第10話

 とても長く感じた一日が終わった。夕日に染まるグラウンドの横を、奉理は一人、とぼとぼと歩く。

 竜姫静海とは、取り分け親しいわけではない。必要な事があれば話をするが、必要が無ければ特に話す事も無いような間柄だ。だが、それでもこの一月半、同じ教室で学んできた仲である事に変わりは無く。その彼女が一週間後には生贄として命を落とすという事態に、納得がいかなかった。

 だが、納得がいかないのであれば、どうすれば良い? どうすれば自分は、納得ができる?

 自分が静海の代わりに生贄になるか? 却下だ。まだ死にたくないし、何より怖い。

 静海の介添人になるか? それは、いずれは生贄に選ばれやすくなる道だという。それも、怖い。

 ならば、物語のように。静海を何とか連れ出し、逃げるか? ……話にならない。あっという間に捕まって、二人揃って早々と生贄にされてしまうのがオチだ。

 そうなると、やはり奉理にできるのは……納得いかない気持ちを無理矢理抑え込み、何事も無かったかのように日々を過ごす事に尽きるのか。

 ぐるぐると。思考の迷路に彷徨いこんだ事に気付かぬまま、奉理はぼんやりと歩き続ける。行く先に人影が無いのが幸い、誰にぶつかる事も無く、ただまっすぐに歩み続けた。

 本来曲がるべき角を曲がらず、林に足を踏み入れてしまった事も気付かずに。ただひたすらに歩き続け。木に正面衝突して我に返った時には、既に林の奥深くへと迷い込んでしまっていた。

「やばっ……。ここ、どこだろう……?」

 辺りはもう薄暗い。鎮開学園の敷地内である事は間違い無いだろうが、こんな林の奥まで来た事は無い。当然、人影も、人の気配も無い。辺りを見渡しても、見覚えのある物は何一つとして見付からない。

「どうしよう……」

 顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。今日一日の事でただでさえ不安になっているのが、更に増幅していく。胃がキリキリと痛み、脂汗が出始めた。

 思わずその場にしゃがみ込み、不安と緊張で荒くなった呼吸を何とか整えようと、口元を手で覆う。だが、呼吸は中々収まらない。

 今の自分は、傍から見たらどれほど惨めで滑稽なのだろうと。そんな考えが頭を過ぎる。それと同時に、情けなさで涙が出た。

「うっ……うぅっ……えぐっ……うあぁう……」

 自分には、己に降りかかろうとする災難を振り払う力も無く。命を落としそうになっているクラスメイトを救う手段も無く。それどころか、迷子になってしまった状況から抜け出す力すら無い。悔しくて、情けなくて。涙があふれ、嗚咽が漏れた。

「あの……大丈夫ですか?」

「!?」

 突如背後からかけられた声に、奉理は目を見開いた。驚きで、あふれていたはずの涙がぴたりと止まってしまう。涙同様に止まりかけた呼吸を何とか継続させ、奉理は恐る恐る振り向いた。

 そこには、色白で華奢な少女が一人、立っていた。制服ではないのではっきりとは言えないが、顔立ちや体つきから考えて、中等部の生徒だろうか。黒く長い髪は、小柄な背中の半ばまである。膝に手をついて屈み込み、心配そうな表情で奉理の顔を覗き込んでいる。

「えっ……あ、その……」

 見詰められた恥ずかしさと、情けない姿を見られた恥ずかしさと。二つの恥ずかしさから、奉理は顔を赤くし、俯いた。その様子が、少女に更なる心配を与えてしまったのだろうか。少女は、地に膝をつき、更に深く奉理の顔を覗き込もうとした。

