囲気の少女。


 カーテンを開け、室内に日の光を入れると灯は「ひゃー、溶けるー」などとほざいてのた打ち回った。


「お前はドラキュラ伯爵か」


 俺は目の前で眠たそうに眼を擦る、物臭な従妹にツッコミを入れる。


「おー、大志たいし。オハヨッスッス」


 ふにゃりとした口調で、灯は何とも気が抜ける挨拶をしてきた。


「ああ、おはよう。今日もダメ人間全開だな」

「いやあ、それほどでも……」


 なぜかはにかむ灯。

 末期症状である。


 きっとダメ人間であることに誇りを持っているのだ。


 灯は起きるなり床に放置してあったノートパソコンを拾い上げ、インターネットに接続しだす。


「あ、鮫島ニワ、ブログ更新してる」


 マジでこいつはどうにかした方がいいと改めて思った。


「ふむふむ『昨日は夕飯にサンマの塩焼きを食べました』かー。いいな、いいな。なんだかわたしも食べたくなってきた」


 俺の気も知らずに暢気なことをのたまいやがる。


 ちなみに鮫島ニワとは灯のお気に入りのネットアイドルだ。釣りが趣味らしく、よく自身が釣り上げた魚をブログに掲載している。


「ねえ、今夜の晩御飯サンマにしようよ!」


 他人に影響されやすいやつだ。


「考えとく」

「やっふーい!」


 歓喜の声を上げて灯はバンザイのポーズをとった。


「それでさ……。アレ、なんと言うか。一つ訊いてもいいか?」

「どんときんしゃい!」


 なぜか灯は得意げだった。


「えーと、お前……その髪どうしたんだ?」


 俺は部屋に来た時から気になっていた、いつもと違う灯の部分について指摘を入れた。


「え? なんの話?」


 ベッドの上で胡坐をかく灯が不思議そうに首を傾げる。この反応、自分でやったわけじゃないのか?


