第2話

 翡翠はいつも夜明け前に出て行ってしまう。日が昇った頃に起き出し、妻の役割である家事の割り振りや家計の管理を済ませてしまうと、もう桜の君がすることはない。

 中庭に面した縁側に腰掛け、片手に持った扇子で舞い落ちる花片を受け止めながら、ぼんやりと時を過ごす。庭に咲く満開の桜は美しいが、それを眺める心はどこか空虚だ。同族であるはずの彼らは、呼びかけても何も答えてはくれない。

 八神の龍が度重なる戦と人心の荒廃を受けて祟り神となり、黎京に流れ込む龍脈が涸れ始めるよりずっと前から、新たに育つ木々に魂が宿ることは少なくなっていた。古くからいる同族たちも、あるいは枯れ、あるいは切り倒され、あるいはいつの間にか魂を失って物言わぬただの樹木になってしまった。

 黎京の木々や草花すべてを守護するだけの力を持つ桜の君でさえ、こうして黙って瞳を閉じていても、以前のように黎京に広がる妖たちの気配を感じることはできない。知性のない小鬼どもが、薄暗い路地裏の闇に巣喰う気配があるだけだ。

「あんた、そこで何やってるんだ」

 硬質な男の声が耳に届いて、桜の君はゆっくりと瞳を開けた。夢から覚めたような心地で、呆れたものか困惑したものか迷っているらしい三怜を見上げる。桜の花の淡い色彩を背景に、藍鼠あいねずの羽織を着た三怜は影のように浮き上がって見えた。彼が一人で奥の間に訪ねてくるなど、ずいぶんと珍しい。

「厭いておるのよ」

 簡潔に答えた桜の君は、ふと三怜の後方にもう一人、桜鼠さくらねずの和装をした少年が立っていることに気付く。庭石や木々に紛れるように、ごく自然に気配を周囲に溶け込ませている。線の細い少年だった。真っ直ぐ伸びた黒髪は、三怜と同じように後ろで一つに束ねられている。胸板は薄く、頼りない若木のような体格だが、背筋を伸ばして立つその姿は腰に差した刀に相応しく、凛としてしなやかな――野山を駆ける獣のような強さを感じさせる。

「厭いて……何にだ?」

「妾の存在、人の営み。繰り返す春……その桜に、じゃ」

 思いつくままに答えれば、三怜の表情はますます訝しげに曇った。

「理解できねえな」

「お主は妾ではないからの。妾の心の内を理解できぬのも当たり前のこと」

 昨夜の翡翠の嫉妬を思い出して微笑みながら、桜の君は三怜の背後にいる少年に視線を投げかける。

「のう、三怜よ。お主、面白い犬を連れておるな。近くに連れて参れ。話がしたい」

 三怜は露骨に嫌そうな顔をした。また貴族の気まぐれかと、心の声まで聞こえてきそうなほどだ。刺し貫くような視線にからかうような笑みを返せば、三怜は舌打ちと共に背後を振り返り、不機嫌な声を張り上げた。

「おい四狼しろう! 奥方がお呼びだ」

 こちらの会話が聞こえていたのか、四狼と呼ばれた少年は呼びかけと同時に早足でこちらへ近付いてくる。中庭の砂利を踏みしめてもほとんど足音を立てない。三怜の三歩後ろで立ち止まった四狼は、飼い主の指示を待つ忠犬のような瞳で彼を見上げた。

「四狼は俺の小姓だ。何があんたの興味を引いたのかは知らねえが……」

「お主が小姓を?」

 桜の君の声に笑いが滲んだのに気付いて、三怜の渋面がますます険しくなる。

「翡翠さんの気まぐれだ。命令だから仕方なくつけてるんだよ」

 言うほど信頼していないわけではないのだろう。四狼に向き直って愁恕が何者なのかを説明し始めた三怜の表情は、規律を乱す者は許さんとばかりに部下を睥睨へいげいする普段の彼とは違って、不思議と柔らかい。対する四狼が浮かべる、やっとそうとわかる程度の淡い微笑も、やはり三怜の前で緊張するばかりの部下たちの表情とは違った印象を桜の君に与えた。

「三怜よ、お主は翡翠と話があるのじゃろう。翡翠は表の庭じゃ。お主の用が終わるまで、その犬を借りるぞ」

「ああ。四狼、適当に相手をしてやってくれ」

 主君の妻に対する敬意が微塵も感じられない命令を残して、三怜が表の庭へと去って行く。置いて行かれた四狼は礼儀正しく上司を見送ってから、桜の君へと向き直った。

「奥方様。私に御用とは?」

 桜の君が黙って手招きすると、四狼は素直にすぐ近くまで寄ってきてひざまづく。

「お主、武狼野の白狼はくろうじゃな」

「その通りです、奥方様」

 白狼は死にゆく者のはく――肉体を司る精気――を喰らい、己の力、引いては森を育てる力に変える古い土地神だ。本来は『魄喰はくらう』と呼ばれていたものが、いつの間にか『白狼』に転訛し、白い山犬の姿を取るようになった。古くは黎京の外れの山にも棲んでいたが、その血筋はもう何百年も前に絶えている。人里を護ってきた桜の鬼とは棲む場所も守護する対象も異なるが、それでも桜の君は懐かしい同族の気配に顔を綻ばせた。

