第25話
白羽によって電源を切られてしまったのだろうか? ほとんどの照明が点いておらず、廊下が薄暗い。暗い中を奉理は、懸命に走る。走りながら、懸命に考える。
「俺はこれから……どうすれば良い!?」
校舎から飛び出して逃げる事はできない。出ればすぐに教師達に見付かるだろうし、見付からずとも、学園の敷地から出るのは相当困難だ。出れたとしても、鎮開学園の制服を着ている人間が敷地外を歩いていれば、即座に脱走者だとバレて通報されてしまう。
かと言って、白羽に発見されてしまった以上、校舎内に留まっていれば捕まるのは時間の問題だ。
白羽は、この場所の事を知っているのは奉理と知襲、白羽の三人だけだと言った。なら、このまま校舎内のどこかに隠れて……白羽が隙を見せたところで襲い掛かり、動きを封じるか?
……それも駄目だ。理事長が行方不明にでもなれば、それこそ教師達が山狩りのような事でもして捜索をするだろう。そうなれば、この地下校舎の存在はきっと、明るみに出る事になる。
考えても考えても、埒が明かない。埒が明かないから、考える事を止める事ができない。奉理は、考える事に集中力を注いだ。だからこそ、周囲への注意が散漫になった。
気付いた時には、もう遅かった。土間の付近で、足が、何かに引っ掛かる。次いで、バチンという音がして。それとほぼ同時に、奉理の足を衝撃と激痛が襲った。
「うあっ……!」
痛みにのた打ち回りながら、何とか首を巡らせ、足に目を遣る。薄暗いが、大体の物は判別がつく程度に見える。そして、奉理は信じ難い物を目にした。
足に、鋼鉄の罠が噛みついている。野山に仕掛ける、獣用の罠。確か、トラバサミという奴だ。物によっては、誤って踏んでしまった人間の足の骨を粉砕するほどの威力を持っているというシロモノだ。
「そんな物が、何で……」
「仕掛けておいたから、に決まっているじゃないですか。君が逃げ出した時のためにね……」
コツ、コツ、という硬い音と共に、廊下の向こうから白羽が歩いてくる。技術室かどこかから持ってきたのだろうか、万力を手にしているのが見えた。
白羽は奉理に近寄ると、万力でトラバサミの歯をこじ開けた。解放された足から血が流れるが、幸い、骨が砕けてはいないようだ。
「骨の心配は要りませんよ。これは、人間用に威力を弱めた物ですから」
言いながら、白羽はポケットから白く大きなハンカチーフを取り出し、奉理の足に縛り付ける。白い生地が、あっという間に赤く染まった。
止血を施されている間に視線を巡らせれば、似たようなトラバサミがあちらこちらに転がっている。
理科室へ来る前に、これを仕掛けておいたのか。地上へ出るにしろ、校舎内に留まるにしろ。奉理が一度はこの土間へ近付くと踏んで。
「平均よりも元気とは言え、私はこの通りの老人です。地上までは、自分で歩いて頂かなくてはいけませんよ」
その顔は、優しく微笑んでいる。だが、目は少しも笑っていない。奉理は、全身が寒くなるのを感じた。これは、血が抜けたからだけではない。
止血作業を終えると、白羽は立ち上がり、奉理に手を差し伸べてきた。この手を取り、立ち上がり、そして白羽と共に学園へ戻れ、という事だ。生贄として、命を落とすために。
「……何で……」
立ち上がろうとしないまま、奉理はぽつりと呟いた。白羽が、眉をひそめる。
「何で、こんな事……するんですか? どうして……」
「どうして? ……どうしてだと、思いますか?」
質問に質問を返され、奉理は押し黙った。わかるわけがない。地下校舎の存在を知った者を生贄に選んで命を奪い、捕えるためならば残酷な罠を仕掛ける事も厭わない。そんな事をする理由が、十五年間、平和に平凡に生きてきた奉理に、わかるわけがない。
「……私はね、三十年前まで……私立の女子中学校を経営していました」
この足では、多少無駄話をしたところで逃げられないと踏んだのか。落ち着いた声音で、白羽は言った。
清廉花女子中等学校。小野寺のメモ帳に書かれていた単語が、奉理の頭に脳裏に蘇る。奉理の顔を、白羽はじっと見詰めた。
「その様子ですと……柳沼くんは、既に知っているようですね。そう……清廉花女子中等学校。私が経営していた学校。……この地下校舎の、本来の名前です」
そう言って、白羽はぐるりと、校舎内を見渡す。その表情は、どこか懐かしそうで、懐かしむようで。