「あっ! その、大丈夫! もう大丈夫だからっ!」

 声が上ずり、裏返り。思わず立ち上がり、後ずさる。自らの慌てっぷりに、更に恥ずかしくなり。今までにも増して赤面した。

 そして、何をやろうとこれ以上恥ずかしくなる事はあるまいと、妙な覚悟を決め、改めて少女の顔をまじまじと見詰めた。

 綺麗な少女だった。雪のように白い肌に、黒い髪が映えている。大人しそうな雰囲気だが、琥珀色の瞳と、赤いカチューシャのためか、暗い性格のようには見えない。どこか、あの生贄の儀で犠牲になった、堂上明瑠に雰囲気が似ているようにも思う。

「えっと、あの……」

 覚悟を決めたところで、今度は別の覚悟が必要である事に奉理は気付いた。……いや、気付かされた。

 まず、照れ臭い。恥ずかしさは消えたが、目の前の綺麗な少女に見詰められると、結局顔が赤面してしまうのを感じる。そして、最大の問題点として、何を喋れば良いのかが、わからなかった。

 言葉に詰まり口をモゴモゴさせていると、少女が「あっ」と小さく呟き、ふわりと微笑んだ。

「済みません。知らない人間にいきなり声をかけられたら、戸惑いますよね。……私は、白羽しらは知襲ちがさ、といいます。あの……差支えなければ、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 少女――知襲に乞われ、奉理は「あぁ」と頷いた。そうだ、名前を言うだけなら、相手が誰であろうと、この場合は問題無い。

「えっと……柳沼、奉理。高等部の一年生で……あ、白羽さんは……」

「知襲、で良いですよ。私は、中学二年生です」

 そう言って、知襲は少しだけ奉理に近寄ると、少しだけ辺りを見渡した。

「ところで……柳沼くんは、どうされたんですか? 何で、こんな場所に?」

「あ……その、えーっと……」

 痛いところをつかれ、奉理はきまり悪く目を泳がせた。そして、先ほどの妙な覚悟を思い出すと、不承不承、迷い込んで帰り道がわからなくなった事を告白する。説明をすればするほど、この歳になって迷子で泣いてしまった事実が重く圧し掛かってくる。穴があったら、入りたい。むしろ、穴を掘って入りたいくらいだ。

「そうだったんですか。じゃあ、病気とか、怪我じゃないんですね? 良かった」

 奉理の話に、知襲はホッとしたように微笑んだ。

「俺……そんなに具合悪そうだった……?」

 少しずつ気を緩ませながら、奉理は情けない顔をして問うた。知襲は「はい」と言うと、頷いて見せる。

「とても、辛そうで。それに、何かに思い悩んでいるようにも見えました。悩んで悩んで、どうすれば良いのかわからなくなって。行き詰ったところで発作が起きてしまったような……」

「……」

 奉理は、目を閉じて唸った。ほぼ当たっている。もし奉理に、発作が起こるような持病があれば……知襲の言葉は、寸分の違いも無く当たっていたかもしれない。

「……やっぱり。何か悩み事が、あるんですね?」

 心を読んだように。少しだけ顔を曇らせて、知襲が問うてきた。奉理が何も言えずにいると、更に問う。

「……生贄にされるのは、柳沼くんのお友達ですか? それとも、柳沼くん自身……?」

「!?」

 目を見開き、奉理は知襲を見詰めた。知襲は「ごめんなさい」と小さな声で呟くと、目を逸らす。

「この学園で、体調を崩してしまうほど思い悩む事と言ったら、やっぱり、生贄の事……ですから。……済みません、不愉快ですよね。会ったばかりの人間に、こんな事言われたりしたら……」