「鏡見てみろよ」

「えーなんだろう。寝癖が芸術的なうねりを見せているとか?」


 灯はのそのそと這いつくばって鏡のある場所へと赴く。

 正直、寝癖とかそんなレベルじゃない。


 言うなれば超変化。


 具体的に述べさせていただくなら、そう、灯の肩にかかるかどうかくらいの長さの髪が。


 昨日までは黒かった髪が。まるで漂白剤でも使ったのかと思えるくらい真っ白に変色していたのだ。


「な、なんじゃーこりゃー」


 鏡に映る己を見た灯が悲鳴を上げる。


「うきゃーぎゃー!」


 叫び声も上げる。


「灯、とりあえず落ち着け。ほら、息を吸って吐いて」


 なだめて深呼吸をさせた。


「ううー、大志ぃ。これ、わたし、おじいさんになっちゃうのかな……」


 白くなってしまった自らの髪の毛を引っ張り灯が言った。


「頑張ってもおじいさんにはなれないから大丈夫だ」


 ピントのずれた理由で涙ぐむ灯を、これまたピントのずれた確証で俺は慰めた。


「お前、あれか。なにか変な物拾って食ったんだろ。あれほど道端に落ちているものは食うなと口を酸っぱくして言ったのに……」


 言ってないけど。


「く、食ってないし! そもそもわたし、外なんか出ないもん」


 それは確かに的確な反駁である。ただ、言っていて悲しくならないのだろうか。


「なんか原因に心当たりはないのか? いきなり一夜で髪の色が抜け落ちるなんて普通じゃないぞ」


「し、知らないしー。それに今は原因より現状を打破することが先決だよ!」


 そうなのか。


 個人的には病院に行った方がいいレベルだと思うのだが。当事者的には白髪をどうにかすることの方が優先らしい。


 まあ見た感じ元気そうだし、後で行かせればいいか。

 子供じゃないし、一人でも行けるだろ。


 見た目は子供だけど。


「じゃあ黒染めでもするか?」

「くろぞめ?」


 以前、親父が買ってきた白髪染めの薬が余っていたはずだ。

 俺はそいつを洗面所から引っ張り出し、灯に手渡した。


「よし、やってみる!」


 元気よく返事をした灯は必要な道具をかき集め、風呂場で染髪を開始した。俺はその間に朝食としてパンを焼いて食った。


 これでもまだ現役の高校生だからな。

 学校にはきちんと行かなくてはならない。


 白髪染めの規定の時間が経過した。


「どうだ、染まったか?」


 風呂場の扉越しに訊ねる。


「うー、全然染まんないよー」


 変わらずの白髪頭をした灯が、扉から顔だけを出して恨めし気に訴えてくる。


「俺はもう学校行く時間だから出るぞ」

「えー、それじゃあこれ、どうすればいいの?」


 そんなすがるように見つめられても俺には何もできないのだが。


「しょうがないな……。市販の黒染めで無理なら美容院にでも行ってやってもらえ」

「美容院? おー。その手があったか」


「病院にもちゃんと行ってこいよ」


「いぇす、さー!」


 ふわふわとした声で敬礼をしてきた。

 本当に解っているのか、こいつ。

 美容院で上手く染めてもらったらそのまま忘れそうだな。


 当たって欲しくはないが、忘れる方に三千万ペリカ。




 俺の地元駅から二回ほど電車を乗り換えて到着する高校の最寄り駅には、俺と同じ港尾高校の制服に身を包んだ少年少女たちが改札から出口まで数珠つなぎに連なっていた。


 駅を出て、すぐ横にある歩道橋の階段を上る。春の匂いを運んでくる穏やかで生温い風を身に纏いながら、俺は校門を目指してえっちらおっちら歩く思春期学生どもの仲間入りを果たした。


 後続が雨後の竹の子のように続々と駅から排出されてくるので、俺はすぐさま最後尾の座から引きずり降ろされる。


 今はまだ五月下旬だが、どうしたものかブレザーを着ていると暑くて仕方ない。衣替えはいつだったかな。


 駅から見えるほど近い場所にある我が学び舎を見つめる。最近建て替えが終わったばかりのオフィスビル風の新校舎がまだ工事の入っていない古臭い校舎と並んでいるのはなかなか珍妙な光景だった。


 歴史の流れを感じる。親父ならそう言いそうだ。


 そんなどうでもいいことを考えているうちに俺は校門へと辿り着いた。



「脱色した髪を黒くする方法って何かあるか?」


 朝の朝礼前の教室で俺は右隣の席に座る友人、津田つだに訊ねた。


 津田とは一年生の時からの付き合いだ。去年、たまたま同じクラスで席が近かったのがきっかけで話すようになった。


「黒染めの染髪剤でいいんじゃねえか」


 ついでにこの男、格好いいと思っているのか髪型はオールバックである。


「それはもう試した」


 俺がそう答えると、津田はしばらく考え込み、


「なら、昆布を食べるとかかな」


 得意げに人差し指を立てているところが少し腹立たしい。


「それは増やす方法だろ……」


 俺は嘆息する。


 言うまでもないかもしれないが、津田はアホだった。


「でも本当は昆布にそんな効果はないらしいわよ」


 女の声が、むさ苦しい男だけの会話に降臨してきた。黒い艶やかなロングヘアーに白いカチューシャをつけ、切れ長の目をした凛とした佇まい。


 声の主は俺の前の席に座るクラスメート、額田唯子ぬかたゆいこだった。


「海藻類の成分の特徴はミネラルだから、身体のバランスを保つっていう部分では大切だけど髪の毛そのものを造る原材料じゃないのよ。髪の毛そのものは十八種類のアミノ酸の複合体、タンパク質から構成されていて」