「清廉花女子中等学校では、特にマナーや礼儀作法の実践を厳しく指導していました。これは、私の信念に基づきます」
「……信念?」
「えぇ」
頷く所作も、再びしゃがみ込む姿も。白羽の動作は、一つ一つが丁寧だ。経営する学校で、マナーや礼儀作法に力を入れていたという話にも説得力がある。
「人は等しく、礼儀正しくあるべきです。相手を敬い、無礼が無ければ、要らぬ争いは避けられます。そして、常に姿形、言葉遣いを美しく保とうとする姿勢は、心に落ち着きを与え、冷静な判断力を守ってくれるのです」
それは、奉理にも何となくわかる。あの時……林の中で無様に泣きじゃくっていた時。無様な姿は晒すまいと堪える事ができたなら、きっと知襲が現れなくても、独りで冷静になれた。
「ですが……昨今の……いえ、数十年前から、人々の礼儀というものは実に嘆かわしい物となってしまっています」
白羽の顔が曇る。奉理は、空気が更に冷えたように感じた。
「子どもは大人を敬わず、大人は他人を敬わず、人々は国を想わない。このような事で、どうして国が保てるでしょう? 国が保てなければ、どうして人々は平穏に暮らしていけるでしょう?」
そんな事を言われても、奉理にはどう答えれば良いのかわからない。今まで、そんな事は考えた事も無い。
「こうなってしまっては、もはや道徳の授業や、家庭の躾のみでどうこうなる話ではありません。だとすれば、あとはもう……恐怖という名の力に頼る他は無い……私は、そう考えました」
空気の冷えは、次第に増していく。奉理は耐え切れなくなり、両の腕で自らの肩を抱いた。
「だから、研究したのですよ。何者にも負けず、人々に恐れを抱かせるに足る存在。それを、この世に生み落とす方法を」
脳が痺れた。全ての感覚が麻痺し、体から動きを奪っていくような気がする。
「結構な時を費やしましたがね。それでも、国から秘密裏に援助があった事もあり、最終的には完成させる事ができました。強い力を持ち、人の言葉を解し、食物として人を好む。私達の理想を実現する一助となる生物をね。……おや、どうしましたか? 顔色が先ほどよりも優れぬようですが。私はそんなにおかしな事を申しましたかね?」
奉理は、自分の顔が引き攣っている事がわかった。目も、見開かれていると思う。国からの援助? じゃあ、あの多くの人々を不安に突き落とし、悲しませている生贄の儀は、国が推奨して行っている事だというのか? あの化け物も、白羽理事長と国が結託して生み出した?
「人の質が落ちれば、国の質も落ちます。当時の政府は、ある程度の犠牲を払ってでも、人の質を上げたかったのでしょう。……もっとも、あれから三十年が経ち、当時の事を知る政界の人間は大分少なくなりましたが」
「……何で……。何で化け物を作り出す事が、人を礼儀正しくする事になるんですか……?」
声が、掠れる。言葉になっているかどうかも怪しい問いだったが、白羽にはちゃんと聞こえたらしい。顔が、どことなく誇らしげだ。
「人を敬わず、好き勝手に生きる者は有事の際、いの一番に生贄にされてしまう。そんなシステムが確立されれば、形だけでも礼儀正しくしようとする者が増える。そう、思いませんか? 初めのうちは形式上だけだったとしても、やがて習い性となり、多くの人々は自然と襟を正し、人を敬って生きる術を身に付けるようになります。そして、いずれこの国は、地球上で最も礼儀正しく、誇り高い人々が住まう国となる。それが、私達の狙いなのですよ」
「けど……鎮開学園の生徒は……そんなんじゃない。強制推薦で選ばれるのは、みんな……」
「……そうですね……」
白羽は、フッと悲しそうな顔をした。
「今、鎮開学園に在籍している生徒達は……本来ならば、生贄には選ばれない側の善良な人間ばかりです。真面目で争いを避け、和を尊ぶ。私達も、できれば君達のような生徒を生贄に出したくはありません。ですが……」
いきなり本命の層を生贄に選んだら、暴動が起きるでしょう? そう、白羽は事も無げに言った。
「得てして、礼儀を持たぬ者は想像以上の行動力を発揮する事があるのですよ。生贄という前時代的な話に突然巻き込めば、どうなる事か……。ですから、まずは少しずつ、世間に生贄の必要性を浸透させていく必要がありました」
そして、誰もが生贄の儀を当たり前の物として受け入れるようになった時。鎮開学園強制推薦枠の条件を緩和する予定なのだという。