 俯く知襲に、奉理は慌てて首を振った。

「ちっ、違うよ! そうじゃなくって……ただ、驚いたんだ。さっきから、俺の事、ズバズバと当ててくるからさ。悩んでいた事とか、その原因が生贄の事だとか……」

「……ここに住むようになって、長いですから」

 苦笑しながら言う知襲に、奉理は首を傾げた。

「長い、って事は、初等部の頃から鎮開学園にいるって事?」

 奉理の問いに知襲は答えず、ただ曖昧に微笑んで見せた。そして、「ところで」と言って表情を変える。真剣で、深刻そうな顔だ。

「聞いた話なのですが……一週間後に、また生贄の儀があると……。柳沼くん、生贄の事で悩んでいる……んですよね? じゃあ、一週間後に生贄にされるのって……」

「……」

 知襲の言葉にしばし押し黙り。そして、意を決して奉理は首を横に振り、口を開いた。恐らく、この少女には、中途半端な誤魔化しは通用しない。

「……ううん、俺は違うよ。生贄にされるのは、俺のクラスメイト」

「クラスメイト……」

 痛ましそうに呟く知襲に、奉理は頷いた。

「仲の良い子……だったんですか?」

「ううん……悪くはなかったと思うけど、話す事はほとんど無かったかな。多分、俺以外のクラスメイトも、大半が同じ認識だと思う」

「それだけ希薄な関係でも、やっぱり……生贄にされると思うと悲しい、ですか?」

 問われて、奉理は首を傾げた。そして、考える。言われてみれば、ずっとモヤモヤしてはいたが、この感情が何なのか、考えた事がなかった。

「どう、だろう? 納得がいかないとは思うんだけど……悲しいのかと言われると、そうでもないような……。ただ、何て言えば良いのか……」

 言葉に詰まり、考え込む。答を探して唸るその様子を、知襲はしばらくの間、じっと見詰めていた。

「……悔しい、ですか?」

「え?」

 突然差し出された言葉に、奉理は一瞬呆けた。知襲は、「間違っていたらすみません」と前置きをして。

「さっき……しゃがみ込んで泣いていた柳沼くんの姿が、今思い返すと……何だかとっても、悔しがっているように見えたんです。この学園に送り込まれた自分も、生贄にされてしまうクラスメイトも助ける事ができない。そんな力不足を、嘆いているような……」

「……」

 確かに、悔しいと感じる事もある。先ほども、情けなさと同時に、悔しさを感じた。

「悔しい。……うん、そうなのかもしれない……」

 呟いて、奉理は自らの右手を見た。開いていた手を、グッと握ってみる。その感覚は、決して弱くはない。だが、強いかと問われると……。

「……」

 グッと歯を噛み、握る拳に力を込める。拳は、ブルブルと震えるだけだ。物語か何かのように、不思議な力が湧いてくるという事は無い。

「……これが、漫画とかの、物語の世界なら。俺は……いや、俺達はみんな、助かるんだろうな。ピンチになった時、何人かは不思議な力に目覚めて。その中から、ヒーローが現れて。そいつが……化け物達を全部退治してくれて。生贄なんか、必要無くなって……」

 震える拳を解き、力無く腕を下す。項垂れる奉理の様子に、少しだけ迷う顔付きをしてから、知襲は「あの……」と声をかけた。

「柳沼くん。……欲しい、ですか? その……化け物達を倒して、生贄を……クラスの仲間を、助ける力……」

「え……」

 知襲の問いに、奉理は面食らった。まさかそんな、物語にしか有り得ないような言葉を聞かされるとは夢にも思わない。だが、もし本当にそんな力が存在して、自分がそれを手に入れる事ができるのなら……。

「……欲しいに決まってるよ。それで静海や、他のクラスメイト。それに、俺自身が助かるなら……絶対に欲しい」

 頷く奉理に、知襲も頷いた。そして、「ついてきてください」と言うと、奉理に背を向けて歩き始める。

「え? ついてきてって、どこに……」

 奉理の呼び掛けに、知襲は一旦、足を止めた。振り向き、真剣な眼差しで、奉理を見詰める。

「……力が、ある場所です。化け物を、倒す力が……」

 そう言って、知襲は再び歩き出す。その後ろ姿を、奉理は。

「……え?」

 呆けた顔で、しばらくの間、見詰めていた。

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