第3章 わらわは"こひ"じゃ。

1.


 翌日。華のクラスでの夕方のホームルームは、1カ月後に迫った修学旅行の班分けで騒がしかった。クラス委員の女子が何度か脱線を元に戻そうと努力していたが、騒ぎはいまだ収まる気配を見せない。

 華はチサトと五月、男子2人の班に混ぜてもらっていた。

「んー、男子をあと1人、か」

 チサトが心底どうでもいい様子で、余った男子を品定めしている。そもそも今回班を組むことになった男子2人にしたって、五月と同じ部活の人たちで、五月が頼み込まれてしかたなく同じ班になることにしたのだ。チサトのモチベーションが上がらないのも分からないではない。

 それにしたって、もうちょっと普通の顔はできないのか、と華は思う。男子2人が気まずそうな、不愉快そうな表情をしていて、五月が気遣っているのを見るとなおさら。

 だいたい、チサトは自分勝手が過ぎる。自分で男子を確保すればいい話なのに、座って雑談に興じていただけ。そんなことではわらわに何万回祈ろうとも、願いが成就することなどあるまい……わらわ?

「おーい! ハナっち、どこ行くの?」

 華は席を立つと、チサトの不審げな声を背後に聞き流して自席の右斜め後ろへと歩を進めていた。どこ行くの? え? わたし?

「西沢君、まだ空いてるなら、うちの班に来ない?」

 華はその席の主に声をかける。自分でもびっくりするくらい冷静沈着な声で。

 教室内の騒ぎを我関せずと文庫本を読んでいた西沢は、顔をバッと上げて驚きで目を丸くした。が、すぐにこれまたいつもの穏やかな声で応じてくれる。

「うん、いいよ」

 西沢にこちらへ来るよう促して、華はくるりと踵を返した。なぜ自分が西沢を誘ったのか、頭の中を困惑と混乱が手を取り合って踊っている。ホームルームの後にチサトと五月にどれだけ尋ねられても最前の言動に答えを出せず、『わたしたち3人の知り合いだから』と苦し紛れの答えをひねりださざるを得なかった。


2.


 華は帰宅すると、脱いだ靴を揃えることすら忘れて、悄然と2階の自室へと階段を登っていった。いまだに頭の中はくしゃくしゃだ。

 なぜ。わたしが。西沢君を。誘ったのか。

 文節ごとに区切ってみても、さっぱりわからない。帰り道、数えるのもばかばかしいほど繰り返した作業がそれだった。不毛にもほどがある。車には轢かれそうになるし、『赤ちゃんの家』での子供とのふれあいも上の空だったし。

「はぁぁぁ……チサトたちにはからかわれるし……」

 ついに、ついにハナっちに春が来た。チサトの放った(言われた人によっては激高しそうな)一言で、華は時の人となった。

 嫌すぎる。

 そんなつもりは毛頭ないとどれだけ言葉を重ねて否定しても、聞く耳を持ってくれない。

 あの時、わたしはわたしではなかった。体が勝手に動いて、口まで勝手に開いて西沢君に勧誘をかけたのだ。問題は、そう一番の問題は、それを証明する術がないこと。

 うなだれたまま重い足を持ち上げて階段を登り切り、自分の部屋の戸を開けると中へ足を踏み入れた。自然と口を突いて出るのは精神的疲労を現したぼやき。

「はぁぁぁ、疲れた……」

《わらわもじゃ。やはり同化していないヒトを意のままに動かすのは疲れるのぅ》

 カバンを床に放り投げ、身はベッドに放り投げようとした華が背後から聞いたその声は、まぎれもなく若い女性の、そして華の記憶に奇妙に引っかかるものだった。

 恐る恐る振り返った華が見たもの、それは――

 ざんばら髪に縁取られた、整った顔。華より頭半分ほど低い細身の身体には、古式ゆかしい装束を身にまとっている。女性は華が眼を見開いて固まっているのを、何やら誤解したよう。笑顔でのたまう。