容姿が並以上で成績は可も無く不可も無く、性質は問題が無く温厚。この条件から、性質に問題が無い……という項目を除く。
こうなれば。容姿と成績が同程度であれば、選ぶ側の教師は迷わず手を煩わされている方の生徒を選ぶだろう。鎮開学園に入学してから問題を起こした生徒は、即座に生贄にしてしまえば良い。
生贄にされたくなければ、どれだけ不満があろうとも、学園内で大人しくしている事だ。生贄が世間で当たり前の物となってしまえば、不満分子を助けてくれる者はいなくなるだろう。脱走しても通報され、それどころか家族全員が世間から白い眼で見られる事となる。
「そうして、少しずつ条件の下限を緩めていき……逆に、上限は厳しくするようにします。そして最後は、世間的に好ましくない者だけが鎮開学園に入り、生贄として散っていく事となる。今は、その状態になるための過渡期なのですよ……」
奉理が生まれるのが、あと十年遅ければ。中学で全く同じ人員であったとしても、奉理が強制推薦枠に選ばれる事は無かったのかもしれない。
言葉を失くし、奉理はただ茫然と、白羽を見詰める。白羽自身は、その視線をどう受け止めているのか……。
「さぁ、これで話はおしまいですよ。そろそろ学園に戻ります。先生方も、生徒達も、君が逃亡した事で不安を募らせているでしょうしね。……立ってください、柳沼くん」
促され、奉理は素直に……しかしノロノロと、立ち上がろうとした。だが、立てない。どうやら、腰が抜けてしまっている。足も震えている。腕に力が入らない。
全身が、立って鎮開学園に戻る事を拒否している。
「……どうしましたか?」
「……立て、ません……」
ガクガクする口で何とか言うと、白羽はふぅ、とため息を吐く。ため息を吐く姿までも品が良い。
「仕方がありませんね。戻れば、君は生贄にされるのを待つばかりとなるのですから。しかし、だからと言ってこれ以上待つ事はできません。アダムに生贄を与えた事で、賽は投げられたのです。生贄の儀を無くす事は、今や不可能となりました。君が生贄にならなければ、代わりに誰かが生贄になるのですよ。結局、誰かが犠牲にならなければいけないのですから。君は、それでも良いのですか? 柳沼くん」
覚えのある言葉に、奉理は身体をビクリと震わせた。自分が生贄にならなければ、代わりに誰かが犠牲になる。中学三年生の時、強制推薦枠に選ばれるかもしれないとなった時に。奉理の周りで囁かれていた言葉だ。
結局は誰かが犠牲になる。自分がそれを受け入れれば、他の誰かを死なせずに済む。その言葉に奉理は精神を苛まれ、三年生の終わりにはすっかり憔悴していた。
思い出し、呼吸が速く、荒くなる。口が渇き、目に涙が溜まる。駄目だ、これ以上逃げる事は、奉理にはできない。
観念するしかない。そう思った途端、腕に力が入るようになった。抜けていた腰が、何事も無かったかのように戻っている。足はまだ微かに震えていたが、それも立ち上がるのを妨げるほどではない。
奉理は立ち上がった。白羽は満足そうに頷き、懐からペンライトを取り出す。小さな光で、足元を照らした。地雷のように仕掛けられた、複数のトラバサミが見える。今度は踏まぬように歩け、という事らしい。奉理を先に歩かせるのは、再びこの地下校舎内に逃げ込まれるのを防ぐためか。
またトラバサミを踏んだりしないよう足元に気を付けながら、傷付いて痛む足を引き摺りつつ奉理は階段へと向かう。この足であの階段を地上まで上るのかと思うと、今までとは違う意味で気が滅入りそうだ。
重い足と重い気持ちを引き摺って、奉理は何とか土間を通り抜ける。そこで一旦立ち止まって呼吸を整え、背後の白羽をちらりと見た。目が、「早く行け」と言っている。
抵抗は、無意味だ。奉理は諦め、地上へと続く階へと踏み出そうとした。
「待ってください!」
知襲の声が、それを止めた。階を踏むはずだった足は元の床を踏み、奉理は背後を振り返る。
そこには、想像に違わず、知襲が立っていた。汗一筋も流さず、呼吸一つ乱さず、しかし顔色を変えて。思い詰めた表情で、白羽の事を睨んでいた。
「知襲……まだ邪魔をする気ですか?」
どこかうんざりとした顔で、白羽が知襲に向き合った。白羽の視線が己から外れ、奉理は呪縛が解かれたように気が抜けた。再び足腰が力を失い、その場にへなへなと座り込んでしまう。
「……駄目です。お父さん、もう……やめてください。これ以上、誰かを犠牲にするのは……もう……」
