第9章 誰あれ?

1.


 土曜日。華は、鈷斐神社の臨時駐車場に降り立った。運転席の母に手を挙げて謝意を示すと、履き慣れない下駄にカラコロ言わせて、待ち合わせ場所へと急ぐ。

「ごめーん!」

 親友2人は既に来ていた。白地に赤い金魚がゆったりと泳ぐ柄の浴衣を着たチサトと、紺地に小振りな白い蝶紋を散らした浴衣の五月。2人ともとてもかわいい、と華はしばし見とれてしまったほどだ。

<<うむ、馬子にも衣装じゃのぅ>>

 余計な一言のコヒガミをさっくり無視して、華は2人に歩み寄った。

「さ! 行こう行こう! もう始まっちゃう!」

 チサトが張り切り、下駄音も盛大に駆け出した。

 5月下旬ゆえ、境内に立ち並ぶ夜店にはかき氷などの冷たい売り物はまだない。そのことに不満げな五月をなだめながら、華はチサトに引っ張られて境内の一角へと向かった。

 そこは、幕で仕切られた一角。神社の紋所を染め抜いた白い敷布が張られた長机に、受付の巫女さんバイトが座っている。その前へやってくると、チサトと五月はさっそく名前を記入し、続いて段ボール製らしき箱――ご丁寧に、こちらにも紋所入り――の中から紙片をつまみ上げた。

「んー、97番かぁ。五月は?」

「わたし、7番」

 その番号が書かれた部分はシールになっているらしい。彼女たちはいそいそとその紙片を浴衣の胸に張り付ける。

 これは今宵のイベントに参加するためのマイナンバーであり、見知らぬ(といってもどこかで見た異性である場合がほとんどなのだが)相手とカップリングするための鍵となるもの。もちろん不特定多数の自由参加であるため、『同じ番号同士でくっつけ』なんて余りが出かねないルールはない。

(楽しそうだな、2人とも)

 さて自分は屋台でも冷やかそうか。華が反転しようとすると、

「華? どこ行くの?」

 五月に呼び止められた。

「いや、わたしはいいから」

 またー、と言われて華は意固地になる。

「なんでそうやってわたしに絡んでくるのよ!」

「だって、ねぇ?」とチサトが五月と顔を見合わせてニヤニヤしだした。

「ぼっち君に見せつけてやるんでしょ? わたしはあんただけじゃないのよ、って」

 そう、コヒガミに、またしてもやられたのだ。

………

……

 電話に、華は出なかった。出られなかったのだ。怒り、焦り、戸惑い。それら全てが『かけてきてくれた』という歓喜と混ざって目の前が真っ白になり――気が付いたら残されたのは不在着信表示と、『おやすみなさい』のメール。

 その簡潔さに、華は糸が切れたようにベッドに倒れ込み、眠ってしまった。朝起きて、また基礎体温表がつけられているのを見つけてコヒガミとやりあいながら華は部屋を出た。ちらと見た枕が濡れていた気がしたのを振り切るように。

 そして朝の教室。

 珍しくチサトや五月と一緒に登校した華は、西沢を見つけるや固まってしまった。

 騒動を、あるいは和解を期待して目を輝かせている女子たちの視線と、薄々察しながらも興味ないふりしている男子たちの気配と。その、今まで味わったことのないプレッシャーに、足も口もこわばってしまったのだ。

<<是非に及ばず、か>>

 コヒガミが同調してくる。これで取りあえず、自分の席まで行ける――

『西沢君?』

(ちょ、ちょっとコヒガミさま?!)

『若葉祭りのイベント、どこで受け付けしてるの?』

 コヒガミは、華を自席に導かなかった。西沢の席の前で腕組みをして、きょとんとしている彼の面に先の言葉を投げつけたのだ。

 イベントの受け付けは社殿の近くであることを告げる西沢の表情は、穏やか。その説明を終わるまで待たず、横目で彼を見下ろしたコヒガミ憑き華は言った。

『じゃ、会場で』

(コヒガミさま、どうして……)

<<ん? ちと揺さぶってみようと思うてな>>

 ざわめく室内を、そして何事かと駆け寄った親友2人をも無視して、華は内面の神との対話に没頭する。

(あんなこと言っちゃったら、イベントに参加しなきゃいけなくなるじゃないですか!)

