第8章 なんで?
1.
通話を切って、西沢は悄然とした気持ちのまま、山道を登る足を速めた。
(また、余計なこと言っちゃったな)
うまく気持ちがまとまらないまま、山小屋へとたどり着く。父は既に玄関前で待っていた。
「じゃ、あとよろしく……どうした? 何かあったのか?」
「別に」
素っ気無く返答して、西沢は山小屋に入ろうとしたが、父に呼び止められた。
「相手が女なら、すぐに謝れ。お前が悪いなら、な」
「! な、なに言ってんだよ?」
「またどうせ、姉ちゃんと喧嘩でもしたんだろ?」
「してないよ!」
と叫んで、西沢は山小屋に駆け込んだ。一気にリビングまで進んで荷物を床に投げ出すと、ソファにぐったりとへたりこむ。
深い、深いため息一つ。
(すぐに謝れ、か)
西沢はポケットの携帯に伸ばした手を、すんでのところで止めた。
(つか、なんでオレが謝らなきゃいけないんだ?)
心配して電話したのに。
西沢の憤懣は行き場を失い、握り締めた拳は目の前の机へと向かった。
ドガッ
「い、痛ぇ……」
手を振って涙目な西沢は、またソファにもたれかかった。
「はぁ、何やってんだろ、オレ……」
それにしても。西沢は、外の夕闇より一足早く黒さを増してゆく天井を眺めながら独り思う。
(オレの願いを、田仲さんは教えてもらってるのかな……コヒガミさまに……)
それは、2年生に進級したばかりの時のこと。
境内を掃いて回っていた西沢はふと、参拝客がいないことに気づいた。いや、境内だけではない。本殿にも、鈷斐路石へと至る道にも、参拝客が誰もいないのだ。
土曜日にこれは、かなり珍しい。そんなことを考えながら、いつの間にか西沢は、鈷斐路石の前まで来ていた。何かに召された、としか言えないほど真っ直ぐ、しかし足取りは雲の上を歩くように。
そして目の前の巨石を見つめることしばし、西沢は願いを込めて頭を垂れた。
田仲さんと仲良くなりたいです。
1年次も同じクラスだった彼女。さほど会話をしたわけではなく、いやむしろそんな程度でも、人付き合いの悪い西沢にとってはよくしゃべったクラスメート。
だから、4月にまた教室で彼女の姿を見つけた時、心臓が大きく跳ね上がった。それからは、彼女がたとえ西沢に見向きもしなくても、自分の席から彼女の後ろ姿を眺められる。それが彼の、西沢の学校での密かな楽しみだった。
だが、そんなチラ見生活は長続きしなかった。
楽しそうに、何を話してるんだろう。
真剣な顔で、何を考えてるんだろう。
もしかして、何か悩んでるんだろうか。
聞きたい。知りたい。話がしたい。
たとえ話を聞いたところで、彼が力になれるかどうかなんてわからないのに。でも、いや、だからこそ彼は願をかけたのだ。華と仲良くなりたいと。
ソファにもたれたまま沈思することしばらく。重い体を起こして、薪で風呂を沸かしたり、晩御飯の支度をしているうちに、あっという間に夜の帳が山を包み込んだ。
その間、携帯は実に静かな金属の箱で有り続けた。持ち主の交友関係を鑑みれば当然なのだが、今の西沢にはそれが恨めしい。
と、その時。携帯は突如リビングのテーブル上でうなり始めた。風呂に入ろうとした西沢は慌てて駆け戻り、すぐにガックリうなだれる。ディスプレイに表示されているのは、姉の名前だったのだ。
「おーい、生きてるか~」
「生きてるよ。なんだよ」
西沢がむっとして答えると、姉は笑い出した。
「ん~、彼女ちゃんとケンカしたって父さんから聞いたからさ、首でも吊ってるんじゃないかと思って」
「彼女じゃないよ、付き合ってないってば」