「白狼に会うのも久しぶりじゃ。武狼野にはまだ生き残っておったか」

 榛京に広がる広大な武狼野の平野と雄々しくそびえ立つ白狼山の噂は、人の口からも人ならぬものの口からも聞いている。そこに棲む白狼の一族も、勇猛さで知られていた。

「いいえ、奥方様。私が最後の一頭です」

 悲しみも寂しさも何の感情もない『報告』に、桜の君は目を瞬かせた。真意を伺おうと覗き込むが、四狼の黒く濡れたような瞳にはやはり何の感情も浮かんではいない。

「そう、か」

 ため息をついて天を仰ぐ。遠い武狼野を思っても、重くのしかかるような空虚感しか湧いては来なかった。

 この山犬は『寂しい』という感情を知らないのだ。ほとんど生まれたときから、同族を知らずに生きてきたに違いない。

「なぜ、最後の一頭がわざわざ黎京へ出てきた?」

「三怜さんに命を救われたからです。そのご恩を返すために」

 初めて四狼の顔にはにかむような微笑が灯る。桜の君は呆れて首を横に振った。白狼の喰い物は彼らが守護する土地に生きるすべてのものの魄だ。武狼野に生まれ育った三怜も、四狼にとってはいずれ餌となる存在に過ぎない。

「人間相手に律儀なものじゃな。死ねばその魄を喰らうのじゃろうに」

「そうですね。それが『魄喰らう』というものです」

 静かに頷く四狼に桜の君は一種母親のような気持ちで微笑む。だがその微笑みは、一瞬にして悪戯を思いついた子どもの笑顔に変化した。

「のう四狼よ。翡翠は武狼野の出じゃが、お主にはやらぬぞ。あれは妾の獲物じゃ」

 四狼が不思議そうに小首を傾げる。見た目の割にあどけないその仕草に、桜の君は笑みを深めた。

「妾の楽しみを奪うでないぞ」

 念を押すように言ってやれば、四狼は「わかりました」と素直に返答する。まだ二十年そこそこしか生きていないであろう幼い山犬が本当にその意味するところをわかっているのか、桜の君は訝しんだ。翡翠のような強い魂を持つ者は少ない。その魄もきっと、普通の人間よりも大きな力を与えてくれるだろう。それを譲ると言うことは、この黎京で餌の少ない四狼にとっては死活問題であるはずだ。

 だが、桜の君の探るような視線を真っ直ぐ受け止める四狼の中に迷いは見られない。ただ世間知らずなだけなのか、そこにある桜の君の想いに気付いているのか――おそらくは前者なのだろうが。

 一つため息をついて気分を切り替えた桜の君は、畳んだ扇で四狼の顎をつと持ち上げた。

「ところで一つ聞いておきたいのじゃが」

「何なりと」

 やはり感情の揺らぎのない瞳が、導かれるままに桜の君を見上げる。

「お主は雌じゃろう。なぜ男の格好をしておる?」

「三怜さんの命を守るためには、男として側にいる方が都合が良いからです」

 迷いのない返答を聞いた瞬間、桜の君は思わず声を上げて笑い出した。

「命を、守るか! これは傑作じゃ。死ねばその魄を喰らうのじゃろうに」

 息も絶え絶えに笑いながら繰り返す桜の君に、四狼は瞳を丸くする。わかっていても笑いが止められない。止めるのが、怖い。

 あまりにも真っ直ぐ語られるその思いは、まるで人間が持つ情愛のようだ。

「のう四狼。愚かなことじゃよ。ひとならぬものが、ひとを愛するなどと」

 笑いの残滓に肩を揺らしながら、桜の君はからかうように告げてやる。

「お言葉ですが、御桜殿みさくらどの

 どこで知ったのか、四狼は黎京の妖が敬意を込めて口にする呼称を使った。ほとんど揺らぐことのなかった四狼の瞳に、初めて焦りのような悲しみのような、複雑な感情いろが浮かぶ。それでも視線を真っ直ぐ桜の君に向けたまま、四狼は決然と言い切った。

