第15話
「勘って……。それに、俺次第って……?」
奉理は、困惑しながらも理科室の扉を開けた。ツンと鼻をつく薬品の臭いが、室内に満ちている。一歩足を踏み入れれば、埃の臭いも感じられた。
「あ、照明のスイッチは、入ってすぐに右側の壁です」
知襲に教えられ、奉理は照明のスイッチを探し出し、押した。パチリという音と共に、室内がパァッと明るくなる。
室内にはガスの元栓と蛇口とシンクが備えられた机が並んでいる。黒板の真正面、教室の後側にあたる壁際には、スチール製の棚がずらりと。棚の扉にはめられたガラスの向こうには、骨格標本に人体模型、ホルマリン漬けの魚類や爬虫類、上皿天秤やビーカーといった実験器具、その他様々な物が仕舞われているのが見えた。
「何か……いかにも理科室、って感じだね」
率直な感想を言う奉理に、知襲は「そうですね」と微笑みながら頷いた。それから、おもむろに笑みを収め、右腕を上げると、九つ並んでいる机のうち、真ん中にある物を指差した。
「柳沼くん。あの机を……あの机の、シンクを調べてみてもらえませんか?」
「え? 良いけど……」
首を傾げながら、奉理は真ん中の机に近寄り、シンクを調べた。見たところ、特におかしな点は無い。栓を捻れば、まだ電気と同様に水道も生きているらしい。蛇口から、勢いよく水が流れ出した。
すると、カラン、という金属音が奉理の耳に届く。どこから聞こえてくる、何の音だろうかと、奉理は耳を澄ました。音は、水音に掻き消されそうになりながらも、断続的に聞こえてくる。
カラン、コン、カラコロカラコロカラ……コン、カン、カラン。
もっとよく音を聞こうと、奉理は水道の栓を閉める。蛇口から流れる水が止まり、コポコポという音をたてながら排水口へと流れ込んでいく。それと同時に、金属音が止んだ。
「……?」
怪訝な顔をして、奉理はシンクを見詰める。その間にも水は排水口に吸い込まれていき、コポコポと音をたて続ける。やがて水は全て流れ切り、最後に一度だけ、カラン、という音がした。
「……!」
音の出どころを確信し、奉理は排水口のカバーを取り外した。カバーの下には金属製の網がセットされており、そこに一本の鍵が落ち込んでいた。
「これ……」
鍵を拾い上げ、奉理はまじまじと見詰めた。デザイン的に、家の鍵ではないようだ。小さくて、シンプルで、溝もそれほど多くない。学習机や、棚に使われるような鍵だ。
「……と、いう事は……」
奉理は、鍵を持ったまま、教室の後方へと移動した。棚なら、この教室にはたくさんある。その中の一つの鍵穴に、奉理は今手に入れたばかりの鍵を差し込んだ。
だが、鍵は回らない。どの棚の鍵穴に差し込んでも、だ。どうやらこの鍵は、これらの棚の物ではないらしい。
「あの、柳沼くん……」
期待はずれな結果にがっくりと肩を落とす奉理に、知襲がおずおずと声をかけた。奉理が振り向くと、知襲は教室の前方を指差して見せる。
「鍵穴があるのは、棚だけじゃないですよ。ほら……」
言われて、奉理は知襲の指の先を見た。教諭用の、スチール製机がある。近寄ってみれば、なるほど。右手側一番上の引き出しには、鍵穴がある。試しに何もしないまま手をかけてみたが、引き出しは開かない。鍵がかかっているようだ。
そこで、奉理は小さな鍵を引き出しの鍵穴に差し込んでみた。今度は、回る。カチリという音がして、引き出しの鍵が開いたのがわかった。
「開いた。鍵……」
「……その引き出しを、開けてみてください」
何やら絞り出すような声で、知襲が言った。言われた通りに、奉理は引き出しを開ける。
「……また、鍵?」
引き出しの中には、先ほどと同じような小さな鍵が入っていた。今度は、一本ではない。何本もの鍵がリングに通され、束になっている。その内の一本には、目印にするかのように赤いビニールテープが貼られていた。
「……この鍵を使え、って事かな?」
「……そうだと、思います」
鍵束を見詰める奉理に、知襲が頷いた。奉理はキョロキョロと視線を動かし、最後に教室後方を見詰める。
「束になってるし……今度こそ、この棚かな?」
移動して、赤いテープの鍵を、一つ一つの棚に差し込んでみる。鍵は今度も中々回らなかったが、最後に。右端の、窓際の棚の、下段の鍵穴に差し込んだ時、何の苦も無くするりと回った。カチリという音が聞こえ、スライド式の扉が開く。
中を覗いてみれば、物はあまり入っていなかった。埃だらけのビーカーが二つと、顕微鏡の物らしい箱が三つだけ。これらに、何かあるのだろうか?