「まあまあ、お姉ちゃんに相談してみ? ほかに相談する相手もいないでしょ、あんた」
図星を突かれて、西沢はぐうの音も出ない。それでもしばらく躊躇った後、西沢は経緯を姉に説明した。
「はっはっはぁ! よし! 徹底抗戦だ!」
「?! え?! そんな、なんで?」
予期せぬストロングスタイル標榜に慌てる西沢。その異議申し立てを遮って、姉は続けた。
「あんたは悪くないんでしょ? どっしり構えてなさいよ」
そんなことでいいのだろうか。
「なーに言ってんの!彼女ちゃんだけが女じゃないんだから! ダメなら、はい次! ってくらいの心構えでいりゃいいのよ。それに――」
息継ぎをする姉。なんだか楽しそうに聞こえるのは、弟としての被害妄想なのだろうか。
「女は追いかけちゃダメ」
「逃げて逃げまくれ、ってこと?」
「ちゃうちゃう」
とさらに、ここら辺までなら追い付いてくるかなってとこまで距離を測りながら逃げろ、と姉は言って、通話は終わった。
「そんな器用なまねができるなら、こんなに悩まないっつーの……」
まあいいか、と西沢は心が軽くなったのを感じながら、歯磨き粉を手に取った。
今夜も御神木まで飛ばされたお客さんは出ず、寝室の自分で整えたベッドに寝転ぶ。
目をつぶれば、思い浮かぶもの。それは。
屋内運動場でジャンプシュートしている田仲さん。
足を痛めてオレをにらむ田仲さん。
抱え上げた時の仰天した田仲さん。その時の、双腕に伝わった柔らかな背中と膝裏の感触。
コヒガミさまが抱き付かせた田仲さんの、ぽにゅっという擬音がぴったりの、これまた柔らかな胸の感触。
西沢は、彼と華との間に横たわる轍を忘れ、眠りについた。
2.
翌日。西沢が教室に入ると、華の姿はなかった。
(珍しいな。いつも先に来てるのに)
ま、いいか。西沢はいつも通りクラスメートに朝のあいさつ。これまたいつも通り文庫本を手にして、姫を護る竜騎士の物語に没入する。
お話は既に終盤、姫が立てこもる城は敵に十重二十重に取り囲まれた。寄せ手の上げる喊声を遠くに聞きながら、主人公が敵にかけられた呪縛から解き放たれようと悪戦苦闘する中、ついに敵の総攻撃が始まる。
城壁目掛けて撃ち込まれんとするは、ふた抱えはあろう巨石。投石機の腕木が軋む音しばし、号令一下ついにそれは放たれた。
ピシッ!
左こめかみに覚えた軽い衝撃に驚いた西沢が振り向くと、チサトがシャーペン2本を組み合わせたスリングショットを手に、西沢をにらんでいた。その横に座る投石隊の指揮官、いや五月がピッと指さすその先には。
(うーん、こりゃまた見事な……)への字口。
いつの間に来たのか、華が教卓を見つめて動かない。その頑な表情は西沢の心に小さなさざ波を起こしたが、彼はそれをぐっと抑えると籠城戦へ、父王に隣国へ売られた姫君が震える戦場へと戻った。
投石と連携した長弓隊による火矢の投射により、城兵は大混乱。悲鳴と怒号は敵への格好の合図となり、敵の破城槌が、太い丸太の先に雄々しくも突っかかる牡羊の頭を戴いた10人掛かりのそれが、城壁下に現れた。
城門を護るべき塔からの矢ぶすまも弱く、突撃の尖兵たちは吶喊した――
ドスッ!!
「うおっ!!」
わき腹からの電気信号は、正直である。
身体を捩って不覚にも大声を上げてしまった西沢は、周囲からの視線を浴びて赤面してしまった。
「あたしらを無視すんな!」
西沢の横まで来ていたチサトが、シャーペンを振ってがなる。
ごめんと謝る西沢の声にかぶせるように、五月の低めた声が西沢の赤い耳朶を打った。
(華と何があったの?)