<<嫌かえ?>>

(当たり前です!)

<<何ゆえ?>>

 神の言葉に詰まる華。そんな華を置き去りにして、朝のホームルームからのいつもの一日が始まり、平日は瞬く間に過ぎて、今日この場に華は立っているというわけだ。

……

………

 結局華は締め切り3分前に申し込みをした。チサトと五月の圧力に耐え切れなかったのだ。

(はぁ、弱いな、わたしって……)

 嘆く華をよそに、イベントが始まった。男女3人ずつが、次々とグループ分けされていく。ビンゴの抽選機を使った振り分けの結果、華、チサト、五月は別れ別れになってしまった。

(これもコヒガミさまの黒い企みですか?)

<<そんな技、わらわは持ち合わせておらんぞよ。その前に、黒いとは何じゃ黒いとは>>

(別にー)

 グループ分けが終わって、各自が決められた集合場所に向かい出す。この場で集わないそのわけは、『グループ内に嫌な相手がいることが分かったら、参加しなくていい』というルールがあるから。胸に張ったシールさえはがしてしまえば、もう赤の他人ということである。ワンコインの参加費は無駄になってしまうのだが。

 華のグループの集合場所は、大鳥居の下だった。女子は首から提げたデジタル一眼が白い浴衣と妙にマッチしてるクラス委員と隣のクラスの可愛い子ちゃん、男子は大学生が1人と隣町の高校に通う2年生、そして――

(この人って……!)

 五月が以前話していた“中学の時、好きだった男子”、大蔵おおくらであった。


 夜店の並びをそぞろ歩き。クラス委員と大学生がカメラのことで盛り上がり、可愛い子ちゃんが隣町の男子と小突き合いを始める――どうも幼馴染らしい――なか、華と例の男子は会話がない。

(ぐぅ、気まずい……)

 大蔵は五月が憎からず思っている男子なわけで、彼と仲良くしていいものなのか迷う。といって邪険にしてもいけない気がする。でも、何を話していいのかわからない。

(いっそ、『彼女いたんじゃないの?』……我ながらサイアクだな)

 いや、そこまであからさまじゃなくても、大蔵の現況を確認しとくのは五月のためになるんじゃないか。でも、五月に『大蔵君と一緒』とメールしたのに返事がない。どうしよう。

<<華よ、そろそろ会話を始めぬか。相方が焦れておるぞ>>

「あのさ」「あの……」

 気を使ってくれたのに、その声に思いっきりかぶってしまい、赤面の華。うつむいた彼女を気遣う男子の声色がさらに気まずさを生む。

「あのさ、えーと」

「ん、ごめんね。こういうの、慣れてなくって」

「え? そーなの? 西沢君とは?」

「西沢君とは何でもないったら!」

 華の声の大きさに、先を歩いていた4人がびっくりして振り向く。

「もしかして、オレたちお邪魔?」と大学生。

「いやいや、これには日本海より深めのわけがありまして」とニヤニヤしだすクラス委員。

「あれ? 華ちゃん、そいえば、何で参加してんの?」と小首をかしげる可愛い子ちゃん。

「ぬぅ、これは事件のニホヒがする」と隣町男子。

「わ、わたしのことは気にしないで――」

「そーゆーわけにいかないよ」と、大蔵がいたってまじめな顔で華に正対する。

「田仲さん」

「! はい!」

「ヤキソバ屋の陰に西沢君が」

 !!

 ザッ、と石畳の音も派手やかに華は振り返った。……ヤキソバ屋?

「あ、あの、ヤキソバ屋なんてないじゃ――」

 こんどはおずおずと向き直って、華は絶句した。5人とも大爆笑しているではないか。

<<うむ、素晴らしいボケっぷりじゃな>>

 肩に乗ったコヒガミは、笑いを通り越して呆れた様子。

「ぅぅぅ……」

 もう帰ろうか。その思いが一瞬だけ脳裏をよぎった華であった。


2.