不可解に思いながらも、一応調べてみようと奉理はそれらを順番に棚から取り出した。すると、おかしい。三つある顕微鏡の箱の内の一つが、明らかに軽過ぎる。顕微鏡が入っているのであればずっしりと重いはずだが、これだけは何も入っていないかのように軽い。
……いや、何も入っていないわけではないようだ。揺らすと、中からカラカラと何かが動く音がする。奉理は、直感に従って迷わずその箱を開けた。中には、一本の鍵が入っていた。
「これも鍵!?」
見付けた鍵で開けた机の引き出しに入っていた鍵で開けた棚の中にあった箱の中に鍵。ロシアのマトリョーシカを思い出しながら、奉理は新たな鍵を取り出した。
鍵にはプラスチック製のプレートが括りつけられており、プレートには「理科準備室」と黒のマジックで書かれている。
「理科準備室……と言うと、あそこ、かな?」
奉理は立ち上がり、振り向いた。先ほど調べた教諭用の机。その後に、壁と同色の扉がある。奉理はその扉に向かい、ドアノブの中心にある鍵穴にその鍵を差し込んだ。鍵は問題も無く簡単に回り、ガチャリと音をたてる。
「……」
鍵が開いた扉と、背後に立つ知襲を、奉理は交互に見た。知襲は、どこか緊張した面持ちで頷いている。奉理も頷き、扉のドアノブをゆっくりと回した。扉が、ギギ……という音をたてながら開く。
足を一歩踏み入れて、奉理は扉付近の壁を手探りした。照明のスイッチに指が触れ、それを押す。
明るくなった室内を見れば、そこにはどこの学校の準備室もそうであるように、机と、薬品棚が置かれている。特に変わった点は見受けられない。
だが、知襲は奉理に続いて準備室の中へと入ると、迷わずに奥の棚へと視線を向けた。
「柳沼くん。あの棚……開けてみてください」
「棚? けど、鍵は……」
言いながら指差された棚を見て、奉理は「あ」と呟いた。知襲が指差す棚には、鍵がかかっていない。その証拠に、扉が少しだけ開いている。
隙間に手を差し込み、扉を開けた。その時、何かが手に引っ掛かって落ち、チャリンという音をたてる。拾ってみれば、小さな鍵だ。何があったのか、一部が酷く曲がっている。恐らくこの棚の鍵なのだろうが、これでは使えそうにない。
「だからこの棚、扉が開いてたのか……」
呟きながら、奉理は棚の中を検分した。授業などで聞いた覚えのある名前の薬品名が書かれたラベルが貼られた瓶が、いくつも並んでいる。
中には、名前の効き覚えはあるが性質をど忘れしてしまった薬品名もある。不用意に触って、怪我をするといけない。奉理はポケットから皺の付いたハンカチを取り出し、それを手袋代わりにして瓶を掴んだ。そして、一つずつ取り出しながらラベルの薬品名を確認し、空いている机の上に移していった。
「……あれ?」
奥の方に仕舞われていた大きめの茶色い瓶を手にした時、奉理は首を傾げた。この瓶だけ、ラベルの字が手書きで書かれている。紙もシールではなく、小さく切ったルーズリーフをセロハンテープで貼り付けてあるだけだ。
ルーズリーフ製のラベルには、丁寧な文字で「アダム細胞破壊毒」と綴られている。
「……アダム細胞、破壊毒……?」
とりあえず小さく声に出してみたが、全く聞き覚えの無い名前だ。そもそも、アダム細胞とは何なのか。
「あ、それです!」
首をひねる奉理の後から知襲が覗き込み、ラベルの文字を読み取って叫んだ。その声に驚き、奉理は思わず瓶を取り落としそうになる。
「うわっ!? たっ、た!?」
辛うじて落とさずに済み、奉理は瓶を抱きかかえながら安堵のため息をついた。
「あ、済みません……。驚かせてしまって……」
「良いよ。瓶も落とさずに済んだし。それで……ひょっとしなくてもこれが、その……静海を……俺のクラスメイトを、助ける事ができる力……?」
瓶を眺めてから知襲を見詰める奉理に、知襲は「はい」と頷いた。
「その薬……いえ、毒には、今この世の中を騒がせている化け物達の細胞を破壊する事ができる効果があるらしいんです。皮膚から吸収されますので、飲み込ませる必要もありません。遅行性で、摂取してから効果が出るまでにほんの少し時間はかかるようなんですが……。それでも、例えばこれを武器に塗って、その武器でかすり傷でも負わせる事ができれば……!」