《なんじゃ? わらわは息を飲むほどに美しいかぇ?》

「だ――」

《だ?》

「誰よあんた!!」

 華は絶叫した。そのまま後じさり、窓に背を着ける。女性は華の大声など意に介さぬ風で、澄まして言った。

《うむ。わらわは"こひ"じゃ》

「なんなのよ一体!? こひって――」

 と華が再度の絶叫を口の端に上せようとした時、階下から母の声が上がってきた。

「華? 何騒いでるの?」

 母が半開きになっていた華の部屋の戸から顔をのぞかせた。そのまま、不思議なものを見るような眼つきで華を見てくる。

「あなた、そこで何してるの?」

 と言う母。そのすぐ横に"こひ"と名乗る女性がニコニコしているのに。

 華がもう何も言えず首をふるふるすると、母は首をかしげながらも、あと少しで夕食であることを告げて、降りていった。

「……見えてない。なんで?」

《うむ、解説しよう!》

 得意げに控えめな胸を張った女性の勢いに押されて、華は黙って女性の解説を待つ。その薄いが形の良い唇から紡ぎだされた言葉、それは。

《わらわは神じゃ》

「わけが分かんないわよ! 今度は言うに事欠いて"かみ"って!?」

 華はそこではたと気付いた。"こひ""かみ"――

「コヒガミさま?!」

 呼ばれた女性――コヒガミは、ゆっくりとうなずいた。


3.


「で、コヒガミさまがわたしなんかに、なんの御用なんですか?」

 夕食が終わって再び自室。華は、いささかの不貞腐れと圧倒的な不審で凝り固まった問いかけを、部屋に入った途端また彼女の背後に現れたコヒガミに投げつけた。

《うむ、ちと所用があってな》

「所用? どんな?」

《秘密じゃ》

 ベッドに座る華に近づきながらそう言い放ち、不敵に笑う神様。ああむかつく。

「所用なら、なんでわたしの部屋にいるんですか? さっさと済ませてきてくださいよ!」

《そうもいかん。なぜなら、わらわはそなたに憑りついておるのじゃもの》

 そなたの行くところに付いてゆくほかないのじゃよ。そう言って、本当に楽しそうに笑うコヒガミ。

「冗談じゃありません! 離れてください! 今すぐ!」

《これ、華よ》とコヒガミが顔をしかめる。

《あまり大声を出すと、また母御に不審がられるぞ?》

 ぐぅ、と鳴いていったん黙り込んだ華は、また顔を上げた。

「そもそもなぜ、わたしに憑りついたんですか?」

 華はようやく思い出していた。鈷斐路石にお参りしたあの日、闇の中で彼女に近づいてきて消えた女性が、この恋愛成就の神であることを。

《想い人もおらぬのに、わらわに手を合わせる不思議なおなご。それが面白うて、な》

「いけませんか? 男子にそういう興味がないことが」と華は鼻白む。

 コヒガミは華の横にちょこんと腰かけると、苦笑した。

《ま、わらわの立場的には良いとは言えんな。逆に言えば付け込む余地があるということ》

 華は頭が痛くなってきた。付け込むて。

《悪いようにはせぬ。心配するな。悪いようには、な》

 神様とはいえ、とても信じる気にはなれない。というか本当に神様なんだろうか。ともかく、どうやら華から離れる気はないらしい。

 ここで、華は思い出した。

「そういえば、なんでわたしたちを御神木まで飛ばしたんですか?」

 ああそれか、とコヒガミは神妙な顔つきになった。

《ぬしの連れ、あの2人にちょっとした作業が必要だったのでな。申し訳ないが、静かに長時間作業ができるあそこまで来てもらったのじゃ》

「作業?」

 その事務的な響きに、華は眉をひそめる。すると、コヒガミがにやりとして顔を近づけてきた。

《知りたいか?》

「知ってます。あの2人の好きな人を別の男子にしちゃったんですよね。どうしてそんなこと……」

 じゃから、とコヒガミがその先を言わせまいと手で遮る素振りを見せた。

《何をしたのかではなく、なぜそんなことをしたのか。それを知りたいか?》

 先ほどとはうって変わってコヒガミの瞳は真剣で、華はその大きい黒目に吸い込まれそうになった。ややあって気を取り直し、華はうなずく。

《よかろう。ちょうど処理も滞っておったところじゃしな》

 うべなったコヒガミは立ち上がると部屋の一角に向かい、壁に向かって両手を高々と差し上げた。それから20秒ほどもそのままの姿勢で動かぬ神。声をかけようか、いや放っておいて勉強を始めようかと華が迷い始めたちょうどその時、壁の向こうから、それはやってきた。