「そういえば、さ」

 30分ほどぶらついた後、鈷斐路石の近くに設けられた休憩所で、皆で買った食べ物をつつく。こんな時まで食欲が落ちない自分にちょっぴりげんなりしながら唐揚げをかじる華に、隣に座った大蔵が話しかけてきた。

「波早さんとか五月ちゃんとは、よく遊ぶの?」

「あ、うん。わたしから誘ってみたり、チサトから招集がかかったり」

 へー、とうなずく大蔵。

「じゃ、じゃあさ、今度またフェイバ行かね? こっちも2人くらい呼ぶからさ」

 来月封切りのボリウッド映画を観に、フェイバレッツ・タカトリに行きたいと言う。彼の勢いにちょっとたじろぎながらも、華はチサトと五月に話をすることを約束した。

「ヒューヒュー! 大蔵君の回りくどい攻撃が決まったぜ!」

 と大学生の野次に、大蔵が切り返す。この大学生はどうも大蔵の所属する部活のOBらしい。

「そっちこそカメラの液晶見つめて、なーに盛り上がってんすか?」

「え、こ、これはこの間の部活動の写真を見せてるだけだって!」

 これはこれはクラス委員、なんで視線が定まらないんだろう?

 隣町男子が目を光らせる。

「なるほど、2人で小さい画面を見ることで、自然と顔を自分に近づけさせるとな」と。

「近かったよねぇ、ホッペタくっついてたし」

 可愛い子ちゃんがジュースを飲む手を休めて、クラス委員を煽ってきた。

「くっついてない! くっついてない!」

「くっつけれなかったよ、メガネが邪魔で」

 少し涼しくなってきた夜風にまで煽られて、クラス委員の顔は発火した。

<<良きかな良きかな>>

 2人を眺めるコヒガミの表情も声色も穏やかなもの。

(そういえば、恋愛成就の神様だった。すっかり忘れてたわ)

「お、そろそろ時間かな。行こうか」

 大学生がクラス委員の腕を取って、立ち上がらせた。ビンゴゲームの時間だ。

(あ!……よし!)

「みっちゃん!」

 クラス委員の名を呼んで、彼女と大学生が振り向いたところをパシャリ。

「わ! きゃ~!」

 クラス委員はすっかりのぼせて、一眼レフを机に置き忘れていたのだ。

 グループの仲間だけでなく、休憩所のほかの客までどっと囃し立てる。さあ、トドメよ!

「みっちゃん、この写真なら、コンクールに送ってもいいよ?」

<<介錯、大儀>>

 がっくり首が落ちたかと思いきや、ワタワタしながらカメラを奪還しにくるクラス委員。一瞬だけ逃げようかと思ったが、友達の大事なカメラを落としても後味悪いと気づき、あっさりと返すことにした。

 ビンゴ会場、つまりイベント登録をした一角へ急ぐ。

「華ちゃん、さっちんとは連絡取れた?」

 クラス委員に言われて、華は携帯を確認。来てないな。

「何やってんだろうね」

「向こうで素敵な出会いがあったんじゃないの? そのさっちんとやらに」

 大学生の推測は意外とありえそうで、華はやきもきしだした。

<<ま、それもまた良きかな良きかな>>

「良くありません!」

 しまった!

