第7話 水中都市
彼が水中都市へ移ると聞いたのは、ある春の日のことだった。風の強い日だった。海底資源だとか、新しいフィールドだとかフロンティア開拓だとか、難しい言葉を並べる彼の笑顔を見つめながら、私はそこに彼はもういないかのように思った。
水中都市では自分という意識すらも水の中へ融けていくのではないだろうか。初めに思ったのはそんなことだった。小学生の頃、水の中においた角砂糖が融けていく様子を観察したことを思い出す。白い結晶は色を失って、光だけを揺らしながら消えていった。
次に暗闇に閉じ込められることを思った。何万トンもの水に、押しつぶされることを思った。息ができないことを思った。冷たい。苦しい。そこには希望なんてこれっぽっちもない。それなのに、笑って旅立とうとしている彼のことを思った。彼はきっと融けていくことはないだろう、と思う。
うねうねと、海底へと落ちていくようにも水面へ伸びていくようにも見えるその水中都市。螺旋と曲線で形作られたそれは人工の美しさを湛えている。スノードームのように、ガラスの中に作られたミニチュアを見せて、彼はもう一つの地球みたいだろ、と言った。ほんとだ、と答えた私は、虫に食われた卵を思い浮かべた、とは答えなかった。
彼が行ってしまうことは悲しいことではあったけれど、私がなにか口出しできることではなかったから、何も言えずにただ荷造りの手伝いをした。二人のいる部屋は静かで、時折車の音がした。こっちの飯が食べたくなるかもしれないな、と、嬉しそ
うにいくつか調味料をリュックサックにねじ込む彼を見ながら、私はご飯を食べに行こう、と言った。並んで歩きながら、彼がこの道の桜を見ることはしばらくないのだな、と思って、べたべたの感傷に浸っている自分を鼻で笑った。
ここにしよう、と彼が立ち止まったお店は、大きな水槽のあるレストランだった。私たちは、幾つものぎょろりとした目に見つめられながら、彼らの仲間を頂いた。身を守るための鱗も持たないのに、水の中で暮らすのか。そう問うてくるような目玉の奥に、私と彼が映っていた。覗き込むことはできなかったけれど、私がどんな顔をしているのか、なんとなく想像はついたから、いつも通りの食事をした。魚たちは睨むだけで、声をかけてくることはなかった。
からからとキャリーバッグの音を引き連れて、私たちは港へ向かうための地下鉄に乗った。
港は大きかった。船も大きかった。そのおなかの中に呑みこまれていく彼の手を、私はぼんやりと見つめていた
それだけだった
彼を港まで送った帰り道。餞別のお返しだ、と言って渡されたミニチュアをカバンから取り出す。この卵の、このあたりで彼は生きていくことになるのだろうか。
雑踏に流されながら、彼の言葉に応えられなかった私を感じている。その空っぽの頭の中に、駅前のディスプレイが、そのニュースを注ぎ込んだ。強い風が吹いて私はよろめき、取り落とされたミニチュアはアスファルトの上に叩きつけられた。割れはしなかったものの、その卵の中には嵐のように水流が巻き起こっていた。
人の流れは脈絡もなくて、何度も肩と肩がぶつかりながら、それでも倒れることはできない。たゆたうだけだ。できるだけ静かに、融けて消えてしまうまでの時間を、少しでも長く。流れていくこととどちらが幸せなのか、わたしにはわからない。彼に訊いてみれば、どう答えたのだろう。もう到底、そんな日は来ないことが、たまらなく苦しい。
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