(こっちが知りたいよ)
屈んできた五月の髪からこぼれてくる柑橘系の香りにドキドキしながら、西沢は答えた。昨日の顛末を包み隠さず話す。『姉以外に相談に乗ってくれる人が現れたこと』への安堵と、あんなに嫌いだった『自分の事情を他人にさっくりと話せるようになっていること』への驚きとに心を揺らされながら。
むー、とチサトがうなったところで、いつも元気なクラス委員のホームルーム開場宣告がクラスに響き渡る。
(お昼に、屋上で)
なんで? と問う暇もなく、学校の日常が始まった。
「なんで?」
それは、今朝聞きたかった西沢の疑問。お昼、独り弁当もそこそこに、まさに引っ立てられていった屋上で西沢が放ったそれは、今朝は『なぜ、屋上に行かなきゃいけないのか?』という意味だった。
お昼のこれは違う。
屋上に集いし女子は12名。つまり西沢のクラスの、華を除く全員が西沢の三方を取り巻いているのだ。ちなみに背後は、西沢や女子たちの髪を軽く揺らす春風が吹き抜けてくるフェンスという有様で、
(……査問会?)突っ立ったままだし。
「ぼっち君? ほんとーに、朝の話のとおりなの?」
真正面で腕組みしたチサトの問いに、黙ってうなずいて、西沢は目線を下げた。この間のカフェどころじゃなく、180度隙間なく女子というこの状況で、敢然と女子を見渡せるほど、西沢は女子慣れしていない。
「華ちゃんって、ほんとに攻める人だったんだね……」
「つか、今の会話の流れで、なんで怒るかな?」
「生理前じゃないの?」
あー、と同意の声が上がる。そういう赤裸々な単語を姉の口から再々聞いているので、さすがに赤面まではしない西沢であったが、だからといって状況が動くわけではない。
「あ、あの、さ」
顔を上げて聞いてみよう。勇気と根気を振り絞った質問を。
「声かけちゃ、だめだったのかな?」
「まあ、『来なくてもいい』って言ったのは、まずかったのかもね」
「でもすぐフォローしたんでしょ? なんで怒るし」
とチサトが金切声を上げる。だよねー、とこれにも同意の声が上がったところで、チサトの横にたたずむ五月が空咳をした。
「ま、取りあえず週末の若葉祭りは連れてくから。華を」
「誰をどこに連れてくって?」
仁王立ち。朝のへの字口が再現されて、まさに金剛力士のように華が西沢たちをにらみつけていた。
「みんな教室からいなくなったと思ったら――」
ぎりり、と歯を食いしばる音が聞こえる。
「いいわ。わたしは絶っっ対――行くから」
あ、コヒガミさまだ。
「西沢君に送ってもらって、心配までされて、ちょっと悔しかったの。よ、余計な心配しなくてもいいんだからね!」
ぷい、と回れ右して、扉に立てかけてあった松葉杖を手に取ると、ひょこひょことコヒガミ憑き華は扉の向こうに消えていった。
「……なんかさ」
五月が、華の去った扉の向こうを凝視している。
「最近、華って話し方がコロコロ変わらない?」
西沢は表情を変えないように、ことのほか苦労した。
「そうそう!」とクラス委員が会話に入ってくる。
「なんか難しい言葉、急にしゃべりだしたと思ったら、ビクンてして元に戻ったり」
「ぼっち君?」
チサトの細い指にブレザーをつままれて、この気まずい場からそっと逃げようとした西沢の意図は断たれた。
「何か、知ってる?」
「何も。そもそもオレ、変わったかどうかわかるくらい田仲さんと話したことないし」
「わ! 予鈴が鳴ってる! 戻ろうみんな!」
クラス委員の号令に救われて、西沢は女子12人と一緒に階段を駆け下りるという微妙で奇妙な体験までしたのだった。