「華ちゃん、誰とお話ししてるの?」

 驚愕から立ち直った可愛い子ちゃんが、華の顔をのぞき込んでくる。

「え、えと……す、素敵な出会いというのが、その……」

<<なぜに?>>

 うるさいなあ、もう。

「田仲さん?」

 隣町男子の眼からの鋭い視線が華を射てくる。

「みんなで集まってからこっち、時々左肩の上を見上げるんだけど」

「あー、今も見た見た!」

 まあまあ、と大学生がなだめに来た。

「で、大蔵君?」

「なんすか?」

「キミ的には、“素敵な出会い”はアリ? ナシ?」

 いやそれは、と口ごもって俯く大蔵。わけが分からない華であったが、また肩の上から溜息交じりの声が降ってきた。

<<これほど鈍感とは、ちと計算が狂うたのぉ>>

 今コヒガミは華の身体から出ている。つまり、華は声を出さないとコヒガミと会話ができない。おそらく華の表情を読んだのだろうが、問いただせないことには変わりない。

<<そこな大学生がなぜ“回りくどい攻撃”と言ったのか、よーく考えてみよ>>

 回りくどい攻撃? 華は不承不承ながら記憶を手繰る。

(えーと、回りくどいってことは、直接じゃないってことだから……あ!)

 大変だ!

「おーい、ハナっち~」

「チサト!」

「わあ!」と親友を驚かせてしまったが、謝ってる暇と余裕が華にはない。

「五月どこ?」

 華の勢いに押される形でチサトも携帯で五月を探したが、通話ができないと言う。

「ありゃー、こりゃあ本格的に月形町に拉致コースかな?」

「な、なに言ってんですか!」とクラス委員が赤面の態。傍らを振り向けば、チサトや大蔵まで気まずげに視線をあらぬほうに彷徨わせているではないか。

「ぬぅ、マジで事件のニホヒがするぜぇ」

「いやいや、マジでやばいんじゃないの?」

 隣町男子と可愛い子ちゃんの会話も、華の心に波を立てる。

「月形町がどうかしたの? 何がヤバイの?」

 ? みんな固まってる?

「うん、華ちゃんは、そのままでいいよ」

「そうそう、こんな穢れた人たちはポイポイ、で」

 クラス委員とチサトに左右から腕を組まれて、ビンゴ会場へと案内されていく華。案内というより、連行に近いスピードに戸惑う。と、その会場には。

「五月!」

 話題の人が、自分のグループ仲間と思しき女子と立ち話していた。脇の2人を振りほどいて、華は五月に駆け寄る。

「よかったぁ! 心配したんだよ!」

「え? あ、ああ、ごめんね。携帯が――」

「みんなが、五月は月形町に拉致されてったとか言うし」

 ……あれ? また周囲が固まった? きょとんとして、華のグループ仲間を見回せば、『あちゃー』というセリフが聞こえてきそうな表情。大学生などは片手で顔を覆っているオーバーアクションぶりだ。

「華?」

「ん?」と向き直れば、そこには今まで見たこともない怖い顔をした五月がいた。

「それ、誰が言ったの?」

「え、えと、うちの――」

<<待てぃ>>

 コヒガミさま、なぜ止めるの?

<<まったく、神たるこのわらわが、なぜに解説キャラに……>>

 すーっと華のすぐ近くに降りてきたコヒガミが、呆れ顔で話し始めた。

<<まず、事件とはな、拉致ではなく、県の青少年健全育成条例違反じゃ>>

 思いもよらなかった単語の登場に面食らう華を置き去りにして、コヒガミは続ける。

<<で、月形町は、いわゆるラブホテル街じゃ。これで分かったか? この鈍感娘め>>

 単語が腑に落ちると同時に、羞恥と錯乱で華の意識も落ちた。


3.


