第14話

「来たか。……随分と遅かったな……」

 御簾の前に立つ生贄に、低い声がかけられる。

 この山の主にして、この度の儀式で生贄を受ける者。山の獣達を凶暴化させ、近隣の町々から明るさと華やかさを奪った、邪悪な者。元の生活を取り戻したくば、永久に異界で彼に仕える娘を寄越せと告げた、非道なる者。

 その声に気圧されてか、御簾を挟んだ生贄は中々動こうとしない。「むう……」と唸り、山の主は荒い鼻息を御簾へと吹き掛けた。鼻息で、御簾がゆらりと揺れる。

「どうした。何故動かない?」

「……」

 それでも動かぬ生贄に、山の主は痺れを切らし、自ら御簾を掻き分けた。そして、月明かりだけが頼りとなる薄暗がりの中、寝台を目の前にガタガタと小刻みに震える生贄を見る。

「怯えているのか? ククッ……これは良い。これまで周囲の慈悲によって守られ続けてきた、穢れを知らぬ生娘。怯える顔を眺め、泣き叫び慈悲を求める声を聴きながら、その白く繊細な肢体を蹂躙するのは、さぞ楽しかろうて」

 舌なめずりをしながら体を起こし、生贄を褥に引きずり込もうと、その腕を掴む。

 その時、山の主は「ん?」と顔をしかめた。それと同時に、細長い何かが、主の体を貫く。ブシャッという音がして、次いでパタタッ……という液体が床に零れ落ちる音がした。

「ぐ……き、貴様……っ!」

 憎しみに満ちた声と共に、ギャギャギャッという何かをこすり合わせるような音がする。ボッ、と辺りが急激に明るくなった。壁に、一直線に炎が走り、燃えている。先ほどの音は、壁を摩擦し火を熾したものか。

 炎が燃え広がる中、山の主と生贄、互いの姿をはっきりと見る事ができるようになる。山の主の姿は、浅黒い巨躯に狼のような牙、羆のような全身の毛、虎のような瞳を持った化け物だ。対して、生贄は。

「貴様……貴様はっ……贄の娘ではないなっ!?」

 叫びながら。怒りに任せて体を貫く細長い物を引き抜き、それを掴んでいた者ごと投げ飛ばした。カラン、という金属音と、人間が壁にぶつかる鈍い音が響いた。

「あぐっ……!」

 壁にぶつかった衝撃で、一瞬呼吸が止まる。だが、それで意識を手放す事は無く。生贄の衣装を纏うその人物は、何とか立ち上がると顔を覆っていたヴェールをかなぐり捨てた。そこそこ整っている、決して強くはなさそうな少年の顔がそこにはあった。奉理だ。

「貴様……やはり、男か。贄の娘はどうしたっ!!」

 怒号に吹き飛ばされまいとふんばり、奉理は取り落とした剣を拾い上げた。ここへ来るまでに潜った林の中、静海と衣装を取り換えても手放す事はしなかった儀式用の剣だ。

「……生贄なんて、いないよ。この儀式では、静海も、俺も……。人間は誰一人として、犠牲にはならない。死ぬのは、生贄を要求した、お前だけだから……!」

「はっ……何を言うかと思えば」

 震えながら剣を構える奉理を、山の主は鼻で嗤った。先ほど奉理が不意打ちで貫いた傷は、大したダメージにはなっていない様子だ。

「その貧相な体で、その隙だらけの構えで、その震える声で。貴様は死なず、儂が死ぬと? 妄想はほどほどにしておけ、小僧!」

 言うや、主は奉理に殴りかかった。丸太のような腕を、奉理は辛うじて剣で受け止める。だが、所詮は儀式用の飾り剣。強烈な打撃に耐え切れず、刀身は真ん中でぽっきりと折れた。

 腕はそのまま振り抜かれ、奉理の鳩尾に入ったかと思うと、勢いよく奉理の体を吹っ飛ばす。

「かはっ……」

 体を強かに打ち付け、呼気が一気に抜けた。山の主は手を緩めず、奉理が床に崩れ落ちる前に、その大きな掌で奉理の頭を壁に押し付けた。

「うっ……あ……」

 板壁に押し付けられる痛みに、奉理は呻く。手から力が抜け、再び剣が手から滑り落ちた。カランという金属音が、耳朶を打つ。

「このまま頭蓋を砕いてやろうか。それとも、四肢を串刺し、磔にされたまま、贄の娘を儂が犯す様を見守りたいか? さぁ、どうする?」

 奉理に向かい、主は楽しそうに言う。奉理は、ヒューヒューと苦しそうに息をしながらも、何とか声を絞り出した。

「そ、んな事には……ならない、よ……。お前、は……もうすぐ、死ぬ、から……」

「まだ言うかっ!!」

 激昂し、主はより強く、奉理の頭を強く壁に押し付ける。だが、その時。

「がはっ……!?」

 突如、主が大量の血を吐いた。一気に力が抜け、その場に膝をつく。奉理は主の手から解放され、その場に倒れ伏した。

「な……に……? な、んだ……何なんだ、これは!?」

 更に多くの血を吐きながら、主は叫ぶ。どす黒い血が、見る見るうちに床を染めていった。

「……毒、だよ。剣に……塗ってあった毒、が……やっと、効いてきたんだ」

 上半身を何とか起こし、荒い呼吸をしながら奉理が言った。

「俺、は、あの剣で……一回でもお前に傷をつける、事ができれ、ば……それで良かったんだ。あとは……毒が効き始める、まで、何とか……生き延びれれば……」

「毒……だと? ……馬鹿な! 人間如きの毒が、儂に、効くわけが……!」

 信じられないと言いたげに言葉を吐き出す主の口元には、血泡が噴き出ている。絶命まで、もう幾ばくも無いだろう。

「それが、効くんだよ。これは……お前達を、倒す、ために……作られた、毒、だから……」

 全身の痛みに顔を顰めながらも、奉理はどこか勝ち誇った声で主に告げた。主は、益々信じられぬと顔をしている。

「そ、んな……そんな、物を、どうやって……。お前のような、小僧、が……」

「貰ったんだよ。何の罪も無い人達が、生贄にされたりする……今の、この世界を悲しんでいる人に」

 やっと落ち着いてきた呼吸に載せて、奉理は淡々と答えた。そして、よろめきながらも立ち上がる。この燃え盛る庵から、早く脱出しなければ、結局死んでしまう。

 庵を出る前に、奉理は一度だけ、振り向いた。主は既に息も絶え絶えとなり、四肢はぴくぴくと痙攣している。それと、床に転がった、刀身の折れた儀式用の剣と。それらを視界に収めてから、奉理は庵の外へと足を踏み出した。

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