「やめたところで、化け物は既に全国に散らばり、増え続けているのですよ。生贄を出さずとも、誰かが犠牲になります。生贄を出した方が、犠牲は少なくて済む。知襲も、わかっているでしょう?」
小さな子どもをあやす様に、白羽は優しい声で言う。だが、声音は優しくとも、気配は凍えるように冷たい。それを感じているのだろう。知襲は、身震いをし、少しだけ体を縮こませた。だが、それでも負けじと顔を上げ、泣きそうな顔になりながらも、必死に抵抗の声をあげる。
「倒せば良いんです! 全ての化け物を倒してしまえば、誰も死なずに済むじゃないですか!」
「どうやって倒すのですか? 奴らには、自衛隊でも敵わなかったのですよ? まさか、物語のように勇者が現れるのを待つと言うわけでもないのでしょう?」
「それは……!」
言葉を詰まらせ、知襲は口をつぐんだ。そんな知襲に、白羽はくすりと冷たく笑う。
「アダム細胞破壊毒……ですか? 堂上明瑠さんの遺した」
白羽の口から出た言葉に、知襲はぎくりと身を強張らせた。その名前に、奉理は覚えがある。理科準備室にあった、例の毒薬が入っていた瓶に貼られていたルーズリーフのお手製ラベル。そこに、書いてあった。
白羽の顔が、醜く歪んだように感じた。背を向けられているので、顔を見る事はできない。だが、気配でわかってしまう。嗤っている。悪魔が憑りついたような顔で、嗤っている。
「そう……そうです。忘れていました。あの毒薬がどこにあるのかを、訊かなければいけませんでしたね。あの化け物達に致命傷を与える事ができる、人類唯一の武器。堂上さんが生み出した、私達の理想の実現を妨げる……あれを、処分しなければいけませんからね」
そして白羽は、奉理の方へと視線を遣った。悪魔の顔に、奉理は一瞬、呼吸を忘れてしまう。
「柳沼くん……あの毒薬はどこにありますか? あの儀式で化け物を倒した君なんですから、当然、知っているでしょう? 化け物達は、あの毒薬無くして倒す事はできないのですから……」
言いながら、白羽はしゃがみ込み、奉理に視線を合わせてくる。だが、その視線は奉理の目だけを見てはいない。シャツに、ズボンに、靴に。全身を観察するように見詰めている。
「それとも。今も持っているのですか? あの忌まわしい毒薬を、その身体のどこかに、隠しているのですか?」
白羽の腕が伸びる。奉理は何とか逃げようと、抜けた腰に力を入れようと試みる。何とか動ける、後ずさろうとする。だが、真後ろは階段で、後ずされない。
立ち上がらなければ逃げられない。だが、立ち上がろうにも、上手く立ち上がれない。
「お父さん、やめて! 柳沼くん! 逃げてください!」
知襲の声が、何故か遠く聞こえる。
逃げ遅れた足を、白羽の腕が掴んだ。奉理が上履きを脱がせ、中に何も入っていない事を確認し、次にスラックスのポケットをまさぐる。気持ちの悪い感触に、奉理は思わず白羽を突き飛ばした。
白羽はバランスを崩して尻餅をつく。だが、すぐに体を起こし、奉理の胸ポケットを見た。
「靴やスラックスに隠している様子はありませんね。では、隠しているとしたら……」
思わず、奉理は胸ポケットを抑えた。そしてすぐに、それが非常にまずい行為であった事に気付く。
「ああ、やはりそこですか。……いけませんねぇ。定石通りに上から調べていれば、無駄な時間を費やす事も、あんな風に尻餅をついてしまう事も無かったでしょうに」
そう言って、白羽は奉理の胸ポケット目掛けて腕を伸ばそうとする。
「お父さん!」
知襲が、泣きそうな声で叫ぶ。
「やめて! やめてください! こ、これ以上は……本当に、あ、ア……」
「アダムを呼びたければ、呼びなさい。彼に見られても良いのであれば、ですが」
冷たく、吐き捨てるように言った。知襲は、震えている。そんな彼女を尻目に、白羽は腕を伸ばす。
「やめてください……やめてぇぇぇぇっ!」
悲鳴とも、絶叫ともとれる。そんな知襲の声が辺りに響き渡るのと、白羽が急にくずおれたのは、ほぼ同時だった。
「……え?」
突然の出来事に、奉理も知襲も言葉を失い、呆然と倒れた白羽の体を見詰めるしかできずにいる。
何かが、白羽の体に突き刺さっていた。赤く、そして点滴のチューブのような細い管。白羽の体から、まっすぐに暗い廊下の奥へと伸びている。
「なに……これ……」