 華が目を覚ましたのは、救護所の簡素なベッドの上でだった。ビンゴの景品らしい大きな包みを抱えたチサトが、介添えしてくれていた。

「あ、ハナっち。さっきお母さんから電話かかってきてたから、代わりに出たよ?」

 状況を説明して、華が目を覚ましたら電話することになったらしい。即電話して、迎えに来てもらうことにした。

「ふぅ……あれ? 五月は?」

 ぬふふ、と薄気味悪い笑い声のチサトが指さすは、夜店から少し離れた池のほとり。薄暗がりにたたずむ白い蝶紋と、その脇の男子は。

「わ! 大蔵君と1対1じゃん!」

「いやハナっち、バスケじゃないんだから」

 チサトに軽くツッコまれて笑い合う。

「急に真っ赤になって倒れちゃうんだもん、びっくりしちゃった」

 そのコメントには答えようがありません。華は空咳でごまかすと、大蔵から遊びに誘われたことをチサトに伝えた。

「それ、もうあたしら必要ないんじゃね?」

「確かに」

 そう言い合いながらこっそり救護所を出ようとして、五月とバッチリ眼が合ってしまった。

「あ、じゃあまた」

 大蔵に小さく手を振って、五月は華たちのほうに小走りで追いついてきた。

「さ、臨時駐車場まで――」

 五月をなぜかジト目で迎えたチサトの声は、途中で途切れた。続いて五月の息を飲む声。

「? どしたの?」

 2人が見すえる先を見やった華は、さっきまでの浮ついた気分がすべて吹き飛ぶのを実感した。いや、血が全て地球に引かれる感触がする。

 社務所の前に、西沢がいた。その表情は穏やか、いや、華がかつて見たことがないほど、優しげな目をしている。そのまなざしの先、彼から15センチと離れていない位置には、1人の女の子がいた。

 華と同い年くらいだろうか。桃色の生地に菖蒲があしらわれた浴衣に包まれた細身を目いっぱい振り回して、何事かを西沢に伝えたいようだ。……あ、西沢が笑って女の子の素振りを真似た。どうやら何かの物真似のようだ。頬をぷうっと膨らませて、女の子が拗ねる。途端に慌ててフォローしている西沢の様子が、華の心を掻き乱す。

「誰あれ?」

 チサトのつぶやきを置き去りにして、華は臨時駐車場へと足を向けた。そう、全てを置き去りにして。



 迎えの車中でも一言も発することができず、華はダッシュボードを片方の人差し指でひっかき続けた。母もちらちらと華のほうを確認するのみで、カリカリと音をさせながら、車は瞬く間に家に着いた。

 そしていま、華は自室でベッドにうつぶせている。

 どうしてこんなにイライラするんだろう。楽しいお祭りだったのに。楽しい。楽しい。

 生理前だからだろうか。うん、きっとそうだ。

 華は気持ちを無理やり落ち着かせた。コヒガミは願掛けの処理を終わって、相変わらずの憂い顔。首を重そうに回している。それがひと段落ついた時、華はコヒガミに話しかけた。

「コヒガミさま、ちょっと教えてほしいことがあるんですけど」

<<ん? なんじゃ?>>

 自分のほうを振り向いたコヒガミの表情が、おふざけを仕掛けてくるときのものでないことに安堵して、華は切り出した。

「五月と……大蔵君のことなんですけど」

<<ふむ>>

「何かしてあげられることはないですか? その……神様として」

 コヒガミの眼が細まる。しばしの沈黙の後、コヒガミはゆっくりとかぶりを横に振った。

<<わらわは自らの意志でヒトの営みに介入はせぬ。わらわの所用を除いては、な>>

「そんな……わたしに憑りついてるんですから、わたしの友達にいいことしてくれたっていいじゃないですか」

<<なんじゃその理屈は……わらわに何かしてほしいなら――>>

「ほしいなら?」

<<祈るがよい>>

 そうか。つぶやいた華はベッドの縁に腰かけて、コヒガミに手を合わせた。

「五月と大蔵君がいいお付き合いができますように」

<<やり直し>>

「なっ?!」

 華が驚いてコヒガミの顔を見上げると、女神は呆れたご様子。

<<もう忘れたのかや? わらわに数秒祈るだけで恋が実るなら、この現世うつしよは連れ合いだらけじゃぞ?>>

「じゃ、じゃあどうすればいいんですか?」

<<知れたこと>>

 にやりと嗤う。この神の禍々しさは一体。

<<対価を差し出せ>>

「たい、か……?」

 コヒガミの言っている意味がわからない。

<<呪いの成就には対価が必要じゃ。その呪いに込めた願いが大きければ大きいほど、より良い生贄が>>

 例えば、とコヒガミは嗤いながら続ける。

<<丑の刻参り、というものを知っておるか?」

「なんですかそれ?」

<<即答かぇ……>>

 コヒガミはがっくり肩を落としたが、気を取り直して空咳一つ。

<<俗な言い方をすれば、“呪いの藁人形”じゃな>>

 それなら華も聞いたことがある、夜中に神社で大木に、藁人形を釘で打ち付ける呪いの儀式であろう。

 左様とうなづいてコヒガミは華の横に座った。

<<丑の刻参りの場合は、それ専用の格好をして自宅から目的の御神木まで行き、夜通し釘を打ち込み、また帰る。それを七夜繰り返す。その労力と費やした時間が対価ということじゃな>>