「これは、愛ではありません」

「お主はわかっておらぬ」

 桜の君は笑いの発作を治め、また一つため息を漏らした。

 四狼はわかっていない。三怜の柔らかな表情に綻んだ四狼の微笑こそ、彼女が雌であると桜の君に教えてくれたものだというのに。


 三怜が戻ってきたのは、それから半刻ほど経ってからだった。地面を蹴りつけるような足取りで戻ってきた三怜は、遠目にもわかるほど怒り狂っていた。

「どうしたのじゃ、三怜。鬼のような形相をしておるぞ」

 心配そうに見上げる四狼を差し置いて、桜の君はあえてゆったりと問いかける。

「俺は……翡翠さんのようには古いものを切り捨てられねえ」

 怒りが三怜の口を軽くしたのだろう。吐き捨てるように、三怜は言った。

「俺にとってこの刀は誇りだ。俺の魂だと言っても良い。だが、翡翠さんにとってはそうじゃねえ」

 刀を捨てろとでも言われたのか。その腕一つで翡翠を守り、歩狼隊を黎京の守護にまで高めた三怜に酷なことを言うものだと、桜の君は目を細めた。翡翠とてその腕をさんざん利用し、頼りにしてきたのだろうに。これだから翡翠のことはよくわからないのだ。

 ちらりと様子を伺えば、四狼はやはり心配そうに、そしてどこか痛ましげに三怜を見上げていた。翡翠が何を言ったのか、三怜がそれにどう返答したのかも、四狼は知っているようだった。

「あんた、どこまで知ってるんだ。翡翠さんが何をしようとしてるのか、あんたは知っているのか?」

 感情を爆発させて少し冷静さを取り戻したらしい三怜は、口を滑らせたことを悔いているようだった。落ち着いて見えてもやはりまだまだ若造だ。千年ちとせを生き抜いてきた桜の君は幼子を見守るように鷹揚に微笑み、その疑問に答えてやる。

「外洋から鐵砲てつほうや大砲を輸入し、魔術師を呼び寄せておるようじゃな。さすがに戦争を始めたいわけではないようじゃが……まあ、外洋の老獪な統治者どもと対等に渡り合うには必要な戦力じゃろう。刀で大砲には立ち向かえまい?」

「わかってるさ」

 軋むほど奥歯を噛みしめ、拳を握りしめて、三怜は唸るように言った。

「刀の時代はもう終わる。軍事教練で射撃を指導していればわかる。兵士の数を揃えて組織的に使えば、あんなに怖いものはねえ。どんな剣豪だろうと、近付くことすらできずに蜂の巣にされるだろう。あんなもんに太刀打ちできやしねえ」

 強大な山神である龍すらもその刀で討ち取った男が、血を吐くような思いで口にした言葉だ。所詮人界のこと、とは、桜の君ですらも思えなかった。

「魔術のことだってそうだ。俺たちが土地神と呼んで敬ってきたものは、魔術の中では力を引き出すための便利な道具に過ぎねえんだ。だがな、ご先祖様が代々祀ってきた神様を、はいそうですかって道具として差し出すなんてことは俺にはできねえんだよ。そんな、この国の魂を売り渡しちまうような真似は……」

 そう。八神の龍にとどめを刺したのは三怜だった。討伐される直前には黎京に害をなす祟り神になっていたとはいえ、本来ならばこの志貴の国すべてを守護していた山神だ。神を殺した男が、その神を捨てられないと嘆くのか。

 翡翠は桜の君と三怜がわかり合えていると評したが、やはり桜の君には三怜が考えていることもよくわからない。

「ならばなぜ、お主は翡翠に従っておるのじゃ?」

 胸中に湧き上がった複雑な感傷を押し隠して、桜の君はただ静かにそう尋ねた。こちらを見下ろす三怜の瞳は、もう普段の冷静さを完全に取り戻している。

「翡翠さんはこの国を守ろうとしてるんだ。やり方は納得できるものも、できないものも……確かにある。だが他にこの国を守れる力を持った人間がいるとは、俺には思えねえ」

 言葉を選ぶように、噛みしめるように、静かに三怜はそう告げた。

「それがお主が翡翠に従う理由か」

「……そうだ」

 揺らぎのない覚悟のこもった返答に、桜の君は短く嘆息する。

「何だかんだと小難しいのう。好きだから、ではだめなのか」

 力の抜けた呟きに、三怜は眉間に深い縦皺を刻んだ。

「そんな牧歌的な時代じゃねえよ。俺は、己の信念のために刀を振るう。好悪の感情で揺らぐつもりはない」

「面倒なものじゃな。人間というものは。……いや、男というものは、なのかのう?」

 四狼の方へ流し目を送ると、幼い白狼はよくわからない、と言いたげに小首を傾げる。桜の君はまた一つ浅いため息をついて、三怜に向き直った。

「お主とて翡翠のことは好いておろうに」

「下らねえことを言うな。翡翠さんのことは尊敬してるし、信頼もしているが、それと好き嫌いとは別の話だ」

 いつもよりもさらに不機嫌な表情と声で三怜は言い放つ。その強い視線を受け止めかねて、桜の君はふっと視線を逸らした。見つめる先にははらはらと花片を落とす庭の桜。

 人の世のことはわからぬ、と、声にならない呟きが漏れる。けれど黎京の木々のことも、もはや桜の君にはわからないのだ。庭の桜たちは変わらぬ沈黙を守るだけ。何も答えてはくれない。

 胸の空虚がじわりと広がった心地がして、桜の君は力なく地面へと視線を落とした。その瞳の先へ、花片がひっそりと散り落ちていった。

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