「分かった。もういい」


 雑学の知識を習得することに関して能動的ではない俺は、額田の突発的トリビア講座を強制終了させた。


「そう? で、聖沢ひじりさわ君。一体なぜ昆布の話なんかしていたの?」


 演説を打ち切られていながら、特に気分を害した様子もない額田が訊ねてきた。

ちなみに聖沢とは俺の名字である。


「いや、別に昆布の話をしていたつもりはないんだが……」

「じゃあ何の話?」


「聖沢が髪はどうやったら染まるかって訊いてきてさ」


 額田の問いに、津田が答えた。


「髪を染める? 校則では染髪は禁止になっているはずだけど」


 訝しむような目で額田が俺を見る。


「俺のことじゃない。灯の髪が今朝、いきなり真っ白になったんだ。それで市販の白髪染めじゃ全く色が入らないからどうしたものかと思ってさ」


「赤司さんの髪が?」


 額田が驚いたように言う。


 灯は去年まで港尾高校に在籍していたので額田とも面識があった。よくは知らないが二人はそれなりに親しくしていたのではないかと思う。


「しかし、突然髪の色が変わるなんて一体どうしたらそうなるんだ?」


 津田が訊ねてきたが、俺に分かるわけもない。


「知らん」


 そう答えるしかなかった。


「そういえば話は変わるんだけど、聖沢君。彼、斑鳩いかるが君はそろそろ学校に来てくれそう?」

「斑鳩か……。どうだろうなあ」


 斑鳩とは俺の中学時代からの旧友で、現在も同じ二年B組に所属している。昔からちょこちょこと気まぐれに不登校になる気質があったのだが、どうやらそれが今年の四月に再発した模様で二年生になってからは全く教室に姿を見せていなかった。


「いい加減来ないと進級できないってちゃんと伝えておいてね。やっぱりみんなで一緒に進級したいじゃない?」


 クラスメートの心配までするなんて、額田は学級委員みたいだな。まあ、みたいというか事実学級委員なのだが。


「今度会った時に伝えておくよ」 


 俺が額田に返事すると、黙りこくっていた津田が名案を思いついたような輝かしい表情になり


「そうだ、墨汁を塗るっていうのはどうだ?」


 と、のたまった。


「アホか」


 非難するような目をしていた額田の手前そう言ったものの、俺は内心でそれもアリかな、なんて思っていた。




「じゃじゃーん! 大志、どう? 真っ黒に戻ったよー」


 学校から帰った俺を玄関で出迎えてくれたのは嬉々とした表情でくるくる踊るパジャマ女だった。


「ついでにカットもしてもらっちゃったよ」


 桜満開の笑みで色の戻った髪を掻き上げる灯を見て、口には出さなかったが俺は正直どこをどう切ったのか分からんという感想を抱いた。


 それでもとりあえず「よかったな」と言ってやる。


「ところで、灯。お前そのパジャマ姿で美容院に行ったわけじゃないだろうな」

「まっさかー。ちゃんと上はジャージを着たよ」


 ちゃんと? どこらへんがちゃんと?


「パジャマは室内限定だと前に言っただろうが。外出するときは服を着ろ。寝巻を普段着に流用するな」


「いやね、これはね新しい風を呼び込むために必要な配置転換を実行したと言うか、既存の固定観念に縛られない斬新な起用法でパジャマの持つ潜在能力を引き出したかったと言うか……」


「すまん。全然意味が分からないんだが」


 灯マジックでも引き起こすつもりだったのか。

 名将になりたかったのかお前は。


「うーん、わたしもだんだん分からなくなってきた」

「確かに斬新だけどな。絶対に笑われるぞ」


 というか、こいつは今日絶対に笑われていたと断言できる。ありえない風体で現れた珍客相手に苦笑いをする美容師たちの姿が容易に想像できた。


 よく入店拒否されなかったものだ。


「小市民はいつも挑戦者を笑う」


「残念ながら、それは努力している人間にしか当てはまらない言葉だ。よってお前に使用権はない」


「うへー。こりゃ一本取られた」


 悔しそうに言うものの、なぜか楽しそうな足取りでリビングのドアを開けて入っていく灯。


 俺はその、この世に何一つ悩みがなさそうな人間が繰り出す愉快げなステップの残滓を辿るように後へ続く。


「病院にも行ったんだろ。原因は分かったのか」


 ブレザーを脱ぎながら灯に訊いた。


「え? びよーいん?」

「違う。病院だ」


「あは、病院と美容院。発音が似てるから間違えちゃった、みたいな?」

「そんなアホな言い訳があるか! 単純に忘れただけだろ」


 あ、忘れたと言えば、俺もサンマを買ってくるのを忘れていた。


「ひゃー。ごめーん」


 灯は全く反省の色が見られない謝罪をしながらソファにダイブし、テレビの電源をつける。まあ普通に元気だし、いつも通り馬鹿だし。


 問題がないなら行く必要もないか。


 そんな感じで俺は楽観視していたのだが、そうは問屋が卸さなかった。

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