 華は震えた。

「そんなにまでして、呪い殺したい……」

<<ま、もっとお手軽な方法もある>>

「お手軽?」

<<生き物、とりわけヒトの命を対価にした呪いじゃな>>

「それのどこがお手軽なんですか!」

<<なにゆえ?>>と今度はコヒガミが、華の反応を理解できぬよう。

<<えーと、なんと言ったかな……そうそう、ブードゥーじゃ。かの異教にも、人形に釘を打ち込む呪いの儀式がある。果物等のお供えとともに、どこぞからさらってきた赤ん坊を自宅にこしらえた祭壇に捧げればよい。どうじゃ? 通わなくてよいぞ?>>

「赤ちゃんの誘拐の、どこがお手軽なんですか!」

<<だーいじょーぶ>>

 コヒガミは真顔で言う。

<<そこの角に『赤ちゃんの家』があるではないか>>

 絶対こいつは邪神だ。華は嫌悪感もあらわにコヒガミをにらみつけた。

<<ま、あくまで呪いの威力という観点から見れば、じゃな。命の効き目は絶大じゃぞ? 調伏ではないが、不老不死となった例も過去にはある>>

「またそんな昔話みたいな……どうせ最後は煙をかぶったらヒゲと皺だらけのおじいさんになって、とかいうんでしょ?」

 華は頭痛がしてきた。

<<ヒゲだらけにはならんよ。おなごじゃもの。不老もセットじゃから、皺だらけにもならんな>>

 そういえば、とコヒガミは遠くを見る眼をした。

<<今頃あのおなご、どうしておるかのう>>

「そんな昔の話なんですか?」

 うむ、とコヒガミは頷き、話し始めた。

 それは800年以上前、コヒガミがまだ京の都、その西の外れに祀られていたころの話。おなごと夫婦になる約束をしていた公達きんだちが流行り病に罹った。一命は取り留めたが本復までにそれなりの年月を要し、なおかつ男はその若さに似合わぬほどやつれてしまった。

 おなごは焦った。当時は10代も半ばを過ぎれば“行き遅れ”扱い。齢14のおなごにとっては切迫した問題だ。まして男は病を得る前とは比べ物にならないほど弱々しく、祝言も日延べを重ねている始末。

 せめて、2人して今のこの若さのままでいられたら。おなごの考えは日を重ねるごとに強迫観念へと変わり、ある日、ついに弾けた。

 男がまた軽い病に罹ったため、それの本復祈願として山寺に籠もったおなごは、禁断の秘術、不老の密儀を男と2人で執り行ったのだ。だが――

<<それは失敗に終わった>>

 男には不老の呪いがかからず、長時間の儀式に体力を消耗した男は怨嗟の唸り声を上げながら事切れた。そして、その命が対価となり、おなごが自分にかけようとした呪いは暴走した。

<<不老を超え、不老不死になってしまったのじゃ……>>

 部屋が、沈黙で満たされる。さほど面白くもなさそうな顔で話を終えたコヒガミは、目をつむり黙ったまま。

「……その人、どうなったんですか?」

<<ん? ああ、一族から追放になって行方知れずじゃ。ほれ、ぬしが先日行ったショッピングモール、あそこの経営者がその一族じゃがな>>

「うまく……いかないもんですね……」

 階下から、母の声が飛んできた。お風呂が空いたらしい。さあお風呂お風呂、とコヒガミも一転浮かれている。

 脱衣所で、華とともにコヒガミも服を脱ぐ。正直なところ意味がない行為らしいのだが、<<気分じゃよ気分>>とコヒガミは譲らない。そしてそんな些末事を吹き飛ばす事実が判明した。

「コヒガミさま……胸が……」

 最近、気にはなっていた。初めて華の前にその姿を現したときはほのかな膨らみであったそれが、徐々に増量されてきていたのだ。

<<うむ。膨らんだの>>

 さらりと認めたコヒガミは、何を思ったか両手で自分の胸を鷲掴みにしてユサユサと揺すぶる。

<<ふむ、こうしてみると、華の乳はたわわじゃな>>

「ななななななにしてるんですか?!)