 黒、桃、紫。色にはそれぞれ濃淡があるが、絵馬のような形の何かが、華の部屋の壁をすり抜けて、コヒガミの前に飛んできたのだ。コヒガミが下ろした手の複数の指で指揮すると、それは色別に分かれて整列した。その数、ざっと見ただけでも100以上。

「これはなんですか? 色分けになにか意味があるんですよね?」

 そう思わず聞いた華を、振り返ったコヒガミが驚愕している。

《ほう、もう見えるのか、そなた。……くくく、面白い。面白いぞ、華》

 歯を剥き出し、身体をゆすって、うれしそうに楽しそうに笑う神。わたしはもしかして邪神か悪霊にでも憑りつかれたんじゃないだろうか。華はまた頭が痛くなってきた。とても恋愛の神様には見えないんだけど。

《これは"願掛け"じゃよ。鈷斐神社の本殿前や鈷斐路石の周りで、ヒトが願うたその結実じゃ》

 説明が腑に落ちるのに数秒。今度は華が驚愕する番だった。それが結構な数があることにも。そのことを華が何気なく口にすると、コヒガミは答えた。いたってしれっとして。

《うむ、ぬしに憑りついてからこのかた、処理をしておらなんだでのぅ》

「ちょっと! もう何日経ってると思ってるんですか?!」

 声を荒げた華に、憮然とした表情に急変したコヒガミが反論してきた。

《なにゆえ神が、ぬしらの願いをクイックレスポンス処理せねばならんのじゃ?》

 再反論しようとして、華は口ごもってしまった。ていうか、"クイックレスポンス"て。

「なんで神様がそんなヨコモジ知ってるんですか?」

《あ、ぬし今神をバカにしたな? 我らはな、ねごうたヒトの記憶と知識をこの身に取り込むのじゃ》

 そうでないと、願いをかけた人とその相手のことがわからないため、願いをかなえてよいかどうか判断できないらしい。華が憮然とした表情を取ったのに気付いたのだろう、コヒガミが笑った。

《神の業はの、安直なものではないんじゃよ。なにせ、ヒトの人生を曲げる呪いをかけるのじゃからして》

「呪い? 奇蹟とかじゃなくて、ですか?」

 その言葉の禍々しさに華が眉をひそめると、コヒガミは左様とうなずいて続けた。

《誰かと結ばれたい、病を早く治したい、家族一同安心安全に暮らしたい。いずれも、己の欲望のままにしたいというヒトのエゴじゃ。この場合は神の力にすがってじゃが、常ならざる手段を持ちて、本来はそうならないはずのそのヒトの人生を曲げるのじゃもの》

 沈黙した華を傍に、コヒガミは紫色の願掛けに手を伸ばした。そして。

 ピシッ!

 デコピンの要領で、中指でそれを真上に弾き飛ばす! 弾かれた紫色の願掛けは宙を飛び、天井をすり抜けて消えてしまった。

「な、な、何するんですか!?」と一転息巻く華の怒声に、コヒガミは動じない。

《何って、あれは管轄外じゃもの》

 まだ興奮冷めやらぬ華はコヒガミに詰め寄る。

「管轄外ってどういうことですか? 神様でしょ、あんた!」

《ぬしは忘れっぽいおなごじゃのぅ。わらわは"こひ"、すなわち恋愛成就の神じゃぞ?》

 さっきのあれは『元気で明るい子供が生まれますように』という願掛けじゃ。その説明で、華にもようやく得心がいった。指で弾くのには納得いかないが。

《で、これは家内安全。次は合格祈願。そのまた次は部活の優勝祈願、と》

 まったく、どいつもこいつも。コヒガミはブツブツつぶやきながら、残り7つあった紫の絵馬を全て爪弾きしてしまった。

(あの願掛け、どこに行くんだろう?)