その後は何事もなく、本当に何事もなく、下校と相成った。
仁王を超え、仏頂面になった華にはさすがの攻城軍――ではなく女子たちも取りつく島もなく、ひとまず囲みを解いて引き下がることを選んだようだった。
と思ったのに。
「西沢君、ちょっとこれ見てほしいんだけど」
なぜ、オレが包囲されてるんだろう? 華がさっさと帰宅してしまったのを見届けて、自分もそそくさと下校のため立ち上がる暇すら与えられず、今度は全周囲をクラスメート女子に取り巻かれる西沢。女の子のむんわりとした空気が、彼を苛む。それだけではない。
「ぼっち君、なんで萎れてるの?」
西沢は叫びたい。ちょうど目の高さにクラス委員の胸があるからだよ、と。
そう、寄せ手の主力は、何やら写真の2L判らしき紙を手にしたクラス委員。
「な、なんでこんな……!」
赤面した西沢の声が裏返り、それに負けないくらいの高さで周囲から黄色い歓声が上がる。
写真に写っているのは、華を乗せて帰路を走る西沢と自転車。背景だけが流れて写っているところはさすが写真部、と言いたいところなのだが。
「華ちゃん、イイ顔してるね~」
西沢の背中に頭を持たせかけた華の、小首を傾げたようなその顔に浮かぶ表情が、彼の鼓動を早くする。華のこめかみが背中に当たる、その感触が蘇ってくる。
「でね、西沢君」
クラス委員が、西沢の顔をのぞき込んでくる。
「この写真、コンクールに出していいかな?」
驚いて顔を上げたら、クラス委員の顔が慮外の近さ。ばっと赤顔を伏せたらサラウンドで囃されて。
(ぐぅ、なんでこんな目に……)
「あ、あのさ……」
このままでは埒が明かない。というか、早く帰りたい。西沢は切り出した。
「いいよ。でも、田仲さんには聞いた?」
もちろん! クラス委員が胸を張り、西沢はその横に並ぶチサトの喉元に目線をそらした。
「いいよ、って」
女子の歓声と、まだ教室に残っている男子の好奇の眼が痛い。
「顔を黒く塗りつぶしたら、って」
「だめじゃん……」
3.
今夜も山小屋で番。
(どうしようかな)
そろそろ、コヒガミさまと仲直りしたんだろうか。
大変だな。自分の意志と違うことを言わされるなんて。
そこまで考えて、西沢は気付いた。『若葉祭りには絶対にいかない』と華は言おうとしていたことに。
コヒガミは、なぜ華の意志に反して、彼女を若葉祭りに連れてこようとしているのか。
華との、さして多くはないメールでのやりとり。その文面の端々に、コヒガミにからかわれているような雰囲気が読めた。コヒガミは、ただ単に面白がっているだけなのか。
(コヒガミさまの所用って、なんなんだろう?)
そもそも、まったく縁もゆかりもない華ではなく、西沢か姉に憑りつけば、“所用”とやらを手早く済ませられるような気がするのだが。
その疑問を、西沢は祖父にしてみたことがある。返答は『さぁて』と、どうにも煮え切らないものだった。
あのにやけつつもとぼけた顔。祖父は、何か隠してる。
その場面を思い出しながら西沢が眉根を寄せる間も、携帯は、沈黙の友はリビングの机の上に鎮座ましまして。天井の明かりを反射して鈍く光るディスプレイを見つめた西沢は、
(かけてみよう)
姉ちゃん、ごめんな。西沢は少しだけ目を閉じて、姉に謝罪すると、携帯を手に取った。
発信履歴は簡単に見つかった。押し並ぶ“家”の中に孤独にたたずむ、“田仲さん”。その御名をタップし、スマホを耳に当てる。3コール、4、5、6……
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