「おとう、さん……? お父さん!?」
知襲が顔を真っ青にして駆け寄った時、白羽に突き刺さっていた管がぼこりと膨れ上がった。膨らみは、布を被せられた小動物のように動き、廊下の奥へと移動していく。
廊下の奥に、何か、いる。それを認識した時、奉理は威圧感を覚えた。この感覚には、覚えがある。自分の力では抗いようも無い、とてつもなく強い何か。それが、こちらへ段々と近寄ってくる。
「あの時と、同じ……? 静海の、儀式の……」
似ていた。静海を生贄として犯そうとしていた、あの山の主の気配に。あいつは、倒したはずなのに。だから、今ここに奉理がいるはずなのに。
「あー……くそまじぃな」
ドスの効いた声が聞こえた。奉理は咄嗟に白羽の手からポケットライトをもぎ取り、声の聞こえる方へと光を向ける。
蝙蝠のような羽が見えた。青黒い肌が見えた。虎の瞳が、鋭い牙が、漆黒の体毛が見えた。宙に浮いている。あの赤い管が、掌から生えている。
間違い無く、あの山の主の同類。そう断言できる化け物の姿が、光に照らされ浮かび上がった。
化け物は、赤い管の伸びる右腕を勢いよく一振りする。管は鞭のようにしなり、その動きに合わせるようにして白羽の体からもう一度、そう動物のような膨らみが生まれて動き出す。
「うぐはっ!」
白羽の体が、ビクンと大きく痙攣した。その体が、次第に土気色に染まる。次第に、古木のように枯れていく。
「な……!」
言葉を失い、奉理は白羽と化け物を交互に見る。小動物のような膨らみが、化け物の掌に辿り着き、そして掌の中に消えた。一瞬、ごくん、という音が聞こえる。
「はい、ごちそうさん」
化け物がべろりと、長い舌で舌なめずりをした。すると、それが合図であったかのように。白羽の体が茶色くなり、そして土くれのようにぼろりと崩れた。
「……!」
「お父さ……!」
奉理は目を見開き、知襲が悲鳴をあげる。その様子に、化け物は不満げに顔を歪めた。
「おいおい、何で悲鳴なんかあげるんだよ。あんたが、やめて、とか言うから、こんなまっじぃジジイを食ってまで止めてやったんだぜ、母者?」
「……え?」
奉理は、我が耳を疑った。今、この化け物は何と言った?
「母……?」
奉理の呟きに、化け物は舌打ちをした。ひらひらと、右腕を振る。
「あーあー、やってられっか。……おい、母者。俺は地上に出るぜ。地上で、好きな場所で自由に暮らして、好きなモンを食うんだ。あんなジジイじゃなくて、母者。あんたみてぇに、若くてキレイな娘をよ」
知襲は、何も言わない。ただ、小刻みに震えている。化け物は、宙に浮いたまま奉理の方へと向かってくる。……いや、奉理ではなく、その後の階段――地上への出口を目指しているのか。
すれ違いざま、化け物は低い声で囁いた。
「お前は見逃してやるよ。野郎の味なんざ、あのジジイ一人で充分だ」
そして、そのまま行ってしまう。奉理の足では追う事もできず、後には、奉理と知襲の二人だけが残された。
知襲は、まだ震えている。奉理は、何と声をかければ良いのかわからない。
「あ、あのさ……知襲……」
声をかけられた瞬間、知襲の体がびくりと大きく震えた。小刻みだった震えが、大きくなる。
「や、柳沼くん……ご、ごめんなさい……」
「え?」
意味がわからず、奉理は怪訝な顔をした。
「ごめん、って……何が……?」
「ごめんなさい……ごめん、なさい……!」
謝る以外に、知襲は何も言わない。繰り返し繰り返し、謝り続ける。奉理は、どうしたら良いのかわからない。わからないまま、おろおろと辺りを見渡した。
「ウゥ……グゥオオォォォアォォォァァォォォ!」
「!?」
唸り声が。突如、辺りに響き渡った。……そうだ、すっかり忘れていた。この校舎には、まだあれがいるはずなのだ。大型の肉食獣のような唸り声をあげる、何かが。あの理科室の上にある、体育館に。
「知襲、あれ……」
注意を促そうと視線を知襲に戻した時。知襲は、走り出していた。奉理に背を向け、廊下の向こうへと。
「え、知襲……!?」
わけがわからず、奉理は立ち上がる。急いで後を追おうとするが、トラバサミで負った傷が痛み、思うように動けない。
「……くそっ!」
悔しさから呟き、足を引き摺りながら知襲の足取りを追う。恐らくだが……行き先は、体育館だ。
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