「……!」
知襲の言葉に、奉理の目は見開かれた。もしそれが本当なら、この瓶の中身を使えば化け物を倒せるという事になる。つまり……。
「これがあれば、静海を助ける事ができる? ……静海だけじゃない。これから生贄に選ばれる人達、全員を……」
奉理は目を輝かせ、瓶を見詰めた。そんな彼の耳に「ただ……」という知襲の暗い声が届く。
「さっきも言いました通り、その毒を塗った武器で傷付ければ、かすり傷でも化け物達は死ぬらしいです。けど、その傷を付けるためには……」
「あ……」
知襲の言わんとする事がわかり、奉理は息を呑んだ。傷を付けるためには、その毒を塗った武器を持って、誰かが化け物に立ち向かわなければいけない。そして、それができるとしたら……それは、化け物の最も近くまで行く生贄か、儀式の直前まで生贄の傍にいる介添人か。
「静海に今から渡すのは……無理だな。もう、生贄に選ばれて、先生達の監視下に入っちゃってるし……」
……となれば、どちらが化け物に立ち向かうにせよ、奉理が介添人にならなければいけない。差し入れができるほど、生贄の監視は甘くない。これから介添人に選ばれる者が、毒を隠し持った状態で儀式の場まで行くしかないだろう。介添人になる者が、必ずしも信用できるとは限らない。
確実に毒を儀式の場に持ち込むには、奉理が介添人になる他は無い。それに、毒以外にも武器も持ち込まなければいけない。両方を持ち込めたとして、その後どうやって化け物に立ち向かう? 介添人は基本的に化け物には近寄らないし、生贄は持ち物や衣装を徹底的にチェックされる。武器なんて持たせたところで、即座に見付かって没収されてしまうのが関の山だ。
瓶を見詰めながら唸る奉理に、知襲が「あの……」と遠慮がちに声をかけた。
「間違っていたら、済みません。一週間後に、柳沼くんのクラスメイトが生贄にされる儀式って、場所は確か、刷辺市の山の……」
「? そう、だけど……?」
首肯する奉理に、知襲は小さな声で「やっぱり……」と呟いた。そして、「なら、大丈夫です」と少しだけ明るい声で言った。
「その儀式なら……介添人が、武器を持って化け物の近くまで行く事ができるはずです」
「え!?」
奉理が驚いて叫ぶと、知襲は少しだけビクリとして後ずさり。すぐに体勢を立て直すと、思い出す仕草をしながら早口で、しかしはっきりとした声で言う。
「その……刷辺市の化け物は、生贄に細君となる女性を求めているんです。ですから、生贄の儀はそのまま、嫁入りの儀にもなって……山の中腹に造られた庵から、山頂の庵まで、生贄を歩かせる事になるんです。山には人に襲い掛かる野生動物もいますから、それらから生贄を守るため、武器を持った従者役が必要になります」
「その役を……介添人が、やる事になる?」
「はい」
頷き、知襲はどこか、期待するような眼差しを奉理に向けた。
「それに、確か……中腹の庵から、山頂の庵へ行くまでの間には、暗い林を抜けなければならない道が一か所ありました。山頂までの道では、テレビカメラなどの監視は一切無い筈ですから……この林に入ってしまえば。生贄に武器を渡す事も、生贄と介添人が服を交換して、入れ替わる事も可能だと思います」
「……」
知襲の話に、奉理は考え込んだ。確かに、この話の通りであれば、武器を持ち込む事も、それで化け物に攻撃を仕掛ける事もできる。唯一心配なのはこの毒薬を持ち込めるかどうか、だけだが、それぐらいなら何とかなるだろう。しかし、だからと言って……。
「……柳沼くん?」
奉理が震えている事に、知襲は気付いた。カタカタと、小刻みに。時折、カチカチという歯が鳴る音も聞こえる。
「それでも……やっぱり、怖いよ……」
瓶を両手で持ったまま、奉理は絞り出すように言った。その様子を、知襲は黙って見詰めている。
「確かに、それが本当なら、何とかなるかもしれない。化け物を倒して、静海を助ける事ができるかもしれない。……けど、それ、俺がやるん……だよね? 他にこの毒の存在を知ってる人なんていないし、当日いきなり言われて、静海が対応できるかもわからないし……」