 華が願掛けのすり抜けていった天井を眺めていると、コヒガミは次の作業に移ろうとしていた。1つの願掛けに目を止め、凝視している。そして、

《これも管轄外じゃな》と爪弾きした。

「どうしてですか? さっきのと色が違うじゃないですか」

 今爪弾きした願掛けは桃色。確かにほかのと比べて黒っぽかったけど。

《今の願掛けはな、たしかに桃色、すなわち恋愛成就の願掛けじゃ》

「え? じゃあ――」

「じゃが、わらわの力が及ばぬ、いやさ、叶えたくない願いなのじゃ》

 恋愛成就の神様が叶えたくない恋愛。華には想像もつかない。彼女の表情を読んだのだろうか、コヒガミはさして面白くもなさそうな顔で続きを話し始めた。

《あれはな、不倫じゃ。妻子ある男との恋愛成就を望んでおる。しかも、男を騙して我が身にその子を孕んだおなごの、な》

 ぞわっ。ジャージの下で鳥肌を立てる華を見て、コヒガミが笑う。いや嗤う。

《ぬしには想像もつかぬかもしれぬが、それも愛の形ではある。それを聞き届ける神もこの国にはおる。なにせ八百万(やおよろず)じゃからな。わらわにはその願いをかなえる気はない。ただそれだけのこと》

「ということは、さっきからビシビシ飛ばしてる願掛けって、その神様たちに届いてるんですか?」

 華の質問に、コヒガミは窓の外を指さすことで答えた。華が近寄った窓辺の外に広がる夜空に舞っていたのは、鴉たち。

「カラスが届けてくれるんですか?」

 どおりでさっきから家の周りで鳴き声がすると思ったら。

《うむ……あー、こりゃまた……》

 コヒガミが痺れたという表情をしている。華が窓の外を見るのを止めて振り向くと、コヒガミはにやりと笑って、

《華、華。いま流行りのやつが来よった来よった》

 と小躍りまでして楽しそう。指さす願掛けはピンクベースなのに、何やら黄色っぽい。

《お兄ちゃんと結婚したい! じゃと。しかも既に密通済みじゃ。おまけに兄者の恋人の速やかなる死までねごうておるわ》

 では、こやつは呪殺専門の神に。コヒガミはそうつぶやいて爪弾き。数秒後、外で鴉が鳴いた。

「信じられない……」

 華は胸が悪くなってきた。歪んでいる。どうしてこんな……


4.


 そんな調子でまた3つほど弾いた後、コヒガミはすうっと息を吸い込んだ。残った願掛けはすべて桃色。……いや違う。黒い願掛けが2つだけ残っている。

 床にへたり込み、もはや何も問わず見つめる青い顔の華。その顔をちらと見たコヒガミは、すぐに無表情で願掛けに向き直ると両手を前に出して、願掛けの集団全体を包み込むような手つきをした。そして眼を閉じた彼女が胸に両手のひらを置いて、なにやら呪文――華にはさっぱりわからないが、神主さんの祝詞のようにも聞こえる――を唱え始める。

 すると、コヒガミの体が桃色に発光し始め、先の願掛けがその光に吸い寄せられるようにコヒガミの体に張り付き、吸収されていくではないか。祝詞の詠唱と桃色の発光と、どちらが先に終わったかはわからない。あとには、ふうとため息をつく神が一柱いるのみであった。

 その顔を見つめていた華は、あることに気づいた。残っているのだ。黒い願掛けが2つとも。そのことに言及しようとした華を、コヒガミは手のひらで制した。

「えと……今ので、願いを聞き届けたことになるんですか? コヒガミさまが」

 うなずくコヒガミの、先程来の憂い顔を見て華は呆れる。

「ふーん、これで100組くらいのカップルが誕生したわけですか」

《なにゆえ?》と突如驚くコヒガミ。華も驚いて問い返すと、コヒガミは笑いながら答えた。

《わらわは、えーと、当世風にフラグと言えばよいかの、そういった関係が好転するきっかけを男女の間に与えてやるだけじゃ。考えてもみよ。わらわに数秒祈るだけで恋仲確定なら、今頃この世は連れ合いだらけじゃぞ?》

 確かに、チサトや五月は以前もお参りに行っていたそうだが、その片思いが成就したとは聞いてない。そして華は思い出す。コヒガミがなぜ2人の想い人を代えたのかという問いに、まだ答えてもらっていないことを。

《待たせたの》

 コヒガミが、ゆっくりと華に近づいてくる。床をまるで滑るように。

 その黒く大きな瞳に見つめられて身動き一つできない華。窓の外の鴉の鳴き声は止んだ。いや、何も聞こえない――

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