 ツッコミを入れて二瞬後、華は気付いた。コヒガミの胸が、自分とほぼ同じサイズになっていることに。いや、胸だけじゃない。腰回りも、太ももも。

(わたしと同じ体型になってきてる……?)

<<華よ。風邪引く前に、さあ湯に浸かろうぞ>>

 これまたさらりと促されて、華は幾分かの薄気味悪さを感じながら浴室へと入り、湯を肩から掛けた。どうせ肝心なことは、はぐらかされて教えてくれない。

 湯船のお湯は、ほどよい熱さだった。華とコヒガミ、2人して安堵と至福のため息をつき、そのことにくすくすと笑いあう。

(お姉さんがいたら、こんな感じなのかな)

 コヒガミの言うことは正直理解できないというか理解したくない部分もある。変化している体型のことも気がかりではある。

 でも、見かけは華より少し上――実年齢は気の遠くなるような数のはずだが――の、母とは違う女性とこうして一つ屋根の下、いや、憑りつかれてほぼ一心同体で生活しているという事態を、華はそれなりに楽しめるようになっていた。

<<昨晩の天麩羅は今三つじゃったのぉ。あれなら、ぬしが揚げたほうが旨いものになったろうに>>

「そうかな? でもわたしがやると、それはそれでお母さんが凹むし」

<<ああ……>>

 コヒガミの顔は苦笑いそのもの。

<<あの料理の腕前を向上させる神は……おったかのぉ……>>

「八百万なのに?」

<<なんでもあるが、必要なものはない。まして、必要な時にはなおさらじゃ。それが世の理よ>>

 コヒガミの年寄りぶった口調が、姿とのギャップで可笑しい。

「まあ、そんな神様がいたら大流行ですよ、その神社。ていうか、わたしがお参りしたいくらい」

<<お参りと言えば、華よ>>

 笑顔は変えぬまま、コヒガミが口調を改めた。

<<対価は決まったかや?>>

 突然言われて、華は言葉に詰まる。まさかヒトの命というわけにもいかないし、あまり価値のないものでも効果が薄いだろうし。湯船に浸かったまま悩んだ末の結論は。

「……祈り続ける、じゃだめですか? 毎日。さっきコヒガミさまが言っていたナントカ参りは、7日間毎晩祈り続けることが対価なんでしょ?」

<<なにやらキレイな丑の刻参りになってしまっておるが、おおむね間違いではないな>>

 苦笑いされたが、華がそれでいいならと認めてもらえた。

<<それにしても>>

「? なんですか?」

 肩にお湯を手ですくって掛けながら、華は聞いた。

<<ぬしも奇特なおなごじゃのぉ>>

「なにがですか?」

<<自分のことは、すっかり忘却の彼方かえ?>>

 またかけようとした湯が、指の間からこぼれていく。

「な、な、な、なにを――」

<<楽しそうじゃったのぉ、西沢は>>

「それがどうかしたんですか? 別にいいじゃないですか」

 ぷいと横を向いた華の頬を、涙が伝う。

「なんです……か……なんなのよ……あんな……あんな……」

 何があったわけでもない。ただ、西沢が自分の知らない女の子と楽しそうにしゃべっていただけ。おどけていただけ。だけ、ダケ――

 華は眼をきつく閉じ、俯いてむせび泣いた。しんと静まり返った風呂場に、華の嗚咽が響く。

 どれほどそうしていただろうか。

<<華よ>>

 問われて顔を上げると、涙にぼやけたコヒガミが、いつもの真面目とも不真面目ともわからない表情で華を見つめていた。その形のよい、やや薄目の唇が開く。

<<ぬしの願いは、なんじゃ?>>

 その瞳に、吸い込まれそうになる。

「西沢……君と、あの子の……仲を――」

 華はぶんぶんと首を横に振った。

「西沢君と、な、なか、よく……」