「……はい」
知襲は、頷いた。
「もし、毒を上手く持ち込めなかったら? もし、静海と上手く入れ替わる事ができなかったら? もし、俺が攻撃を外したら? もし……毒が化け物に、効かなかったら……?」
奉理の声は、次第に小さく、弱々しくなっていく。それと比例して、少しずつではあるが、次第に知襲の顔が険しくなっている事に奉理はまだ気付いていない。
「もし、一つでも失敗したら……その場で殺されるんだよ? 何もしなければ、死なずに済んだのに。……俺だけじゃない。全く関係の無い、それこそ鎮開学園の関係者ですらない人までが、化け物の怒りを買って、殺されるかも……。それに、殺されずに済んでも……介添人になれば、先生達の印象に残って……次の生贄に選ばれるかもしれないし……」
「じゃあ、ずっと泣いているつもりなんですか?」
今までになく厳しい知襲の声に、奉理はハッと顔を上げた。険しいながらも、泣きそうな顔をしている知襲が、ジッと奉理を見詰めている。
「さっきみたいに、泣いているつもりなんですか? 我が身の不運と、無力さを呪って。ずっと、泣き続けているつもりなんですか!?」
「それは……!」
言葉に詰まり、奉理はギュッと目を閉じた。目を閉じ、知襲の言葉を頭の中で反芻する。すると、胸の裡に、先ほどのあの、惨めな想いが蘇ってきた。
己に降りかかろうとする災難を振り払う力も、命を落としそうになっているクラスメイトを救う手段も無いと思い知らされ、無様に涙を流し、嗚咽を漏らしていた時の、あの惨めな想いが。
そうだ、今ここで、怖くて逃げだしたりしたら……きっとまた、あのような想いをする事になる。……いや、力があるのに使わず逃げたのだとしたら、ひょっとすればそれ以上か……。
「……それは、嫌だよ。どっちの方が、とか、比べる事はできないけど……でも、殺されるのと同じか、それ以上に嫌だ……」
瓶をしっかりと持ち直し、立ち上がる。
「介添人にならなくたって、選ばれる時は生贄に選ばれるんだし……そうなれば、結局、死ぬんだし……」
ブツブツと、己に言い聞かせるように呟く。その様を、知襲は何も言わずに、見守っている。
やがて、奉理は大きく息を吐き、まっすぐに知襲の目を見詰めた。
「……知襲。俺、やってみるよ。介添人に、立候補してみる」
「……はい!」
微笑んで、知襲は頷いた。奉理も、黙って頷き返す。
「……そうと決まれば」
再び薬品棚に目を向け、奉理は瓶を一旦、机の上に置いた。そして、棚の中に仕舞われている物のチェックを再開する。知襲が取りに来させたのはこの毒薬だけのようだが、ひょっとしたら、他にも何か助けになるような物があるかもしれない。
「……ん?」
件の瓶が置いてあった場所のすぐ近くに、どう見ても薬瓶ではない物がある。黒くて、四角くて、薄っぺらい。
奉理は奥へと腕を伸ばし、それを取り出してみる。表面はビニールの感触がして、とても軽い。
「……これ、生徒手帳?」
取り出した物を見て、奉理は首を傾げた。それは確かに、それはこの鎮開学園の生徒手帳だった。こんな土中に埋もれた校舎の中の、棚の奥に仕舞われていただけあって全く色褪せていない。
……いや、色褪せていないどころではない。表紙のビニールも、中の紙も、ほとんど劣化していない。この生徒手帳は、まだ比較的新しい。
「ひょっとして、この生徒手帳って知襲の?」
「え?」
知襲が奉理の手元を覗き込む前に。奉理は何の気無しに生徒手帳の表紙を開いた。生徒の顔写真と名前が、奉理の目に飛び込んでくる。
「あっ……!」
「……え?」
どこか焦ったような知襲の声と、一瞬で魂を奪われたかのような奉理の声は、ほぼ同時に発せられた。
「え……これ、何で……? ……え?」
文章になっていない言葉を発しながら。奉理の目は、生徒手帳に釘付けになっている。
表紙を開いたそこには、高等部の女子生徒の顔写真が貼られていた。生徒の名前は、堂上明瑠。
一ヶ月以上前、生贄の儀で命を失った少女の名前が、そこには記されていた。
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