 コヒガミは小首をかしげて、華の逡巡を待ってくれた。

「仲良く、なりたい、です。わたしが」

<<華よ、華よ>>

 得たりや応と微笑む神。

<<ぬしの願い、かなえてやろう>>

 華は涙をぬぐってもう一度聞き返そうとして、そのまま固まった。

<<対価は、ぬし自身じゃ>>

 コヒガミが近づいてくる――


4.


「さて」

 華と同調したコヒガミは風呂から上がると、手早く髪と身体を拭いた。急がねばならない。ただ同調するだけでなく精神をも支配下に置いておくのは、まだ長い時間できないのだから。

 身支度を整えて、髪をドライヤーで乾かしながら、コヒガミはこれからの手筈を考えた。それがまとまったところでドライヤーのスイッチを切り、まず華の部屋に戻ろうとしたコヒガミを呼び止める声あり。

「コヒガミさま」

 リビングから顔だけ出して、華の母親がにっこり。漂ってくるコーヒーの香りに誘われて、コヒガミはリビングの戸をくぐった。

 華母には、憑りついてから1週間ほどで発覚していた。初め小声だった華のしゃべり声が段々普通の声量になっていったのだから、それは時間の問題ではあったのだが。

『あなた、華じゃないわね?』

 華母の問いかけにあっさり首肯して、コヒガミは自らの“所用”と、取るべき手段を話した。華母の眼に宿る好奇心と、存外に穏やかな雰囲気――娘に憑りついているのが本当に神かどうか、確かめる術はないはずなのに――を信じて。

「それにしても、カラス除けとは酷いではないかぇ? 母御よ」

 食卓について、淹れ立てのコーヒーを一口味わった後、コヒガミはむくれてみせた。

「んふふ、華とコヒガミさまがどう対処するか、見てみたかったんですよ」

 自分もコーヒーを一口飲んで、華母は微笑む。そして真顔でコヒガミのほうに身を乗り出した。

「お風呂で華が泣いてたみたいですけど、お祭りで何があったんですか?」

 問われて、コヒガミは顛末を話した。心配するかと思いきや、華母は鼻を鳴らす。

「まったく。そんなイベント、中学生の時に済ませとくもんなのに……ま、そうやってヒトは徐々に強く、平気になっていくものですけどね」

「母御よ」

 コヒガミは傲岸不遜そのものの顔を作ってのたまった。

「鈍化と言わんか、より格調高く」

「高くない高くない」

 そこで2人して笑って、どちらからともなくカップを自らの口元に運ぶ。

「そういえば、昨日の午後にお爺様がいらっしゃいましたわ。西沢さんの」

「ほう。して、用向きは?」

「昴をよろしくお願いします、と。それから、コヒガミさまにも伝言が」

「む?」コヒガミは居住まいを正した。

「“所用”を早く済まされてお戻りください。こちらも昴を焚き付けますから、って」

「なんじゃ? あの者は知っておるのか?」

 華母は肩をすくめた。

「さあ? なんでもお父さんの日記を読んだとかおっしゃってましたけど」

「なるほど……ならば話は早い」

 にっとコヒガミは笑って、華母と今後の手順をまとめると、コーヒーを飲み干した。

「ごちそうさま」

「どういたしまして」

 立ち上がったコヒガミが、部屋に戻ろうとして振り返る。

「母御よ」

「はい?」とカップを2つ、流しに片付けようとした華母も振り返る。

「良いのか? わらわの所用が済めば、そなたの娘は……」

「ええ」と母は微笑む。

「いずれ通る道ですもの。その後うまくいけば良し。駄目ならダメで、いい思い出になりますよ」

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